普通選挙法

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普通選挙法(ふつうせんきょほう)とは、1925年大正14年)、加藤高明内閣によって制定された、成年男子による普通選挙を規定する法律(大正14年5月5日法律第47号)である。普通選挙法というのは通称であり、正確には、1900年(明治33年)制定の衆議院議員選挙法(明治33年3月29日法律第73号)を全部改正して成立した法律である。

成立

既に起こっていた普選運動により、民衆の普通選挙を求める運動が高まっていた最中、貴族院を背景とした清浦奎吾内閣は衆議院を無視して内閣を組閣する(清浦内閣)。これに対し、高橋是清犬養毅加藤高明の3人が中心となって、護憲三派を形成、第二次護憲運動が始まる。この運動は政党内閣の結成、普通選挙の実施を公約に掲げて行われ、護憲三派は衆議院選挙で勝利を収め、憲政会総裁である加藤高明内閣を組閣する。

こうして1924年(大正13年)6月11日に公約通りに衆議院議員選挙法普通選挙法が成立した)が改正された。しかし、政府原案中の、選挙権及び被選挙権の資格規定に関しては、1925年(大正13年)2月枢密院の修正(被選挙者の年齢を30年以上とする。貧困のため公私救恤(こうしきゅうじゅつ)を受ける者や住居不定の者には選挙・被選挙権を与えない。華族の戸主は選挙・被選挙権を有しないなど)があった。これに対し、衆議院は3月の第50議会でを削除したが、貴族院はこれを復活。さらに貴族院は政府原案中にあった「貧困ノタメ」を削り、欠格範囲を拡大したが、両院協議会での協議により「貧困ノタメ」を「貧困ニ因リ」とすることで妥協が成立(2月13日)した(「貧困ニ因リ」を加えることにより、兄弟・親子の相互扶助は欠格要件とならないこととした)。

その後、3月2日、衆議院で修正可決。3月26日、貴族院で修正可決され、衆議院議員選挙法改正が公布される。

なお、社会変革を恐れた枢密院の圧力により、同時に治安維持法も成立され、衆議院議員選挙法改正公布より先4月22日に公布された。

内容

それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、かつ内地に居住する[1]25歳以上の全ての成年男子に選挙権が与えられることが規定された。これにより有権者数は、1920年(大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。ただし、成年女子に選挙権が与えられることはなかった。議員定数は466議席。中選挙区制で定数は3人から5人である。また、新たに選挙運動の制限とその費用の法定制が設けられ、人民代表法的な性格から、選挙取締法的な性格へと、日本の選挙法は転換していった[2]。また、この改正から不在者投票制度が導入されたが、対象は船舶や鉄道に乗務している者、演習召集や教育召集中の軍人に限られていた。[3]

経緯

普通選挙法により選挙権を与えられなかった女性達は、婦人参政権獲得期成同盟会の名称を婦選獲得同盟に変更し、平塚らいてう市川房枝を中心として婦人参政権の獲得を目指して運動を続けるが、世間からは「新しい女」として白眼視された。この普通選挙法に基く選挙は1928年昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙から1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)まで計6回行われたが、第二次世界大戦敗戦後のGHQによる占領下であった1945年(昭和20年)12月に改正衆議院議員選挙法(のちの「公職選挙法」)が公布され、全ての成人男女による完全普通選挙が行われるようになった。

その他

普通選挙法が成立した翌1926年(大正15年)に地方議会議員の選挙権も成年男子による普通選挙を規定する法律改正案(市制改正案・町村制改正案・府県制改正案)が成立した。

地方選挙も含めれば、1926年9月3日に浜松市議会議員選挙で日本初の普通選挙が実施されている。

脚注

  1. 朝鮮籍、台湾籍であっても内地に居住していれば参政権が付与された。また日本人(内地人)であっても、外地及び国外に居住している場合は参政権が与えられなかった。
  2. 講座『日本近代法発達史』4、ISBN 9784326448036
  3. 佐藤令「在宅投票制度の沿革-身体障害者等の投票権を確保する制度-」国立国会図書館「調査と情報」419号(2003年4月)

関連項目