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'''李 冶'''(り や、[[1192年]]-[[1279年]])は、[[金 (王朝)|金]]末から[[元 (王朝)|元]]初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・[[欒城県|欒城]]の出身。
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'''李 冶'''(り や、[[1192年]]-[[1279年]]
  
金の[[1230年]]に[[進士]]となり、河南・鈞州の知事となるが、[[1232年]]に[[モンゴル帝国|モンゴル軍]]の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、[[太原]]などに移り住むが、[[1251年]]に河北・[[元氏県|元氏]]の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。[[天元術]]を発展させて、[[幾何]]などの他の数学分野に応用した。[[1248年]]に『[[測円海鏡]]』12巻、[[1259年]]に『[[益古演段]]』3巻を著した他、[[元好問]]ら同じ隠遁[[文人]]らとの交流も多く、漢詩の作品も現存している。世祖([[クビライ|フビライ・ハーン]])はたびたび彼を召して一度は[[翰林学士]]に任じたが、すぐにこれを辞退して遂に仕官には応じなかった。88歳で死去。
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中国,金末元初の数学者。李冶 (りや) とも書く。真定欒城 (らんじょう。河北省) の人。字は仁卿,号は敬斎。金,正大7 (1230) 年の進士。金滅亡後放浪し,その間新しい数学を学び,定宗3 (1248) 年に代数学の一種である天元術の先駆をなす『測円海鏡』 (12巻) を著わした。世祖は即位前その賢を知って召し,治国の方策などに関し問答をし,即位後翰林学士に招いた。元好問と交遊し文章が巧みで,『敬斎文集』 (40巻) その他があり,算学書に『益古演段』 (3巻) がある。『益古演段』は連立方程式の解を示しているが,複雑であるため,後世にまったく影響を与えなかった。
  
== 参考文献 ==
 
* 李迪 著/大竹茂雄・陸人瑞 訳『中国の数学通史』(森北出版、2002年)ISBN 978-4-627-01941-6
 
* 銭宝 編/川原秀城 訳『中国数学史』(みすず書房、1990年)ISBN 978-4-622-04083-5
 
* [http://kotobank.jp/word/李冶 李冶 とは - コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)]
 
 
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[[Category:中国の数学者]]
 
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2018/12/26/ (水) 09:20時点における最新版

李 冶(り や、1192年1279年

中国,金末元初の数学者。李冶 (りや) とも書く。真定欒城 (らんじょう。河北省) の人。字は仁卿,号は敬斎。金,正大7 (1230) 年の進士。金滅亡後放浪し,その間新しい数学を学び,定宗3 (1248) 年に代数学の一種である天元術の先駆をなす『測円海鏡』 (12巻) を著わした。世祖は即位前その賢を知って召し,治国の方策などに関し問答をし,即位後翰林学士に招いた。元好問と交遊し文章が巧みで,『敬斎文集』 (40巻) その他があり,算学書に『益古演段』 (3巻) がある。『益古演段』は連立方程式の解を示しているが,複雑であるため,後世にまったく影響を与えなかった。




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