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{{存命人物の出典明記|date=2013年12月}}
 
{{Infobox baseball player
 
|選手名 = 村上 雅則
 
|所属球団 =
 
|役職 =
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 =
 
|写真のコメント =
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|出身地 = [[山梨県]][[北都留郡]][[七保町]](現・[[大月市]])
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1944|5|6}}
 
|没年月日 =
 
|身長 = 183
 
|体重 = 72
 
|利き腕 = 左
 
|打席 = 左
 
|守備位置 = [[投手]]
 
|プロ入り年度 = 1962年
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 = NPB / 1963年6月1日<br />MLB / 1964年9月1日
 
|最終出場 = NPB / 1982年10月3日<br />MLB / 1965年10月1日
 
|経歴 = <nowiki></nowiki>
 
* [[法政大学第二高等学校]]
 
* [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] (1962 - 1963)
 
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]] (1964 - 1965)
 
* 南海ホークス (1966 - 1974)
 
* [[阪神タイガース]] (1975)
 
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] (1976 - 1982)
 
|経歴補足題 = コーチ歴
 
|経歴補足 = <nowiki></nowiki>
 
* 日本ハムファイターズ (1987 - 1988)
 
* 福岡ダイエーホークス (1989 - 1990)
 
* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1993 - 1994)
 
|選出国 =
 
|選出年 =
 
|得票率 =
 
|選出方法 =
 
}}
 
'''村上 雅則'''(むらかみ まさのり、[[1944年]][[5月6日]] - )は、[[山梨県]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、野球指導者、[[野球解説者]]。
 
  
'''日本人初のメジャーリーガー'''として有名。メジャー時代の愛称は「'''マッシー・ムラカミ'''」。
+
'''村上 雅則'''(むらかみ まさのり、[[1944年]][[5月6日]] - )
  
== 経歴 ==
+
昭和時代後期のプロ野球選手。
=== 高校時代 ===
 
[[法政大学第二高等学校|法政二高]]では2年生の時、{{by|1961年}}[[第33回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]にエース[[柴田勲]]の控え投手として出場。準決勝の[[龍谷大学付属平安中学校・高等学校|平安]]戦で柴田をリリーフして登板。この大会で法政二高は、決勝で[[香川県立高松商業高等学校|高松商]]を降し、前年からの夏春連覇を達成する。柴田以外のチームメートに的場祐剛[[中堅手]]、[[是久幸彦]][[三塁手]]がいた。法政二高は同年[[第43回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]にも出場するが、県大会の直前のバッティング練習で打球が手首に直撃し骨折したため欠場。秋季大会も骨折の影響で県大会で敗退し、翌{{by|1962年}}の春の選抜は出場かなわず。夏はエースとして[[全国高等学校野球選手権神奈川大会|県予選]]準決勝まで進出するが、直前に罹った食中毒の影響で[[慶應義塾高等学校|慶應高]]に敗退、甲子園には届かなかった。
 
  
=== 南海-フレズノ時代 ===
+
昭和19年5月6日生まれ。38年南海に入団。翌年サンフランシスコ-ジャイアンツと契約し,日本人初の大リーガーとなる。マッシーの愛称でよばれ,2年間で5勝1敗9セーブの成績をのこす。41年南海に復帰し,左腕のエースとして活躍。50-57年阪神,日本ハムに在籍。実働18年,通算103勝82敗30セーブ。山梨県出身。法政二高卒
大学進学を予定していたが[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の[[鶴岡一人]]の目に留まり、鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれ<ref>[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月9日</ref>、高校在学中の{{by|1962年}}9月に南海と契約を結ぶ<ref>[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月27日</ref>。プロ3年目の{{by|1964年}}、[[メジャーリーグベースボール]]・[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣された<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月12日">[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月12日</ref>。この時、ジャイアンツはメジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭[[トレード]]で契約できるという条項を入れたが、南海側は昇格者が出るわけがないと高をくくっていた。
 
  
アメリカに渡った当初は英語がほとんどわからず、辞書を使ってチームメイトと会話をしていたという。当初派遣は6月中旬までの予定だったが、そのままフレズノでプレーしていた。この年の南海は[[ジョー・スタンカ]]、[[杉浦忠]]の両輪に[[野村克也]]や[[広瀬叔功]]を擁して日本一になるなど戦力は充実しており、南海からの帰還要請はなかった。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
  
=== サンフランシスコ・ジャイアンツ時代 ===
 
同年8月31日、突然メジャー昇格を言い渡される。サンフランシスコ・ジャイアンツの遠征先である[[ニューヨーク]]行きの航空券を渡されてそのまま空港へというあわただしい状況だったという。ニューヨークに着くと、チームの関係者から「契約書にサインをするように」と言われて契約の中身もわからずサインをした村上は、翌9月1日の対[[ニューヨーク・メッツ]]戦に日本人として初めてメジャー登板を果たした。
 
  
9月29日に対[[ヒューストン・アストロズ|コルト45's]]戦の9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたため初の日本人メジャー勝利投手となった。同年は9試合に投げ1勝1セーブ、防御率1.80の好成績を収めた。しかし、当時の日本は1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]準備と開催の真っ只中だったため、日本マスコミの扱いは小さかった。
 
 
翌{{by|1965年}}もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にし村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡りホークス・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、また、メジャーリーグ[[コミッショナー#野球界のコミッショナー|コミッショナー]]の[[フォード・フリック]]は当然のことながらジャイアンツを全面支持した。これに対し、[[日本野球機構]]コミッショナーの[[内村祐之]]は1965年シーズン終了をもって南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着。この年、日本人初の安打も記録している。
 
 
村上は都合2年間メジャーでプレーした(詳しくは[[日本人選手のメジャーリーグ挑戦]]を参照)。村上はメジャー残留を希望し、ジャイアンツも再契約する意向だったが、両親やチームの説得に加え、事実を全く把握していないマスコミには「村上はわがまま」(『[[スポーツ報知|報知新聞]]』)と批判され、泣く泣く断念した。
 
 
=== 南海-阪神-日ハム時代 ===
 
{{by|1965年}}オフ、南海鶴岡監督の勇退予定が、後任の[[蔭山和夫]]の急死で、改めて鶴岡監督が復帰した<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月23日">[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月23日</ref>。村上はまだアメリカで野球を続けたかったが、鶴岡への義理を果たすため<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月23日 " />、{{by|1966年}}に南海に復帰した<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月23日 " />。同年は6勝4敗を記録してリーグ優勝に貢献するが、当初の期待ほどの活躍はできず不評を買う。しかし[[読売ジャイアンツ|巨人]]に敗退した[[1966年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、リリーフながら6試合中の5試合に登板した。{{by|1968年}}には皆川睦雄に次ぐ18勝を挙げて面目を果たす。同年は勝率.818で[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]のタイトルを獲得した。その後も先発として活躍を続け、{{by|1971年}}にはチーム1位の14勝をあげる。{{by|1973年}}には先発陣を外れたものの、7年振りのリーグ優勝に貢献、同年の[[1973年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも登板。
 
 
{{by|1972年}}頃から、[[野村克也]][[選手兼任監督]]の自身の起用法に不満があり<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月27日">[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月27日</ref>、{{by|1974年}}には登板機会が減少、同年オフに[[阪神タイガース]]に[[相羽欣厚]]とともに、[[和田徹]]と[[野上俊夫]]との交換[[トレード]]で移籍した。阪神では主に中継ぎとして起用される。[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]戦で1試合だけローテーションの谷間に先発したが、早々に打ち込まれ敗戦投手となった。
 
 
{{by|1975年}}オフに[[後藤和昭]]とともに[[東田正義]]との交換トレードで[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に移籍。1年目から中継ぎとして復活、{{by|1977年}}にはリーグ最多登板を記録する。{{by|1978年}}もリーグ最多登板、12勝をあげた。その後も安定した活躍を続け、{{by|1981年}}にはチームのリーグ優勝に貢献、同年の[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2試合に登板している。
 
 
{{by|1982年}}オフに日本ハムを退団し、これが現役選手としての引退となった。{{by|1983年}}、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の[[打撃投手]]として契約した。
 
 
=== 解説者-コーチ時代 ===
 
その後は[[ニッポン放送]][[野球解説者|解説者]]({{by|1984年}} - {{by|1986年}})を経て、球団常務[[大沢啓二]]の要請で{{by|1987年}}から{{by|1988年}}まで日本ハム二軍投手コーチ<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月30日">[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月30日</ref>、{{by|1989年}}南海時代の同僚でダイエーの監督だった杉浦忠の要請でダイエー一軍投手コーチ<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月30日 " />、翌{{by|1990年}}は二軍投手コーチを務めるも解任<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月30日 " />。{{by|1991年}}から{{by|1992年}}は[[NHK衛星第1テレビジョン|NHK BS1]]解説者、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]の監督[[森祇晶]]の推薦で{{by|1993年}}から{{by|1994年}}まで西武二軍投手コーチを務めた<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月30日 " />。日本ハムコーチ時代87年オフ[[松浦宏明]]を一軍に送り出した事を大沢に評価され一軍投手コーチの話が出たが監督の[[高田繁]]が村上の一軍コーチ就任を拒否した為翌年も2軍投手コーチを務めて退団、奇しくも高田も1988年限りで日本ハムを退団している<ref name="[[スポーツニッポン]]村上雅則の我が道2016年7月30日 " />。
 
 
=== 現在 ===
 
その後はサンフランシスコ・ジャイアンツ極東担当スカウト、[[デイリースポーツ]]野球評論家を務め、現在は[[NHK衛星第1テレビジョン|NHK-BS1]]大リーグ中継解説者。また、[[プロ野球マスターズリーグ]]の東京ドリームスにも参加している。
 
 
2014年5月15日、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地[[AT&Tパーク]]で行われた[[マイアミ・マーリンズ]]戦の試合前の[[始球式]]を務めた。
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別投手成績 ===
 
{| {{投手成績}}
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1963}}
 
|style="text-align: center;"|[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]
 
|3||0||0||0||0||0||0||--||--||----||10||2.0||2||1||2||0||0||2||0||0||1||1||4.50||2.00
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1964}}
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|SF]]
 
|9||0||0||0||0||1||0||1||--||1.000||53||15.0||8||1||1||0||0||15||0||1||3||3||1.80||0.60
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1965}}
 
|45||1||0||0||0||4||1||8||--||.800||304||74.1||57||9||22||5||3||85||3||0||31||31||3.75||1.06
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1966}}
 
|rowspan="9" style="text-align: center;"|南海
 
|46||2||0||0||0||6||4||--||--||.600||387||96.1||80||10||25||1||8||66||1||0||34||33||3.08||1.09
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1967}}
 
|41||1||0||0||0||3||1||--||--||.750||340||80.1||72||11||26||0||7||60||2||0||36||36||4.03||1.22
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1968}}
 
|40||19||9||1||1||18||4||--||--||'''.818'''||718||177.2||141||18||40||3||10||90||1||0||54||47||2.38||1.02
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1969}}
 
|31||14||3||0||1||7||9||--||--||.438||513||119.0||139||19||32||1||3||47||0||0||64||60||4.54||1.44
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1970}}
 
|32||24||9||2||2||11||11||--||--||.500||791||191.1||167||18||52||2||14||75||1||0||79||69||3.25||1.14
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1971}}
 
|38||31||13||0||0||14||15||--||--||.483||992||234.2||233||36||63||3||16||78||0||0||'''122'''||'''107'''||4.10||1.26
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1972}}
 
|33||19||6||1||1||11||9||--||--||.550||652||147.1||156||20||46||0||20||57||3||1||79||70||4.28||1.37
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1973}}
 
|23||8||0||0||0||2||4||--||--||.333||295||65.2||75||8||25||0||7||27||1||0||42||38||5.21||1.52
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1974}}
 
|10||2||1||1||0||1||2||0||--||.333||89||24.2||13||1||3||0||3||10||0||0||7||5||1.82||0.65
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1975}}
 
|style="text-align: center;"|[[阪神タイガース|阪神]]
 
|18||1||0||0||0||2||1||1||--||.667||89||19.1||24||4||7||0||2||8||0||0||14||11||5.12||1.60
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1976}}
 
|rowspan="7" style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]
 
|32||1||0||0||0||1||0||0||--||1.000||229||53.0||61||7||15||0||0||17||0||0||24||22||3.74||1.43
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1977}}
 
|'''61'''||0||0||0||0||7||4||6||--||.636||446||112.1||96||7||19||8||3||78||0||0||36||29||2.32||1.02
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1978}}
 
|'''57'''||2||0||0||0||12||11||10||--||.522||530||130.2||125||12||29||9||9||59||0||0||54||44||3.03||1.18
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1979}}
 
|45||0||0||0||0||5||3||11||--||.625||419||98.2||101||16||30||5||6||42||1||0||50||46||4.20||1.33
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1980}}
 
|37||0||0||0||0||2||3||2||--||.400||294||67.0||70||12||28||3||4||31||0||0||39||35||4.70||1.46
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1981}}
 
|17||0||0||0||0||1||1||0||--||.500||98||20.1||28||1||9||1||1||10||0||1||13||10||4.43||1.82
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1982}}
 
|2||0||0||0||0||0||0||0||--||----||10||2.0||3||0||1||0||0||1||0||0||2||2||9.00||2.00
 
|-
 
!colspan="2"|[[日本プロ野球|NPB]]:18年
 
|566||124||41||5||5||103||82||30||--||.557||6902||1642.1||1586||201||452||36||113||758||10||2||750||665||3.64||1.24
 
|-
 
!colspan="2"|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:2年
 
|54||1||0||0||0||5||1||9||--||.833||357||89.1||65||10||23||5||3||100||3||1||34||34||3.43||0.99
 
|}
 
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
 
=== タイトル ===
 
; NPB
 
* [[最高勝率 (野球)|最高勝率]]:1回 (1968年)
 
 
=== 記録 ===
 
;NPB初記録
 
*初登板:1963年9月1日、対[[千葉ロッテマリーンズ|毎日大映オリオンズ]]10回戦([[大阪スタヂアム]])、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
 
*初奪三振:同上、9回表に塩津義雄から
 
*初勝利:1966年4月12日、対[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]1回戦([[後楽園球場]])、7回裏に4番手で救援登板・完了、4回無失点
 
*初先発:1966年8月4日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]17回戦([[日本生命球場|日生球場]])、5回2失点
 
*初先発勝利・初完投勝利:1968年6月29日、対近鉄バファローズ16回戦(大阪スタヂアム)、9回3失点(自責点2)
 
*初完封勝利:1968年8月19日、対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]19回戦([[北九州市民球場|小倉球場]])
 
*初セーブ:1975年4月6日、対[[中日ドラゴンズ]]2回戦([[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]])、7回裏2死に2番手で救援登板、2/3回無失点
 
;NPB節目の記録
 
*100勝:1979年6月17日、対近鉄バファローズ前期11回戦([[藤井寺球場]])、5回裏2死に2番手で救援登板・完了、4回1/3を無失点 ※史上74人目
 
*500試合登板:1979年8月29日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]後期8回戦(後楽園球場)、6回表2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点 ※史上41人目
 
;NPBその他の記録
 
* 1試合5与死球:1972年8月29日、対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦<ref>講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」645ページ</ref>※日本プロ野球記録
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1971年)
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''10''' (1962年 - 1964年)
 
* '''37''' (1965年、1976年 - 1982年)
 
* '''15''' (1966年 - 1974年)
 
* '''12''' (1975年)
 
* '''73''' (1987年 - 1988年)
 
* '''85''' (1989年)
 
* '''76''' (1993年 - 1994年)
 
 
== 関連情報 ==
 
=== 著書 ===
 
==== 単著 ====
 
*『たった一人の大リーガー』(恒文社、1985年) ISBN 4-7704-0614-2
 
*『ヒットバイピッチ:メジャーリーグTV観戦ガイド』([[ザ・マサダ]]、2001年10月、ISBN 4883970736)
 
*『ウェルカム・メジャーリーグ 2008』(責任編集、[[白夜書房]](白夜ムック)、2008年4月、ISBN 9784861913983)
 
 
==== 監修 ====
 
*『大リーグのひみつ』(常野啓漫画、[[学研]]まんが[[新ひみつシリーズ]]、2003年5月、ISBN 4052017668)
 
*『NHKメジャーリーグガイド』シリーズ(2006年 - 2007年、NHK出版編、[[日本放送出版協会]](教養・文化シリーズ))
 
*『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑』シリーズ(2004年 - 現在、友成那智編著、[[廣済堂出版]])
 
 
=== 出演番組 ===
 
* [[ニッポン放送ショウアップナイター]](マッシー・村上名義)
 
* [[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]
 
* [[メジャーリーグ中継 (NHK)]]
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[山梨県出身の人物一覧]]
 
* [[福岡ソフトバンクホークスの選手一覧]]
 
* [[日本人のマイナーリーグ選手一覧]]
 
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 M]]
 
* [[日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧]]
 
* [[阪神タイガースの選手一覧]]
 
* [[北海道日本ハムファイターズの選手一覧]]
 
 
== 外部リンク ==
 
{{MLBstats |mlb=119534 |espn= 25587 |br= m/murakma01 |fangraphs= 1009336 |cube= Masanori-Murakami |brm=muraka001mas}}
 
 
{{パシフィック・リーグ最優秀勝率投手}}
 
 
{{デフォルトソート:むらかみ まさのり}}
 
{{デフォルトソート:むらかみ まさのり}}
 
[[Category:日本の野球選手]]
 
[[Category:日本の野球選手]]

2018/10/14/ (日) 09:37時点における最新版

村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )

昭和時代後期のプロ野球選手。

昭和19年5月6日生まれ。38年南海に入団。翌年サンフランシスコ-ジャイアンツと契約し,日本人初の大リーガーとなる。マッシーの愛称でよばれ,2年間で5勝1敗9セーブの成績をのこす。41年南海に復帰し,左腕のエースとして活躍。50-57年阪神,日本ハムに在籍。実働18年,通算103勝82敗30セーブ。山梨県出身。法政二高卒



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