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'''日野 富子'''(ひの とみこ、[[永享]]12年([[1440年]]) - [[明応]]5年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1496年]][[6月30日]]))は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期の女性。[[室町幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の[[正室]]。父は[[蔵人]][[弁官|右少弁]]・[[贈位|贈]][[内大臣]][[日野重政]]、母は[[従三位]][[北小路苗子]](北小路禅尼)。兄弟に[[日野勝光|勝光]](兄)、[[日野永俊|永俊]](11代将軍[[足利義澄]]の義父)、[[日野資治|資治]]([[日野兼興]]の養子)、妹に[[日野良子|良子]]([[足利義視]]室)。9代将軍[[足利義尚]]の母。[[従一位]]。
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'''日野 富子'''(ひの とみこ、[[永享]]12年([[1440年]]) - [[明応]]5年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1496年]][[6月30日]]))
  
== 生涯 ==
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室町幕府8代将軍[[足利義政]]の室。日野重政の娘。 16歳で義政に嫁し,初め男子がなかったため,義政の弟浄土寺義尋 (義視) を還俗させて後嗣とした。しかし寛正6 (1465) 年義尚が生れたので,義尚を将軍の後継者とするため山名宗全と結び,義視を推す執事細川勝元と争い,ついには[[応仁の乱]]を引起した。そのため幕府の実権は失われ,社会は混乱し,政治は腐敗の極にあったが,富子は兄の左大臣[[日野勝光]]と結んで賄賂をとり,内裏修理を口実に関を設けて関税を課し ([[七口の関]] ) ,高利貸をして私腹を肥やした。義尚を将軍にすることには成功したが,彼は延徳1 (89) 年近江で陣没し,さらに翌年義政も没したので,その権勢も衰え,義視の子の義稙が将軍となると所領は没収され失意のうちに没した。
=== 生誕と結婚 ===
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[[山城国|山城]]([[京都府]])の生まれ。[[室町幕府]]の[[足利将軍家]]と縁戚関係を持っていた[[日野家]]の出身で、義政の生母[[日野重子]]は富子の大叔母にあたる。富子も[[康正]]元年([[1455年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]に16歳で義政の[[正室]]となり、[[長禄]]3年([[1459年]])[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]には第1子が生まれるが、その日のうちに[[夭折]]。それを義政の乳母の[[今参局]]が呪いを掛けたせいだとし、彼女を[[琵琶湖]][[沖島]]に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の[[側室]]4人も追放した。
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=== 応仁の乱 ===
 
富子は[[寛正]]3年([[1462年]])と翌4年([[1463年]])に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。寛正5年([[1464年]])に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を[[足利義視]]と改めさせ[[細川勝元]]を後見に将軍後継者とした。しかし翌[[寛正]]6年([[1465年]])に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である[[山名宗全]]や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や[[斯波氏]]、[[畠山氏]]の家督相続問題などが複雑に絡み合い、[[応仁の乱]]が勃発した。
 
 
 
富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍<ref>『[[大乗院寺社雑事記]]』内の『尋尊大僧正記』文明9年7月には富子が「畠山左衛門佐」に一千貫を貸し付けているという記録がある。[[永原慶二]]はこれを西軍の主将[[畠山義就]](右衛門佐)と解釈している。また西軍に参加している守護大名の[[畠山義統]](左衛門佐)という研究者も存在する(『NHK歴史番組を斬る!』鈴木眞哉 洋泉社歴史新書y 2012年)。 [[呉座勇一]]は[[尋尊]]が東軍の[[畠山政長]](左衛門督)をしばしば「左衛門佐」と誤記していることを指摘し、富子が東西両軍に金を貸しているという批判は誤りであるとしている(呉座雄一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』[[中公新書]]、平成28年([[2016年]])。ISBN 978-4-12-102401-5 194-195p)</ref>の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。
 
 
 
[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])頃には[[花の御所|室町亭]]([[京都市]][[上京区]])に避難していた[[後土御門天皇]]との密通の噂が広まった。当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた<ref>永原、326p</ref>。
 
 
 
文明5年([[1473年]])に宗全・勝元が死去、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は完全に政治への興味を失い、文明7年([[1475年]])には[[小河御所]]([[上京区]]堀川)を建設して1人で移った。文明8年([[1476年]])に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。「御台一天御計い」するといわれた富子に[[八朔]]の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達した<ref name="桜井、329p">桜井、329p</ref>。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。しかし、文明13年([[1481年]])になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居)。
 
 
 
文明9年([[1477年]])にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は[[伝奏]][[広橋兼顕]]に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の[[大内政弘]]と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしている<ref>桜井、317p</ref>。
 
 
 
=== 応仁の乱後 ===
 
長禄3年以降、[[京の七口|京都七口]]には[[関所]]が設置され[[関銭]]を徴集していた([[七口の関|京都七口関]])。この関所の設置目的は[[内裏]]の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。これに激高した民衆が文明12年([[1480年]])に[[徳政一揆]]を起こして関所を破壊した。富子は財産を守るために弾圧に乗りだし<ref name="桜井、329p"/>、一揆後は直ちに関の再設置に取りかかったが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的となった<ref>永原、330p</ref>。
 
 
 
義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年([[1483年]])には富子をおいて[[伊勢貞宗]]邸に移転し酒色に溺れた。このため富子は一時権力を失った。しかし[[延徳]]元年([[1489年]])に[[六角高頼]]討伐([[長享・延徳の乱]])で遠征中の義尚が25歳で没した。息子の急死に意気消沈したが、富子は義視と自分の妹の間に生まれた[[足利義稙|足利義材]](後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年([[1490年]])正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した。
 
 
 
明応2年([[1493年]])、義材が河内に出征している間に富子は[[細川政元]]と共に[[クーデター]]を起こして義材を廃し、義政の甥で[[堀越公方]][[足利政知]]の子[[足利義澄]]を11代将軍に就けた([[明応の政変]])。その3年後、明応5年(1496年)に57歳で死去した。
 
 
 
== 人物 ==
 
* 戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「[[悪女]]」「守銭奴」と評される事も多く、夫の義政が[[慈照寺|東山山荘]]の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていないことから「天下の悪妻」とも呼ばれる<ref>編集・主婦の友社『戦国時代』36頁。</ref>。一方で、火災で[[朝廷]]の[[御所]]が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていた<ref>『図解 ダーティヒロイン』藤井勝彦著 新紀元社 2013年 139P</ref>。幕府財政は贈答儀礼や手数料収入などに頼ったものに切り替わりつつあり、富子の蓄財もその文脈で考える必要があるとも指摘されている<ref>桜井、331p</ref>。
 
* 学問にも熱心であり、関白[[一条兼良]]に[[源氏物語]]の講義を受けている。将軍家御台所とはいえ、関白が女性に講義をするのは異例であるが、富子はこのために莫大な献金を行っている。
 
* 遺産は7万貫(約70億円)に達していたという。だが、その活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、お金儲けに熱中した悪妻と囁かれた。
 
* 義尚の急死とそれに続く義政の病没によって、幕府内部が動揺する中で40年近く幕府とともに歩んできた富子は「御台」として引き続き幕府内部に大きな影響を与えてきた<ref>富子は義政の没後、6年間の余生を送っていたが、その間も将軍の正室を意味する「御台」の尊号で呼ばれていたことが、富子の死去を記した『[[実隆公記]]』や『[[後法興院記]]』の記事で知られている。</ref>。明応の政変における将軍追放も「御台」富子の支持があって初めて可能であったと言われている。
 
* 応仁の乱の原因として義尚の後見人を宗全に頼んだことが挙げられるが、近年の研究で[[応仁記]]が記した虚構ではないかとされている。理由として、富子が宗全に依頼した出来事は応仁記以外の記録には見当たらず、義尚が生まれる前に宗全が諸大名と連携、その中に義視がいたことが挙げられている<ref>石田、3p - 4p、185p - 190p</ref>。
 
 
 
==墓所等==
 
*墓所:[[京都市]][[上京区]]の[[華開院]]に富子のものと伝わる墓が存在する。
 
*木像:京都市上京区の[[宝鏡寺]]所蔵。
 
墓所2:〒709-0704 岡山県赤磐市沢原1208 小川山常念寺自性院
 
 
 
==参考書籍==
 
* [[永原慶二]]『下克上の時代 日本の歴史〈10〉』[[中公文庫]]、1979年。ISBN 1121-681010-4622
 
* [[桜井英治]]『室町人の精神 日本の歴史12』[[講談社学術文庫]]、2001年。ISBN 978-4062689120
 
* [[吉見周子]]『日野富子のすべて』[[新人物往来社]]。ISBN 4-404-012136-4
 
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。ISBN 978-4-642-06319-7
 
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 日野富子を主題とした作品 ==
 
;小説
 
*[[司馬遼太郎]]『[[妖怪 (司馬遼太郎)|妖怪]]』(講談社/講談社文庫、1969年)
 
*[[瀬戸内晴美]]『幻花』(河出書房新社、1977年)
 
*[[永井路子]]『銀の館』(文藝春秋/文春文庫、1980年)
 
*[[平岩弓枝]]『日野富子』(『江戸の娘』収録、東京文芸社、1986年)
 
*[[山田風太郎]]「室町少年倶楽部」(『室町少年倶楽部』収録、文藝春秋/文春文庫、1995年)
 
;テレビドラマ
 
*『[[幻花]]』(1977年、NET、演:[[夏純子]])
 
*『[[花の乱]]』(1994年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[村嶋亜矢香]]→[[松たか子]]→[[三田佳子]])
 
;漫画
 
*[[藤田素子]]『日野富子』(「[[ロマンコミックス 人物日本の女性史]]」第18巻、[[世界文化社]]、1986年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[國學院大學本源氏物語]]
 
* [[明王院 (大津市)]]
 
* [[マーガレット・オブ・アンジュー]] - 富子と同時代の[[イングランド王国|イングランド]]王妃。富子と同じく薄弱な夫に代わって政治の実権を握り、王位継承を巡る[[薔薇戦争]]を引き起こして国内を荒廃させた。
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
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[[Category:室町幕府将軍の御台所]]
 
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日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日1496年6月30日))

室町幕府8代将軍足利義政の室。日野重政の娘。 16歳で義政に嫁し,初め男子がなかったため,義政の弟浄土寺義尋 (義視) を還俗させて後嗣とした。しかし寛正6 (1465) 年義尚が生れたので,義尚を将軍の後継者とするため山名宗全と結び,義視を推す執事細川勝元と争い,ついには応仁の乱を引起した。そのため幕府の実権は失われ,社会は混乱し,政治は腐敗の極にあったが,富子は兄の左大臣日野勝光と結んで賄賂をとり,内裏修理を口実に関を設けて関税を課し (七口の関 ) ,高利貸をして私腹を肥やした。義尚を将軍にすることには成功したが,彼は延徳1 (89) 年近江で陣没し,さらに翌年義政も没したので,その権勢も衰え,義視の子の義稙が将軍となると所領は没収され失意のうちに没した。



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