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(正式な国名はローマ帝国です。)
 
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{{脚注の不足|date=2012年2月}}<!--{{参照方法}}-->
 
{{基礎情報 過去の国
 
|略名 =東ローマ帝国
 
|日本語国名 =ローマ帝国
 
|公式国名 ={{aut|'''Imperium Romanum'''}}<br/>{{Lang|el|'''Βασιλεία Ῥωμαίων'''}}
 
|建国時期 =[[395年]]
 
|亡国時期 =[[1453年]]
 
|先代1 =ローマ帝国
 
|先旗1 =Vexilloid of the Roman Empire.svg
 
|先旗1縁 =no
 
|先代2 =ヴァンダル王国 (アフリカ)
 
|先旗2 = Blank.png
 
|先代3 =東ゴート王国
 
|先旗3 = Blank.png
 
|次代1 =オスマン帝国
 
|次旗1 =Ottoman Flag.svg
 
|次代2 =モスクワ大公国
 
|次旗2 =Coat of Arms of Moscow.svg
 
|次旗2縁 =no
 
|次代3 =セルビア王国 (中世)
 
|次旗3 =Flag_of_Serbia_1281.svg
 
|次代3略 =セルビア王国
 
|次代4 =第二次ブルガリア帝国
 
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|次旗4縁 =
 
|次代5 =キプロス王国
 
|次旗5 =Royal_banner_of_Janus_of_Cyprus.svg
 
|次旗5縁 =
 
|次代6 =ヴェネツィア共和国
 
|次旗6 =Flag of Most Serene Republic of Venice.svg
 
|次代7 =テオドロ公国
 
|次旗7 =Coat of arms of Gothia.svg
 
|次旗7縁 = no
 
|国旗画像 =Byzantine imperial flag, 14th century.svg
 
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 = no
 
|国章画像 =Palaiologos Dynasty emblem.svg
 
|国章リンク =
 
|国章幅 =100px
 
|標語 =
 
|国歌名 =
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 =Byzantine Empire animated.gif
 
|位置画像説明 =東ローマ帝国の版図の変遷
 
|公用語 =[[ラテン語]]、[[ギリシア語]]<sup>([[620年]]以降<ref name="Davis p. 260">[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.</ref>)</sup>
 
|首都 =[[コンスタンティノポリス]]
 
|元首等肩書 =[[東ローマ帝国の皇帝一覧|皇帝]]
 
|元首等年代始1 =[[395年]]
 
|元首等年代終1 =[[408年]]
 
|元首等氏名1 =[[アルカディウス]](初代)
 
|元首等年代始2 =[[527年]]
 
|元首等年代終2 =[[565年]]
 
|元首等氏名2 =[[ユスティニアヌス1世]]
 
|元首等年代始3 =[[976年]]
 
|元首等年代終3 =[[1025年]]
 
|元首等氏名3 =[[バシレイオス2世]]
 
|元首等年代始4 =[[1448年]]
 
|元首等年代終4 =[[1453年]]
 
|元首等氏名4 =[[コンスタンティノス11世|コンスタンティノス11世ドラガセス]](最後)
 
|面積測定時期1 =
 
|面積値1 =
 
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|面積値2 =
 
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|面積値5 =
 
|人口測定時期1 =
 
|人口値1 =
 
|人口測定時期2 =
 
|人口値2 =
 
|人口測定時期3 =
 
|人口値3 =
 
|人口測定時期4 =
 
|人口値4 =
 
|人口測定時期5 =
 
|人口値5 =
 
|変遷1 = 成立(東西分割)
 
|変遷年月日1 = [[395年]]
 
|変遷2 = [[イスラム帝国]]によって領土の大半を失陥
 
|変遷年月日2 = [[7世紀]]
 
|変遷3 = [[第4回十字軍]]により一旦滅亡
 
|変遷年月日3 = [[1204年]]
 
|変遷4 = 亡命政権[[ニカイア帝国]]によって再興
 
|変遷年月日4 = [[1261年]]
 
|変遷5 = [[オスマン帝国]]によって滅亡
 
|変遷年月日5 = [[1453年]][[5月29日]]
 
|通貨 = [[ソリドゥス金貨|ノミスマ]]
 
|注記 =
 
* 公式な国号は「ローマ帝国」。
 
* 正式な成立時期はない。
 
}}
 
{{ローマの政治体制}}
 
{{ギリシャの歴史}}
 
'''東ローマ帝国'''(ひがしローマていこく)または'''ビザンツ帝国'''、'''ビザンティン帝国'''は、東西に分割統治されて以降の[[ローマ帝国]]の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった[[395年]]以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧[[西ローマ帝国|西ローマ]]領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降は[[バルカン半島]]、[[アナトリア半島]]を中心とした国家となった。首都は[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]](現在の[[トルコ共和国]]の都市である[[イスタンブール]])であった。
 
  
西暦[[476年]]に[[西ローマ帝国]]が[[ゲルマン人]]の傭兵隊長[[オドアケル]]によって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝[[ロムルス・アウグストゥス]]が[[ゼノン (東ローマ皇帝)|当時の東ローマ皇帝ゼノン]]に帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。
+
'''東ローマ帝国'''(ひがしローマていこく)または'''ビザンツ帝国'''、'''ビザンティン帝国'''
  
== 名称 ==
+
東ローマ帝国とも呼ばれる。コンスタンチノープル (旧ギリシア植民市[[ビザンチオン]] ) を首都とし (330遷都) ,1453年まで続いた中世ローマ帝国の通称。通常東西ローマの分割 (395) からフォーカス帝 (在位 602~610) を初期,ヘラクリウス帝 (在位 610~640) からアレクシウス5世 (在位 1204) までを中期,ニカイアの亡命政権 (04~61) を含めてオスマン・トルコのメフメット2世に滅ぼされる (1453) までを後期とする。ギリシア語を公用語とし,ギリシア正教を国教に,ヘレニズム文化を継承,発展させ,ローマの政治体制のうえに独自の行政機構を発達させた。また東西世界の接点という地理上の有利さを発揮して海外貿易による巨額の富,複雑な税制度から多大な税収入を背景に,強力な軍事力,たぐいまれな外交手腕を駆使して,千有余年東地中海世界の大国として君臨した。その宗教的・文化的影響は今日の東ヨーロッパ世界に多くみられる。
[[ファイル:Follis-Leo VI-sb1729.jpg|thumb|皇帝[[レオーン6世]](在位:886年 - 912年)の[[銅貨]]。裏面には "{{lang|el|+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn}}"(レオーン、神に(忠実なる)[[ローマ人]]の[[バシレウス]])と書かれている。]]
 
この国家(およびその類似概念)については、いくつかの呼び方が行われている。
 
  
; ローマ帝国
+
(1) 初期 テオドシウス帝死後の東西ローマの分割 (395) および西ローマ帝国の滅亡 (476) 後,ローマ帝国後継者としての意義が増大した。[[ユスチニアヌス1世]]のローマ帝国再建の努力は北アフリカ,イタリア,スペインの一部の奪回に成功したが,その死後早くも崩壊し,かろうじてカルタゴとラベンナに総督領をおくにとどまった。バルカンのドナウ戦線はスラブ族,アバール族により破られ,ギリシア民族のスラブ化が始った。またササン朝ペルシアとの抗争も決定的な結末をみないまま次代に入った。
:[[3世紀]]末から[[4世紀]]前半にかけて帝国の中心は[[オリエント|東方世界]]へと移行したが、「ローマ人の皇帝」が[[イタリア本土 (古代ローマ)|ローマ本土]]にも存在していた時代には、東ローマ帝国が自らをローマと同等のものとして扱うことは許されなかった<ref>[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年</ref><ref>『世界大百科事典』平凡社、1998年、ローマ理念</ref>。しかし476年に西方正帝が消滅して「ローマ人の皇帝」が帝国東方にしか存在しないようになると、次第に東ローマ帝国では「ローマに代わる第二のローマ」という自意識が育ち、同地の人々は遅くとも[[6世紀]]中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった<ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年</ref>。こうしてローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼ぶことはなく<ref>「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P23))</ref>、この地域の政府や住民は自国を単に「[[ローマ帝国]] (<small>[[ラテン語]]</small>:{{lang|la|Imperium Romanum}}, <small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|el|Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων, Basileia tōn Rhōmaiōn/Vasilia ton Romeon}})」と称した。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「[[ローマ人]]の土地 ({{lang|el|Ῥωμανία, Rhōmania/Romania}})」と呼んでおり、また彼ら自身も「[[ギリシア人]] ({{lang|el|Ἕλληνες, Hellēnes/Elines}})」<ref>ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる。(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1999年、p.1)</ref>ではなく「[[ローマ人]] ({{lang|el|Ῥωμαίοι, Rhōmaioi/Romei}})」を称していた。
 
; 東ローマ帝国
 
:古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年の[[テオドシウス1世]]の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった<ref>なお、分割統治した当初はあくまでもそれまでの分割統治同様、一つの帝国を二人で分割統治する体制と捉えられていた。例えば、は443年に地震で破損したローマ市の[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。[[本村凌二]]編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233</ref>。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。
 
; ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
 
:[[古代ローマ|ローマ国家]]自体は古代から1453年まで連綿と続いたものであり、上述の通り「東ローマ帝国」の住民も自らの国家を「ローマ帝国」と認識していた。ところが、7世紀頃以降のこの国家は「[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]」とは文化や領土等の面で違いがあまりにも顕著であるため、便宜上、別の名称が使用されるようになった<ref>「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」[井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』([[京都大学学術出版会]] P5))</ref>。「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい[[19世紀]]以降に使われるようになった通称である。いずれも首都[[コンスタンティノポリス]]の旧称[[ビュザンティオン]](中世・現代ギリシア語ではビザンティオン)に由来している。「ビザンツ」は[[ドイツ語]]の名詞 {{lang|de|Byzanz}}<ref>ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名[[ビュザンティオン]]は {{lang|de|Byzantion}},帝国の呼称としては {{lang|de|Byzantinisches Reich}} が用いられるのが一般的である。</ref>、「ビザンティン」は[[英語]]の形容詞 {{lang|en|Byzantine}} に、「ビザンティオン」は[[ギリシア語]]の名詞に由来している。日本語での呼称は、[[歴史学]]では「ビザンツ」が、[[美術]]・[[建築]]などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティオン帝国」は、英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている<ref>例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。</ref>。ただし、これらの呼称は7世紀頃以降のこの帝国を指して使われることが多く、その点で、4世紀末~6世紀頃([[古代末期]])の「東ローマ帝国」とはややその概念を異にしている<ref>「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権の[[テマ制|テマ]]が各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」([[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P71-72))</ref>。
 
; ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
 
:[[カール大帝]]の戴冠による「[[西ローマ帝国]]」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた<ref>カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。</ref>。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「[[ローマ皇帝]]」だったのである。また、例えば[[桂川甫周]]は、著書『[[北槎聞略]]』において[[蘭学|蘭書]]『魯西亜国誌』({{lang|nl|''Beschrijving van Russland''}} ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称した[[ロシア帝国]]であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。
 
; 中世ローマ帝国
 
:この国家を「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」「ギリシア帝国」と呼ぶのは中立的でないとし、少なくとも日本における呼称としては適切でないとする見解が日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは(特に7世紀頃以降のこの国家を指して)「'''中世ローマ帝国'''」の呼称が提案されてきた<ref>[[梅田良忠]]編『東欧史(世界各国史13)』(山川出版社、1958年)</ref>。この呼称はなかなか普及しなかったが、1980年に[[渡辺金一]]が普及力の強い岩波新書における自らの著書の題名に冠した<ref>渡辺金一『中世ローマ帝国―世界史を見直す—』 (岩波書店、1980年)。</ref>ことにより、一般の読書人にも知られるようになった。
 
  
== 概要 ==
+
(2) 中期 ヘラクリウス朝,マケドニア朝,ドゥカス朝,コムネノス朝,アンゲルス朝を数え,[[テマ制度]]の導入とその拡張,整備,イスラムとの抗争の激化 (672~678,717~718) とその鎮静化,第1ブルガリア帝国との共存,聖像破壊運動 (726~843) の終結,スラブ族への活発な伝道活動などを背景に最盛期マケドニア朝を迎えた。その後属領における封建化の進展 ([[プロノイア制度]]の導入) と相次ぐ内乱,外敵 (ペチェネグ,クマノイ,ウツェン,ルース族など) の進攻,イタリア商業都市の経済的進出などにより国は徐々に弱体化していった。バルカンのセルビア,第2ブルガリア,ハンガリーの諸王国が独立し,領土縮小を余儀なくされ,帝国は第4次十字軍により 1204年首都を占領された。
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、[[キリスト教]][[正教会]])を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、[[7世紀]]以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、[[サーサーン朝]][[ペルシア]]や[[イスラム帝国]]により国土を侵食された。[[8世紀]]末には[[ローマ教皇]]との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。
 
  
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くが[[ギリシア人|ギリシア系]]となり、[[620年]]には[[公用語]]も[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]に変わった<ref name="Davis p. 260">[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.</ref>。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「'''キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国'''」と評す者もいる<ref>[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]([[大阪市立大学]]教授)など。</ref>。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
+
(3) 後期 亡命政権である[[ニカイア帝国]]から首都奪回を果して開かれたパレオロゴス朝は衰退期の王朝で,セルビア王国とオスマン・トルコにはさまれ,1370年トルコに対して進貢義務を負うにいたった。文化的にはパレオロゴス・ルネサンスと呼ばれる文化運動を起しながらも,政治的独立を失い,トルコという大海の中の孤島のままその終末を迎えた。
  
[[9世紀]]には徐々に国力を回復させ、[[皇帝]]に権力を集中する政治体制を築いた。[[11世紀]]前半には、東ローマ帝国は[[バルカン半島]]や[[アナトリア半島]]東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。[[11世紀]]後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに[[第4回十字軍]]の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつ[[ニカイア帝国]]によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして[[1453年]]、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、[[オスマン帝国]]の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[古代ギリシア]]文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧の[[ルネサンス]]に多大な影響を与え、「[[ビザンティン文化]]」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であった[[トルコ]]でもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[ファイル:Imperium Romanum.png|thumb|ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分は[[トラヤヌス]]帝時代の[[ローマ帝国]]最大版図。赤線は東西ローマの分割線]]
 
{{main2|歴代の皇帝|東ローマ帝国の皇帝一覧}}
 
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、[[4世紀]]から[[15世紀]]までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った<ref>[[日本の歴史|日本史]]でいうと[[古墳時代]]から[[室町時代]]に相当する。</ref>。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]断絶([[1057年]])後を後期とする説がある。
 
 
 
=== 前史 ===
 
{{main|[[ローマ帝国#混乱と分裂|ローマ帝国の混乱と分裂]]|ウァレンティニアヌス朝}}
 
 
 
[[コンスタンティヌス1世]]が[[ローマ]]から[[コンスタンティノポリス]]へ[[遷都]]した[[330年]]をもってビザンツ(東ローマ)帝国史の始まりとする場合もある。たとえば著名なビザンツ史学者[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]の『ビザンツ帝国史』では、遷都直前の[[324年]]([[テトラルキア]]の内戦[[:en:Civil wars of the Tetrarchy|Civil wars of the Tetrarchy]]が終結した年)を始点としている。
 
 
 
[[378年]]、皇帝[[ウァレンス]]が[[ハドリアノポリスの戦い]]([[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]])で敗死。
 
 
 
[[390年]]、[[ゴート族]][[:de:Butherich|Buthericus]]の逮捕のために、[[テオドシウス1世]]が派遣した軍による{{仮リンク|テッサロニカの虐殺|en|Massacre of Thessalonica}}が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。[[:en:List of massacres in Greece]]を参照。)
 
 
 
=== 前期(395年 - 610年頃) ===
 
==== 再興と挫折 ====
 
[[ファイル:Meister von San Vitale in Ravenna 004.jpg|thumb|180px|ユスティニアヌス1世]]
 
{{see_also|ユスティニアヌス王朝|民族移動時代}}
 
 
 
本項では、ローマ帝国の[[オリエント|東]][[オクシデント|西]]両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となった[[テオドシウス1世]]が、[[395年]]の死に際し、長男[[アルカディウス]]に帝国の東半分を、次男[[ホノリウス]]に西半分を、継がせた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。
 
 
 
皇帝[[テオドシウス2世]]([[401年]] - [[450年]])は、[[パンノニア]]に本拠地を置いた[[フン族]]の王[[アッティラ]]にたびたび侵入されたため、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁[[テオドシウスの城壁]]を築き、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める事に専心した。皇帝[[マルキアヌス]]([[450年]] - [[457年]])は、[[451年]]に[[カルケドン公会議]]を開催し、[[エフェソス強盗会議|第2エフェソス公会議]]以来の問題となっていた{{仮リンク|エウテュケス|en|Eutyches}}の唱える{{仮リンク|エウテュケス主義|en|Eutychianism}}や[[単性説]]を改めて異端として避け、[[三位一体]]を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力した。[[453年]]に[[アッティラ]]が急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。マルキアヌスが急死すると、皇帝には[[トラキア人]]の[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]([[457年]] - [[474年]])が据えられたが、[[アラン人]]の[[パトリキ]]で[[マギステル・ミリトゥム]]だった{{仮リンク|アスパル|en|Aspar}}の傀儡であった。しかし、[[471年]]にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。
 
 
 
[[西ローマ帝国]]での皇帝権は[[ゲルマン人]]の侵入などで急速に弱体化し、[[476年]]に西方正帝の地位が消滅した。{{仮リンク|東ゲルマン族|en|East Germanic tribes}}の{{仮リンク|スキリア族|en|Scirii}}の[[オドアケル]]は西ローマ皇帝を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]([[474年]] - [[491年]])に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の[[宗主国|宗主権]]を認めてローマ帝国のイタリア領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。
 
 
 
西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は
 
* [[アナトリア]]・[[歴史的シリア|シリア]]・[[エジプト]]のような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな[[穀倉地帯]]を保持していた
 
: 対する西ローマ帝国は穀倉地帯である[[シチリア]]を、ゲルマン人に奪われた。
 
* アナトリアの[[イサウリア]]人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた
 
* [[西ゴート人]]や[[東ゴート人]]へ貢納金を払って西ローマ帝国へ移住させた
 
: ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。
 
* 首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた
 
ことなどが挙げられる。
 
 
 
[[ファイル:Aya sofya.jpg|thumb|[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]<br/>周囲の[[ミナレット|尖塔]]は[[オスマン帝国]]時代のもの]]
 
しかし[[488年]]にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。[[489年]]に[[東ゴート族]]の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]がイタリア侵攻を開始した。[[491年]]、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネは[[アナスタシウス1世]]([[491年]] - [[518年]])と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。[[493年]]にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの[[総督]]および[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|道長官]]に任命された。テオドリックは[[497年]]にアナスタシウス1世より[[イタリア王]]を名乗ることが許され、ここに[[東ゴート王国]]([[497年]]-[[553年]])が成立した。ただし東ゴート王国の領土と住民は依然としてローマ帝国のものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した。
 
 
 
[[アナスタシウス1世]]の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。[[502年]]の[[:en:Anastasian War]]が長きに渡る[[サーサーン朝]]との{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争|en|Byzantine–Sassanid Wars}}の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次の[[ユスティヌス1世]]([[518年]] - [[527年]])は[[ローマ教皇]]との関係修復に腐心することになった。
 
 
 
6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]([[527年]] - [[565年]])の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将[[ベリサリウス]]の活躍により旧西ローマ帝国領の[[イタリア半島]]・[[北アフリカ]]・[[イベリア半島]]の一部を征服し、[[533年]]の[[アド・デキムムの戦い]]で[[ヴァンダル族]]を破って[[カルタゴ]]を奪還すると、[[ヴァンダル戦争]]([[533年]] - [[534年]])で[[地中海]]沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、[[442年]]([[455年]])以来[[ヴァンダル族]]に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。[[528年]]にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『[[ローマ法大全]]』の編纂や[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]の再建など、後世に残る文化事業も成したが、[[529年]]にはギリシャの多神教を弾圧し、[[プラトン]]以来続いていた[[アテネ]]の[[アカデメイア]]を閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。
 
 
 
[[535年]]のインドネシアの[[クラカタウ]]大噴火の影響で{{仮リンク|535年から536年の異常気象現象|en|Extreme weather events of 535–536}}に見舞われた。イタリア半島においては[[ゴート戦争]]([[535年]] – [[554年]])が始まる。[[543年]]、[[黒死病]]({{仮リンク|ユスティニアヌスのペスト|en|Plague of Justinian}})。{{仮リンク|ラジカ王国|en|Lazica}}をめぐる[[サーサーン朝]]ペルシアとの抗争({{仮リンク|ラジカ戦争|en|Lazic War}})で手がまわらなくなると、[[スラヴ人]]([[542年]])・[[アヴァール]]([[557年]])などの侵入に悩まされた。[[546年]]に東ゴート軍は、[[イサウリア]]人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時の[[ローマ略奪 (546年)|ローマ略奪]]と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」([[SPQR]])が崩壊し、[[古代ローマ]]はこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。[[552年]]に[[ナルセス]]将軍が派遣され、{{仮リンク|ブスタ・ガロールムの戦い|el|Μάχη των Βουσταγαλλώρων|it|Battaglia di Tagina|en|Battle of Taginae}}({{lang-el|Μάχη των Βουσταγαλλώρων}} {{lang|en|Battle of Busta Gallorum}}、タギナエの戦い {{lang-it|Battaglia di Tagina}} {{lang-en|Battle of Taginae}})で[[トーティラ]]を敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。
 
 
 
[[565年]]にユスティニアヌス1世が没すると、[[568年]]には[[アルプス山脈]]を越えて南下したゲルマン系[[ランゴバルド人]]によって[[ランゴバルド王国]]が北イタリアに建国された。[[558年]]、[[突厥]]の西面(現[[イリ]])の[[室点蜜]]は[[サーサーン朝]]の[[ホスロー1世]]との連合軍で[[エフタル]]を攻撃し、[[567年]]頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、[[568年]]に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。[[572年]]から始まった{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)|en|Byzantine–Sassanid War of 572–591}}で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、[[576年]]に[[達頭可汗]]にサーサーン朝を挟撃することを提案した。[[588年]]、{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}でサーサーン朝を挟撃した。[[598年]]、達頭可汗がエフタルと[[アヴァール]]征服を東ローマ帝国の皇帝[[マウリキウス]]に報告した。[[602年]]にユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺され、混乱の中で[[フォカス]]が帝位を僭称した。
 
 
 
7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った({{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt}})。フォカスは、逆襲のためにサーサーン朝ペルシアへ侵攻した([[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]])。
 
 
 
=== 中期(610年頃 - 1204年) ===
 
==== 危機と変質 (7世紀 - 8世紀) ====
 
{{see_also|ヘラクレイオス王朝|イサウリア朝}}
 
 
 
[[608年]]に[[カルタゴ]]の{{仮リンク|アフリカ総督|en|Exarchate of Africa}}{{仮リンク|ヘラクレイオス (カルタゴ総督)|en|Heraclius the Elder|label=大ヘラクレイオス}}が反乱を起こし、[[610年]]にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子の[[ヘラクレイオス]](在位 : [[610年]] - [[641年]])が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、[[西突厥]]の二度にわたる戦争({{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}、{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}})に助けられ、{{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt|label=シリア・エジプトへ侵攻した}}サーサーン朝ペルシアを[[ニネヴェの戦い (627年)]]で破るなどして[[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]]に勝利し、領土を奪回することに成功した。[[627年]]に[[ハザール]]を主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、[[628年]]に[[統葉護可汗]]が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。
 
 
 
'''公用語が[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]へと変わった'''のはこの時代、[[ヘラクレイオス]]治世の[[620年]]である<ref name="Davis p. 260">[[#refDavis1990|Davis 1990]], p. 260.</ref>。また同時代には、「皇帝」の通用的な称号が「[[インペラトル]]」から「'''[[バシレウス]]'''(ヴァシレフス)」に変わった。
 
 
 
===== アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代) =====
 
{{main|アラブ・東ローマ戦争}}
 
[[イスラーム教徒のペルシア征服|サーサーン朝への攻撃]]を開始した[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]])は、[[カーディスィーヤの戦い]]でメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領の[[シリア地方]]へも侵攻した。[[636年]]に[[ヤルムークの戦い]]で東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどの[[オリエント]]地域や北アフリカを再び失った。[[641年]]、ヘラクレイオスが死亡すると、[[コンスタンティノス3世]]と[[ヘラクロナス]]との間で後継者問題が起き、[[コンスタンス2世]]が即位して落ち着いた。。東ローマ軍は、[[655年]]にアナトリア南岸の[[リュキア]]沖での海戦({{仮リンク|マストの戦い|en|Battle of the Masts}})でイスラム軍([[正統カリフ]])に敗れた後は東地中海の制海権も失った。
 
 
 
[[656年]]、イスラム帝国内で第三代カリフの[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が暗殺され、{{仮リンク|第一次フィトナ|en|First Fitna|label=第一次内乱}}([[656年]] - [[661年]])が始まる。[[661年]]、[[ウマイヤ朝]]が成立。
 
 
 
[[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|240px|[[ギリシア火薬]]を用いてアラブ船を攻撃するローマ軍]]
 
 
 
[[674年]]から[[678年]]までの{{仮リンク|コンスタンティノポリス包囲戦 (674年–678年)|en|Siege of Constantinople (674–678)|label=コンスタンティノポリス包囲戦}}では、連年イスラム海軍([[ウマイヤ朝]])に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「[[ギリシア火薬|ギリシアの火]]」を用いて撃退することに成功した。[[680年]]には[[オングロスの戦い]]で[[テュルク系]][[ブルガール人]]に破れ、[[681年]]の講和で北方に[[第一次ブルガリア帝国]]が建国された([[ブルガリア・東ローマ戦争]]、[[680年]] - [[1355年]])。[[698年]]、{{仮リンク|カルタゴの戦い (698年)|en|Battle of Carthage (698)|label=カルタゴの戦い}}ではイスラム軍([[ウマイヤ朝]])に敗れ、[[カルタゴ]]を占領されて[[カイラワーン]]に拠点を構築された<ref name=sights>{{cite web|title=Tunisia - Carthage|url=http://www.sights-and-culture.com/Tunisia/Carthage.html|publisher=www.sights-and-culture.com|accessdate=20 September 2012}}</ref><ref name=brit>{{cite web|title=ʿAbd al-Malik|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/678/Abd-al-Malik|publisher=www.britannica.com|accessdate=20 September 2012}}</ref><ref name=myeth>{{cite web|title=Battle of Carthage (698)|url=http://www.myetymology.com/encyclopedia/Battle_of_Carthage_%28698%29.html|publisher=www.myetymology.com|accessdate=20 September 2012}}</ref>。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島と[[バルカン半島]]の沿岸部、南イタリアの一部([[マグナ・グラエキア]])に縮小した。
 
 
 
[[717年]]に即位した[[イサウリア王朝]]の皇帝[[レオーン3世]]は、[[718年]]に[[イスラム帝国]]軍([[ウマイヤ朝]])を撃退({{仮リンク|コンスタンティノポリス包囲戦 (717年–718年)|en|Siege of Constantinople (717–718)|label=第二次コンスタンティノポリス包囲戦}})。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には[[726年]]にレオーン3世が始めた[[聖像破壊運動]]などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、[[カトリック教会]]との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに[[787年]]、[[第2ニカイア公会議]]決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後に[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして顕在化した。
 
 
 
女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]](イリニ)治下の[[800年]]、ローマ教皇が[[フランク王国|フランク王]]カール1世([[カール大帝]])に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、[[802年]][[10月31日]]のクーデターで[[ニケフォロス1世]]が即位し、[[803年]]に{{仮リンク|パクス・ニケフォリ|en|Pax Nicephori}}を締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の[[地中海世界]]の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。
 
 
 
[[ファイル:Siege of Amorium.jpg|thumb|left|[[アモリオンの戦い]]([[838年]])]]
 
 
 
イスラム軍([[アッバース朝]])とは、[[804年]]の[[:en:Battle of Krasos]]、[[806年]]の[[:en:Abbasid invasion of Asia Minor (806)]]で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で[[平和条約|和約]]を結んだ。[[811年]]には[[第一次ブルガリア帝国]]に侵攻したが、撤退時の[[プリスカの戦い]]({{lang-en-short|Battle of Pliska}}、[[ブルガリア語]]:{{lang|bg|Битка при Върбишкия проход}} - バルビツィア峠の戦い)で皇帝[[ニケフォロス1世]]が殺害され、後継者問題が起こった。[[ミカエル1世ランガベー]]が皇帝に即位し、対立していた[[フランク王国]]と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。[[813年]]に[[ヴェルシニキアの戦い]]で再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、[[レオーン5世]]への譲位を余儀なくされた。[[814年]]に第一次ブルガリア帝国の[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]が死去すると、[[オムルタグ]]と[[815年の条約|30年不戦条約]]を結んだ。[[827年]]にアラブ人([[アッバース朝]]支配下の[[アグラブ朝]])が[[シチリア島]]へ侵攻し({{仮リンク|ムスリムのシチリア征服|it|Conquista islamica della Sicilia|en|Muslim conquest of Sicily}}、[[827年]]-[[902年]])、{{仮リンク|シチリア首長国|it|Storia della Sicilia islamica|ar|إمارة صقلية|en|Emirate of Sicily}}([[831年]] - [[1072年]])が成立。902年にイブラーヒーム2世が[[タオルミーナ]]を攻略してシチリア島の征服が完了した<ref>{{Cite book|和書|last = ヒッティ|first = フィリップ・K |translator = 岩永博|title = アラブの歴史|edition = 初版|year = 1983|publisher = [[講談社]]|series = [[講談社学術文庫]]|isbn = 4-06-158592-4 |volume = 下}}、p.509</ref>。
 
 
 
こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、[[バルカン半島]]沿岸部と[[アナトリア]]を支配し、[[ギリシア人]]・[[正教会]]・[[古代ギリシア|ギリシア文化]]を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
==== 最盛期(9世紀 - 11世紀前半) ====
 
[[ファイル:Byzantine Empire Themes 1025-en.svg|thumb|240px|1025年の東ローマ帝国]]
 
[[ファイル:Basilios_II.jpg|thumb|180px|軍装の[[バシレイオス2世]]<br/>東ローマ帝国の全盛期を現出した]]
 
[[ファイル:Jean_II_Comnene.jpg|right|thumb|180px|ヨハネス2世コムネノス<br/>彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えた]]
 
{{see_also|マケドニア王朝 (東ローマ)|ルーシ・ビザンツ戦争}}
 
 
 
9世紀になると国力を回復させ、[[バシレイオス1世]]が開いた[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]([[867年]] - [[1057年]])の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立は[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして再び顕在化した。バシレイオス1世はローマ教会との関係改善を図って[[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]を罷免した「{{仮リンク|フォティオスの分離|en|Photian schism}}」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂した<ref>これより[[正教会]]が誕生する。なお、最終的に[[東西教会の分裂]]が起きたのは一般に[[1054年]]が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは[[東西教会の分裂]]を参照)。</ref>。
 
 
 
政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域への[[キリスト教]]の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝[[コンスタンティノス7世]]の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「[[マケドニア朝ルネサンス]]」と呼ぶこともある。
 
 
 
10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]]、[[ヨハネス1世ツィミスケス]]、[[バシレイオス2世]]ブルガロクトノスの下では、[[歴史的シリア|北シリア]]・[[南イタリア]]・[[バルカン半島]]全土を征服して、東ローマ帝国は東[[地中海]]の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあった[[コンスタンティノープル]]は人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
 
 
 
==== 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀) ====
 
{{see_also|コムネノス王朝}}
 
 
 
[[1011年]]、西から[[ノルマン人]]の攻撃を受けた([[ノルマン・東ローマ戦争]]、[[1011年]] - [[1185年]])。
 
しかし、[[1025年]]にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。[[1040年]]には{{仮リンク|ブルガリア (テマ制)|en|Bulgaria (theme)}}で[[:en:Peter Delyan]]の反乱が起こり、[[ピレウス]]も呼応して蜂起した。
 
 
 
===== セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年) =====
 
[[1055年]]、[[セルジューク・東ローマ戦争]]が始まり、[[1071年]]には[[マラズギルトの戦い|マラズギルト(マンジケルト)の戦い]]で[[トルコ人]]の[[セルジューク朝]]に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。[[小アジア]]のほぼ全域をトルコ人に奪われ、[[ノルマン人]]の[[ルッジェーロ2世]]には[[南イタリア]]を奪われた。
 
 
 
[[1081年]]に即位した、大貴族[[コムネノス王朝|コムネノス家]]出身の皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]](在位:[[1081年]] - [[1118年]])は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、<!--貴族の大土地所有・徴税権を認める代わりに軍役奉仕を義務付ける'''[[プロノイア]]制度'''を導入することで-->帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていた[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、[[ローマ教皇]]へ援軍を要請し<ref>この要請にこたえて実施された軍事行動が[[第1回十字軍]]である。</ref>、トルコ人からの領土奪回を図った。
 
 
 
アレクシオス1世と、その息子で名君とされる[[ヨハネス2世コムネノス]](在位:[[1118年]] - [[1143年]])はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。
 
 
 
ヨハネス2世の後を継いだ息子[[マヌエル1世コムネノス]](在位:[[1143年]] - [[1180年]])は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して[[神聖ローマ帝国]]との外交駆け引き、[[イタリア遠征]]やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特に[[イタリア遠征]]、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。[[1176年]]には、アナトリア中部の[[ミュリオケファロンの戦い]]でトルコ人の[[ルーム・セルジューク朝]]に惨敗した。犠牲者のほとんどは[[アンティオキア公国]]の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
 
 
 
==== 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭) ====
 
{{see_also|アンゲロス王朝|{{仮リンク|クランコクラティア|en|Frankokratia}}}}
 
 
 
[[1180年]]にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。[[アンドロニコス1世コムネノス]](在位:[[1183年]] - [[1185年]])は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世に替わって帝位についた[[イサキオス2世アンゲロス]](在位:[[1185年]] - [[1195年]])が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化した。また[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]([[1171年]])・[[第二次ブルガリア帝国]]([[1185年]])といったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していった。
 
 
 
===== 第4回十字軍 =====
 
十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、[[1204年]]4月13日、[[第4回十字軍]]はヴェネツィアの助言の元に[[コンスタンティノポリス]]を陥落させて[[ラテン帝国]]を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権<ref>小アジア西部の[[ニカイア帝国]]、小アジア北東部の[[トレビゾンド帝国]]、バルカン半島南西部の[[エピロス専制侯国]]など。</ref>を建てて抵抗することとなった。
 
 
 
=== 後期(1204年 - 1453年) ===
 
==== 帝国の再興(1204年 - 1261年) ====
 
[[ファイル:ShepherdByzempire1265.jpg|thumb|240px|[[1265年]]のバルカン半島及び小アジア]]
 
 
 
{{see_also|ニカイア帝国|パレオロゴス王朝}}
 
第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代の[[テオドロス1世ラスカリス]](在位:[[1205年]] - [[1222年]])、2代目の[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]](在位:[[1222年]] - [[1254年]])の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。
 
 
 
==== モンゴル襲来(1223年 - 1299年) ====
 
周辺国では、[[1223年]]の[[カルカ河畔の戦い]]以来、[[モンゴル帝国]]による東欧侵蝕([[チンギス・カンの西征]]、{{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}})が始まり、[[1242年]]には[[ジョチ・ウルス]]が[[キプチャク草原]]に成立し、[[1243年]]の[[キョセ・ダグの戦い]]で[[ルーム・セルジューク朝]]がモンゴル帝国([[1258年]]に[[イルハン朝]]に分裂)の属国化し、[[1245年]]の{{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}}では[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]が[[ジョチ・ウルス]]の属国化した。
 
 
 
3代目のニカイア皇帝[[テオドロス2世ラスカリス]](在位:[[1254年]] - [[1258年]])の死後、摂政、ついで共同皇帝として[[ミカエル8世パレオロゴス]](在位:[[1261年]] - [[1282年]])が実権を握った。[[1259年]]9月、{{仮リンク|ペラゴニアの戦い|en|Battle of Pelagonia}}で、[[アカイア公国]]・[[エピロス専制侯国]]・[[シチリア王国]]の連合国軍を[[ニカイア帝国]](東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年には[[コンスタンティノポリス]]を奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、[[パレオロゴス王朝]]([[1261年]] - [[1453年]])を開いた。
 
 
 
[[フレグの西征]]で[[1258年]]には[[イルハン朝]]が[[イラン高原]]に成立していた。さらに[[1260年]]にモンケが没して[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]が勃発し、[[1262年]]11月には{{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}}でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。
 
 
 
[[1265年]]に、[[ノガイ|ノガイ・ハーン]]率いる[[ジョチ・ウルス]]軍が[[トラキア]]に侵攻し、[[ミカエル8世パレオロゴス]]の軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった。<ref>ミカエル8世の娘({{lang|en|Euphrosyne}})がノガイ・ハーンの妃になった。</ref>その後も[[1271年]]、[[1274年]]、[[1282年]]、[[1285年]]にモンゴル軍は[[ヴォルガ・ブルガール]]に侵攻していた。
 
 
 
[[1277年]]に[[第二次ブルガリア帝国]]で[[イヴァイロ (ブルガリア皇帝)|イヴァイロ]]の蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、[[1285年]]に[[第二次ブルガリア帝国]]はジョチ・ウルスに従属した。この間の[[1282年]]に、[[テッサリア]]で反乱が起こり、ノガイ・ハーンは[[トラキア]]へミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]は、援軍をブルガリアと同盟する[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]攻撃に用いた。[[1286年]]に、セルビア王国の[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]が講和を申し入れた。
 
 
 
[[アンドロニコス2世パレオロゴス]](在位:[[1282年]] - [[1328年]])の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済も[[ヴェネツィア]]・[[ジェノヴァ]]といったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]に攻撃された。
 
 
 
===== オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年) =====
 
{{main|オスマン・東ローマ戦争}}
 
 
 
[[1352年]]に東から[[オスマン帝国]]の[[オルハン]]に攻撃されて[[ブルサ]]を奪取され({{仮リンク|ビザンチン内戦 (1352年 - 1357年)|en|Byzantine civil war of 1352–57}})、[[1352年]]には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝[[ヨハネス5世パレオロゴス]](在位:[[1341年]] - [[1391年]])と[[ヨハネス6世カンタクゼノス]](在位:1347年 - 1354年)は、[[1354年]]の{{仮リンク|ガリポリ陥落|en|Fall of Gallipoli}}でオスマン帝国[[スルタン]]の[[オルハン]]に臣従し、帝国は[[オスマン帝国]]の属国となってしまった。
 
 
 
[[1380年]]の[[クリコヴォの戦い]]で急速に国力を増大した[[モスクワ大公国]]が[[ジョチ・ウルス]]を破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。
 
 
 
14世紀末の皇帝[[マヌエル2世パレオロゴス]](在位:[[1391年]] - [[1425年]])は、窮状を打開しようと[[フランス]]や[[イングランド]]まで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子[[ヨハネス8世パレオロゴス]](在位:[[1425年]] - [[1448年]])と[[コンスタンティノス11世ドラガセス]](在位:[[1449年]] - [[1453年]])は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。
 
 
 
この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、[[ルネサンス]]に多大な影響を与えた。
 
 
 
==== 滅亡(1453年) ====
 
[[ファイル:Fall-of-constantinople-22.jpg|thumb|[[コンスタンティノープルの陥落]]]]
 
{{see_also|コンスタンティノープルの陥落|トルコクラティア}}
 
[[1453年]]4月、[[オスマン帝国]]第7代[[スルタン]]の[[メフメト2世]]率いる10万の大軍勢が[[コンスタンティノポリス]]を包囲した。[[ハンガリー人]]のウルバン{{enlink|Orban}}が開発したオスマン帝国の新兵器「[[ウルバン砲]]」による砲撃に曝され、圧倒的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝[[コンスタンティノス11世]]は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきた[[ローマ帝国]]の系統は途絶えることになる。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって[[中世#ヨーロッパ|中世]]の終わり・[[近世]]の始まりとする学説が多い。同年には[[百年戦争]]が終結し、この戦いを通じて[[イギリス]]([[イングランド王国]])と[[フランス]]([[フランス王国]])は王権伸長による中央集権化および[[絶対君主制]]への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。
 
 
 
[[1460年]]には[[ペロポネソス半島]]の自治領土[[モレアス専制公領]]が、[[1461年]]には黒海沿岸の[[トレビゾンド帝国]]がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。
 
 
 
なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世や[[スレイマン1世]]などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また[[1467年]]に[[イヴァン3世]]がコンスタンティノス11世の姪[[ゾイ・パレオロギナ]]を妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン4世]]などや歴代の[[ロシア]]([[ロシア・ツァーリ国]]、[[ロシア帝国]])指導者はローマ帝国の継承性を主張している<ref>もっともロシアでは[[キプチャク・ハン国]]のハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「[[ツァーリ]]」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。</ref>。
 
 
 
== 政治 ==
 
[[ファイル:Byzantine_eagle.JPG|thumb|250px|東ローマ帝国末期の国章「[[双頭の鷲]]」<br/>画像は[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教庁]]の正門に今も掲げられているもの]]
 
 
 
=== イデオロギー ===
 
東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「[[キリスト]]による[[最後の審判]]まで続く、地上最後の帝国」だと考えられていた。(東ローマ国民が本気にしていたかは疑問だが建前で)自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、[[世界創造紀元]]の使用にも現れる。
 
 
 
このイデオロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる。
 
 
 
=== 政治体制 ===
 
東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の[[皇帝#ローマ帝国|皇帝]](ドミヌス)による専制君主制([[ドミナートゥス]])を受け継いだ。東ローマの皇帝([[バシレウス]]/ヴァシレフス)は「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍」によって推戴された「地上における神の代理人」「諸王の王」だとされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。
 
 
 
しかし、皇帝の地位自体は不安定<ref>帝位継承法のようなものはなく、「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。</ref>で、たびたび[[クーデター]]が起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような(6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]や9世紀の[[バシレイオス1世]]など)、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、[[アレクシオス1世コムネノス]]以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。
 
 
 
このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、[[宦官]]の役割が非常に大きく、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあった[[フォティオス]]のように高級官僚が直接[[総主教]]へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。
 
 
 
=== 行政制度 ===
 
==== 属州制からテマ制へ ====
 
{{main|テマ制}}
 
地方では、初期は古代ローマ後期の[[属州]]制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握る'''テマ制'''(軍管区制)と呼ばれる体制になった。
 
 
 
テマ制は、自弁で武装を用意できる[[ストラディオット|ストラティオティス]]と呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。
 
 
 
テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来の[[コローヌス]]に基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、[[スラヴ人]]や[[ペルシア人]]の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。
 
 
 
==== テマ制の崩壊 ====
 
しかし安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れだした。10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できるが、このような傾向の直接の原因は[[820年]]もしくは[[821年]]に起こったソマスの乱であると考えられている。このソマスの乱によって一時はコンスタンティノープルも占領されたため、高度な官僚制的行政機構が麻痺し、治安が悪化した。このため中小の土地所有者がわずかに残存していた地方の大土地所有者やテマ長官などの庇護を求め、彼らのもとに土地が集中することとなった。
 
 
 
ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、[[レオーン6世]]の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。[[ロマノス1世レカペノス]]の時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。
 
 
 
同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期の[[バシレイオス2世]]は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。
 
 
 
この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの[[傭兵]]に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは[[文官]]職に変化し急速に地位が低下した。
 
 
 
==== プロノイア制 ====
 
{{main|プロノイア}}
 
[[コムネノス王朝|コムネノス朝]]の時代には'''プロノイア制'''が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧の[[レーエン]]制に擬され、[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]などが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。
 
 
 
ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世]]はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されることがあったという証明であるともいえる。
 
 
 
軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。
 
 
 
プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。またコムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。
 
 
 
自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配は[[専制公|デスポテース]]という地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。
 
 
 
== 住民 ==
 
東ローマ帝国の住民の中心は[[ギリシア人]]であり、7世紀以降は[[ギリシア語]]が[[公用語]]であったが、12世紀までの東ローマ帝国は[[セルビア人]]・[[ブルガリア人]]といったスラヴ諸民族や[[アルメニア人]]などを内包する多民族国家であった。ギリシア人は国民全体の3割ほどだったとする研究者もいる<ref>逆に近代のギリシアでは、その[[民族主義]]的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。[[メガリ・イデア]]も参照のこと。</ref>。帝国内の自由民は、[[カラカラ]]帝の「[[アントニヌス勅令]]」以降[[ローマ市民権]]を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「[[ローマ人]] ({{lang|grk|Ῥωμαίοι, Rhōmaioi}})」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は[[古代末期]]には既に形骸化していた<ref>中期以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、[[コンスタンティノポリス]]の市民は、7世紀の[[ヘラクレイオス]]帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。</ref>。
 
 
 
帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人からの出身者もいたが、中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からは[[コンスタンディヌーポリ|コンスタンティノポリス総主教]]や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる<ref>ただし中世の[[バグラトゥニ朝アルメニア王国]]自体は、東ローマと敵対していたことが多かった。また帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた</ref>。7世紀の[[ヘラクレイオス王朝]]や、9〜11世紀の黄金時代を現出した[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]はアルメニア系の王朝である<ref>これはかつての[[古代ローマ帝国]]でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。</ref>。
 
 
 
一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「[[蛮族]]」(エトネーあるいは[[バルバロイ]])と見なしており、10世紀の皇帝[[コンスタンティノス7世]]が息子の[[ロマノス2世]]のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。<!--「夷狄の民」は脚注に示された書籍の表記なので、みだりに変えるべきではない--><ref>渡辺金一『中世ローマ帝国』(岩波新書)第一章</ref>。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{main|ビザンティン文化}}
 
{{see_also|ビザンティン美術|ビザンティン建築|ビザンティン聖歌}}
 
東ローマ帝国は、[[古代ギリシア]]・[[ヘレニズム]]・[[古代ローマ]]の文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化('''ビザンティン文化''')を発展させた。
 
 
 
== 宗教 ==
 
国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家{{仮リンク|ヨアニス・ゾナラス|en|Joannes Zonaras}}によると、伝統的な[[ギリシャ神話]]の神々に対する信仰は当時まだ行われており<ref>[http://www.byzantinepagan.org Byzantine Paganism]</ref>、15世紀には多神教の復活を説いた[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]]が現れた。
 
=== 正教会 ===
 
{{main|正教会}}
 
帝国の国教であった[[正教会]]は[[セルビア]]・[[ブルガリア]]・[[ロシア]]といった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。
 
 
 
=== 「皇帝教皇主義」という誤解 ===
 
{{main|皇帝教皇主義|ビザンティン・ハーモニー}}
 
東ローマ帝国の政教の関係を指して「'''皇帝教皇主義'''(チェザロパピズモ)」と呼ぶことがあるが、これには大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]等の任免権を有していた。
 
 
 
しかし、[[正教会]]において教義の最終決定権はあくまでも[[教会会議]]にある。[[聖像破壊運動]]を終結させた[[第2ニカイア公会議|第七全地公会]]も、主催は[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]によるものの、決定したのはあくまで[[公会議]]である。[[ローマ教皇]]のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。
 
 
 
実際、9世紀の皇帝[[バシレイオス1世]]が発布した法律書『[[エパナゴゲー]]』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。
 
 
 
=== 宗教論争 ===
 
東ローマ帝国では[[単性論]]・[[聖像破壊運動]]・[[静寂主義]]論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったため[[ギリシア人]]の一般民衆でも『[[聖書]]』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典が[[ギリシア語]]([[コイネー]])であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆が[[ラテン語]]の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができた[[カトリック教会]]との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。
 
 
 
== 法律 ==
 
[[ユスティニアヌス1世]]によって古代ローマ時代の法律の集大成である『[[ローマ法大全]]』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝[[レオーン3世]]による『[[エクロゲー法典]]』発布、9世紀後半の[[バシレイオス1世]]による『ローマ法大全』のギリシア語による手引書『[[プロキロン]]』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子[[レオーン6世]]による『ローマ法大全』のギリシア語改訂版である『[[バシリカ法典]]{{enlink|Basilika}}』(帝国法)編纂である。
 
 
 
この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に[[民法]]にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、[[ブルガリア]]・[[セルビア]]・[[ロシア]]などの[[正教会]]諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』の[[スラヴ語]]訳を用いた。
 
 
 
== 経済 ==
 
[[ファイル:Solidus-Leo III and Constantine V-sb1504.jpg|thumb|[[レオーン3世]]と[[コンスタンティノス5世]]を描いたノミスマ]]
 
東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の[[貨幣経済]]制度が機能し続けた。帝国発行の[[ノミスマ金貨]]は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した(ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある)。特に首都[[コンスタンティノポリス]]では、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された[[絹]]織物や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「'''世界の富の三分の二が集まるところ'''」と言われるほど繁栄した。
 
 
 
しかし、12世紀以降は[[北イタリア]]諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。
 
 
 
主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった<!--(これが12世紀以降、西欧やイスラム勢力のよる東西からの圧迫に東ローマ帝国が耐え切れずに崩壊してしまった一つの原因ではないか、ともいわれている)--><ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社〈講談社現代新書〉、1990年、204頁)、ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年、90頁)</ref>。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。
 
 
 
== 軍事 ==
 
[[ファイル:Byzantine fresca from St-Lucas.jpg|thumb|180px|12-13世紀の[[フレスコ]]画に描かれた東ローマ兵士]]
 
=== 初期の軍制 ===
 
初期の東ローマ帝国は、2世紀末に[[ディオクレティアヌス]]帝が採用した後期[[ローマ帝国]]の軍事制度を継承した。軍隊は、[[リミタネイ]](辺境部隊)と[[コミタテンセス]](野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州を担任する[[ドゥクス]](軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。コミタテンセスははるかに広い地域を担当する[[マギステル・ミリトゥム]](方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、帝国軍の主力として戦地に出撃した<ref>中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10頁。</ref>。野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。
 
 
 
歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、騎兵の重要性が拡大していた。例えば478年には、東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦に於いて10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。
 
 
 
騎兵部隊は細分化され、ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。
 
 
 
野戦部隊には"カタフラクタリイ"や"クリバナリイ"等の重装騎兵も編成されていた。弓騎兵 ("エクイテス・サジタリィ")も含む軽騎兵("スクタリィ"、"プロモティ")は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイで多く用いられた。"コミタテンセス"の歩兵はレギオン、アウクシリア、ヌメリ等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、軽歩兵隊の援護を受けていた。
 
 
 
ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシア帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。タグマは300から400人で編成され、2つ以上のタグマでモイラ、2つ以上のモイラでメロスが編成された。
 
 
 
ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。
 
 
 
# 帝都の護衛隊
 
# コミタテンセス(ユスティニアヌス帝時代にはストラティオタイと呼ばれていた)。ローマ軍の野戦部隊である。ストラティオタイは主にトラキア、イリュリクムとイサウリアから兵は集められた。
 
# リミタネイ(ユスティニアヌス帝時代にはアクリタイと呼ばれていた)。国境の要塞に駐留し、守備を担っていた。
 
# フォエデラティ。蛮族の志願兵から構成され、ローマ人士官の元で騎兵として編成された。
 
# 同盟軍。フン族・ヘルリ族・ゴート族やその他の蛮族から供給され、彼ら自身の族長が指揮していた。土地や報償金を見返りとして戦った。
 
# ブケラリィ。将軍や貴族など高位の人間の私兵であり、野戦軍の騎兵戦力として重要な地位を占めていた。その規模は雇い主の裕福さに左右されていた。兵士はヒュパスピスタイ(盾持ち)と呼称され、士官はドリュフォロイ(槍持ち)と呼ばれた。ドリュフォロイは雇い主と皇帝に厳粛な忠誠を誓っており、ベリサリウス将軍麾下のドリュフォロイなどは有名である。
 
 
 
=== テマとタグマ ===
 
7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった<ref>中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10-12頁。</ref>。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した<ref>井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制」、2-3頁。</ref>。
 
 
 
8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としての[[テマ制]]が作られた<ref>中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、9頁。</ref>。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。
 
 
 
また8世紀後半には[[コンスタンティノス5世]]がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍([[タグマ]]と呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、43頁。</ref>、地方国境に駐屯したタグマも作られた<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、40-41頁。</ref>も作られた。
 
 
 
10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、39-40頁。</ref>。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、41頁。</ref>。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、44-45頁。</ref>。
 
 
 
=== プロノイア制の時代 ===
 
1081年に有力貴族から出て即位した[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス1世]]は、有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。貴族の私兵だけでなく、皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、外国人傭兵も依然として大きな比重を保った<ref>小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、45-47頁。</ref>。
 
 
 
=== 軍隊の規模 ===
 
軍隊の規模は論争となっている。Warren Treadgold<ref>Treadgold(1998),p.67"</ref>による算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は[[東ローマ帝国の軍隊]]([[:en:Byzantine army|英語版]]を参照)。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin: 1em auto 1em auto"
 
|-
 
! 年 !! 773 !! 809 !! 840 !! 899
 
|-
 
! テマ軍合計
 
| 62,000 || 68,000 || 96,000|| 96,000
 
|-
 
! タグマ合計
 
|  18,000 || 22,000 || 24,000|| 28,000
 
|-
 
! 合計
 
|  80,000 || 91,000 || 120,000|| 124,000
 
|}
 
 
 
== 用語の表記方法について ==
 
{{main2|ウィキペディア内での表記|プロジェクト:東ローマ帝国史の用語表記}}
 
日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に[[東海大学]]教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。
 
 
 
このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。
 
 
 
== 脚註 ==
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 文献 ==
 
=== 参考文献 ===
 
<!--最低限特定の見解を述べた箇所には脚注が必要です-->
 
* [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]] 『ビザンツ帝国』 [[岩波書店]]〈世界歴史叢書〉、1982年
 
* 井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制 比較史研究のために」、『古代文化』、41巻2号、1989年。
 
* 井上浩一 『生き残った帝国 ビザンティン』 [[講談社現代新書]]、1990年/[[講談社学術文庫]]、2008年。ISBN 978-4-06-159866-9
 
* 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』 [[筑摩書房]]、1996年/[[白水社]]〈[[白水Uブックス]]〉、2009年。ISBN 978-4-560-72109-4
 
* 井上浩一・[[栗生澤猛夫]]  『ビザンツとスラヴ 〈世界の歴史11〉』 中央公論社、1998年/[[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉、2009年。ISBN 978-4-12-205157-7
 
* [[大月康弘]] 『帝国と慈善 ビザンツ』 [[創文社]]、2005年。ISBN 978-4-423-46058-0
 
* 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化 マケドニア朝からコムネノス朝へ」、『古代文化』 41巻2号、1989年。
 
* [[ゲオルク・オストロゴルスキー]] 『ビザンツ帝国史』 和田廣訳、恒文社、2001年
 
* ミシェル・カプラン 『黄金のビザンティン帝国 文明の十字路の1100年』 井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、[[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]]〉、1993年。ISBN 978-4-422-21078-0
 
* [[エドワード・ギボン]] 『[[ローマ帝国衰亡史]]』、[[中野好夫]]・[[朱牟田夏雄]]・[[中野好之]]訳、筑摩書房(全11巻)、1976〜93年/[[ちくま学芸文庫]](新訂版・全10巻)、1995〜96年。(東ローマ帝国期は中盤以降)
 
* [[桜井万里子]]編 『ギリシア史』 [[山川出版社]]〈新版世界各国史〉、2005年。ISBN 978-4-634-41470-9。東ローマ期を扱った第4章の執筆者は井上浩一。
 
* [[鈴木董]] 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社現代新書、1992年、ISBN 978-4-06-149097-0
 
* [[尚樹啓太郎]] 『コンスタンティノープルを歩く』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1988年、ISBN 978-4-486-01020-3
 
* 尚樹啓太郎 『ビザンツ東方の旅』 東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01251-1
 
* 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年
 
* 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』 東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉、2005年、ISBN 978-4-486-01667-0
 
* 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、『古代文化』 41巻2号、1989年、2頁。
 
* [[根津由喜夫]] 『ビザンツ 幻影の世界帝国』 [[講談社]]選書メチエ、1999年
 
* 根津由喜夫 『ビザンツの国家と社会』 山川出版社〈世界史リブレット〉、2008年、ISBN 978-4-634-34942-1<!--徴税機構の記述はこれを参考にした可能性あり-->
 
* ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』(''The Lost World of Byzantium'') 井上浩一訳、白水社、2018年、ISBN 978-4-560-09590-4
 
* [[益田朋幸]] 『ビザンティン』 山川出版社〈世界歴史の旅〉、2004年、ISBN 978-4-634-63310-0
 
* ピエール・マラヴァル 『皇帝ユスティニアヌス』 大月康弘訳、[[白水社]]〈文庫クセジュ〉、2005年、ISBN 978-4-560-50883-1
 
* ポール・ルメルル 『ビザンツ帝国史』 西村六郎訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2003年、ISBN 978-4-560-05870-1
 
* [[渡辺金一]] 『中世ローマ帝国 世界史を見直す』 岩波書店〈[[岩波新書]]〉、1980年
 
* <cite id=refDavis1990>{{cite book | last = Davis, Leo Donald | title = The first seven ecumenical councils (325–787): their history and theology|edition= 1990| publisher = Liturgical Press| isbn= 0-8146-5616-1}} <small>- Total pages: 342 </small></cite>
 
 
 
=== 他の関連文献 ===
 
* 井上浩一 『ビザンツ 文明の継承と変容』 [[京都大学学術出版会]]〈学術選書〉、2009年。ISBN 978-4-87698-843-3
 
* ベルナール・フリューザン 『ビザンツ文明 キリスト教ローマ帝国の伝統と変容』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2009年。ISBN 978-4-560-50937-1
 
* [[ジュディス・ヘリン]] 『ビザンツ 驚くべき中世帝国』 井上浩一監訳/根津由喜夫ほか3名訳、白水社、2010年。ISBN 978-4-12-101684-3
 
* 井上浩一・根津由喜夫編 『ビザンツ 交流と共生の千年帝国』 昭和堂、2013年。ISBN 978-4-8122-1320-9
 
* 浅野和生 『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2003年。ISBN 978-4-486-01431-7
 
* 根津由喜夫 『図説 ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』 [[河出書房新社]]〈ふくろうの本〉、2011年。ISBN 978-4-309-76159-6
 
* 橋口倫介 『中世のコンスタンティノープル』 [[講談社]]〈講談社学術文庫〉、1995年
 
* エレーヌ=アルヴェレール 『ビザンツ帝国の政治的イデオロギー』 尚樹啓太郎訳、東海大学出版会、1989年
 
* J・M・ロバーツ 『ビザンツ帝国とイスラーム文明』 後藤明監修/月森左知訳、創元社〈図説世界の歴史〉、2003年
 
* ハンス・ゲオルク・ベック 『ビザンツ世界の思考構造 文学創造の根底にあるもの』 渡辺金一編訳、岩波書店、1978年
 
* [[森安達也]] 『ビザンツとロシア・東欧』 講談社〈世界の歴史9 ビジュアル版〉、1985年
 
* 米田治泰 『ビザンツ帝国』 [[角川書店]]、1977年
 
* 和田廣 『ビザンツ帝国 東ローマ一千年の歴史』 [[教育社歴史新書]]、1981年
 
* 和田廣 『史料が語るビザンツ世界』 山川出版社、2006年
 
* 渡辺金一 『コンスタンティノープル千年 革命劇場』 岩波新書、1985年
 
* Treadgold, Warren T. (1997). A History of the Byzantine State and Society. Stanford University Press. ISBN 0-8047-2630-2.
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{関連項目過剰|date=2017年10月}}
 
{{Commons&cat|Byzantine Empire|Byzantine Empire}}
 
 
 
=== 帝国史 ===
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ローマ帝国]]
 
* [[西ローマ帝国]]
 
* [[ローマ皇帝一覧]]
 
* [[東ローマ帝国の皇帝一覧]]
 
* [[ニカイア帝国]]
 
* [[トレビゾンド帝国]]
 
* [[ラテン帝国]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[エピロス専制侯国]]
 
* [[モレアス専制公領]]
 
* [[ニカの乱]]
 
* [[コンスタンティノープルの陥落]]
 
* [[十字軍]]
 
* [[第4回十字軍]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
==== 王朝 ====
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[テオドシウス王朝]]
 
* [[レオ朝|レオ王朝]]
 
* [[ユスティニアヌス王朝]]
 
* [[ヘラクレイオス王朝]]
 
* [[イサウリア王朝]](シリア王朝)
 
* [[アモリア朝|アモリア王朝]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]
 
* [[ドゥーカス王朝]]
 
* [[コムネノス王朝]]
 
* [[アンゲロス王朝]]
 
* [[パレオロゴス王朝]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
==== 戦争 ====
 
* [[ルーシ・ビザンツ戦争]]
 
* [[ヴェネツィア・東ローマ戦争]] ([[ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1118年)|1118年]]、[[ヴェネツィア・東ローマ戦争 (1172年)|1172年]] - [[:en:Vitale II Michele#Relations with Byzantium deteriorate]])
 
 
 
==== 軍事 ====
 
* [[ギリシア火薬|ギリシャの火]]
 
* [[デュロモイ]]([[戦艦]])
 
* [[タグマ]](中央軍)
 
* [[カタフラクト]]([[重騎兵]])
 
 
 
==== 法制度 ====
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ローマ法大全]]
 
* [[テマ]]
 
* [[プロノイア]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|コンスタンティノポリス元老院]]
 
* [[バシレウス]]
 
* [[専制公]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
=== 地域 ===
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[地中海世界]]
 
* [[南イタリア]]
 
* [[マグナ・グラエキア]]
 
* [[シチリア島]]
 
* [[バルカン半島]]
 
* [[ギリシャ]]
 
* [[ペロポネソス半島]]
 
* [[イピロス|エピロス]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[マケドニア共和国]]
 
* [[マケドニア]]
 
* [[セルビア]]
 
* [[ブルガリア]]
 
* [[トラキア]]
 
* [[キプロス]]
 
* [[キプロス島]]
 
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* [[トルコ]]
 
* [[アナトリア半島]]
 
* [[イサウリア]]
 
* [[ポントス王国]]
 
* [[クリミア半島]]
 
* [[ボスポロス王国]]
 
* [[コーカサス]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
=== 都市 ===
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[コンスタンティノポリス]]
 
* [[イスタンブール]]
 
* [[テッサロニキ]]
 
* [[エディルネ|アドリアノープル]](ハドリアノポリス)
 
* [[アンティオキア]]
 
* [[ニカイア]]
 
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* [[ミストラス]]
 
* [[ラヴェンナ]]
 
* [[トラブゾン|トレビゾンド]]
 
* [[ローマ]]
 
* [[アレクサンドリア]]
 
* [[ケルソネソス|ケルソン]]
 
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=== 正教会・キリスト教 ===
 
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* [[正教会]]
 
* [[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教庁]]
 
* [[聖像破壊運動]]
 
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* [[公会議]]
 
* [[教会会議]]
 
* [[大シスマ]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[初期キリスト教]]
 
* [[古代末期のキリスト教]]
 
* [[キリスト教の歴史]]
 
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=== 文化 ===
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ビザンティン文化]]
 
* [[マケドニア朝ルネサンス]]
 
* [[パレオロゴス朝ルネサンス]]
 
* [[ビザンティン美術]]
 
* [[モザイク]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ビザンティン建築]]
 
* [[アヤソフィア]](ハギア・ソフィア大聖堂)
 
* [[ギリシャ語]]
 
* [[ギリシャ文学]]
 
* [[ビザンティン小説]]
 
* [[戦車競走]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ビザンツの服飾]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
=== 民族 ===
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ギリシャ人]]
 
* [[アルメニア人]]
 
* [[スラヴ人]]
 
** [[ブルガリア人]]
 
** [[セルビア人]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[アルーマニア人]](ヴラフ人)
 
* {{仮リンク|イサウリア人|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}
 
* [[トルコ人]]
 
* [[クルド人]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
=== 周辺諸勢力 ===
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ブルガリア帝国]]
 
* [[キエフ大公国]]
 
* [[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]
 
* [[ハンガリー王国]]
 
* [[アルメニア王国]]
 
* [[アンティオキア公国]]
 
* [[ヴェネツィア共和国]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[ジェノヴァ共和国]]
 
* [[ヴァンダル王国]]
 
* [[東ゴート王国]]
 
* [[西ゴート王国]]
 
* [[ランゴバルト王国]]
 
* [[シチリア王国]]
 
* [[フランク王国]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[神聖ローマ帝国]]
 
* [[サーサーン朝]]
 
* [[ハザール]]
 
* [[イスラム帝国]]
 
* [[ルーム・セルジューク朝]]
 
* [[オスマン帝国]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://byzantine.world.coocan.jp/ 日本ビザンツ学会]
 
* [http://www.ritsumei.ac.jp/~ohayashi/ Ohayashi's Page](小林功・[[立命館大学]]文学部教授のサイト。ビザンツ帝国に関する講義録、[[年代記]]の翻訳など)
 
*[http://www.aiebnet.gr/ 国際ビザンティン学会]{{fr icon}}{{en icon}}{{el icon}}
 
* [http://www.fordham.edu/halsall/byzantium/ Byzantine study on the Internet](アメリカ・[[フォーダム大学]]のサイト){{en icon}}
 
* [https://web.archive.org/web/20080410123427/http://www.doaks.org/Byzantine.html Byzantine Studies] - [[ダンバートン・オークス]]・ビザンティン研究所のサイト){{en icon}}
 
* [http://www.ocbr.ox.ac.uk/Home.html The Oxford Centre for Byzantine Research] - [[オックスフォード大学]]{{en icon}}
 
*[http://www.byzneo.univie.ac.at/institut/ Institut für Byzantinistik und Neogräzistik] - [[ウィーン大学]]{{de icon}}
 
{{ローマ帝国}}
 
{{Byzantine Empire topics}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:ひかしろまていこく}}
 
{{DEFAULTSORT:ひかしろまていこく}}

2018/12/31/ (月) 13:10時点における最新版

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国ビザンティン帝国

東ローマ帝国とも呼ばれる。コンスタンチノープル (旧ギリシア植民市ビザンチオン ) を首都とし (330遷都) ,1453年まで続いた中世ローマ帝国の通称。通常東西ローマの分割 (395) からフォーカス帝 (在位 602~610) を初期,ヘラクリウス帝 (在位 610~640) からアレクシウス5世 (在位 1204) までを中期,ニカイアの亡命政権 (04~61) を含めてオスマン・トルコのメフメット2世に滅ぼされる (1453) までを後期とする。ギリシア語を公用語とし,ギリシア正教を国教に,ヘレニズム文化を継承,発展させ,ローマの政治体制のうえに独自の行政機構を発達させた。また東西世界の接点という地理上の有利さを発揮して海外貿易による巨額の富,複雑な税制度から多大な税収入を背景に,強力な軍事力,たぐいまれな外交手腕を駆使して,千有余年東地中海世界の大国として君臨した。その宗教的・文化的影響は今日の東ヨーロッパ世界に多くみられる。

(1) 初期 テオドシウス帝死後の東西ローマの分割 (395) および西ローマ帝国の滅亡 (476) 後,ローマ帝国後継者としての意義が増大した。ユスチニアヌス1世のローマ帝国再建の努力は北アフリカ,イタリア,スペインの一部の奪回に成功したが,その死後早くも崩壊し,かろうじてカルタゴとラベンナに総督領をおくにとどまった。バルカンのドナウ戦線はスラブ族,アバール族により破られ,ギリシア民族のスラブ化が始った。またササン朝ペルシアとの抗争も決定的な結末をみないまま次代に入った。

(2) 中期 ヘラクリウス朝,マケドニア朝,ドゥカス朝,コムネノス朝,アンゲルス朝を数え,テマ制度の導入とその拡張,整備,イスラムとの抗争の激化 (672~678,717~718) とその鎮静化,第1ブルガリア帝国との共存,聖像破壊運動 (726~843) の終結,スラブ族への活発な伝道活動などを背景に最盛期マケドニア朝を迎えた。その後属領における封建化の進展 (プロノイア制度の導入) と相次ぐ内乱,外敵 (ペチェネグ,クマノイ,ウツェン,ルース族など) の進攻,イタリア商業都市の経済的進出などにより国は徐々に弱体化していった。バルカンのセルビア,第2ブルガリア,ハンガリーの諸王国が独立し,領土縮小を余儀なくされ,帝国は第4次十字軍により 1204年首都を占領された。

(3) 後期 亡命政権であるニカイア帝国から首都奪回を果して開かれたパレオロゴス朝は衰退期の王朝で,セルビア王国とオスマン・トルコにはさまれ,1370年トルコに対して進貢義務を負うにいたった。文化的にはパレオロゴス・ルネサンスと呼ばれる文化運動を起しながらも,政治的独立を失い,トルコという大海の中の孤島のままその終末を迎えた。



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