村上天皇

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村上天皇(むらかみてんのう、926年7月14日延長4年6月2日)- 967年7月5日康保4年5月25日)、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:946年5月23日天慶9年(946年4月20日) - 967年7月5日(康保4年(967年)5月25日))。成明(なりあきら)。

第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。

来歴

第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、誕生の同年11月親王宣下。天慶3年(940年)2月、元服。三品に叙され、上野太守、大宰帥を経る。天慶7年(944年)4月22日に皇太子(皇太弟)となり、2年後の天慶9年4月20日に朱雀天皇譲位により践祚、4月28日に即位。

先代に続いて天皇の外叔父藤原忠平関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。しかし実際には政治の実権は依然摂関家藤原実頼師輔兄弟にあり、初期には母の穏子や兄の朱雀上皇も後見を理由に政治に関与しようとしたため、彼の親政は名目にすぎなかった。

平将門藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めた。

文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。

しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。

康保4年(967年)5月25日、在位のまま崩御、宝算42。

なお皇子具平親王の裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治において大きな影響力を持つようになる。

鶯宿梅

村上天皇は『大鏡』(道長下)にある鶯宿梅(おうしゅくばい)の逸話で有名である。ある時内裏清涼殿の前にあった梅の木が枯れてしまったので、天皇は替わりのものを探すように命じた。あちらこちらを探してみるが、なかなかいいものが見つからない。しばらくして都の外れにある家にたいへん見事な紅梅が見つかった。さっそく主命であることを告げてその紅梅を掘り返し内裏に運ぼうとすると、家の者が主からの文を短冊にして枝に結びつけ、どうかこのままでお持ちくださいという。めでたく清涼殿の前に移植されたその紅梅は、以前あったものに勝るとも劣らない立派なもので、天皇も大変喜んだが、ふと見るとそこに短冊が結ばれている。不審に思って開けてみると、そこには女字で「勅なればいともかしこし鶯の 宿はと問はばいかが答へむ」(勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、さて私はどのように答えたらよいのでしょう)とあった。この歌の作者がただ者ではないと察した天皇が調べさせると、その家の主人は紀貫之の娘の紀内侍(きのないし)であること、そして父の死後彼女は父が手入れしていたその紅梅を父の形見として慈しんでいたことがわかった。それを知った天皇は「さても残念なことをしてしまったものだ」といったという。この鶯宿梅の歌は勅撰集の『拾遺和歌集』にも収録されている(雑下・よみ人知らず)。

在位中の重臣一覧

系譜

系図

テンプレート:皇室平安中期

后妃・皇子女

追号

追号の「村上」は、御陵の在所から。一条朝のあたりで既に「村上の先帝」と呼ばれていた。

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある村上陵(むらかみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られた記事が『日本紀略』に見える。

また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに村上天皇の霊が祀られている。

脚注

関連項目

外部リンク