東京急行電鉄

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東京急行電鉄株式会社(とうきょうきゅうこうでんてつ、: TOKYU CORPORATION)は、東京都南西部から神奈川県東部に路線を展開して鉄軌道事業などを行う日本会社である。略称は東急(とうきゅう)。

かつては公式通称を「東京急行」としていたが、2006年平成18年)1月1日より「東急電鉄」に変更した[注釈 1]。それに伴い駅掲出のポスターチラシ類、公式サイトパスネットなどにおいて略称表記を順次「東急電鉄」に変更している。かつては、英語略称として、T.K.K (Tokyo Kyuko Kabushikigaisha) を使用していた時代もあった。

渋沢栄一が創設した田園都市株式会社が母体企業である[1]

概要

東急グループの中核企業で、東京証券取引所一部上場。日経225(日経平均株価)の構成銘柄である。

その成り立ちから鉄軌道事業以外の事業割合が大きく、不動産事業、ホテル事業など、鉄軌道事業以外の収益が同事業の収益をはるかに上回り、グループ全体の収益は毎年1兆円を超える。総営業距離は97.5kmと大手私鉄16社中11位であるが、単体売上高JRをのぞく日本の鉄道事業者で、東京地下鉄近畿日本鉄道に次ぎ、また営業キロ当たりの単体売上高は、25.4億円/kmと東京地下鉄の17.3億円/kmの約1.5倍であり、他を引き離している(2011年度)[注釈 2]。連結売上高は1位、利益は連結、単体ともに1位である(JRを含む場合は、JR東日本JR東海に続く3位であり、以下4位のJR西日本と続く)。

グループ企業には、路線バスなど交通、不動産開発、小売業ホテルリゾートなどに221社8法人が名を連ねる(2017年3月末時点)[2]。東京急行電鉄は、東急グループ内外を問わず東急グループの事業中核会社として認識されており、「東急本社」「電鉄本社」と表現されることが多い。

1947年から1972年まで、プロ野球チームの「東急(急映・東映)フライヤーズ」(北海道日本ハムファイターズの前身)を所有していた。1964年まで、映画製作・配給を手掛ける東映(旧・東横映画)は東急グループの傘下であった[注釈 3]。また、かつてグループ企業に日本エアシステム(JAS、現・日本航空株式会社)があったことから、同社の株式移転などにより設立されたJALグループの持株会社である株式会社日本航空の筆頭株主だったが、2009年12月から2010年1月までに同社株を売却し、資本関係は解消している。

東急と五島家

1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている[3]。また、渋沢の子である渋沢秀雄田園都市株式会社の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などをつとめていた。

しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認知されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を経営していた小林一三がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降、五島を中心に、同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急グループが形成されたからである。

とは言え、東武鉄道の根津家や西武鉄道の堤家[4][注釈 4][注釈 5] とは異なり、五島は資本による会社支配は行わなかった[注釈 6]。つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では国際興業小佐野賢治が筆頭であった。また、五島慶太の後継者五島昇も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、パーソナリティでグループが結束を保ってきた歴史を有する。五島昇の後継者として目された昇の長男五島哲は、本田技研工業を経て東急取締役に就任し、東急建設社長を務めたが、東急本社の社長には就任せずに他界した(五島昇は哲の社長就任を望んでいたといわれる)。現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。

歴史

前史

ファイル:目黒蒲田電鉄開通直前の重役一行,jpg.jpg
目蒲線開通前夜の田園都市株式会社、目蒲電鉄重役一行[3]。丸子終点(現沼部駅)にて。左端は五島慶太、右から3人目は小林一三

東京急行電鉄の歴史は、渋沢栄一が理想的な住宅地「田園都市[注釈 7][注釈 8]」の開発を目的に、1918年(大正7年)9月に設立、1922年(大正11年)6月から洗足田園都市の分譲を開始[注釈 9] していた田園都市株式会社を始祖とし[5][注釈 10]、その鉄道部門を同年9月に子会社として分離した目黒蒲田電鉄(めぐろかまたでんてつ)に始まる。会社分離後の翌1923年(大正12年)8月、多摩川台地区(後の田園調布[注釈 11][注釈 12]地域)の分譲も開始し、目黒蒲田電鉄はそれらの交通を担った[注釈 13]。つまり目黒蒲田電鉄は、田園都市株式会社と地権者が共同開発した分譲地を、その付加価値を高めるために、省線(現在のJR線)と結ぶ交通手段として設立されたのである。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、戦後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている[6]

この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、すでに 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三[注釈 14][注釈 15][注釈 16] は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬ[注釈 17]」と自身の代わりに鉄道省出身で未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した[注釈 18][注釈 19][注釈 20]。こうして1922年(大正11年)10月、目蒲入りした五島慶太は陣頭指揮を執って同社を東都最大の私鉄に育成することとなる。しかし、田園都市株式会社、及び目黒蒲田電鉄の経営も「私自身本来の眼目であった」武蔵電気鉄道((旧)東京横浜電鉄)の開業を期すための手段という位置づけであった[7]

まず、1923年(大正12年)3月に目黒 - 丸子(現在の沼部)間を開業、洗足田園都市の居住者に交通の便を提供し、8月には多摩川台地区の分譲も始めた。同年9月1日、関東大震災が発生し東京市内は壊滅的な被害を受けたが、洗足田園都市の分譲地にはほとんど被害が無く[注釈 21]、また11月には目黒 - 蒲田間を全通させることができ目蒲線(現在の目黒線の一部および東急多摩川線)と呼んだ。次に、目黒蒲田電鉄の姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道の後身)[注釈 22]1926年(大正15年)2月に丸子多摩川(現在の多摩川) - 神奈川間 (神奈川線、14.7 km) を開通させ、目蒲線との相互乗り入れにより、目黒 - 神奈川間の直通運転を開始した[注釈 23]。そして翌1927年(昭和2年)8月には渋谷 - 丸子多摩川間 (渋谷線、9.1 km) を開通させ、渋谷 - 神奈川間(23.9 km)の直通運転を開始して、東横線と呼んだ。東横線は五島慶太が最も精魂を傾けて建設した路線だと言われている[8]。1932年(昭和7年)3月には桜木町まで延長、東横線が全線開業した。これら沿線に1925年(大正14年)12月、多摩川園を開園、1934年(昭和9年)11月、渋谷に東横百貨店[注釈 24]を、田園調布に田園テニス倶楽部を、1936年(昭和11年)に田園コロシアムを作るなど沿線住民の利便性を高めた。「乗客は電車が創造する」と言った小林一三が阪急で用いた手法を五島慶太は継承したのである[注釈 25][注釈 26]。しかしそれだけでなく、大学等の学校を誘致する。まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学蔵前から目蒲線の大岡山に土地の等価交換により移転させることに成功した[注釈 27]。そして、1929年(昭和4年)には慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し[注釈 28]、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)に日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(後の東京都立大学、現:首都大学東京[注釈 29])を八雲に誘致、1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校(現:東京学芸大学[注釈 30])を世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は田園都市としてだけでなく学園都市としての付加価値も高まっていくことになり、かつ多くの通学客という安定的な乗客の獲得にもつながった[5]。また、1927年(昭和2年)7月から1929年(昭和4年)12月にかけて大井町 - 二子玉川間を開通させ大井町線と呼んだ[注釈 31]

その後、五島慶太は事業拡大に乗り出す。まず、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現在の池上線を運営)を買収・合併した。目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道は開業当初から開発地域が競合していたが、その一方で合併話も持ち上がっていた。「当時の池上電鉄は経営が苦しいのに有利な条件を出しゴタゴタ言ってきた」そこで、経営者の後藤国彦とオーナーの川崎財閥とはうまくいっていないことを利用し、1933年(昭和8年)5月、五島慶太は、川崎財閥の総帥川崎肇から「池上電鉄の株、全部で一二万株のうち八万五千株を一夜にして買ってしまい、万事うまくいった[9]」と買収して乗っ取ってしまったのである[5]。次に、(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道玉川線(現在の田園都市線の一部となった新玉川線の前身)および、世田谷線の母体)を買収・合併した。(旧)東京横浜電鉄は、当時渋谷の開発をめぐり玉川電気鉄道と競合していたが、五島慶太は同時に抱えていた地下鉄道建設を目的で設立された東京高速鉄道の案件で、渋谷駅の建設をするのに玉川電気鉄道の協力が必要だった。また玉川電気鉄道の電灯電力供給事業も欲しかった。そこで千代田生命内国貯金銀行が持っていた玉川電気鉄道の株五万六千株を買収、1936年(昭和11年)10月、五島慶太が社長に就任、乗っ取りに成功し、1938年(昭和13年)4月には(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を合併した[5]

そして、目黒蒲田電鉄は1939年(昭和14年)10月1日に(旧)東京横浜電鉄を合併し、10月16日に、名称を逆に(新)東京横浜電鉄(とうきょうよこはまでんてつ)と改称した。この合併にあたり、歴史が長く東急電鉄の幹線となる東横線を運営する(旧)東横電鉄を主体とし、目蒲電鉄をこれに併合する予定であったが、資本の流れの問題もあり、まず目蒲電鉄が東横電鉄を併合し、目蒲電鉄を形式上の存続会社とし、名称を逆に東横電鉄とした[5][注釈 32]。この時に、現在の東急の基本となる路線がほぼ一元的に運営されるようになっている。なお、田園都市株式会社は1928年(昭和3年)5月に、多摩川台地区などの分譲が完了したため、子会社である目黒蒲田電鉄に吸収合併されたが[5]デベロッパーとしての東急不動産の始祖でもあった[10]

「大東急」の時代

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「大東急」時代の路線網(1945年6月1日)

1938年(昭和13年)4月、電力国家管理法が公布され、1939年(昭和14年)4月に国策会社日本発送電が発足する。このことにより小田原急行鉄道[注釈 33] の親会社である鬼怒川水力電気は、得意先(売電先)を失うなどして経営が悪化する。それに伴い小田原急行鉄道も経営が悪化し、社長であった利光鶴松が五島慶太に経営を委ね、1939年(昭和14年)10月、五島は小田原急行鉄道の取締役会で取締役に選任された。1941年(昭和16年)3月に小田原急行鉄道は、経営再建のため鬼怒川水力電気と合併し(旧)小田急電鉄と社名変更し、同年9月には五島慶太が社長に就任した[11]

前節で触れた東京高速鉄道は、渋谷 - 新橋 - 東京間の地下鉄建設を行う会社として、大倉財閥の門野重九郎、脇道誉と小田原急行鉄道の利光鶴松が組んで設立しようとした会社で、当時の東京市山手線内の鉄道施設権を独占していたが財源が無く東京高速鉄道に地下鉄道の施設権を譲渡したのであった。しかし東京高速鉄道も資金難であり、第一生命の創業者であり東京横浜電鉄の社長だった矢野恒太[注釈 34]に相談すると「東横電鉄の五島慶太を参加させること」を条件に出資し五島が常務(事実上の経営者)に就任、1934年(昭和9年)9月、会社は設立された。五島は、東京高速鉄道の渋谷から新橋までの運営は、すでに浅草 - 神田 - 新橋間で開業(1934年(昭和9年)6月に全通)していた東京地下鉄道と結んだ方が経営上の効率が良いと判断し、また東京市との約束「将来において東京地下鉄道と合併を条件に施設権を譲渡する」もあり、東京地下鉄道と交渉し両社間で直通することで半ば強引に合意した。しかし、東京地下鉄道側は合意に反し、1937年(昭和12年)3月、京浜電気鉄道と結んで京浜地下鉄道を設立し、東京高速鉄道との直通ではなく新橋から品川方面への延伸計画を発表した[注釈 35]。これに対し五島は、東京地下鉄道の提携先である京浜電気鉄道株式の買い占めにかかり、1938年(昭和13年)1月、まず同社の大株主であった前山久吉(内国貯金銀行頭取)から株式を入手、次いで1939年(昭和14年)3月、京浜電気鉄道会長である望月軍四郎からも入手、東京高速鉄道は京浜電鉄株の過半数を所有、同年4月、五島慶太が京浜電鉄の取締役となり傘下とし、同時に姉妹会社である湘南電気鉄道も傘下におさめ[注釈 36]、6月に五島慶太は京浜電鉄の専務に就任、1941年(昭和16年)11月には社長に就任した[12]

その東京高速鉄道であるが、1938年(昭和13年)12月、渋谷から虎ノ門間を開通し、1939年(昭和14年)1月には新橋まで延伸したが、前述の東京地下鉄道側の抵抗により東京高速鉄道の新橋駅を別に建設しての運行を余儀なくされていた[注釈 37]。しかし同年8月には、東京地下鉄道の株も大株主の穴水熊雄から買収し、やっと9月に東京高速鉄道と東京地下鉄道との新橋駅での相互乗り入れが始まった[5]。結局1941年(昭和16年)9月、陸上交通事業調整法により、両社は京浜地下鉄道と共に新たに発足した帝都高速度交通営団に併合され、地下鉄に関しては五島の乗っ取りはかなわなかった[注釈 38]

そして、1942年(昭和17年)5月1日に、陸上交通事業調整法による戦時統制の背景もあり、同じ五島慶太が社長を務める(旧)小田急電鉄を譲受・合併、京浜電気鉄道を買収・合併して、商号を東京急行電鉄と改称した[5]。さらに、1944年(昭和19年)5月31日には、やはり電力国家管理法により電灯電力給電事業が奪われて経営が悪化していた京王電気軌道を買収・合併した[13][注釈 39]。前述の通り(旧)小田急電鉄は五島慶太に経営の再建を委ねたのであるが、その他の池上電気鉄道、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、京王電気軌道の買収・合併は、つまりこの「ライバルや敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式の買い占めを図ることで行われ[注釈 40]、これらの会社を「あたかも札束をもって白昼強盗を働くように買収」し、その強引なやり方から、五島は名字をもじって「強盗慶太」なる異名をとっていた[注釈 41]。またこれら4社以外にも、1941年(昭和16年)11月までに、その資本力にもの言わせ買収した会社は、相模鉄道静岡電気鉄道江ノ島電気鉄道神中鉄道など、30社以上に達した[5]。さらに1944年(昭和19年)2月には五島慶太が運輸通信大臣に就任した。この時期までに路線延長は約320kmにもおよび、北は中央線から南は三浦半島、西は箱根までをテリトリーとするいわゆる「大東急」の時代となる。

しかし、戦後は一変、独占禁止法過度経済力集中排除法が施行される。「大東急」はこれらの法律の適用から除外されたものの、「大東急も当てはまる」と主張する(旧)小田急電鉄関係者を中心にかつての4社への復元運動が勃発する。これを受けて経営陣は会社経営の民主化に乗り出す。また、戦中の空襲での被害が沿線地域に集中しており、復興するためには一企業での資金調達が限界があり困難となったばかりか、空襲被害からの復旧、人口の郊外移動による各線の輸送力増強への対応など、合併や買収により編入した各線は、東急の重い負担になっていた。 東急は、まず1947年(昭和22年)相模鉄道や静岡鉄道など傘下会社の持株の大部分をその会社の役職員などに譲渡し放出(相模鉄道の運営受託は持株放出直前の同年5月31日に終了している)。そこへ8月、五島慶太が公職追放に追い込まれる。そして1948年(昭和23年)5月に百貨店部門を東横百貨店(現・東急百貨店)に分離し、6月に小田急電鉄、京浜急行電鉄(京急)、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)[注釈 42] を分離させ、大東急の「再編成」を行った。ただし、三私鉄の分離独立後も、各社の幹部人事は五島慶太が指示しており、長男の五島昇を小田急、京急、京王帝都の取締役に就任させていた(五島昇が死去する1989年(平成元年)まで続いた)。その他、京王帝都の三宮四郎社長(東急出身)が大映曾我正史専務と組んで、映画会社日映設立の動きを見せると、当時、財務基盤が脆弱だった京王帝都の中核事業以外への過剰投資を憂慮した東急側の意向により、日映設立を中止させ、三宮社長を事実上更迭した例(日映事件)や、西武鉄道と激しく抗争した箱根・伊豆開発では小田急の安藤楢六社長を通じて代理戦争を演じた例(箱根山戦争)など、戦後しばらくは東急系三私鉄は、東急の衛星企業として機能した。

大東急の名残として、東横目蒲電鉄健康保険組合(1935年4月1日設立)を祖とし、東京急行電鉄、京王電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道、東映、関東バスおよび小田急電鉄の母体事業所および子会社などを含めた健康保険組合である、東京西南私鉄連合健康保険組合(1948年改組)の存在があげられる。近年、小田急グループは分離独立したが、2003年(平成15年)4月1日、東急車輛健康保険組合との合併を経て現在に至っている。また、合併されていた4私鉄は現在でも電動車の形式記号に「モ」ではなく「デ」を使用している。また、五島昇が社長・会長をつとめていた当時は、東急系の京王帝都、京急、小田急各社の非常勤取締役に就いており、系列の東急エージェンシー東急レクリエーションは、現在でも上記3社とは資本的、人的関係を有するのも大東急の名残といえる。

東京急行電鉄再発足以後

その後、公職追放から1951年(昭和26年)8月に復帰した五島慶太は、自ら提唱した多摩田園都市構想に基づき、その動脈である田園都市線を建設する。「東京都の人口が750万人以上になれば公共施設が追いつけず、その機能が失われると思われる。人口膨張により東京都自身がゆき詰まってしまう。そこで大山街道(現在の国道246号)沿いに500万坪(1650万平米)[注釈 43] を買収して第二の東京都をつくることを計画した。これを実施するのは、田園調布などの街づくりに実績のある当社が適当である。大山街道沿いに沿って10か所ほどの小都市をつくって、同時にこの地方全体の発展を図りたいと考えている。(五島慶太口述「城西南地区開発趣意書」より)」1953年(昭和28年)1月に発表されたこの構想により、城西南地区(川崎市中部、横浜市北部)を4ブロックに分け、それぞれの地区に新都市を建設する計画を立てた。その後、横浜市港北区(現都筑区)に当る第3ブロックは鉄道建設区域から離れているため東急電鉄自体での開発は断念し(後に横浜市の港北ニュータウンとなる)、元の第4ブロックを第3ブロックとし、新たに町田市南部、大和市北東部を第4ブロックとし開発を推進した[14]。まず1963年(昭和38年)10月、大井町線(大井町 - 溝の口間)を田園都市線と改称し、1966年(昭和41年)4月、これを延長する形で溝の口 - 長津田間を開業、その後徐々に延伸した[注釈 44]1977年(昭和52年)4月、1969年(昭和44年)5月に廃止された玉川線の継承路線である新玉川線(渋谷 - 二子玉川園間)が開通、11月には田園都市線と快速列車が直通運転を開始した。1979年(昭和54年)8月には、 全列車が田園都市線から新玉川線を経由して半蔵門線方面へ直通運転を開始し、同時に大井町 - 二子玉川園間を大井町線として分離した。1984年(昭和59年)4月には、つきみ野 - 中央林間が全線開業し、多摩田園都市の基礎的インフラが完成する。また2009年(平成21年)7月には、沿線の人口増加による混雑対策として、田園都市線の二子玉川 - 溝の口間が複々線化され、バイパス路線として大井町線が溝の口駅まで乗り入れを開始した。

その五島慶太に東急の祖業であるとまで言わしめた東横線であるが、1964年(昭和39年)8月に営団(現:東京メトロ日比谷線と、中目黒 - 日吉間で直通運転を開始した[注釈 45]1988年(昭和63年)3月からやはり混雑対策として、東横線の複々線化工事に着手、最初の工事である日吉駅改良工事に伴い、同年8月から菊名まで日比谷線との直通運転区間が延長された。そして2000年(平成12年)8月、田園調布 - 武蔵小杉間の複々線化工事が完了、うち2線を利用し、目蒲線の目黒 - 田園調布間と直通運転することにより目黒 - 小杉間を目黒線[注釈 46]とし、東横線のバイパス路線とした。そして同時に目蒲線の多摩川 - 蒲田間は東急多摩川線として分割され、東急電鉄が最初に施設した路線である目蒲線の名称は消滅した。2000年9月に、目黒線は東京メトロ南北線都営三田線との相互直通運転を開始し、続いて2001年3月には、南北線を介して埼玉高速鉄道線との相互直通運転も開始し、2008年6月には、日吉まで延伸開業した。2004年(平成16年)2月1日、横浜駅から横浜高速みなとみらい線の横浜 - 元町・中華街と直通運転を開始し、これに伴い前日の1月31日に横浜 - 桜木町間が廃止となった。2013年(平成25年)3月16日、渋谷 - 代官山間の地下化が完成し、東横線は東京メトロ副都心線と直通運転を開始、副都心線を介して東武東上線西武池袋線との相互乗り入れも開始され、横浜高速鉄道も含め5社による相互直通運転となった[注釈 47]。同時に、49年間続いた日比谷線直通運転は終了となり、同線はすべてが中目黒での折り返しとなった[注釈 48]

事実上の創業者である五島慶太の息子、五島昇であるが、東京大学経済学部卒業後の1940年(昭和15年)東京芝浦電気(現・東芝)に一旦入社するも、1945年(昭和20年)には東京急行電鉄に入社した。1948年(昭和23年)に新発足した東急横浜製作所(後の東急車輌、現・総合車両製作所)、京浜急行電鉄などの取締役となり、1954年(昭和29年)には東急電鉄社長に就任し五島慶太の後継となった。社長就任直後に、五島慶太が乗っ取りを図った東洋精糖から撤収し、傘下の自動車メーカー東急くろがね工業(旧・日本内燃機製造、現・日産工機)を日産自動車に全株譲渡しグループから離脱させ、また東亜石油、日東タイヤ、東急エビス産業、吉田瓦斯、日本トリドールを譲渡、映画会社の東映を分離するなど[15]、拡大した東急グループを再編し、本業である鉄道業・運輸業とその関連性の高い事業に「選択と集中」を行った。一方で、本業である鉄道経営については伊豆急行の建設や田園都市線の延伸、新玉川線(後に田園都市線の一部となる)の建設といった鉄道敷設を行うほか、沿線のリゾートや宅地開発に関しては父慶太が立案した通りに忠実にやり遂げた。また五島昇の「環太平洋構想」に起因するが、グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空、後の日本エアシステム、現・日本航空)への進出、広告代理業である東急エージェンシーの設立、東急建設の設立、ホテル観光事業の拡大、流通部門の拡大、リゾート開発の拡大などを図り[16]、五島昇が社長だった1980年代終わりの最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた。

しかし、1989年(平成元年)3月、72歳で、創業者2代目である五島昇を失った影響は大きかった。五島昇亡き後、横田二郎を中心とする集団指導体制に移行したが、グループ各社のトップも年齢的に退く時期に重なり、求心力を欠いた経営となってしまい、また「東急グループ」としての厳格なマネジメントは存在しなかったため、各社の自由な裁量が大きくなり、グループ加盟会社毎に事業が拡大し肥大化してしまった。結果、グループ各社で事業部門が重複し無秩序に増えていき、最大で500社以上を数えるまでにグループ企業が拡大膨張してしまった。そして、1990年以降のバブル崩壊後の縮小経済下では、そのスケールの巨大さはデメリットに転じ、1999年(平成11年)3月末の有利子負債はグループ全体で3兆円以上を抱えるなど業績不振に陥ってしまった。ここで、グローバル基準である連結決算重視の流れや減損会計の導入などを受けて、グループの徹底的な再編に踏み切った。

1991年(平成3年)にはバス部門を分離し、東急バスとしている。

1998年(平成10年)、東急グループ代表・清水仁の下、主要加盟社に対し「自立なき者は共創の輪に加わる事ができない」旨を通告[17]したのを皮切りに、リストラを大胆に加速した。磐石である『電鉄(東急電鉄)』に依存するのみで、「シナジー価値を創出していない」と判断された数百社をグループから離脱・独立させたのである。そして、無秩序な全国拡張路線を改め、原則的に東急沿線や都市部に経営資源を集中させ、「東急の価値を共に高める総合力」が東急グループであると定義した。重要なコア事業を担う子会社等は、本体(電鉄)にとってのポートフォリオ企業として監視を強める体制にした。その結果、加盟社数は約220社と大きく減少したが、業績は逆に好転し回復傾向となっている[18]

2017年現在の東急電鉄の中核事業は「住みたい沿線」「訪れたい街」「働きたい街」の3つをキーワードに、「日本一住みたい沿線 東急沿線」をスローガンとする鉄軌道事業(交通事業)、「日本一選ばれる沿線」であり続ける都市開発事業(不動産事業)、「ひとつの東急」の実現を目指す生活サービス事業、ホテル・リゾート事業、国際事業(海外でのまちづくり)であり、田園都市や学園都市だけでなく総合的な「東急沿線の付加価値の向上」を目指し開発を進め、環境に優しい街づくりと、沿線活性化に努め「次世代へつながる街づくり」を推進している。また、目黒蒲田電鉄創立100周年にあたる2022年[注釈 49]を見据え、新たな成長に向けた準備を進めている[19]

なお、現在の京王電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄は、東京急行電鉄の全額出資のもと設立された新会社であり、現在でも東京急行電鉄が各社の株式200万株程度を保有する主要株主である。さらにこの東急系4社は相互に株式の持ち合いをおこなっており、親密な関係にある。また、大東急記念文庫は、東急のほか、発足後の京急、小田急、京王各社が出資して設立され、現在もなお、東急系4社が経営している。

年表

※前身企業である田園都市(株)、目黒蒲田電鉄、および(旧)東京横浜電鉄から大東急までの各会社の時代の詳細な年表は、それぞれ「田園都市(株)」、「目黒蒲田電鉄」、および「東京横浜電鉄」の各社史年表を、多摩田園都市開発に関しては「多摩田園都市開発年表」を参照のこと。

前史

「大東急」の時代

  • 1942年(昭和17年)
  • 1943年(昭和18年)7月1日 大井町線列車が溝の口まで乗り入れ開始。
  • 1944年(昭和19年)
  • 1945年(昭和20年)
    • 1月16日 戦時統合により東京都内のタクシー事業者を4社に統合するため、日東自動車と東京タクシーを中心に11社1個人の経営統合が決定。
    • 3月12日
    • 3月14日 渋谷、新宿、横浜、京王の4営業局を改組し渋谷、目黒、新宿、品川、横浜、京王の6管理部を設立。
    • 6月1日 相模鉄道から同社運輸事業の管理を受託。相模管理部を新設し神中線(後の厚木線→相鉄本線)の営業管理を行う。
    • 8月20日 小宮次郎が取締役社長に就任。
    • 9月26日 大川博の命名により東横タクシーが神奈川都市交通に商号変更。
    • 12月1日 経営統合した東京都内のタクシー事業者が日本自動車交通を設立。
    • 12月29日 日本自動車交通が日本交通に商号変更。
  • 1946年(昭和21年)
    • 3月1日 小林中が取締役社長に就任。
    • 8月1日 組織を支社制に再編成し、渋谷、目黒、新宿、品川、横浜、京王、相模の各管理部を支社に改組。
  • 1947年(昭和22年)
    • 3月15日 江ノ島電気鉄道が東急グループから離脱。
    • 3月25日 神奈川都市交通、伊藤福一ら東急出身経営陣が東急の持株を譲受し、東急グループから離脱。
    • 5月31日 相模鉄道厚木線の営業管理受託終了。相模支社を解消し同線の運営は相鉄管理に戻る。
    • 8月 五島慶太が東条内閣に属していたため、公職追放の指定を受ける。
    • 10月16日 井田正一が取締役社長に就任。
  • 1948年(昭和23年)
    • 5月1日 会社再編成に伴い百貨店業を分離、東横百貨店(現:東急百貨店)を設立。
    • 6月1日 会社再編成により京浜急行電鉄(品川、横浜支社)、小田急電鉄(新宿支社)、京王帝都電鉄(京王支社、後の京王電鉄)を設立。渋谷支社と目黒支社が残留し再編後の東京急行電鉄を形成。独立した3社は東京急行電鉄から各々鉄軌道・自動車路線を譲り受けて営業開始。

東京急行電鉄再発足以後

  • 1948年(昭和23年)
  • 1949年(昭和24年)5月16日 東京急行電鉄、東京証券取引所に再上場。
  • 1950年(昭和25年)
  • 1951年(昭和26年)
    • 6月30日 日本交通の東急系持株(約5割超)のほとんどを日東自動車の創業家の川鍋家に譲渡。
    • 8月6日 五島慶太が公職追放を解除。
  • 1952年(昭和27年)5月6日 五島慶太が取締役会長に就任。
  • 1953年(昭和28年)
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)4月1日 学校法人五島育英会を設立。
  • 1956年(昭和31年)
  • 1957年(昭和32年)
  • 1958年(昭和33年)
    • 7月21日 東京ヒルトンホテル設立。
    • 11月4日 上田丸子電鉄(現・上田交通、鉄道部門は上田電鉄に分社)グループ入り。
  • 1959年(昭和34年)
  • 1960年(昭和35年)
  • 1961年(昭和36年)
  • 1962年(昭和37年)
  • 1963年(昭和38年)10月11日 大井町線を田園都市線と名称変更。
  • 1964年(昭和39年)
  • 1965年(昭和40年)
  • 1966年(昭和41年)4月1日 田園都市線溝の口 - 長津田間が開通。
  • 1967年(昭和42年)
  • 1968年(昭和43年)
    • 4月1日
      • 東横線でATS(自動列車停止装置)の使用開始。
      • 田園都市線長津田 - つくし野間が開通。
    • 6月1日 東急ホテルチェーンを設立。
    • 12月6日 東急海外ホテルを設立。
  • 1969年(昭和44年)
    • 5月10日 玉川線(渋谷 - 二子玉川園間)と砧線(二子玉川園 - 砧本村間)を廃止。
    • 5月10日 玉川線(三軒茶屋 - 下高井戸間)を世田谷線と名称変更。
    • 11月30日 東横線に8000系を導入。
  • 1970年(昭和45年)3月1日 池上線にATS(自動列車停止装置)を設置、鉄道全線にATS設置完了。
  • 1971年(昭和46年)2月20日 祐天寺、学芸大学、桜木町の3駅が自動化駅に。祐天寺、学芸大学にオープンカウンターを開設。
  • 1972年(昭和47年)
    • 4月1日
      • 東急広報委員会を設立。
      • 田園都市線つくし野 - すずかけ台間が開通。
    • 4月28日 第1回苗木プレゼント(東急グリーニング運動)実施。
    • 7月12日 東急グループのスローガンを「人間の豊かさを求める - ヒューマナイザー東急グループ」と決定。
    • 9月1日 東京急行電鉄、創立50周年式典を挙行。
    • 10月5日 長津田車両工場を竣工。
  • 1973年(昭和48年)
    • 5月1日 現行の社章が制定される。この社章色にちなみ、以後の新車もをシンボルカラーに採用。
    • 11月1日 イン事業の直営第1号店として京都東急インを開業。
  • 1974年(昭和49年)8月28日 とうきゅう環境浄化財団を設立。
  • 1975年(昭和50年)10月23日 とうきゅう外来留学生奨学財団を設立。
  • 1976年(昭和51年)10月15日 田園都市線すずかけ台 - つきみ野間が開通。
  • 1977年(昭和52年)4月7日 新玉川線渋谷 - 二子玉川園間が開通。
  • 1978年(昭和53年)11月16日 田園都市線 - 新玉川線(現:田園都市線渋谷 - 二子玉川)が直通快速列車を運転開始(1996年4月、すべての快速列車を急行列車に変更)。
  • 1979年(昭和54年)
    • 4月1日 東横線にTTC(列車運行総合制御装置)を導入。
    • 8月12日 田園都市線 - 新玉川線(現:田園都市線) - 営団(現:東京メトロ)半蔵門線の全列車直通運転開始。
  • 1980年(昭和55年)
    • 9月2日 各地域における東急グループの組織である「東急会」の再編および「東急会連合会」の発足。
    • 12月27日 東横線に軽量ステンレスカー8090系を導入。
  • 1981年(昭和56年)7月29日 マウナ ラニ リゾートにゴルフ場が完成。
  • 1982年(昭和57年)
  • 1983年(昭和58年)
    • 2月14日 マウナ ラニ ベイ ホテル(現:マウナ ラニ ベイ ホテル アンド バンガローズ)をオープン。
    • 3月2日 東急有線テレビ(現:イッツ・コミュニケーションズ)を設立。
    • 10月3日 カルチャースクール 東急クリエイティブライフセミナー渋谷BEを開設。
    • 11月30日 クレジット・イチマルキュウ(現:東急カード)を設立。
  • 1984年(昭和59年)
  • 1985年(昭和60年)9月20日 香林坊第一開発ビル(金沢東急ホテル(現:金沢エクセルホテル東急)、KOHRINBO 109)がグランドオープン。
  • 1986年(昭和61年)
    • 2月5日 ニューステーションプラン1号店として、自由が丘駅総合サービスセンター(現:テコプラザ)開業。
    • 3月9日 東横線に新型車両9000系を導入。
    • 10月1日 東急グループのスローガンを「21世紀へ豊かさを深める - とうきゅうグループ」と制定。
    • 11月21日 東急総合研究所を設立。
  • 1987年(昭和62年)
    • 8月14日 軽井沢72女子オープンゴルフトーナメントを開催( - 1991年)
    • 10月2日 東急ケーブルテレビジョン(現:イッツコミュニケーションズ)が開局、渋谷区と横浜市緑区で営業放送を開始。
    • 12月25日 横田二郎副社長が取締役社長に、五島昇社長が会長に就任。
  • 1988年(昭和63年)
    • 3月11日 東横線複々線化工事および目蒲線改良工事の最初の工事として日吉駅改良工事に着手。
    • 4月12日 多摩田園都市が日本建築学会賞を受賞。
    • 12月26日 日比谷線乗り入れ車両として新型車両1000系を導入。
  • 1989年(平成元年)
    • 1月26日 こどもの国線ワンマン化。
    • 3月19日
      • 3000系車両(旧型)が営業運転終了、鉄道の全車両がステンレス車体になる。
      • 池上線旗の台 - 戸越銀座間の連続立体交差化工事が完了、13か所の踏切を解消。
    • 3月20日 五島昇会長が死去。
    • 9月3日 東京渋谷に複合文化施設Bunkamuraを開業。
    • 10月26日 多摩田園都市が緑の都市賞で内閣総理大臣賞を受賞。
    • 11月4日 田奈一号踏切道を廃止、田園都市線は踏切ゼロの路線になる。
  • 1990年(平成2年)
    • 3月16日 五島記念文化財団を設立。
    • 4月18日 東急アクションプラン21を発表。
  • 1991年(平成3年)
    • 3月16日 田園都市線・新玉川線(現:田園都市線)に新型ATC(自動列車制御装置)を導入。
    • 5月21日 東急バスを設立。
    • 5月29日 池上線の連続立体交差化工事が土木学会技術開発賞を受賞。
    • 10月1日 自動車事業を分離独立、東急バスが営業開始。
  • 1992年(平成4年)
    • 3月19日 東急インチェーン(現:東急ホテルズ)の新ブランド「エクセルホテル東急」の1号店として、富山エクセルホテル東急を開業。
    • 3月31日 田園都市線・新玉川線に新型車両2000系を導入。
    • 7月14日 東急南平台町ビル(現本社ビル)が竣工。
    • 11月1日 鉄道現業部門の制服を一新。
    • 12月18日 福島県裏磐梯にグランデコ ホテル&スキーリゾートをオープン。
  • 1993年(平成5年)
  • 1994年(平成6年)
    • 2月7日 MM21地区・24街区プロジェクト(クイーンズスクエア横浜)に着手。
    • 4月29日 田園都市線田奈駅に「多摩田園都市まちづくり館」をオープン。
    • 10月1日
      • フィットネス&アクアアトリオあざみ野をオープン。
      • 第1回 とうきゅう Thanks Daysを開催。
    • 10月4日 世田谷ビジネススクエアが都市景観大賞を受賞。
  • 1995年(平成7年)
  • 1996年(平成8年)
    • 2月1日 インターネット上にホームページを開設。
    • 3月12日 田園調布 - 多摩川園間改良工事地下化完成。
    • 4月26日 田園都市線・新玉川線、大井町線でダイヤ改正(日中時間帯、急行列車を中央林間まで延長)。
    • 6月1日 横浜市青葉区の社有地で定期借地権事業(事業用)に参入。
    • 10月1日 東急車輛製造の 東急インテリジェント・パーキング (TIP) システム一号機が上大岡で稼働。
    • 11月18日 三軒茶屋・太子堂四丁目地区市街地再開発事業が竣工、キャロットタワーが開業。
  • 1997年(平成9年)
    • 2月27日 八王子駅北口地区市街地再開発事業が竣工(3月14日に商業施設 八王子東急スクエアが開業)。
    • 3月20日 東横線渋谷 - 菊名間にATC(自動列車制御装置)を導入。
    • 4月1日 会員制インターネットサービス 246-netがサービス開始、プロバイダ事業に参入。
    • 7月18日 MM21・24街区 クイーンズスクエア横浜が街びらき(7月18日に専門店街アット!が、8月7日にパン パシフィック ホテル横浜が、9月5日に百貨店クイーンズ イーストがそれぞれ開業)。
    • 9月1日 次の時代に向けた東急グループ理念体系を決定、新スローガン 「美しい時代へ - 東急グループ」を制定。
  • 1998年(平成10年)
    • 3月16日 池上線でワンマン運転を開始。
    • 4月1日 東急ケーブルテレビジョン(現:イッツ・コミュニケーションズ)がCATV網を活用した超高速インターネット接続サービスを開始。
    • 6月1日 東急アニバーサリービデオ事業が始動。
    • 7月1日 環境活動を全社的な統一テーマとして取り組むために 環境活動推進委員会を設置。
  • 1999年(平成11年)
    • 1月25日 タイムシェアリゾート事業に進出(商品名:ビッグウィーク)。
    • 1月31日 東急百貨店日本橋店閉店。
    • 3月19日 長津田車両工場が民鉄の鉄道車両整備工場としては初めて、環境管理の国際規格ISO 14001の認証を取得。
    • 4月16日 東横線に新形式車両3000系を導入(現在は目黒線で運用)。
    • 5月15日 環境共生型住宅 市が尾邸宅を販売開始。
    • 6月24日 クイーンズスクエア横浜が建設大臣賞受賞。
    • 7月2日 タイムシェアリゾート事業・利用権交換システム会社として東急ビッグウィークステーションを設立。
    • 7月11日 世田谷線に更新車両300系を導入。
    • 10月1日 東急インチェーン(現:東急ホテルズ)がインターネットリアルタイム予約システムを導入。
  • 2000年(平成12年)
    • 1月7日 東急百貨店日本橋店跡地の再開発計画、計画促進を東京急行、三井不動産で合意。
    • 1月15日 田園調布駅旧駅舎を復元。
    • 2月12日 田中勇相談役が死去。
    • 3月1日 東急インチェーン・東急ホテルチェーンの宿泊予約サイト「東急チェックインドットコム」を開設。
    • 3月29日 こどもの国線通勤線化、中間駅として恩田駅を開業。
    • 4月7日
      • 東京急行、トヨタが共同で、広帯域・インターネット・アプリケーションサービスを提供するために AII企画株式会社(現:AII株式会社)を設立。
      • 東京急行、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)、京王電鉄の3社共同プロジェクト 渋谷マークシティが開業。ホテル棟に 渋谷エクセルホテル東急がオープン。
    • 4月10日 東京急行、小田急電鉄、相模鉄道、東武鉄道の4社が発起人となって、CATVのデジタル化のための 日本デジタル配信株式会社を設立。
    • 4月18日 東急グループ経営方針を発表。
    • 4月21日 田園都市線・南町田駅前にオープンモール型ショッピングセンター グランベリーモールを開業。
    • 6月30日 東京急行、ソニー、東急ケーブルテレビジョン(現:イッツ・コミュニケーションズ)の3社で、ブロードバンド・ネットワーク事業で戦略的に提携していくことで合意。
    • 8月6日
      • 東横線の多摩川 - 武蔵小杉間を複々線化。目蒲線の運行系統を目黒 - 武蔵小杉間の目黒線[注釈 46] と多摩川 - 蒲田間の東急多摩川線の2系統に分割。目黒線・東急多摩川線でワンマン運転を開始。
      • 田園都市線・新玉川線を田園都市線に統一。多摩川園駅を多摩川駅に、二子玉川園駅を二子玉川駅に駅名変更。
    • 8月15日 東急ファンのための専用サイト レールファン東急を開設。
    • 9月26日
      • 目黒線と営団(現:東京メトロ)南北線・都営三田線との相互直通運転を開始。
      • 自動改札機で利用客の乗降を確認する フェアスルーシステムを導入。
    • 10月14日 首都圏の20鉄道事業者で共通乗車カードシステム パスネットを導入。
    • 10月16日 携帯電話電源OFF車両(列車の偶数車両)を全国で初めて設置。
    • 11月29日 本社部門でISO14001の認証取得。
  • 2001年(平成13年)
    • 1月9日 東急ホテルマネジメント設立。
    • 1月15日 東急沿線の生活サイト「salus(サルース)」開設。
    • 2月11日 世田谷線がノンステップ化、新型300系車両への置き換え完了。
    • 3月11日 天文博物館五島プラネタリウム閉館。
    • 3月28日
      • 目黒線が埼玉高速鉄道と相互直通運転を開始。
      • 東横線に特急を新設。
    • 3月30日 ソニー、東急ケーブルテレビジョン(現:イッツ・コミュニケーションズ)と次世代型CATVインターネットサービス提供開始で合意。
    • 3月31日 石油販売事業の営業を終了。
    • 4月1日 東急沿線の情報誌salus(サルース)創刊[22]
    • 4月20日 東横線複々線化事業が平成12年度土木学会賞技術賞を受賞。
    • 5月24日 セルリアンタワーがグランドオープン。
    • 6月27日 東急リアル・エステート・インベストメント・マネジメントを設立。
    • 6月28日 清水仁社長が会長に、上條清文副社長が社長に就任。
    • 7月11日 日本橋一丁目計画着工。
    • 7月17日 株式交換により東急ホテルチェーンを完全子会社化。
    • 7月23日 東急ホテルズ予約センターを開設。
    • 7月29日 渋谷駅構内に新業態店舗ranKing ranQueen(ランキンランキン)開業。
    • 8月1日 東急ケーブルテレビジョンが、イッツ・コミュニケーションズに社名変更。
  • 2002年(平成14年)
    • 1月4日 東急グループコンプライアンス指針を制定。
    • 1月29日 東横線と営団13号線(現:東京メトロ副都心線)の相互直通運転実施(2012年度)を決定。
    • 3月1日 青葉台東急スクエアがグランドオープン。
    • 3月23日 乗車券を2枚同時投入できる自動改札機を導入。
    • 3月28日 田園都市線、大井町線ダイヤ改正、あざみ野駅を急行停車駅に変更。
    • 3月29日 平塚市五領ケ台特定土地区画整理事業(湘南めぐみが丘)が完成。
    • 4月1日
      • 東急ホテルチェーンと東急インチェーンのホテルチェーン名を東急ホテルズに統一。
      • 東急運輸、東京通運の2社経営を相鉄運輸に統合(新社名:東急ロジスティック)。
      • 東急保険コンサルティングの営業を開始。
      • 246-netの営業をイッツ・コミュニケーションズに譲渡。
      • JR東急目黒ビル、グランドオープン。
    • 5月2日 田園都市線に新形式車両5000系を導入。
    • 5月27日 国内ホテル経営機能の集約(ホテル事業を東急ホテルチェーンに譲渡)を発表。
    • 5月28日 東急文化会館の閉鎖、解体(2003年6月)を決定。
    • 6月27日 インターネットによる株主総会の議決権行使、決算公告に代えて、ホームページによる貸借対照表および損益計算書の開示を導入。
    • 7月1日 東急サービスと東急管財が合併(会社名:東急ファシリティサービス)。
    • 7月7日 世田谷線にICカード乗車券 せたまるを導入。
    • 8月1日 携帯端末向け列車運行情報提供サービスを開始。
    • 10月1日 株式交換により、東急車輛製造を完全子会社化。
    • 10月20日 横浜市青葉区で市内初のコミュニティ放送FMサルースを開局。
    • 12月27日 固定資産の信託設定ならびに信託受益権の譲渡を発表(東急南平台町ビル、東急桜丘町ビル、第2東急鷺沼ビル)。
  • 2003年(平成15年)
    • 3月15日 東急109センターの名称を「東急お客さまセンター」に改称、営業時間拡大、土日の営業を開始。
    • 3月19日 東急線ダイヤ改正(世田谷線をのぞく)。
      • 営団地下鉄(現:東京メトロ)半蔵門線水天宮前 - 押上間延伸開業、同時に押上駅から東武伊勢崎線を経由して日光線南栗橋駅までの相互乗り入れを開始。
      • 東横線に通勤特急を新設。
    • 3月20日 電車とバスの博物館が宮崎台駅に移転、リニューアルオープン。
    • 3月26日 東京急行電鉄中期2カ年経営計画を策定。
    • 4月1日
      • 事業持株会社化に向けた機構改革を実施、事業部門を鉄道事業、都市生活事業の2本部体制に。
      • ホテル事業を東急ホテルチェーンに営業譲渡。
    • 5月1日
      • 全駅を終日禁煙化。
      • 映像制作支援事業 tokyu C&C(トーキュウシーアンドシー)が本営業を開始。
    • 6月30日 東急文化会館閉館。
    • 9月10日 東急リアル・エステート投資法人が東京証券取引所に上場。
    • 9月15日 電車内における携帯電話マナーのご案内を、関東17の鉄道事業者で統一。
    • 9月26日 株式交換による東急観光の完全子会社化(2004年1月1日)を決定。
    • 10月1日 東急建設が建設事業と不動産事業に会社を分割、建設事業を継承するTCホールディングスが商号を東急建設に変更し、東証一部に再上場。
    • 10月10日 オープンモール型ショッピングセンター「箕面マーケットパーク ヴィソラ」を開業。
  • 2004年(平成16年)
    • 1月1日 株式交換により東急観光を完全子会社化。
    • 1月30日 東横線横浜 - 桜木町間の営業を終了。
    • 2月1日 みなとみらい線開業、東横線が相互直通運転を開始。
    • 3月1日 箱根ターンパイク(自動車道事業)を豪マッコーリーグループに営業譲渡。
    • 3月31日 東急観光株式の約85%をアクティブ・インベストメント・パートナーズに譲渡。
    • 4月1日 障害者の雇用促進を目的とした会社 東急ウィルを設立。
    • 4月7日 あざみ野に遊水池の上部空間を利用した商業施設 悠・粋・知 三規庭が開業。
    • 6月26日 横田二郎相談役(元社長)が死去。
    • 9月27日 株式交換により東急百貨店を完全子会社化することを発表。
    • 10月1日 株式交換により伊豆急行を完全子会社化。
    • 12月1日 東急セキュリティが本格営業を開始。
    • 12月15日 東急エアカーゴ株式の当社保有分をバンテックホールディングスに譲渡。
  • 2005年(平成17年)
    • 2月10日 東横線渋谷 - 横浜駅間改良工事が特定都市鉄道整備事業計画として認定。
    • 2月14日 田園都市線で使用されている5000系車両の5号車と8号車に6ドア・座席格納車両を導入、以降順次同系に拡大導入。
    • 3月4日 二子玉川東地区再開発組合の設立が認可。
    • 3月20日 運賃改定で、特定都市鉄道整備事業計画で行われてきた田園都市線渋谷 - 溝の口間を含む区間に対する10円の加算運賃廃止。
    • 3月28日 東京急行電鉄中期3カ年経営計画を発表。
    • 4月1日
      • 執行役員制度導入と機構改革実施。
      • 株式交換により東急百貨店を完全子会社化。
    • 5月9日 田園都市線に女性専用車を導入。
    • 6月15日 東急ロジスティック株式の当社保有分をエスビーエスに譲渡。
    • 6月29日 上條清文社長が会長、越村敏昭専務が社長に就任。
    • 7月25日 東横線に女性専用車を導入。
  • 2006年(平成18年)
    • 3月18日 田園都市線・半蔵門線、東武伊勢崎線久喜駅へも乗り入れ開始。
    • 7月2日 目黒線不動前 - 洗足間地下化。
    • 9月24日 東横線武蔵小杉 - 日吉間高架化。
    • 9月25日 目黒線で急行の運転を開始。
  • 2007年(平成19年)
    • 3月18日 共通ICカード乗車券PASMOを導入。同時にJR東日本Suicaと相互利用開始。
    • 4月5日 混雑平準化を目的として、田園都市線の平日朝最混雑時間帯の急行を準急に格下げ。
    • 12月25日 池上線・東急多摩川線に新型車両7000系(2代)を導入。
  • 2008年(平成20年)
    • 2月22日 8000系全車両が運用から離脱(譲渡車をのぞく)。
    • 3月28日 大井町線に新型車両6000系(2代)を導入し、同時に急行運転開始。
    • 4月1日 駅係員、乗務員の制服をリニューアル[23]。創立70周年の1992年以来となる。
    • 5月7日 東急が川崎市から購入した同市宮前区内の土地の土壌汚染に関して、同市が搬入した焼却に原因があると訴えていた件に関し、公害等調整委員会は、川崎市に損害賠償の支払いを命じる。
    • 5月28日 東急ウェルネスを設立。
    • 6月22日 目黒線武蔵小杉 - 日吉間延伸開業。
    • 7月1日 東急ストアを株式交換により完全子会社化。
    • 10月11日 鉄道線自動改札の半数以上を、ICカード専用化。
  • 2009年(平成21年)
    • 3月10日 田園都市線で運用されている5000系車両の4号車を6ドア・座席格納車両に差し替えると発表(2009年12月まで順次実施)。
    • 7月11日 大井町線が溝の口駅まで延伸開業。
  • 2012年(平成24年)
    • 2月上旬 全駅に順次、駅ナンバリングを導入[24]
    • 3月30日 「〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜」として、東急線ではじめて自由が丘駅構内すべてを調光・調色LED照明およびLEDサインとし、さらにシースルー改札口と定期券うりばには、一般照明としては日本初の実用的設置となる次世代照明「有機EL(有機エレクトロルミネッセンス)照明器具」を導入。
    • 4月26日 東急文化会館跡地に複合商業施設渋谷ヒカリエ」が開業。
  • 2013年(平成25年)
  • 2014年(平成26年)
    • 3月20日 蒲田駅が東京急行電鉄で3番目となる全面LED照明化され、調光するLED照明が導入される。
  • 2015年(平成27年)
  • 2018年(平成30年)
    • 3月27日 渋谷地区での駅ビル更新など鉄道沿線開発に重点を置く中期経営計画(2018-2020年度)を発表[28][29]

歴代経営陣

歴代社長
氏名 在任期間 出身校 備考
竹田政智 1922年10月2日 - 1923年6月27日 創業者渋沢栄一の四男渋沢秀雄の義父、東京造園社長、農商務省出身
2 市原求 1923年6月27日 - 1927年3月20日
3 矢野恒太 1927年4月14日 - 1928年5月7日 第三高等中学校医科[注釈 50] 第一生命創業者、田園都市株式会社大株主、現在でも第一生命が東急電鉄の筆頭株主
(空席) 1928年5月8日 - 1936年12月23日 この間取締役社長は空席、五島慶太が事実上の経営者
4 五島慶太 1936年12月24日 - 1944年2月19日 東京帝国大学法学部 鉄道省出身、運輸通信大臣東條内閣
5 篠原三千郎 1944年2月21日 - 1945年3月12日 東京帝国大学法学部[注釈 51] 田園都市株式会社大株主服部金太郎の女婿
6 平山孝 1945年3月12日 - 1945年8月20日 東京帝国大学 鉄道省総務局長
7 小宮次郎 1945年8月20日 - 1946年3月1日
8 小林中 1946年3月1日 - 1947年10月16日 早稲田大学政治経済学部中退 富国生命社長
9 井田正一 1947年10月16日 - 1948年12月27日 京浜電気鉄道出身、京浜急行電鉄社長
10 鈴木幸七 1948年12月27日 - 1954年5月6日
11 五島昇 1954年5月6日 - 1987年12月25日 東京帝国大学経済学部 東芝日本商工会議所会頭
12 横田二郎 1987年12月25日 - 1995年4月28日 東京帝国大学工学部(電気)
13 清水仁 1995年4月28日 - 2001年6月28日 一橋大学経済学部
14 上條清文 2001年6月28日 - 2005年6月29日 早稲田大学政治経済学部
15 越村敏昭 2005年6月29日 - 2011年4月1日 早稲田大学法学部
16 野本弘文 2011年4月1日 - 2018年4月1日 早稲田大学理工学部(土木) 東急不動産イッツ・コミュニケーションズ(旧東急ケーブルテレビジョン)元社長
17 髙橋和夫 2018年4月1日 - 一橋大学法学部

※出身校の空欄は最終在籍大学不明。

鉄・軌道事業

路線

営業中の路線

鉄道99.9 km(第1種鉄道事業96.5 km(東横線と目黒線、田園都市線と大井町線の並行部分もそれぞれ計上)、第2種鉄道事業3.4 km)と軌道線5.0kmの計104.9kmの路線を保有する。併記した色はラインカラーである。各線の沿革、列車の運行についてはそれぞれの記事を(直通運転については、この後の「直通運転」節も)参照。

色名 記号 路線名 区間 キロ程 備考
鉄道線   赤色 TY 東横線 渋谷 - 横浜 24.2 km -
  水色 MG 目黒線 目黒 - 日吉 11.9 km このうち田園調布 - 日吉間5.4kmは東横線と並行
  緑色 DT 田園都市線 渋谷 - 中央林間 31.5 km -
  橙色 OM 大井町線 大井町 - 溝の口 12.4 km このうち二子玉川 - 溝の口間2.0kmは田園都市線と並行
  桃色 IK 池上線 五反田 - 蒲田 10.9 km -
  紫色 TM 東急多摩川線 多摩川 - 蒲田 5.6 km -
  青色 KD こどもの国線(第2種鉄道事業) 長津田 - こどもの国 3.4 km 第3種鉄道事業者(施設の保有)は横浜高速鉄道
軌道線   黄色 SG 世田谷線(軌道) 三軒茶屋 - 下高井戸 5.0 km -
ファイル:Tokyu Corporation Linemap.svg
路線図(クリックで拡大)

一般的に鉄道路線はその正式名称や運行区間を変えることはあまりなく、運行形態が変わった場合は正式名称とは別に愛称などを用いる場合が多いが、東急は正式名称や区間の変更を度々行ってきた。近年では、2000年8月に目黒線と営団地下鉄南北線都営地下鉄三田線との相互直通運転開始に関連して大幅な整理、変更を行っている。変遷については「路線名称変更・区間変更」の節を参照。

直通運転

実施中
廃止
  • 東横線
    • 東京メトロ日比谷線:中目黒駅 - 北千住駅間(1964年8月29日 - 2013年3月15日
      • 菊名駅(一部列車は武蔵小杉駅発着)から中目黒駅を経由して日比谷線との相互直通運転を行っていた。日中は毎時2本、平日朝夕ラッシュ時間帯は最大毎時5本運行されていた。
      • 日比谷線は北千住駅から先、東武伊勢崎線東武動物公園駅まで[注釈 52] 相互直通運転を実施しているが、東武動物公園駅から日比谷線を介して東横線まで乗り入れる3社(東武・東京メトロ・東急)直通列車は設定されておらず、東武の車両も中目黒駅までしか乗り入れない。逆に、東横線の車両も北千住駅から先の東武線内には乗り入れなかった。
      • 日比谷線との営業列車の相互直通運転は、2013年3月15日をもって廃止された。日比谷線直通列車の運行枠は、渋谷・副都心線方面の列車に置き換えられた。ただし、営業列車の直通運転廃止後も、鷺沼車両基地に向かう日比谷線の車両の回送列車が入線することがある。
共同使用駅の管理

渋谷駅中目黒駅横浜駅目黒駅は他社接続の共同使用駅であるが、東急がこれらすべての駅を管理している。

田園都市線の渋谷駅は、1977年(昭和52年)4月7日の同駅 - 二子玉川園(現・二子玉川)駅間の新玉川線開業当初は東急が管理していたが、新玉川線(後に田園都市線)と半蔵門線の相互直通運転が始まる1978年(昭和53年)8月1日から2007年(平成19年)12月1日までは、営団地下鉄(後に東京メトロ)が管理していた。

東横線の渋谷駅についても、東横線と副都心線の相互直通運転が始まる前の2008年(平成20年)6月14日の副都心線開業当初から東急が管理している。これは、副都心線建設時に既に東横線との相互直通運転が決定していたことと、同一構内にある田園都市線の渋谷駅と一体的に管理するためである。

廃止路線

部分廃止や前身会社の路線も含む。特記がない路線は地方鉄道法鉄道事業法による鉄道。廃止日は最終営業日の翌日。

  • 玉川線(軌道):渋谷 - 二子玉川園(現・二子玉川駅)(9.1 km) - 1969年5月11日廃止
    • 天現寺線(軌道):渋谷 - 天現寺橋 (2.7 km) - 1948年3月10日東京都に譲渡
    • 中目黒線(軌道):渋谷橋 - 中目黒 (1.4 km) - 同上
    • 砧線(軌道→鉄道に変更。実態は玉川線と同規格):二子玉川園 - 砧本村(2.2 km) - 1969年5月11日廃止
  • 新奥沢線:雪ヶ谷(現・雪が谷大塚) - 新奥沢(1.4 km) - 1935年11月1日廃止
  • 東横線横浜 - 桜木町 (2.0 km) - 2004年1月31日廃止

経営移管路線

1948年までのいわゆる大東急時代には以下の路線も運営していた。同年(厚木線は1947年)にそれぞれ以下の会社に移管された。

未成路線

路線名称変更・区間変更

廃止日は最終営業日の翌日。

  • 1963年10月11日 - 大井町線を田園都市線に改称。
  • 1969年5月10日 - 玉川線のうち渋谷 - 二子玉川園(現・二子玉川)間を廃止、残存区間である三軒茶屋 - 下高井戸間を世田谷線に改称。
  • 1979年8月12日 - 新玉川線の営団半蔵門線との相互直通運転開始に伴い、田園都市線と新玉川線の相互直通運転開始。同時に、田園都市線から旧・大井町線区間のうち、二子玉川園 - 溝の口間を除く区間を大井町線として再分割。
  • 2000年8月6日 - 目蒲線の営団南北線・都営三田線との相互直通運転の開始(9月26日)および多摩川 - 武蔵小杉間複々線化に伴い、目蒲線を目黒線(目黒 - 多摩川 - 武蔵小杉・ただし田園調布 - 武蔵小杉は正式には東横線の複々線扱い)と東急多摩川線(多摩川 - 蒲田)に分割。同時に相互直通運転を行っていた田園都市線と新玉川線を田園都市線に名称統合。
  • 2004年1月31日 - 横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、東横線のうち横浜 - 桜木町間を廃止。
  • 2008年6月22日 - 東横線の武蔵小杉 - 日吉間複々線化工事完成に伴い、目黒線を武蔵小杉から日吉まで延伸。
  • 2009年7月11日 - 田園都市線の二子玉川 - 溝の口間複々線化工事完成に伴い、大井町線を二子玉川から溝の口まで延伸。

事業中の区間

東京メトロ副都心線方面との相互直通運転開始にともない、10両編成の列車が停車できるようにするため、特急・通勤特急・急行停車駅ではホーム延伸工事を行った。

  • 大井町線大井町 - 二子玉川間改良工事
    • 大井町線内でも急行運転するためのホーム延伸工事ならびに待避線新設工事。これらはほぼ完了しているが、等々力駅では計画中である地下化工事が諸事情により未着工である(詳しくは「等々力駅#地下化計画」を参照)。
  • 神奈川東部方面線(相鉄・東急直通線): 日吉 - 新綱島 - 新横浜( - 羽沢横浜国大 - 西谷
    • 日吉付近から新横浜駅を経由して東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道貨物線横浜羽沢駅付近に設置する羽沢横浜国大駅までを建設し、西谷駅から羽沢横浜国大駅までの新線(相鉄・JR直通線)を建設する相模鉄道との相互乗り入れを行う計画で、2016年現在建設中である。日吉 - 羽沢横浜国大間は2022年下期完成予定で[30]、完成の暁には新横浜方面から目黒線直通が1時間あたり最大10本、東横線直通が最大4本運行される計画である。このうち東急が営業主体となるのは日吉 - 新横浜間の予定である[31]。当初は大倉山から新横浜、鶴ヶ峰を通って二俣川に至る計画だった。また、大倉山駅に相当する駅の建設は中止となった。

構想中の区間

  • 多摩川線の蒲蒲線新設
    • 京急空港線と東急多摩川線を連絡する。
  • 大井町線の鷺沼延伸

車両

2016年3月末現在、鉄道線用と軌道線用あわせて1,200両を保有する[32](緊急予備車[注釈 53]・横浜高速鉄道所有車両をのぞく)。各系列の詳細、使用線区、運用などについては、それぞれの記事を参照。

制御装置は2代目5000系の登場以降東横線・田園都市線は日立製作所製、目黒線・大井町線・池上線・多摩川線は東芝製と分けられており、他には東洋電機製造(同社または東急初のIGBT素子を用いたVVVFインバータを採用した7700系7915編成を最後に採用されていないが、モーターは以後も2代目5000系などで見られる)、三菱電機(デハ300形、2020系、6020系)製がある。

東急の形式記号は制御電動車および電動車を「デ」、制御車を「ク」、付随車を「サ」、次の桁に普通車を「ハ」、事業用車を「ヤ」、有蓋貨車荷物電車を「ワ」、無蓋貨車を「ト」、電気機関車を「キ」とし、3000から付番している。これは大東急時代に小田急・帝都(現京王井の頭線)の車両を1000番台、京王の車両を2000番台、京浜の車両を5000番台としたためである。現在は貨物、荷物輸送が廃止され、「ワ」、「ト」、「キ」が形式消滅したため使用されていない。

その後大東急分離後も東急は3000系はそのままとし、4000を飛ばして5000、6000と付番していった。9000の次は1000から再度付番し、現在7000までが与えられている。このときも4000を飛ばしているが、2011年に投入された新車からは初めて4000番台が使用された。

編成の組み方については原則として固定編成とし、分割・併結は行わない。また、異系列との併結も行わないが、例外として5200系に初代5000系、8500系に8000系が併結されていた実績があった。その他、現在のところ付随車が電動車を上回る構成の編成は存在しない。

鉄道線用

現有形式

2018年3月28日時点での現有車両は、すべて電車である。

旧在籍形式
東京急行電鉄成立以前に消滅した形式
東京急行電鉄成立後の在籍・消滅形式

このほか、車両不足の応援やイベント用、軌道検測などを目的に、他社から短期間の借入車(相模鉄道デハ1050形国鉄モニ13形伊豆急行2100系JR東日本マヤ34形など)が存在した。

軌道線用

ファイル:Tokyu-EC300-3.jpg
世田谷線(軌道線)300系車両
現有形式
旧在籍形式

車両についての特記事項

グループに東急車輛製造を持っていたことから、日本で最初のステンレスカー5200系を導入、さらにアメリカバッド社との技術提携により1962年に日本で最初のオールステンレスカー7000系(初代)も導入した。東急車輛製造の鉄道車両事業は2012年にJR東日本グループの総合車両製作所横浜事業所が継承し(東急車輛製造はその後、横浜金沢プロパティーズと社名を改め、2016年10月1日付で東急電鉄本体に吸収合併された[39])、以後も東急の新造車両は総合車両製作所横浜事業所(および旧JR東日本新津車両製作所を総合車両製作所に移管後の新津事業所)で製造されている。

車両の技術面に関しては先進的で、初代6000系回生ブレーキ装備、1台車1モーターと、経済性を追求した。8000系からは日本初の省エネ性に優れ、かつ製造コストが安い界磁チョッパ制御を導入したほか、動作性に優れた「全電気指令式電磁直通ブレーキ」を装備した。またコンピュータを用いた軽量車体の設計にも挑み、8000系に試験車を組み込んだ(2005年までに廃車)。その試験結果を元に製造したのが8090系である。VVVFインバータ制御への取り組みも早く、1984年には、初代6000系の一部を改造して実用試験を行いその結果を元に1986年には量産車として9000系を登場させている。このように、様々な先進技術を積極的に導入し、日本の鉄道界の模範となってきた。

しかし、その一方で車両デザインは極めてシンプルであった。これは車体に加工が難しいとされるステンレスを古くより本格採用したことと、当時の車両部長が「前面は切妻以外認めない」との方針を採ったために、一時は箱型の平妻(切妻)正面が数多く登場し、これを比喩して「弁当箱スタイル」と呼ばれることも多かった。このように、技術的には世界的にもかなり高いレベルにあるものの、車両デザインとしてはステンレス無塗装や切妻形態の正面などのシンプルなデザインが続いていた。しかし新たに、正面に赤帯と黒帯を縦に入れた塗装が登場したが、3000系(2代)ではワンマン運転対応とする関係上、方針を転換して平妻と訣別することとなった。3000系(2代)ではFRPを多用することで流線型とし、以後の車両でも流線型およびそれに近い構造としてる。

1989年、東急の鉄道線最後の旧性能車両である初代3000系列が運行終了したことによって、日本の鉄道で初めて鉄道線の全車両が回生ブレーキ装備車両となった。また同時に大手私鉄では初めて鉄道線の営業車両のすべてがステンレス車(またはアルミ車)といった軽量車体の車両に統一されたことになる。2001年には軌道線の世田谷線でもデハ150形が運行終了し、軌道線も含めて全車ステンレス車となり、釣り掛け駆動車、抵抗制御車が全廃となった。

5000系(2代)の導入により(田園都市線5000系・東横・みなとみらい線5050系・同Y500系・目黒線5080系の第3編成以降)全車両のドアの上に液晶ディスプレイ(LCD)を当初は1基(5101F)、その後2基設置(5102F以降、路線情報とその他の情報)している。のちにその他の情報を流すLCDは『TOQビジョン』と命名された。さらに5000系では2005年4月27日から1編成に2両(5・8号車)ずつ6ドア・座席格納車両を順次連結している。これは朝ラッシュ時の上り電車で長津田駅から半蔵門駅まで座席を格納する。

LED式行先表示器を装備する車両の書体は、田園都市線・東横線・目黒線・大井町線・世田谷線がゴシック体のみ、池上線・東急多摩川線はゴシックと明朝体の両方が存在する。

東急で営業運転を終了した旧型車両は地方の中小私鉄で使用されているものもある。系列企業(東急グループ)の伊豆急行上田電鉄のほか、弘南鉄道十和田観光電鉄(廃止)、福島交通秩父鉄道、松本電気鉄道(現在のアルピコ交通)、長野電鉄豊橋鉄道北陸鉄道伊賀鉄道水間鉄道一畑電車熊本電気鉄道などに譲渡されているほか、過去には大手私鉄である名古屋鉄道への譲渡(3700系)もあった。

車両基地・工場

検車区とは、職場の名称。

廃止になった施設

電車区・車掌区・乗務区

東急電鉄の運転士、車掌の職場で東急線各所に点在しており、主に車庫がある場所にある。

  • 田園都市線、こどもの国線
    • 長津田電車区
    • 長津田車掌区
  • 大井町線
    • 二子玉川乗務区
  • 東横線、みなとみらい線
    • 元住吉電車区
    • 元住吉車掌区
  • 池上線、多摩川線
    • 雪が谷大塚乗務区
  • 目黒線
    • 奥沢乗務区
  • 世田谷線
    • 世田谷線管区

管理駅

東急電鉄の駅業務は、複数の駅を「○○駅管内」としてまとめて管理下に置いており、この「○○」に入る駅名が駅長所在駅である。比較的小規模な駅は子会社である東急レールウェイサービスに業務が委託されている。

運賃

大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。2014年4月1日改定。世田谷線(軌道線)とこどもの国線の運賃は鉄道線(両線以外)とは別に定められており、キロ程は通算できない。

キロ程 (km) 運賃(円)
ICカード 切符利用
鉄道線 初乗り3km 124 130
4 - 7 154 160
8 - 11 195 200
12 - 15 216 220
16 - 20 247 250
21 - 25 267 270
26 - 30 299 300
31 - 35 329 330
36 - 40 370 370
41 - 45 401 410
46 - 50 432 440
51 - 56 463 470
こどもの国線 154 160
軌道線 世田谷線 144 150
  • こどもの国線・世田谷線は均一。他の東急線に跨る場合の運賃は、それぞれ他の東急線の長津田駅・三軒茶屋駅までの運賃と合算した額。ただし、世田谷線は、株主乗車券ではキロ程通算可能。こどもの国線と田園都市線青葉台駅田奈駅つくし野駅すずかけ台駅との間の運賃は合算額から大人20円・小児10円引きとなる。

定期券

東急線全駅に設置されている自動券売機の一部では、定期券クレジットカードで購入できる。以前はTOPカードでDCカード、VISA・Mastercardブランド付帯のカードしか利用できなかったが、2013年8月1日より前述のクレジットカードに加えJCBアメリカン・エキスプレスダイナースクラブのいずれかが付帯したカードでも利用可能となった[25]

2018年3月17日より、東急線内利用分に限り、12か月定期を発売予定で、当面の割引率は6か月と同じで6か月の2倍の金額である[40]

割引乗車券・企画乗車券

世田谷線散策きっぷ以外の乗車券は、恩田駅こどもの国駅世田谷線各駅での購入はできない。

世田谷線散策きっぷ
発売当日に限り何回でも世田谷線各駅で乗り降り自由。大人330円、小児170円。世田谷線三軒茶屋駅上町駅下高井戸駅で販売。
みなとみらいチケット
東急線各駅から横浜駅までの往復乗車券と「みなとみらい線一日乗車券」のセット。みなとみらい線内は乗り降り自由。上記の駅のほか、横浜駅での購入はできない。
東急ワンデーオープンチケット
こどもの国線・世田谷線を含む東急線全線を乗車できる一日乗車券。大人660円、小児330円(2015年9月1日現在)。ただし、こどもの国線・世田谷線の各駅では購入できないが、三軒茶屋駅で本乗車券を購入後に当日の世田谷線の乗車証明書を駅窓口に提出すると、世田谷線運賃相当額の払い戻しを受けることが出来る。イベントがある場合に限り発売されていたが、2013年10月5日からは、イベントにかかわらず土日祝日および年末年始に発売されるようになり[41][42]、2015年9月1日以降は通年で発売するようになった[43]
東急線・東急バス一日乗り放題きっぷ
上述の東急ワンデーオープンチケットに東急バスの一日乗車券が付いたもの。大人1000円、小児500円。2018年4月27日 - 8月31日の期間限定発売[44]
トライアングルチケット
渋谷駅 - 自由が丘駅 - 二子玉川駅 - 渋谷駅間が乗り降り自由の一日乗車券。大人400円、小児200円(左記エリア内の場合)。発売は2013年3月15日まではフリーエリア内の各駅窓口および定期券売場のみで、エリア外の駅からは本チケット発売駅(=フリーエリア内)までの運賃が別途必要であった。2013年3月16日からは、発売箇所が東急線全駅の券売機(こどもの国線・世田谷線のぞく)・東武東上線全駅・西武線全駅に拡大され、エリア外の駅から購入した場合は購入駅からエリア内までの往復乗車券がセットとなる[45]
東急東京メトロパス
東急線各駅から東京地下鉄(東京メトロ)接続駅(渋谷駅・中目黒駅目黒駅)までの往復乗車券と「東京地下鉄一日乗車券」のセット。東京メトロ線内は乗り降り自由。往路と復路で異なる接続駅を選択することも可能。上記の駅のほか、渋谷駅・中目黒駅・目黒駅での購入はできない。
東急お台場パス
東急線各駅から大井町線大井町駅までの往復乗車券と東京臨海高速鉄道りんかい線大井町駅 - 新木場駅間が乗り降り自由となる一日乗車券のセット。2008年3月28日発売開始。上記の駅のほか、大井町駅での購入はできない。また、りんかい線の一日乗車券とは違い、大崎駅 - 大井町駅間はフリー区間に含まれない。
東急東武東上線小江戸川越クーポン
東急線各駅から渋谷駅までおよび東武東上線和光市駅から川越駅までの往復乗車券と東京メトロ副都心線(渋谷駅 - 和光市駅間)および東武東上線川越駅・川越市駅が乗り降り自由となる一日乗車券のセット。東武バスウエストの川越市内指定区間も乗り降り自由となる。上記の駅のほか、渋谷駅での購入はできない。
東急東武東上線ハイキングきっぷ
東急線各駅から渋谷駅までおよび東武東上線和光市駅から坂戸駅までの往復乗車券と東京メトロ副都心線(渋谷駅 - 和光市駅間)および東武東上線坂戸駅 - 寄居駅間・越生線が乗り降り自由となる一日乗車券のセット。上記の駅のほか、渋谷駅での購入はできない。
東急西武線まるごときっぷ
東急線各駅から渋谷駅までの往復乗車券と東京メトロ副都心線渋谷駅 - 小竹向原駅間および西武線全線が乗り降り自由となる一日乗車券のセット。西武線へは小竹向原駅のほか、池袋駅新宿三丁目駅経由で西武新宿駅での乗り換えも可能である。西武線全線には孤立路線である西武多摩川線も含まれるが、他の交通機関の運賃は別途必要となる。上記の駅のほか、渋谷駅での購入はできない。
東急江の島・鎌倉フリーパス
田園都市線各駅から中央林間駅までおよび小田急江ノ島線中央林間駅から藤沢駅までの往復乗車券と小田急江ノ島線(藤沢駅 - 片瀬江ノ島駅間)および江ノ島電鉄線全線が乗り降り自由となる一日乗車券のセット。他の割引乗車券と異なり、田園都市線渋谷駅 - つきみ野駅間のみの発売である。
横濱中華街 旅グルメきっぷ
こどもの国線・世田谷線を含む東急線全線を乗車できる一日乗車券、みなとみらい線一日乗車券、横浜中華街指定店舗の食事券のセット。大人2,500円、小児1,500円。各駅窓口での発売となる。
企画乗車券発売額(大人・単位:円)
キロ程 (km) 東急東京メトロパス みなとみらいチケット トライアングルチケット 東急お台場パス
単独購入
の場合[注釈 54]
600
(東京メトロ24時間券)
460
(みなとみらい線一日乗車券)
400 700
(りんかい線1日乗車券)
初乗り3km 710 620 450 710
4 - 7 750 700 480 750
8 - 11 810 770 500 810
12 - 15 850 800 520 850
16 - 20 890 850 580 890
21 - 25 910 860 590 910
26 - 30 970 920 610 970
31 - 35 1020 990 630 1020
36 - 40 1050 640
41 - 45 1090 660
46 - 50
51 - 56

その他

株主優待乗車証は、こどもの国線と世田谷線を含む東急全線を通しての利用が可能となっている。ただし、三軒茶屋駅で改札外乗り換えをする際は有人改札などで駅係員に提示する必要がある。

回数乗車券は、関西地区でよく見られる金額式(額面の運賃の区間であればどの区間でも利用できる)を2004年1月31日発売分より採用している(こどもの国線・世田谷線はのぞく)。

座席指定料金

2017年3月25日から運行を開始したS-TRAINに適用される。

  • 全区間:350円(小児 180円)[46]

女性専用車

東急では、東横線と田園都市線に女性専用車を導入している。小児や身体の不自由な客とその介助者・保護者は性別不当である。ダイヤ乱れなど不測の事態が発生すると中止する場合がある[47]

東横線
平日始発から9時30分までの上下全列車が対象であり、設定車両は渋谷寄り先頭車両である1号車。みなとみらい線含めて池袋駅到着または9時30分になった時点で終了する。
2005年7月25日から平日の特急・通勤特急・急行に導入した。導入当初の設定位置は元町・中華街方の8号車で、首都圏の鉄道路線として初となる終日の女性専用車導入であった。2006年7月18日から終日設定を取りやめ、設定車両を5号車に変更した。副都心線との直通運転を開始した2013年3月16日から実施時間を平日始発から9時30分までに変更し設定車両を1号車に変更した。
田園都市線
平日始発から9時30分までの渋谷方面行の全列車が対象であり、設定車両は渋谷寄りから数えて最後尾にあたる車両である。押上駅到着または9時30分になった時点で終了する。

サービス・ソフト面の特徴

  • 単に鉄道とその沿線に不動産や百貨店を置くのでなく、古くからカレンダーなどの鉄道グッズを多数発売したり、沿線の乗客から専属モニターとして意見を聞くなど、鉄道と沿線住民が一体となった鉄道として知られる。こうした手法は阪急電鉄が創案したもので、阪急の創業者で田園都市株式株式会社を経営していた小林一三が東急に持ち込み、それを五島慶太が「東急の経営(運営)は阪急の方針を取り、全て小林イズムを踏襲してまいりました[48]」と継承したのである。
  • 京成電鉄京王電鉄や阪急電鉄、しなの鉄道などと同様に、テレビ番組映画ドラマ撮影でも時折東急線が登場している。これは『Tokyu C&C事業』として東急グループの施設での撮影が可能となったことによる。
  • 2007年現在、在籍するすべての編成に1 - 2か所ずつ車椅子スペースを設置している。
  • ダイヤ改正時に冊子形の時刻表を発行していた。かつては有料で、2005年6月10日のダイヤ改正からJTBパブリッシング発行のものを無料で配布していたが、2012年3月のダイヤ改正時には時刻表利用のネットへの移行を理由に発行されなかった[49][注釈 55]
  • 安全対策に関係する投資に積極的で、保安装置は田園都市線東横線目黒線大井町線ATC池上線東急多摩川線ATSとなっている。このうち目黒線はホームゲートとTASC(定位置停止支援装置)、池上線と東急多摩川線がホーム柵と赤外線センサー、TASCを導入し、安全性の向上と省力化の両立を図っている。また、世田谷線は「車内警報装置」(過速防止機能付き)と「列車無線」を導入している。
  • 東急では路線によって車体前面・側面に「各停」種別を表示する路線(東横線・目黒線・大井町線)と表示しない路線(田園都市線・池上線・東急多摩川線・世田谷線)がある。東横線は、みなとみらい線開業を控えた2004年1月までに開始。目黒線は2006年の急行運転開始を機に、大井町線は田園都市線直通急行運転開始を前に実施を開始した。
  • フルカラーLEDや方向幕上の「各停」表示色も路線ごとによって違っており、東横線は青地に白文字で表示し、目黒線は緑地に白文字(3000系は緑文字)、大井町線は田園都市線溝の口駅乗り入れ開始時より高津駅二子新地駅での停車の有無により緑色(通過)・青色(停車)を区別して使用している。各駅停車のみの路線(池上線、東急多摩川線、こどもの国線、世田谷線)と田園都市線では「各停」の表示は行っていない。
  • 線路の立体化にも積極的であるが、単によくある高架線にするのでなく、現在の地上線の真下に浅いトンネルを掘る、「直下地下工法」を多く使っている。田園都市線とこどもの国線以外にはすべて直下地下区間が存在し、特に目黒線は地下鉄南北線との直通運転にそなえて工事をしたため、全区間の半分近くが直下地下区間となる。
  • 東急では高級住宅街や最新技術の電車というイメージがあるが、池上線や東急多摩川線などの開業当時からの古くからの町並みを残し、田園調布駅の旧駅舎を復元するなど、それを維持するよう努めている。こうした路線でも、新型車両の導入が行われている。
  • 駅の表示については2000年の地下鉄南北線との直通運転開始を皮切りに今のものに切り替えられ、ほぼ全駅で更新が完了されている。また横浜高速鉄道での管轄路線も同じ仕様が使われている。後にユニバーサルデザイン仕様のピクトグラムも導入されている。2012年2月より駅ナンバリングが導入され、駅名標がナンバリング表記付きの物に順次交換されている。
  • 主要駅には「テコプラザ」の名称で旅行サービスなどを展開するカウンターを設置している。東急グループには東急観光があったがグループ外になり「トップツアー」(後に東武鉄道に買収され「東武トップツアーズ」となる)になったこともあり、現在はJTBと提携し同社の営業拠点としての役割も持っている。
  • 駅の売店は「toks」であるが、子会社である東急ステーションリテールサービスがローソンに加盟することにより、順次ローソンの店舗(駅売店型)になる予定である[50]
  • 東横線が副都心線との直通運転を開始を機に、副都心線・西武線・東武東上線への企画乗車券やおすすめスポットなどに力を入れている。
  • 2016年9月現在、他社の同名の駅と区別するため駅名に「東急」を冠した駅は存在しない(駅名に社名を冠した駅がないのは、関東の大手私鉄では相模鉄道が、大手私鉄全体では阪急電鉄阪神電気鉄道南海電気鉄道も該当する)。

マスコットキャラクター

のるるん
2012年に東急線の広報活動の一環として作成された、東急の主力車両として運用されている5000系をモチーフにしたキャラクター。2012年8月に公開された当初は名前が決まっていなかったが、公募により11月に「のるるん」という名前に決定した。東急バスのマスコットキャラクター「ノッテちゃん」とはいとこという設定がある[51]

乗降人員上位15位

  • 乗降人員は東京急行電鉄の駅のもの。増加11px11pxは前年度に比較した増(増加)減(11px)増減なし(11px)を表す。
東京急行電鉄の駅別乗降人員上位15位(2017年度)[52]
順位 駅名 人数
(人)
前年比
(%)
前年
順位
前年人数
(人)
所在地 備考
11px 1 渋谷駅 1,163,469 増加 1.2 1 1,149,334 東京都渋谷区 日本の私鉄で最多。東横線は副都心線、田園都市線は半蔵門線の直通人員含む。各社局線総合では日本・世界第4位
11px 2 横浜駅 362,526 増加 1.2 2 358,191 横浜市西区 みなとみらい線の直通人員含む。各社局線総合では日本・世界第5位
11px 3 目黒駅 276,680 増加 3.4 3 267,662 東京都品川区 南北線三田線の直通人員含む
11px 4 武蔵小杉駅 225,463 増加 1.3 4 222,674 川崎市中原区  
11px 5 溝の口駅 211,801 増加 1.8 5 208,103 川崎市高津区  
11px 6 日吉駅 205,216 増加 1.8 6 201,631 横浜市港北区  
11px 7 中目黒駅 196,964 増加 1.6 7 193,943 東京都目黒区 日比谷線の相互乗換人員含む
11px 8 蒲田駅 167,022 増加 2.1 8 163,530 東京都大田区  
11px 9 二子玉川駅 162,989 増加 1.5 9 160,558 東京都世田谷区  
11px 10 自由が丘駅 156,540 増加 1.7 10 153,965 東京都目黒区  
増加 11 大井町駅 143,269 増加 1.5 12 141,196 東京都品川区  
11px 12 長津田駅 141,576 増加 0.2 11 141,260 横浜市緑区 こどもの国線と田園都市線との相互乗換人員含む
増加 13 三軒茶屋駅 139,061 増加 2.1 14 136,149 東京都世田谷区 世田谷線の乗降人員は含まない
11px 14 菊名駅 138,346 増加 0.3 13 137,978 横浜市港北区  
11px 15 あざみ野駅 136,448 増加 0.7 15 135,448 横浜市青葉区  

住宅開発事業

東急沿線での住宅開発は主に東急不動産が担っている。東急沿線のみならず、沿線外の地域でも住宅開発を行っている。

東急沿線
  • ジェネヒルあざみ野(横浜市青葉区荏子田・すすき野地区、2003年から)
  • イデアリーナ(横浜市青葉区あざみ野南地区、2007年から)
  • ノイエあざみ野(2008年から)
  • ノイエたまプラーザ(2008年から)
東急線沿線外

労働組合

有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り[53]

名称 上部組織
東急労働組合 日本私鉄労働組合総連合会
全関東単一労働組合東急分会 全関東単一労働組合

提携など

主要グループ企業

参照: 東急グループ

脚注

注釈

  1. 同じく関東の大手私鉄京浜急行電鉄(略称:京急)も、かつて公式通称は「京浜急行」だったが、現在は「京急電鉄」となっている。
  2. 東急の単体売上高は2473億3300万円、営業キロ数は97.5km。一方、東京地下鉄の単体売上高は3320億800万円、営業キロ数は192.1kmである(2011年度)。
  3. これは当時東映のオーナーだった大川博と東急側との間に溝ができ、東映側が独立したが、大川の没後東映社長となった東急派の岡田茂が取締役を務めるなど、東急との関係は部分的に残った
  4. 堤家は、国土計画(後のコクド、株式非上場、2006年プリンスホテルに吸収合併され解散)を名義株(株式の虚偽記載)により支配し相続税を払わず、そのコクドの子会社であった西武鉄道の株の過半数を、これも名義株を使い実効支配することにより西武鉄道グループを私物化していた。
    『西武事件「堤家」支配と日本社会』吉野源太郎、日本経済新聞社、2005年5月20日。
    『西武争奪-資産2兆円をめぐる攻防』安西巧、日本経済新聞社、2006年4月20日。
  5. 「コクド株や西武株を信頼出来る人々に、分散して持たせておいて、後で義明の元に全部戻してもらったのであった」「堤康次郎は選挙に金を注ぎ込まなければならないと考えた。陸運局の公聴会を利用して、選挙民を動員して公聴会に連れて行き、その謝礼という名目で金を渡した」株式の名義株(虚偽記載)の方法や選挙における買収の方法が西武の専属弁護士によって具体的に書かれている。 - 中島忠三郎『西武王国–その炎と影』サンデー社、2004年12月10日
  6. 五島は資本による会社支配は行わなかったため、ファミリー企業(同族経営企業)ではなかったが、池上電鉄玉川電鉄京浜電鉄京王電軌などの会社を、あたかも札束(資本)をもって白昼強盗を働くように買収し「強盗慶太」と異名を頂戴した。 - 『私の履歴書』第一集 P20、日本経済新聞社1957年2月10日
  7. 「理想的住宅地」の要件として1、土地高燥にして大気清純なること。2、地質良好にして樹木多きこと。3、面積少なくとも十万坪を有すること。4、一時間以内に都会の中心地に到着し得べき交通機関を有すること。5、電信、電話、電灯、ガス、水道などの完整させること。6、病院、学校、倶楽部等の設備あること。7、消費組合の如き社会的施設も有すること。をあげている。 - 『田園都市案内パンフレット』田園都市株式会社、1922年(大正11年)、1923年(大正12年)
  8. 「理想的住宅地」における住宅の守るべき項目として1、他の迷惑となる如き建物を建造せざること。2、障壁はこれを設くる場合にも瀟洒典雅のものたらしむること。3、建物は三階建て以下とすること。4、建物敷地は宅地の五割以下とすること。5、建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とすること。6、住宅の工費は坪当たり百二、三十円以上にすること。をあげている。 - 『田園都市案内パンフレット』田園都市株式会社、1922年(大正11年)、1923年(大正12年)
  9. 「洗足のサイトプランが出来上がると、図面を印刷し、電車開通前に売り出した。1922年(大正11年)の5月頃だったと思う。畑の土を掘って計画通りの道筋だけをつけた。だから道筋以外には青麦がはえ、馬鈴薯の花が咲いていた。そこをお客さんたちは図面をてにして、気に入った場所を物色して歩いた」分譲は好調であった。 - 『随筆 街づくり わが町』渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
  10. 田園都市株式会社は渋沢栄一が「日本橋の紳商で日本橋クラブ(経済人の集まり)に出資を求め設立」し、中野武営服部金太郎などそうそうたるメンバーが参加していた。その渋沢栄一自身は、起業するとき「1、国家社会に有益なこと。2、担当者に人を得ること。3、それ自体で儲かること。」をあげていたのであるが、たしかに理想的な住宅地建設は国家社会に有益であるが、「事業のほうは経営者が素人ばかり」つまりその設立当時は、とても営利を目的としている企業とは言えず、渋沢栄一が実業界引退後に設立した事を含め稀有な会社であった。『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)
  11. 高級住宅地の代名詞となった田園調布-『高級住宅街の真実 セオリー2008 vol.2』講談社 2008年3月25日
  12. 「私は田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れてもらった。この分譲地のサイト・プランを依頼した矢部金太郎君に注文をつけたのである」田園調布の街はエトワール型の道路を造り、街路樹を植え、広場と公園を整備し、塀は生け垣とし、庭を広くとり緑地の一部とし、街全体が庭園のようになっている。 - 『随筆 街づくり わが町』渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
  13. 「交通機関としては、目黒駅からこの住宅地まで電気鉄道を開通させます。すなわち、この電鉄は田園都市株式会社が巨費を投じて特に居住者に交通の便を提供するものであります」 - 『理想的住宅案内』田園都市株式会社、1922年(大正11年)
  14. 渋沢栄一が45万坪の土地を抱えていた田園都市株式会社の経営に困っている時、第一生命の創業者で田園都市株式会社の大株主であった矢野恒太に経営を見てくれないかと言ったところ、同じ第一生命の役員であった和田豊治が「小林一三に知恵を借りたらどうか」とアドバイスした。矢野は小林に会って助力を求めた。最初は固辞したが、上京して話だけでも聞くだけならと月に一度役員会に出席するようになり、田園都市株式会社を経営していった。 - 『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)
  15. 田園都市株式会社の経営に関し、小林は名前を出さず、報酬も受け取らず、月に一回日曜日のみ、という約束で経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めたという。
    『中野武営と商業会議所』1017頁
    大阪府池田市にある小林一三記念館パネル展示(2011年9月閲覧)
  16. 小林一三は、田園都市株式会社の役員に名は連ねていないが、実質的に経営しており、また1928年(昭和3年)5月から1936年(昭和11年)11月まで目黒蒲田電鉄および(旧)東京横浜電鉄の取締役に就き、五島慶太の後ろ盾となっていた。
  17. 田園都市株式会社は、中野武営や服部金太郎などそうそうたるメンバーが参加していたが、渋沢栄一から経営を見てくれと言われた矢野恒太は「事業のほうは経営者が素人ばかり」と困り、また矢野から経営を依頼された小林一三もその経営を見て「呆れてものがいえぬ」と困り果てたのである。 - 『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)
  18. 「僕がどうやって五島慶太君をつかまえて矢野恒太さんに推薦したか内輪話を聞かせてあげる」小林一三は武蔵電鉄が持っていた田園調布から蒲田までの鉄道施設権が欲しかったのである。既に目黒蒲田電鉄は目黒から田園調布の施設権を持っていたが、蒲田まで延長すれば省線の駅同士を結ぶことができ、かつ乗車効率が高まるからである。また国からの補給利子(補助金)もより多く受けることができた。そこで武蔵電鉄の五島慶太をスカウトし、武蔵電鉄の施設権と五島慶太を一挙に手に入れたのである。 - 『小林一三と矢野一郎との対談』実業之日本、1952年(昭和27年)2月
  19. 小林一三が五島慶太を目黒蒲田電鉄にスカウトする時「もしコンガラがった場合、目黒電車の開通がのびのびになると困る。そこで考えた」その当時、阪急神戸線の神戸乗り入れ線は、高架線で神戸に乗り入れるか地下線で乗り入れるかでゴタゴタしていた。神戸市会が地下線で建設することを条件に許可したのだが、阪急は高架線に変更し建設し始めたからである。そこで、小林一三は元鉄道省総務課長であった五島慶太を、まず阪急の顧問として招聘したのである。その関係を保ちながら目黒電車入りを勧め成功した。そして1927年(昭和2年)10月、阪急神戸線を全線高架式に変更すると申請しなおした。その後、五島の働きかけもあり内務省、鉄道省は阪急神戸線の高架計画の申請を許可した。「神戸市内高架線の成功は、五島顧問のおかげだった」阪急にとっても役立ったのである。 - 『篠原三千郎氏を偲ぶ』東京急行電鉄、1954年(昭和29年)
  20. 小林一三から「荏原電鉄(後の目黒蒲田電鉄)を先に建設し、田園都市の45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され専務就任を決心した。- 私の履歴書 第一集 P12、日本経済新聞社1957年2月10日
  21. 「東京市内の地獄絵みたいな無残さ、惨たらしさとはうらはらに、洗足地区は何と美しかったろう。まさに天国と地獄だった。最大の被害でも壁に亀裂が入り、レンガがズレ落ちた程度だった。」 - 『随筆 街づくり わが町』渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
  22. 東京横浜電鉄沿革史では姉妹会社と言う表現を使っているが「田園都市株式会社」「目黒蒲田電鉄」「(旧)東京横浜電鉄」は、その成立経過から資本も同じ、経営者も同じ、つまり事実上の同一会社である。[5]
  23. 「渋谷〜丸子多摩川間は、目蒲線と並行路線であるので、目蒲線への影響が大きい。まず、丸子多摩川〜神奈川間を建設して目蒲線と直通運転を行うこと、そして目蒲線が成長してから渋谷線に着手すること」渋谷線の建設は目蒲線の経営が安定してからとなったのである。- 東京急行電鉄株式会社社史編纂事務局 1973 II 充実編、第一章 鉄道業の充実、1 東横線の建設、2)神奈川線の建設 神奈川線から着手した理由
  24. 五島慶太は阪急での百貨店経営の成功を東横電鉄にも取り入れるため、1932年(昭和7年)4月からデパート建設を準備した。それに伴い従業員を阪急百貨店だけでなく、高島屋松坂屋にも研修に出したが、老舗百貨店であった三越はこれを拒否した。また、1934年(昭和9年)11月、東横百貨店が開業してからも、五島慶太が「呉服会を改称した日本百貨店協会」に参加しても三越からは相手にもされなかった。その後、1938年(昭和13年)、三越取締役でもあった故・前山久吉の遺族から三越株を買わないかと話があり、「幸い東横百貨店を経営しているから、三越と東横百貨店を合併して、東横百貨店を三越の渋谷支店にしてみたらどうだろう。と三越株の10万株を買った」。 三越株の6分の1を買い占めたいわゆる「三越乗っ取り事件」である。この三越は慶応閥であり、塾員である小林一三から「渋谷のような田舎の百貨店が三越を買収するのは、蛙が蛇を呑むより無理」といわれ、また慶応閥であった三井銀行とそれに呼応して三菱銀行からの東横電鉄に対する融資が停止され、結局、三越買収を断念した。しかしこの時、90円で買った三越株を150円で全株売却し、膨大な売却益を得たのであった。
    「私の履歴書」第一集、五島慶太、8.「三越の乗っ取り失敗」P18-20、日本経済新聞社1957年(昭和32年)2月10日
    「東急外史 顔に歴史あり」第四話「三越乗っ取り事件とその裏にうごめくもの 取り押さえ損ねた”ライオン”」P109-120、沿線新聞社、1982年(昭和57年)4月15日
  25. 「私は小林一三の知恵をかりた。まま教えを受けたというところだ。実業家になって以来三十年間というもの、何でも彼に相談した。そして小林一三を後ろのつっかい棒にした。倒れかかると小林がつっかい棒をしてくれた。私は小林一三に敬意を表している」東急は「阪急の小林の手法」を用いたというより、小林一三が五島慶太の後ろ盾となり、田園都市株式会社、目黒蒲田電鉄、(旧)東京横浜電鉄の経営に直接、間接に関与していたのである。 - 五島慶太「70年の人生」要書房、1953年(昭和28年)
  26. 「東急の経営は阪急の方針をとり、全て小林イズムを踏襲して参りました」 - 五島慶太、小林一三追悼式での言葉、1957年(昭和32年)3月8日、東京宝塚劇場に於いて。
  27. 「蔵前の1万2千坪の土地は、間もなく復興局の材料置き場として240万円(売却益は150万円以上、簿価より計算、五島は180万円と記載)で買収されたので、私はこの金で武蔵電鉄の株式の過半数を買収した。名称を東京横浜電鉄と改め、いよいよ東横線の建設に着手した」1924年(大正13年)1月8日、田園都市株式会社は、大岡山所在の社有地9.2万坪と蔵前所在の東京高等工業学校(現・東京工業大学)敷地1.2万坪と等価交換、同年6月、蔵前の土地は震災復興局に転売、震災による土地高騰もあり、240万円で買収され、その売却益で武蔵電鉄の株を購入することにより東横線建設の資金とした。 - 五島慶太『70年の人生』要書房、1953年(昭和28年)
  28. 「慶応義塾の敷地を拡張移転せしむべしとの論が起り、関東大震災で被害復旧が一段落を告げる頃から、ようやく郊外に広き土地を買い入れ、主に予科を移転し、候補地を神奈川県に求める」との論起り「かくするうち、東京横浜電鉄から、日吉台の土地七万二千余坪を無償提供すると申出あり」「この間、東京横浜電鉄株式会社の関係者の一人である塾員小林一三は終始好意的に斡旋につとめた」、慶応の卒業生であった小林一三は母校の日吉への誘致に積極的に関与する。 - 『慶応義塾100年史』慶応義塾大学、1964年(昭和39年)
  29. 最寄りの駅・都立大学駅の名称は、柿の木坂駅から、府立高等前駅、府立高等駅、都立大駅に、校名と伴に改称された。大学は移転し名称も変更されたが駅名は変更されず存続している。
  30. 最寄りの駅・学芸大学駅の名称は、碑文谷駅から、青山師範駅、第一師範駅、学芸大学駅に、校名と伴に改称された。大学は移転したが駅名は存続している。
  31. 1920年(大正9年)3月6日、田園都市株式会社傘下の荏原電気鉄道に大井町 - 調布村間の地方鉄道敷設免許がおり、同年5月18日、田園都市株式会社は施設免許を譲り受け、1921年(大正10年)2月15日には大崎町 - 碑衾村間の鉄道敷設免許もおりる。しかし鉄道省が「文化住宅地からの通勤線としては山手線と直結すべき」と助言したため、大井町までの建設より、まず目黒から多摩川台(田園調布)まで目黒線の工事を先行し、大井町線の建設はその後となったのである。 - 「田園都市株式会社、設立趣意書・目論見書・定款」認可申請の添付書類より。田園都市株式会社、1922年(大正11年)
  32. 五島慶太が「東横線が我々の祖業である、この線が滞りなく走っていれば東急の事業は安泰だ」と語ったように(旧)東京横浜電鉄は(新)東京横浜電鉄における事実上の主力となった。-『日本の私鉄 東京急行電鉄』毎日新聞社 2011年1月30日
  33. 大東急発足前の小田原急行鉄道、その後の(旧)小田急電鉄は、現在の小田原線江ノ島線京王電鉄井の頭線(元の帝都電鉄)を経営していた。
  34. 田園都市株式会社の大株主であり1921年(大正13年)10月から1928年(昭和3年)5月まで(旧)東京横浜電鉄の会長・社長を務め、1927年(昭和2年)4月から1928年(昭和3年)5月まで田園都市株式会社と目黒蒲田電鉄の社長を務めていた。この経緯もあり、現在でも第一生命が東急電鉄の筆頭株主である[5]
  35. この時の「京浜電気鉄道との品川までの施設権」は後の営団地下鉄が引き継いだのであるが、戦後の復興期に、営団だけでは地下鉄道の建設が追いつかないという東京都の主張が受け入れられ、1956年(昭和31年)都市交通審議会の答申で1号線(都営地下鉄浅草線)として戦前からの東京市の念願だった地下鉄道を実現することになり、また同時に泉岳寺駅での京浜急行との乗り入れもかなった。
  36. 1939年(昭和14年)4月21日、五島慶太が京浜電鉄の取締役に、また湘南電鉄の専務取締役に選任された。
  37. 相互乗り入れするまでの8か月間、新橋駅に東京高速鉄道と東京地下鉄道のホームが別々に存在していた。現在利用されているのは東京地下鉄道のホームであるが、東京高速鉄道のホームも残存しており車両留置や資材置き場などに活用され、また幻のホームとして特別イベントで公開されることがある。
  38. 東京地下鉄道の株を、東京高速鉄道(東横電鉄)の五島慶太が買収したのであるが、「この時は鉄道省だけでなく、政界、日本銀行を含む財界を巻き込む騒動となってしまった。」この騒動を陸上交通事業調整法を用い「いわば、けんか両成敗で」仲裁に持ち込み、その後、帝都高速度交通営団として吸収してしまったのは、五島慶太の東京帝国大学法学部、および鉄道省の後輩、佐藤栄作(後の内閣総理大臣)であった。 - 『今日は明日の前日』佐藤栄作、フェイス社、1964年(昭和39年)
  39. 京王は電力国家管理法が交付されるまでは業績が良好であったこともあり、会長であった井上篤太郎は「我が城(京王)は小さくともダイヤモンドだ。東京急行は規模はでかいかも知れないが瓦礫の山だ」と言って、東急との合併に最後まで反対した。 - 「東急外史 顔に歴史あり」沿線新聞社、1982年(昭和57年)
  40. 五島は「時にはやむを得ず、株買い占めという強硬手段も採らざるをざるをえないこともあったが」と言っている。 - 『私の履歴書』第一集 P20、日本経済新聞社1957年2月10日
  41. 五島は「世間で言うような単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活までを考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである」と言っている。 - 『私の履歴書』第一集 P20、日本経済新聞社1957年2月10日
  42. (旧)小田急系の帝都電鉄は、乗り換え運賃の問題もあり、(旧)小田急電鉄とは分離、京王帝都電鉄に合併され、京王井の頭線となった。
  43. 田園都市株式会社が開発した45万坪(148万平米)の約11倍の規模である。
  44. 1968年(昭和43年)4月、つくし野まで延伸、1972年(昭和47年)4月、すずかけ台まで延伸、1976年(昭和51年)10月、つきみ野まで延伸、全線複線化完成、1984年(昭和59年)4月、中央林間までの全線開業。
  45. 日比谷線では当初から北千住側で、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)とも相互乗り入れをしているが、東横線からの車両の乗り入れは北千住駅までで、営団の車両(3000系03系)でも東横線との運用の場合は乗り入れは北千住駅までとなり、その後開通した東京メトロ千代田線のように3社(3線)をまたいで乗り入れることはなかった。
  46. 46.0 46.1 目黒線は線路戸籍上は目黒 - 田園調布間であるが、東横線の複々線のうち2線を利用して2000年8月6日から武蔵小杉駅まで運行、2008年6月22日に日吉駅まで延長して運行している。
  47. 田園調布から日吉までの複々線区間は、目黒線に乗り入れている都営三田線と埼玉高速鉄道を含め計7社が乗り入れている。
  48. ただし、日比谷線の車両の分解・検査業務が東京地下鉄鷺沼車両基地で行われているため、中目黒駅 - 鷺沼駅間の回送運用は存続している。
  49. 親会社である田園都市株式会社は1918年(大正7年)9月に設立されたが、目黒蒲田電鉄は1922年9月に、子会社として分離され設立された。
  50. 後の岡山医専、現・岡山大学医学部
  51. 東京帝国大学法学部独法を主席卒業、五島慶太の同級生でもあった。同期で仏法を主席卒業した芦田均は後の総理大臣。
  52. 東横線との直通運転終了後の2013年3月16日からは東武日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。
  53. 運用離脱した車両のうち、廃車や転用を前提にした車両の呼称であるが、事故等で使用不能になった車両と代替できるように常に運行可能状態としているため、実態は特別休車と同類の呼称である(イカロス出版『私鉄車両年鑑2013』p269)
  54. 東急線の駅窓口では購入できないものや乗車券の効力、特典の内容が異なるものがある。
  55. 各駅時刻表 - 冒頭部に『<3月17日ダイヤ改正に伴う、東急電車時刻表(冊子タイプ)の発行について>今般、パソコンや携帯電話等の普及により、時刻表への需要が減少傾向にあることから東急電車時刻表の発行は見送らせていただきます。 冊子タイプの時刻表をご希望のお客さまにおかれましては、市販の時刻表等をご利用頂きますようお願い申し上げます。』と記載(東急電鉄ウェブサイト 2012年5月27日閲覧)

出典

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  4. 「堤義明 闇の帝国」西武グループの総帥はいかにして失墜したか、七尾和晃、光文社、2005年(平成17年)2月10日
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  20. 『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)
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  36. 都心方面への輸送力を増強し混雑緩和を推進します!大井町線急行列車の7両編成化と新型車両6020系の導入 (PDF) - 東京急行電鉄ニュースリリース 2017年10月12日
  37. 当社初!平日夜の有料座席指定サービスを大井町線で開始!2018年冬、大井町駅から田園都市線方面への平日夜の帰宅をより快適に!
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参考文献

関連項目

外部リンク


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