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[[ファイル:JapaneseEmbassy1860.jpg|250px|right|thumb|左から村垣範正、新見正興、小栗忠順 1860年]]
 
  
'''村垣 範正'''(むらがき のりまさ、[[文化 (元号)|文化]]10年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]([[1813年]][[10月17日]]) - [[明治]]13年([[1880年]])[[3月15日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[旗本]]、[[外交官]]([[外国奉行]])。初名は範忠。[[号 (称号)|号]]は淡叟。通称は与三郎。[[官途]]は[[淡路国|淡路守]]。
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'''村垣 範正'''(むらがき のりまさ、[[文化 (元号)|文化]]10年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]([[1813年]][[10月17日]]) - [[明治]]13年([[1880年]])[[3月15日]]
  
==略歴==
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江戸時代末期の幕臣。淡路守。号,淡叟。勘定吟味役格で,蝦夷地御用として海防の検分を兼ねた。ロシア使節の下田来航に際しては応接に従事。安政2 (1855) 年5月江戸湾台場築造の御用に任じ,同3年7月箱館奉行となり,蝦夷地開拓に尽力。同5年 10月外国奉行,同6年勘定奉行を兼任。同年9月[[新見正興]]を正使とする遣米使節に副使として日米修好通商条約 ([[安政五ヵ国条約]] ) 批准書交換に従事。文久1 (61) 年2月箱館奉行再任。同3年6月作事奉行。元治1 (64) 年8月免職,若年寄支配寄合となった。著書に『村垣淡路守公務日記』『航海日記』がある。
文化10年(1813年)[[江戸]][[築地]]で旗本・[[村垣範行]]の次男として生まれる。村垣家は代々[[御庭番|庭番役]]を勤め、祖父・[[村垣定行|定行]]は[[遠国奉行|松前奉行]]・勝手掛[[勘定奉行]]まで上った。その功により範正は[[天保]]2年([[1831年]])、新規に召し出され小十人格庭番となり、[[弘化]]2年([[1845年]])には細工頭、[[安政]]元年([[1854年]])には賄頭を経て[[勘定吟味役]]に抜擢。[[海岸防禦御用掛|海防掛]]・[[蝦夷地]]掛として同年3月より蝦夷地・[[樺太]]巡視を行い、日露国境を確認。10月に江戸に帰府した。
 
  
同年、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]艦隊の再来日に際して、[[筒井政憲]]・[[川路聖謨]]らとともに露使応接掛として[[伊豆国|伊豆]][[下田]]に赴任した。翌年以降、[[函館|箱館]]表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政3年([[1856年]])7月には[[箱館奉行]]に昇進し、9月には[[従五位|従五位下]]・淡路守に叙された。先任の[[堀利煕]]とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。[[1857年]]には[[アイヌ]]の間で蔓延していた[[天然痘]]対策のために幕府に[[種痘]]の出来る医師の派遣を要請し、桑田立斎らが派遣されて大規模種痘が行われた<ref>「近代医学の先駆者 ハンターとジェンナー」p164-165 山内一也 岩波書店 2015年1月20日第1刷</ref>。これは幕府が正式に認めた初の種痘であった。安政5年([[1858年]])には[[安政の大獄]]で免職となった[[岩瀬忠震]]に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には[[神奈川奉行]]を兼務するなど能吏ぶりを買われた。
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=== 万延元年遣米使節 ===
 
[[Image:JapaneseMissionInWashington.jpg|thumb|250px|ワシントン海軍工廠での使節団:正使[[新見正興]](中央)、副使 村垣範正(左から3人目)、監察[[小栗忠順]](右から2人目)、勘定方組頭、[[森田清行]](前列右端)、外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、[[塚原昌義]](前列左端)]]
 
{{see|万延元年遣米使節}}
 
 
 
安政7年([[1860年]])[[日米修好通商条約]]批准書交換のため[[江戸幕府|幕府]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ派遣する使節団の副使(正使は[[新見正興]]、目付は[[小栗忠順]])を拝し、正月に米国軍艦[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]にて[[太平洋]]航路で出港。途中[[ハワイ島|ハワイ]]に寄港し、3月に[[サンフランシスコ]]に到着。[[ワシントンD.C.]]に向かい、4月3日に批准書を交換。[[アメリカ合衆国大統領]][[ジェームズ・ブキャナン]]と会見した。帰路は[[ナイアガラ (砲艦)|ナイアガラ号]]にて[[大西洋]]航路をとり、[[南アフリカ]]・[[インド]]を経由して帰国、9月27日に江戸へ到着した。この間、克明な航海日誌(『村垣淡路守公務日記』、『遣米使節日記』とも)を残した。
 
 
 
帰国後、功績により300石を加増され、500石取となった。同年11月[[プロイセン王国|プロシア(プロイセン)]]の外交官[[フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク]]との間の日普修好通商条約締結にあたり、交渉中であった[[堀利煕]]が突然謎の[[切腹|自刃]]を遂げたため、その交渉の任を引き継ぎ、翌月、日本側全権として調印に臨んだ。
 
 
 
[[文久]]元年([[1861年]])ロシア艦ポサドニック号が[[対馬]]芋崎浦を占拠するという事件([[ロシア軍艦対馬占領事件]])に際しては、箱館においてロシア[[領事]][[ヨシフ・ゴシケーヴィチ|ゴシケヴィチ]]と交渉し、退去を求めた。また箱館港の砲台建設も促進した。文久3年([[1863年]])6月には[[作事奉行]]に転じ、翌[[元治]]元年([[1864年]])には[[西の丸留守居]]、[[若年寄]]支配寄合となり、一線から退く。明治元年([[1868年]])には病のためと称して隠居、淡叟と号した。[[明治維新]]後は官職に就かず、明治13年(1880年)に[[東京]]にて没した。享年68。墓は[[谷中霊園|谷中墓地]]([[東京都]][[台東区]])に建てられた。
 
 
 
遣米使節の護衛として[[咸臨丸]]に乗船した[[軍艦奉行]]・[[木村芥舟|木村喜毅(芥舟)]]は、村垣を「機敏にして吏務に練達す」と評した。一方、[[福地源一郎|福地源一郎(桜痴)]]は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。
 
 
 
==参考文献== 
 
*『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』([[吉川弘文館]])「村垣範正」(執筆:[[三谷博]]) 
 
*『明治維新人名辞典』(日本歴史学会編、[[吉川弘文館]]、[[1981年]])979ページ「村垣範正」
 
*『ロシア人の見た幕末日本』(伊藤一哉、吉川弘文館、[[2009年]]、ISBN 9784642080200)
 
 
 
==脚注==
 
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==関連項目==
 
*[[新見正興]]
 
*[[堀利煕]]
 
*[[小栗忠順]]
 
*[[エフィム・プチャーチン]]
 
*[[海岸防禦御用掛]]
 
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[[Category:幕末の旗本]]
 
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2019/4/28/ (日) 18:52時点における最新版

村垣 範正(むらがき のりまさ、文化10年9月24日1813年10月17日) - 明治13年(1880年3月15日

江戸時代末期の幕臣。淡路守。号,淡叟。勘定吟味役格で,蝦夷地御用として海防の検分を兼ねた。ロシア使節の下田来航に際しては応接に従事。安政2 (1855) 年5月江戸湾台場築造の御用に任じ,同3年7月箱館奉行となり,蝦夷地開拓に尽力。同5年 10月外国奉行,同6年勘定奉行を兼任。同年9月新見正興を正使とする遣米使節に副使として日米修好通商条約 (安政五ヵ国条約 ) 批准書交換に従事。文久1 (61) 年2月箱館奉行再任。同3年6月作事奉行。元治1 (64) 年8月免職,若年寄支配寄合となった。著書に『村垣淡路守公務日記』『航海日記』がある。



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