柳家小さん (5代目)

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テンプレート:落語家 5代目柳家 小さん(やなぎや こさん、1915年1月2日 - 2002年5月16日)は、長野県長野市出身の落語家剣道家。本名:小林 盛夫(こばやし もりお、4代目桂三木助の本名と同姓同名)。出囃子は『序の舞』。1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。剣道の段位範士七段。

息子は落語家の6代目柳家小さん。娘は元タレントの小林喜美子。孫は元バレエダンサーで俳優の小林十市と、その弟で落語家の柳家花緑(二人の母が喜美子)。

来歴・人物

生い立ち

実父は、東京都五日市町出身で養蚕家であったが、長男ではなかったため家を出る。長野市で紡績業、次いで金融業を営むも破産し、東京府浅草に戻った。関東大震災の被災を免れた一家は丸の内に転居[1]。日比谷尋常小学校から麹町高等小学校に入学(いずれも現在の千代田区立麹町小学校[1]。ここでは剣道部の副将として東京市剣道大会で優勝している[1]。卒業後は東京市立商業学校夜間部に入るが後に中退し[1]、法律事務所の事務員として働きながら落語家を目指した。

1933年6月に4代目柳家小さんに入門した。「おまえは栗ににているから」と名付けられたのが柳家栗之助。

二・二六事件

前座時代の1936年、大日本帝国陸軍歩兵第3連隊に徴兵され、二等兵となる。同年2月26日に起こった二・二六事件では、反乱部隊の機関銃兵として警視庁占拠に出動した。

小さんや同僚兵士は事前にまったくクーデター計画を知らされず、当日出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃねえんだな」と思った。反乱部隊の屯所に畑和(後の埼玉県知事)らとともに詰めていたが、知らぬうちに自分たちが反乱軍に参加していると知って意気阻喪気味の兵士を見た指揮官に「士気高揚に一席やれ」と命令された。持ちネタの『子ほめ』を演じたが、「えらいことしちゃった」と悄然としている兵士たちは笑うわけがない。「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから」と返した(本人の回顧談)。

落語

滑稽噺を専ら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で、1979年に6代目三遊亭圓生が死去してからは落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸は有名であり、日本一であるとの声も多い。本人も蕎麦を実際に食する際は、職業柄周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたらしく、最晩年になってから、「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。

性格は非常に穏やかなもので、真打昇進の制度を作ったのも「落語家の生活がよくなるように」 という願いからであった。そのため真打制度への見解の相違から6代目三遊亭圓生らが落語協会を脱退した時は「話し合いにも来ないで」と感じていたという。弟子が居ない時は一人で掃除や洗濯をするなど苦労を拒まない性格で、大御所でありながらも、情にもろく、周囲の意見をよく聞くという面もあった。一方でそれらが災いし、前述の協会分裂騒動や真打昇進試験の是非を巡る混乱に繋がってしまったという指摘もある。

永谷園即席みそ汁「あさげ」のテレビ広告で発売当初から人気を博した。墓所・墓石業の須藤石材 [1]のテレビ広告と広告でも長らく活躍した。永谷園の広告も、須藤石材のテレビ広告も、死後、孫の花緑が跡を継いでいる。

墓の案内看板に「これより二つ目 柳家小さん」と書かれていたため、これをネタにした落語家もいた(現在は「二基目」と書き直されている)。息子の6代目小さんは、「初々しくて良いのではないか」というニュアンスの発言を著書で行っている。

剣道家として

13歳の頃から剣道を学んだ。麹町高等小学校では剣道部副将として東京市剣道大会で優勝[1]。職業剣道家を目指すも中耳炎で断念したが、生涯を通じて剣道を続け、範士七段まで昇段した。剣道専門誌の『剣道日本』に度々掲載され、「落語と剣道、どっちが好きかって聞かれたら、剣道って言いますよ」と語っていた。

財団法人東京都剣道連盟の顧問を務め、自宅を改装して道場を作り、弟子たちに剣道を教えた。弟子の一人、柳家小団治は現在剣道七段である。

剣道の他にも居合道二天流剣術をも学んでおり、造詣が深かった。

エピソード

  • 本名が同じ「こばやし もりお」である縁で、8代目三升家小勝(表記は小林守巨)に稽古をつけたことがある。
  • 上述の通り、弟子である4代目桂三木助の本名は小さんと完全に同姓同名の「小林盛夫」であるが、これは4代目三木助の父である3代目桂三木助(本名:小林七郎)と小さんが義兄弟の杯を交わすほどの大親友であり、3代目三木助が息子に「小さんのようになって欲しい」との願いを込めて同じ名前を付けたためである。なお、4代目三木助の入門後は全くの同姓同名であるために郵便物の取り違えが多発したという。
  • 小三治時代、落語芸術協会から移籍をもちかけられたが、それを阻止するために落語協会は香盤を引き上げた。8代目桂文楽は、自身の総領弟子の6代目三升家小勝の一つ上でも良いといったが、さすがにそれでは小勝が可愛そうだという6代目三遊亭圓生の意見で、小勝の一つ下という位置になった。
  • 同じく人間国宝である3代目米朝と「落語国宝二人会」を開催したり、息子の柳家三語楼(現:6代目柳家小さん)・孫の柳家花緑と親子三人会をやったことがある。
  • 米朝が人間国宝に認定されたとき、記念番組で「落語界の今後のために、互いに精進していこう」と祝いのコメントを出した。その後、前述の落語会やいくつかの番組で共演をしている。
  • 東京都豊島区目白に在住していたことから「目白の師匠」という通名もあった。[2]
  • 宗旨は本門佛立宗で、弟子が掃除などのために家に来る頃は、仏壇の前でお題目を唱えていたという。5代目小さんの墓所は東京都世田谷区の乗泉寺世田谷別院にある[3]
  • 1991年9月、幸福の科学が代表・大川隆法に関する雑誌「フライデー」の記事の内容に抗議して講談社前でのデモや訴訟などを起こした際(講談社フライデー事件)、彼の家にフライデー編集部と誤認した(電話番号が似ていたためと思われる)会員からの抗議電話がひっきりなしにかかってきて対応に苦慮した事をフジテレビTHE WEEK」のカメラに語った。この時、番組にスタジオ生出演していた会員の景山民夫はカメラに向かって平謝りしていた。。
  • 1996年、高座の合間に上野広小路でマッサージを受けている最中に脳梗塞を発症した。この時、たまたま同室の客が東京大学の医師で迅速な対処を受けることができたため、後遺症が比較的軽く済んで高座に復帰することができた。弟子の鈴々舎馬風は新作落語『会長への道』でこの一件に触れ、「ツイてる男は違う」と評している。現在も同作に限らず、マクラでこのエピソードを語ることが多い。救急車の中で「高速は使うな、No高速(のうこうそく)」と言った、とネタにしているが真偽は不明である。
  • 死去前夜、「ちらし寿司が食べたい」と言い、寿司屋から取り寄せて夕食に食べ、「明日は、いなり寿司が食べたい」と言って寝室に行った。翌朝起きてこないので家人が見に行くと、眠ったまま死去していた大往生だった。

得意ネタ

余芸で百面相も披露していた。

略歴

ファイル:TBS専属の落語家たち(1954年よりは前).png
1954年以前に撮影、TBS専属メンバー、前列左から昔々亭桃太郎、5代目古今亭志ん生、8代目桂文楽、後列左から6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さんとともに

出演作品

テレビドラマ

映画

  • 「可否道」より なんじゃもんじゃ(1963年、松竹) - 春遊亭珍馬 役
  • 新・与太郎戦記(1969年、大映) - 院長 役
  • 男はつらいよ 奮闘篇(1971年、松竹) - ラーメン屋 役
  • 春だドリフだ 全員集合!!(1971年、松竹) - 大真打ちの師匠 役
  • 祭りだお化けだ全員集合!!(1972年、松竹) - 落語家 役
  • にっぽん美女物語(1974年、松竹) - 自然和尚 役
  • にっぽん美女物語 女の中の女(1975年、松竹) - 自然和尚 役
  • 俺たちの時(1976年、松竹) - 弥五郎 役
  • 美女放浪記(1977年、松竹) - 自然和尚 役
  • 地獄の蟲(1979年、マツダ映画社) - 旅人 役
  • グッドラックLOVE(1981年、東宝) - 松宮久平 役
  • 人形嫌い(1982年、東宝東和) - 屋台のおでん屋 役
  • 信号ばか(1990年、菅田事務所) - 和尚 役
  • 平成狸合戦ぽんぽこ(1994年、スタジオジブリ・東宝) - 鶴亀和尚 役(声の出演)
  • スクリーンで観る高座 シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 四」(2012年、松竹)
  • スクリーンで観る高座 シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 五」(2013年、松竹)
  • スクリーンで観る高座 シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 六」(2013年、松竹)

CM

著書

  • 『柳家小さん集』上下 東京大学落語研究会OB会編 青蛙房 1966-67 
  • 『小さん落語集』旺文社文庫 1987
  • 『古典落語 小さん集』(1990年、ちくま文庫) ※編集:飯島友治。 ISBN 978-4924725218
  • 『咄も剣も自然体』(1994年、東京新聞出版局) ISBN 978-4808304782
  • 『五代目柳家小さん落語全集』小学館 CDブック 2000

共著

  • 『柳家小さん 芸談・食談・粋談』興津要編(大和書房、1975年)
    • 興津との共著として中公文庫、2013
  • 『抱腹絶倒 五代目小さんの昔ばなし』川戸貞吉共著 冬青社 1988
  • 『五代目柳家小さん 芸談』(2003年、冬青社) ※川戸貞吉との共著。 ISBN 978-4887730137

弟子

大らかな性格から多数の門下を抱えた。直弟子、孫弟子、曾孫弟子まで合わせると現在の落語協会では最大の人数を誇り、また東西落語界を合わせても、平成期まで存命であった者の一門としては最多である。

直弟子数は30名を越え、一門全体では協会加盟の者だけでも総勢100名近く、離脱した立川談志一門を含めると140名弱という、極めて巨大な一門と言える。そのためか、近年の落語協会の会長・幹部は小さん一門の弟子が多い(特に会長は9代目以降3人続けて小さんの直弟子が就任した)。

また、20年以上に渡り落語協会の会長に君臨し、何度かの分裂・離脱騒動や、その逆の落語芸術協会からの流入において、小さん自身がその受け皿となることも多かった。

直弟子

預かり、その他、色物

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 五代目柳家小さん『CDブック 五代目柳家小さん落語全集』小学館 2000 「小さん年譜」
  2. 小さん師匠急死で談志、花緑の想い ZAKZAK 2002年5月17日付
  3. 3.0 3.1 小さんさん十三回忌 六代目、小三治、馬風ら墓参り スポーツニッポン 2014年5月17日閲覧

外部リンク