木下氏

提供: miniwiki
2018/10/2/ (火) 22:17時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

木下氏(きのしたし)は、日本氏族の一つ。

賀茂県主の木下氏

賀茂別雷神社の氏人(うじびと)に、賀茂姓の木下氏がいる[1]

大江姓の木下氏

下賀茂社祠官膳部に、大江姓の木下氏がいる[1]

摂津国の木下氏

摂津国を拠点としていた木下氏である[1]天正6年(1578年)、豊島郡箕輪城また穂積城を木下氏が築城したと伝えられている[1]

伊勢国の木下氏

伊勢国鈴鹿郡木下邑発祥の氏族である[2]

桓武平氏柘植氏族の木下氏

伊賀国発祥の氏族である[2]。柘植宗清の子・北村俊忠の子孫といわれる[2]。家紋は丸に釘抜、唐花(『寛政系譜』)[2]

桓武平氏坪坂氏流の木下氏

大和国発祥の氏族である[2]。本願寺に仕えた、坪坂伯耆守の子・次郎左衛門が“木下”を称した[2]。家紋は三雁金、揚羽むかい蝶(『寛政系譜』)[2]

遠江国の木下氏

天野景泰文書、手負人数に「木下藤三、木下虎景」が、義元加判文書に「木下藤次郎」の名前が見える[2]

清和源氏佐竹氏流の木下氏

武蔵国橘樹郡にいた氏族である[2]

新編風土記』に「木下氏、天正の水帳に木下右近あり。佐竹右馬頭義敦の男・石塚彦四郎宗義が末流なりという。この余百姓甚蔵というものあり。これも佐竹左京大夫義仁が末葉木下次郎というものの庶流なりとて、今も木下を氏とせり。天正の水帳には木下四郎左衛門としるせり」とある。また入間郡入會十二人衆に「木下越後、木下方兵衛」という名前が見える。

常陸国の木下氏

常陸国にいた木下氏である。『新編国志』に「木下、寛永旧記に、多賀郡桜井村に木下讃岐という浪士あり。戦功の者なりしという」と記されている。

荒木氏流の木下氏

荒木平大夫が羽柴秀吉に仕えて手柄をあげて、木下の氏を賜り木下備中守重堅と名乗ったことにはじまる木下氏である。『安西軍策』に「木下備中」と見える。秀吉が因幡国を平定した後、重堅は八束郡智頭郡の2万石を賜い、若佐(若桜)に在城した。関ヶ原の戦いでは西軍に属したため除封される。家紋は丸の内に二つ引き。

『因幡志』には「山根、尾崎、田中ら木下被官か」と記述し、また因幡国智頭郡草木城(合野原村)は木ノ下乗雲という武士が在城していたといわれる。そして「大坪、横川、高橋、横尾らは木ノ下家人」と見える。

また気多郡田公氏配下の将に木ノ下氏あり。

豊臣秀吉系統の木下氏

この木下氏の系譜の発祥は諸説があり、浅井氏の分家と称する説があるものの、明確になっていない[3]

弥右衛門の子、藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)は、尾張大名織田信長に仕え活躍し、北近江長浜城主となった際に、姓を「木下」から「羽柴」へと変更し、秀吉に仕えていた弟の秀長もそれに追随した。その後、秀吉は功があったものへの恩賞として旧姓の木下姓を与えている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にて豊臣家(羽柴家)が滅亡すると、その社稷が断絶することを憂慮した高台院(秀吉の正室)は従孫(甥の木下利房の次男)の利次を養子としたが、高台院の死後、、名字を木下氏に改め、高台院の遺領のうち近江国野洲郡・粟田郡の3,000石の相続を許され、子孫は旗本として続いた(近江木下家)。

系譜・秀吉系木下家

参照: [[羽柴氏]]

杉原系木下氏

この系統は、もとの本姓は杉原氏[注釈 1]である。『尊卑分脈』をはじめ『尾道市史』『沼隈郡誌』『萩藩諸家』によると、桓武平氏平貞衝の後裔の恒平が1189年源頼朝奥州合戦に従軍して、戦功を残した。数年後に備後国を与えられた子の宗平、光平兄弟が下向して、宗平は神石郡父木野瀬原の城主、光平は品治郡中條の城主となったと伝わる。宗平は大和氏・三重氏の祖となり、弟の光平がはじめて杉原氏を称したという。後に杉原氏は北条得宗家に仕えて、地頭として栄えたと伝わる。南北朝時代には足利尊氏に仕えて、南朝方の肥後国菊池氏を撃破する戦功があったと述べているが、いつごろ尾張国に移住したかは明確ではなく、真偽の程は不詳である。木梨氏はこの杉原氏の庶流である。

その杉原氏は豊臣秀吉の正室高台院の生家の姓であるが、彼女の兄・家定が秀吉より木下姓を与えられ、杉原から木下家定と改称した。彼は家老として播磨姫路城を与えられ、後には豊臣姓も下賜された。関ヶ原の戦いでは妹高台院を警護した功により、家定は備中足守藩の初代藩主に任じられた。

家定死後に、長男の木下勝俊と次男の木下利房が足守藩の継承をめぐって争いを起こし、所領を没収された。だが次男の利房が1615年大坂の陣で功をあげ、再び足守藩藩主に返り咲いた。その後幕末まで木下氏がこの地を統治した。

家定の三男、木下延俊関ヶ原の戦いで東軍で一人戦い抜いた功により、豊後日出藩3万石を与えられた。こちらも幕末まで木下氏の統治が続いた。

これらの木下氏は江戸時代を通じて豊臣氏を本姓としているが、姻戚であり、秀吉系譜の木下氏とは血縁はない。

系譜・杉原系木下家

足守木下家

日出木下家

龍造寺氏家臣 木下氏

龍造寺隆信家臣の木下昌直が有名。猛将として知られ、龍造寺四天王のうちの一人に数えられた。


日韓併合条約後の木下氏

在日朝鮮人の朴から転じて木下氏を称し、日本全国に存在する氏族である。

脚注

  1. 前述の浅井氏庶家で、浅井政貞と同族とされたり、桓武平氏正度流大和氏系等々の各説あり。
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 太田 1934, p. 1923.
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 太田 1934, p. 1924.
  3. 『尾張群書系図部集』三巻、p.634

参考文献

関連項目

外部リンク