actions

「明治十四年の政変」の版間の差分

(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{脚注の不足|date=2018年7月}}
 
  
'''明治十四年の政変'''(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、[[明治]]時代の政治事件。
+
'''明治十四年の政変'''(めいじじゅうよねんのせいへん)
  
== 概要 ==
+
1881年[[大隈重信]]一派が明治政府中枢から追放された事件。当時,藩閥政府に対抗する自由民権論者は国会開設,憲法の早期制定を強く政府に迫っていた。政府もこれに対処するため2月各参議に意見を徴したが,同年3月政府部内で国会開設,憲法制定をめぐり意見が食違い,大隈が単独で左大臣有栖川宮に「政党内閣制,本年中に英米流の憲法を制定,2年後に国会開設」という意見書を提出したことに端を発し,大隈は伊藤博文と対立するにいたった。時を同じくして北海道開拓使長官[[黒田清隆]]が国費 1400万円をかけた事業を,同じ薩摩出身の[[五代友厚]]に 38万円 (30年賦) で払下げ決定をしたいわゆる開拓使官有物払下げ問題が生じ,大隈はこれに強く反対した。ここで,伊藤ら薩長派は大隈,福沢諭吉らに反政府陰謀があったという口実で,10月 11日御前会議で大隈一派を罷免する一方,開拓使払下げを中止する決定を行い,また翌 12日には「明治 23年に国会開設と憲法を制定する」という詔勅を出すにいたった。この政変は単に国会開設問題だけでなく,維新以来の財政政策を舞台とした大隈と松方正義および伊藤らの間の権力闘争の側面があり,以後,明治政府の政策は伊藤,黒田,松方,そして山県有朋らの薩長藩閥グループによって決定されていくこととなった。
[[1881年]](明治14年)に[[自由民権運動]]の流れの中、[[憲法]]制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残す[[ビスマルク憲法]]かイギリス型の[[議院内閣制]]の憲法とするかで争われ、前者を支持する[[伊藤博文]]と[[井上馨]]が、後者を支持する[[大隈重信]]とブレーンの[[慶應義塾]]門下生を政府から追放した政治事件である。<!--'''1881年政変'''ともいう。--><!--いいますか?-->近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の[[1890年]](明治23年)に施行された[[大日本帝国憲法]]は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。
 
 
 
== 経緯 ==
 
=== 立憲体制の導入を巡る議論 ===
 
[[明治]]10年代の明治政府において、[[大久保利通]]亡き後、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ[[立憲体制]]に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、政府は消極論者の[[右大臣]]・[[岩倉具視]]を擁しながら、漸進的な[[伊藤博文]]・[[井上馨]](長州閥)とやや急進的な[[大隈重信]]([[参議]]・[[大蔵卿]]・[[肥前藩]]出身)を中心に運営されていた。
 
 
 
大隈は政府内にあって、[[大隈財政|財政政策]]([[西南戦争]]後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って[[松方正義]]らと対立していた。更に宮中にいた保守的な[[宮内省|宮内]][[官僚]]も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。[[薩長土肥]]四藩の連合が変化し、[[薩長]]二藩至上主義的方向へ姿を変えていた。{{要出典範囲|またこのとき、[[太政大臣]]・[[三条実美]]が薩長と談合し、「[[自由民権運動]]と結託して政府転覆の陰謀を企てた」として、大隈の罷免を[[明治天皇]]に願い出た場面が記録されている。|date=2012年10月}}
 
 
 
[[1880年]](明治13年)に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出し、漸進的な改革と[[上院]]設置のための[[華族]]制度改革を提議した(後者は[[公家]]出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。
 
 
 
伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。[[1881年]](明治14年)3月、漸く大隈が[[左大臣]](岩倉からみて上位)の[[有栖川宮熾仁親王]]に対して「[[密奏]]」という形で意見書を提出、その中で[[イギリス]]流の[[立憲君主制|立憲君主]]国家を標榜し、早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張したのである。5月に内容を知った岩倉はその内容とともに自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見書を出した経緯に激怒し、[[太政官]][[大書記官]]の[[井上毅]]に意見を求めた。
 
 
 
井上毅は大隈案と[[福澤諭吉]]の民権論(『[[民情一新]]』)との類似点を指摘して、一刻も早い対抗策を出す事を提言、岩倉の命令を受けた井上は[[ドイツ帝国]]を樹立した[[プロイセン王国|プロシア]]式に倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成した。だが、大隈の密奏も岩倉・井上毅の意見書も他の政府首脳には詳細が明かされなかったために、伊藤がこの事情を知ったのは6月末であった。ただし、伊藤は大隈に対してのみではなく、岩倉・井上毅が勝手にプロシア式の導入を進めようとしていた事に対しても激怒して、説明に来た井上毅を罵倒した([[6月30日]])上で実美に辞意を伝えた。岩倉は伊藤に辞意の翻意を求め、井上毅も国家基盤を安定させてからイギリス流の議院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を求めたが、伊藤はイギリス式かプロシア式かは今決める事ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的であった。
 
 
 
この間にも井上毅が伊藤の盟友・井上馨(当初は将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入れ、伊藤が[[薩摩藩|薩摩]][[藩閥|閥]]と結んでまず憲法制定・議会開催時期の決定することを求めた。
 
 
 
=== 政変勃発 ===
 
一方、自由民権運動は3月に起きた[[ロシア帝国|ロシア]]の[[アレクサンドル2世]][[暗殺事件]]で過激な論調が現れるようになっていた。そんな折の7月末に『[[東京横浜毎日新聞]]』及び『[[郵便報知新聞]]』のスクープにより、薩摩閥の[[開拓使]]長官・[[黒田清隆]]が同郷の政商・[[五代友厚]]に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると([[開拓使官有物払下げ事件]])、政府への強い批判が起こり自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。
 
 
 
更に[[大蔵省]]内の大隈派が黒田の払い下げ内容が不当に廉価であるとして中止を公然と主張したことから、伊藤が大隈派の「利敵行為」に激怒して一転して「大隈追放」に賛成する。[[8月31日]]、政府は大隈と民権陣営が結託した上での陰謀と断じて大隈の追放を決定した。政府内で払下げに反対していた大隈の処分と反政府運動の鉾先を収めるため、岩倉(ただし岩倉は7月から10月まで休養を取って[[有馬温泉]]に行っていたので現在では岩倉の関与を否定し、伊藤が主な計画者とする説が有力)、伊藤、井上毅らは協議を行い、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。
 
 
 
天皇が行幸から帰京した[[10月11日]]に[[御前会議]]の裁許を得て、翌日[[国会開設の詔|国会開設の詔勅]]などが公表された。また大隈邸を伊藤と[[西郷従道]]が訪れて辞表提出を促し、大隈は了承した。なお、この際に「建国の本各源流を殊にす。彼れを以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が為され、結果として自由民権運動や大隈の唱える[[フランス]]流やイギリス流を否定したものの、岩倉らの進めようとしたプロシア流についても一旦は白紙撤回されることとなった(勿論、これによってプロシア(ドイツ)流論者の政府内での立場が強化されたのは事実であるが)。
 
 
 
=== 政変の影響 ===
 
一方、既にプロシア式の憲法導入に積極的であった岩倉や井上毅と違い、政変後の伊藤個人は立憲体制導入の決意は固めていたものの、どの形態を採るかについてはまだ確信は得ていなかった。また、華族制度改革や将来の[[内閣_(日本)|内閣]]制度導入を巡って、岩倉との間に見解の相違があることも明らかになってきた(岩倉は華族に維新の功臣が加えられることや既存の律令制・太政官制度に基づいた大臣制が廃止されることで、公家出身の自分が政府の中枢から排除されることを警戒していた)。
 
 
 
このため、[[1882年]](明治15年)、伊藤はドイツ(プロシア)の憲法事情を研究するという名目でドイツを訪問するが、それもあくまでも岩倉の意に沿ったというだけではなく、単にイギリスやフランスの事は自由民権派の人達が研究するだろうから、彼らが研究しないドイツを選んだ([[末松謙澄]]充ての書簡など)という選択に過ぎなかった。伊藤がプロシア式の憲法導入の決意を固めたのは、現地で指導を受けた[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の助言(シュタイン自身はドイツの立憲体制を批判してドイツを追われた学者であったが、日本の国情を研究した上でむしろ日本の方がドイツ本国以上にプロシア式の条件に符合していると説いた)によるものであるとされている。伊藤は[[1883年]](明治16年)に岩倉の死に合わせるかのようにして帰国して、本格的な憲法制定作業に取り掛かることになった。
 
 
 
政府から追い出され下野した[[慶應義塾]]([[福澤諭吉]])門下生らは『[[時事新報]]』を立ち上げ、[[実業界]]へ進出することになる。[[横浜正金銀行]]の運営に携わり、「[[丸善]]」を創始した[[早矢仕有的]]、[[三井]]の[[中上川彦次郎]]、[[藤山雷太]]、[[小林一三]]など財界への基盤を確固たるものにした。
 
 
 
また、野に下った大隈も10年後の国会開設に備え、翌[[1882年]](明治15年)3月には[[小野梓]]、[[矢野文雄]]とともに[[立憲改進党]]を結成、また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現・[[早稲田大学]])を早稲田に開設した。後に、大隈はこの時のことについて『大隈伯昔日譚』において自信がありすぎたと述べている。
 
<!--大隈の項目からコピー-->
 
また、明治10年代の日本ではすでに近代的な[[郵便]]制度が発足していたが、明治十四年の政変に際して政府高官は[[使用人]]を介した私的な[[書簡]]によって対処を相談しており、明治初頭においては機密保持のため私的使用人による情報交換がなされていた点が指摘される<ref>[[#石井1994|石井(1994)]]、{{要ページ番号|date=2012年10月}}</ref>。
 
 
 
== 政変で下野した官僚 ==
 
[[犬養毅]]、[[牛場卓蔵]]、[[大隈英麿]]、[[尾崎行雄]]、[[小野梓]]、[[河野敏鎌]]、[[島田三郎]]、[[田中耕造]]、[[津田純一]]、[[中野武営]]、[[中上川彦次郎]]、[[前島密]]、[[牟田口元学]]、[[森下岩楠]]、[[矢野文雄]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=石井寛治|authorlink=石井寛治|year=1994|month=11|title=情報・通信の社会史 近代日本の情報化と市場化|series=生活と技術の日本近代史|publisher=有斐閣|isbn=4-641-06717-1|ref=石井1994}}
 
*{{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|date=2009-11-05|title=伊藤博文 近代日本を創った男|publisher=講談社|isbn=978-4-06-215909-8|url=http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2159090|ref=伊藤2009}}
 
*{{Cite book|和書|author=坂本一登|authorlink=坂本一登|year=1991|month=12|title=伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入|publisher=吉川弘文館|isbn=4-642-03630-X|ref=坂本1991}}
 
**{{Cite book|和書|author=坂本一登|date=2012-03-12|title=伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入|series=講談社学術文庫 2101|publisher=講談社|isbn=978-4-06-292101-5|url=http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2921014|ref=坂本2012}}
 
*{{Cite book|和書|author=佐々木高行|authorlink=佐々木高行|editor=[[東京大学史料編纂所]] 編纂|year=1978|month=3|title=保古飛呂比 佐佐木高行日記|volume=第10巻|publisher=東京大学出版会|isbn=978-4-13-099770-6|url=http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-099770-6.html|ref=佐々木1978}}
 
*{{Cite book|和書|author=瀧井一博|authorlink=瀧井一博|date=2010-04-25|title=伊藤博文 知の政治家|series=中公新書 2051|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-102051-2|url=http://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/04/102051.html|ref=瀧井2010}} - [[サントリー学芸賞]]受賞。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[築地精養軒]]
 
* [[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]
 
* [[ヘルマン・ロエスレル]]
 
* [[東洋艦隊 (ドイツ)]]
 
* [[開拓使官有物払下げ事件]]
 
* [[国会開設の詔]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*{{Yahoo!百科事典|明治十四年の政変|author=[[芝原拓自]]}}
 
*{{Kotobank|明治十四年の政変|2=デジタル大辞泉}}
 
{{Japanese-history-stub}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:めいししゆうよねんのせいへん}}
 
{{DEFAULTSORT:めいししゆうよねんのせいへん}}
 
[[Category:明治時代の政治]]
 
[[Category:明治時代の政治]]

2018/10/4/ (木) 13:52時点における最新版

明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)

1881年大隈重信一派が明治政府中枢から追放された事件。当時,藩閥政府に対抗する自由民権論者は国会開設,憲法の早期制定を強く政府に迫っていた。政府もこれに対処するため2月各参議に意見を徴したが,同年3月政府部内で国会開設,憲法制定をめぐり意見が食違い,大隈が単独で左大臣有栖川宮に「政党内閣制,本年中に英米流の憲法を制定,2年後に国会開設」という意見書を提出したことに端を発し,大隈は伊藤博文と対立するにいたった。時を同じくして北海道開拓使長官黒田清隆が国費 1400万円をかけた事業を,同じ薩摩出身の五代友厚に 38万円 (30年賦) で払下げ決定をしたいわゆる開拓使官有物払下げ問題が生じ,大隈はこれに強く反対した。ここで,伊藤ら薩長派は大隈,福沢諭吉らに反政府陰謀があったという口実で,10月 11日御前会議で大隈一派を罷免する一方,開拓使払下げを中止する決定を行い,また翌 12日には「明治 23年に国会開設と憲法を制定する」という詔勅を出すにいたった。この政変は単に国会開設問題だけでなく,維新以来の財政政策を舞台とした大隈と松方正義および伊藤らの間の権力闘争の側面があり,以後,明治政府の政策は伊藤,黒田,松方,そして山県有朋らの薩長藩閥グループによって決定されていくこととなった。



楽天市場検索: