「村山槐多」の版間の差分

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'''村山 槐多'''(むらやま かいた、[[1896年]][[9月15日]] - [[1919年]][[2月20日]])は、[[日本]]の[[洋画家]]、[[詩人]]。
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'''村山 槐多'''(むらやま かいた、[[1896年]][[9月15日]] - [[1919年]][[2月20日]]
  
==生涯==
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画家,詩人。幼時を京都で過し,京都府立第一中学校卒業。従兄の[[山本鼎]]の感化を受けて画家を志し,1913年上京,小杉放庵の家に寄寓して日本美術院研究所に学んだ。中学時代からボードレールらに親しみ,また前衛的な水彩画などを描いたという。 14年二科展,15年日本美術院展にそれぞれ初入選した。 17年には代表作の一つ『湖水と女』で美術院院友に推され,19年に『松と榎』などで美術院賞を受けるなど将来を期待されたが,画業なかばで夭折した。死後,詩や散文を集めた遺稿集『槐多の歌へる』 (1920) ,『槐多の歌へる其後』 (21) が出版され,豊穣なイメージを展開する自在なうたいくちが高村光太郎らに激賞された。その生涯は退廃,放浪の生活であったが,作品は青春の哀愁をフォービスムを基調とした陰影の濃い画面に表現した。主要作品はほかに『バラと少女』
槐多は、[[愛知県]][[額田郡]]岡崎町(現:[[岡崎市]])に父・村山谷助と母・たまの長男として生まれた。母のたまは結婚前に[[森鴎外]]家で女中奉公をしており、その縁で鴎外が名付け親となった。10代から[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]や[[アルチュール・ランボー|ランボー]]に読み耽り、詩作もよくした。しかしその早熟さ、デカダン的な生活、貧しさや失恋による心の痛みなどにより[[結核]]性[[肺炎]]を患っていた。また、同じ年に20代前半で夭折した点で、同じ洋画家の[[関根正二]]とよく比較されるが、2人の作風はまったく異なっている。画家自身のほとばしる情念や不安を反映した槐多の人物像は、器用ではないが一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。画家の[[山本鼎]]は従兄、また随筆家の[[黒柳朝]]も槐多のはとこにあたる。
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(17,東京国立近代美術館) があり,『村山槐多詩集』 (51) もある。
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1919年2月、槐多はそのころ猛威を振るっていた[[スペイン風邪]]にかかり寝込んだ。2月19日夜9時ごろ、槐多はみぞれまじりの嵐のなかを外に飛び出し、午前2時ごろ畑のなかに倒れているのを発見された。取り押さえられた槐多は失恋した女性の名などしきりにうわごとを言っていたが、午前2時30分に僅か22歳で息を引き取った。
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== 略歴 ==
 
* 1896年 - 小学校教師村山谷助、たまの長男として愛知県額田郡岡崎町で生まれる<ref>従来の出生地の定説は、槐多の父が教員を務めていたという[[神奈川県]][[横浜市]]であったが、岡崎市美術博物館の学芸員が、親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届け資料を確認したことを公表した([[2011年]][[12月2日]]付 [[中日新聞]]「画家村山槐多は岡崎出身」閲覧)。</ref>。岡崎は母の出身地で<ref>[http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/exhibition/pastexhibition/2011/p014215.html 過去の展覧会 村山槐多の全貌展] - 岡崎市美術博物館</ref>、谷助とたまが婚姻届を出したのは槐多が生まれる2週間前である<ref>前記中日新聞記事による</ref>。
 
* 1897年 - 愛知県額田郡岡崎町から[[高知県]][[土佐郡]][[小高坂村]](現在の[[高知市]])に移り住む。
 
* 1900年 - [[京都市]][[上京区]]寺町通り荒神口上ル宮垣町58番地に住む。
 
* 1903年 - 銅駝保育所(現・京都市立銅駝幼稚園)卒業、京都市立春日小学校入学。
 
* 1909年 - [[京都師範学校|京都府師範学校]]附属小学校(現在の[[京都教育大学附属京都小中学校]])卒業、京都府立第一中学校(現在の[[京都府立洛北高等学校]])に入学。
 
* 1914年 - 京都府立第一中学校を卒業し上京、[[日本美術院]]の研究生となる 第1回二科展に「庭園の少女」が入賞。
 
* 1915年 - 第2回日本美術院展覧会で「カンナと少女」が院賞受賞。
 
* 1917年 - 第4回日本美術院展覧会で「乞食と女」が院賞受賞。
 
* 1918年 - 第4回日本美術院試作展覧会に「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」他2点を出品し、奨励賞受賞。
 
* 1919年2月1日 - 第5回日本美術院試作展覧会に「松と榎」「雪の次の日」「松の郡」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」「代々木の一部」を出品し、美術院賞乙賞受賞。
 
* 1919年2月20日 - [[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]の「鐘下山房」において<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)325頁</ref>、流行性感冒(スペイン風邪)による結核性肺炎で急死。享年22。戒名は「清光院浄譽槐多居士」。
 
* 1920年 - 『槐多の歌へる』(アルス社)が出版された。
 
* 1921年 - 『槐多の歌へる其の後』と『槐多画集』(アルス社)が出版された。
 
 
 
== 作品 ==
 
=== 絵画 ===
 
槐多は、若年で病没した画家としては比較的多くの作品を残している。全体として決して技巧的ではないものの、原色を多用した、けばけばしいとさえいえる筆致を特徴としていた。『庭園の少女』『バラと少女』『湖水と女』などの女性像や、『朱の風景』『信州風景』『松の群』などの風景をモチーフとして好んだ。その他、托鉢に放尿する裸の僧侶を赤を主調として描いた『尿する裸僧』は見る者に異様な情熱を感じさせる、もっとも槐多らしい作品として知られている。
 
 
 
とはいえ、槐多は実質的に画家として活動した期間が約5年足らずであるため絶対的な作品数は少ない。その関係から、現在残されている槐多の作品にはかなりの高値が付いており、過去に『[[開運!なんでも鑑定団]]』([[テレビ東京]])に槐多の作品が登場した際には3,000万円の評価額が付けられたこともある(しかもこれは「オークションでのスタート金額」としての評価であり、番組では「実際には億単位になる可能性もある」とのコメントも残された)<ref>「開運!なんでも鑑定団」([[日本経済新聞社]]、[[1995年]])ISBN 4-532-68002-6 pp.84 - 91</ref>。
 
 
 
==== 代表作 ====
 
* 花(1913年、[[ウッドワン美術館]])
 
* 庭園の少女(1914年、[[福島県立美術館]])
 
* [http://picasaweb.google.com/jknudes/JapaneseNudes/photo#5080455532183709794 裸婦]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}(1914-15年、[[久万美術館]])
 
* 尿する裸僧(1915年、[[信濃デッサン館]])
 
* 自画像(1916年、[[三重県立美術館]])
 
* バラと少女(1917年、[[東京国立近代美術館]])
 
* コスチュームの娘(1917年、東京国立近代美術館)
 
* 湖水と女(1917年、[[ポーラ美術館]])
 
* 自画像(1918年、[[大阪市立美術館]])
 
* 松の群(1918年、[[中野美術館]])
 
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Image:TeienNoShoujo.jpg|庭園の少女
 
Image:Murayama-priest-1915.jpg|尿する裸僧
 
Image:MurayamaKaita1916.jpg|自画像(1916年)
 
Image:BaraToShoujo.jpg|バラと少女
 
Image:CostumeNoMusume.jpg|コスチュームの娘
 
Image:Murayama Kaita - Lake and Woman.jpg|湖水と女
 
</gallery>
 
 
 
=== 詩 ===
 
詩集『槐多の歌へる』は槐多の死後、友人たちによって編集、出版された。収録された作品は、絵と同様、技巧的というよりも若々しい情熱と率直さに満ちたものである。[[草野心平]]の詩人としての成り立ちに大きな影響をあたえているが、一般的には、その絵画と比べると一段低く評価されている。
 
 
 
=== 小説 ===
 
未完のものも多いが、短編「悪魔の舌」は幻想怪奇小説のアンソロジーなどに多く収載されている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 外部リンク ==
 
{{commons|category:Murayama Kaita}}
 
* {{青空文庫著作者|14}}
 
* [http://members3.jcom.home.ne.jp/garance-club/ がらんす倶楽部]
 
 
 
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[[Category:洋画家]]
 
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[[Category:結核に罹患した人物]]
 
[[Category:結核に罹患した人物]]
 
[[Category:スペインかぜ死亡者]]
 
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[[Category:LGBTの芸術家]]
 
 
[[Category:京都府立洛北高等学校出身の人物]]
 
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[[Category:愛知県出身の人物]]
 
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[[Category:1896年生]]
 
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[[Category:1919年没]]
 
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2018/9/26/ (水) 02:13時点における版

自画像(1918年、大阪市立美術館所蔵)

村山 槐多(むらやま かいた、1896年9月15日 - 1919年2月20日

画家,詩人。幼時を京都で過し,京都府立第一中学校卒業。従兄の山本鼎の感化を受けて画家を志し,1913年上京,小杉放庵の家に寄寓して日本美術院研究所に学んだ。中学時代からボードレールらに親しみ,また前衛的な水彩画などを描いたという。 14年二科展,15年日本美術院展にそれぞれ初入選した。 17年には代表作の一つ『湖水と女』で美術院院友に推され,19年に『松と榎』などで美術院賞を受けるなど将来を期待されたが,画業なかばで夭折した。死後,詩や散文を集めた遺稿集『槐多の歌へる』 (1920) ,『槐多の歌へる其後』 (21) が出版され,豊穣なイメージを展開する自在なうたいくちが高村光太郎らに激賞された。その生涯は退廃,放浪の生活であったが,作品は青春の哀愁をフォービスムを基調とした陰影の濃い画面に表現した。主要作品はほかに『バラと少女』

(17,東京国立近代美術館) があり,『村山槐多詩集』 (51) もある。



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