日産・フェアレディZ

提供: miniwiki
移動先:案内検索
フェアレディZ
200px
販売期間 1969年 - 2000年(初代ー4代目)
2002年 -(5代目以降)
製造国 日本の旗 日本
ボディタイプ 3ドア2座ファストバッククーペ
3ドア4座ファストバッククーペ
2ドアコンバーチブル(4代目 - )
駆動方式 FR
先代 ダットサン・フェアレディ
別名 DATSUN280ZX/NISSAN370ZX等
テンプレートを表示

フェアレディZ(フェアレディゼット、FAIRLADY Z )は、日産自動車が製造・販売するクーペタイプのスポーツカーである。

概要

日本における通称 愛称は「ゼット」、北米を中心とした海外においては「ダッツンズィー」「ズィーカー」など。

「フェアレディ(Fairlady)」と言うネーミングは前代までのダットサン・フェアレデイからの踏襲で、ミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」から名付けられた。

いずれのモデルも「フェアレディ」を冠すのは日本国内のみで、輸出向けは「DATSUN」または「NISSAN」と社名を付して呼称される。現行モデルは北米市場を含め日本国外では「NISSAN 370Z」として販売されている。

歴史

初代 S30型系(1969年 - 1978年)

1969年に先代モデルであるオープンボディダットサン・フェアレディに代わって発売された。

ヨーロッパ製の高級GTに匹敵するスペックと魅力あるスタイルを兼ね備えながら、格段に廉価であったことで、北米市場を中心に大ヒットした。日産(DATSUN)のイメージリーダーカーとして、足掛け10年もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立した。「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を世界に知らしめ、日産の海外進出の活路を拓いた日産の記念碑的車両である。現在でも日本国内はもとより世界的にクラシックカーとしての人気や知名度は高い。

開発の経緯とメカニズム

このモデルの開発・販売を企画したのは、1960年代当時、米国日産の社長であった片山豊である。彼はダットサンの北米市場拡販のために強力なイメージリーダーとなるモデルを求めており、イギリス製小型スポーツカーの模倣に留まる従来のダットサン・フェアレディでは、市場での競争力が不十分であり、年々厳しくなる北米の安全基準にも適合できなくなると考えていた。

片山はアメリカ市場でのニーズに適合した新しいスポーツカーの開発を要望し、1960年代中期から、腰の重い日産本社に対して熱心な働きかけを重ねた末に、当時の日産社長だった川又克二からようやく開発のゴーサインを得た。片山はアメリカ市場のニーズを見据えて日産本社の開発陣に明確なコンセプトと適切なアドバイスを与え、初代「Z」のプロデュースを主導した。片山自身はインタビューで「ジャガー・Eタイプのような車を造ってくれ」と要望を出したと述べており、初代Zのスタイリングはその期待を十分に満たすものとなった。

「Z」のスペックは高度なもので、軽量なモノコックボディに、前後輪ともストラット式サスペンションによる四輪独立懸架を備え、市場で先行するジャガー・Eタイプポルシェ・911などに肉薄した。

搭載されたL型直列6気筒エンジンは、SOHC動弁機構を備えた2 Lクラスの最新式ではあったが、素性は鋳鉄シリンダーブロックにターンフロー燃焼室を組み合わせた手堅い実用型エンジンであった。北米向け仕様は2.4 Lへの排気量拡大でトルクを太らせたL24型エンジン採用でパワー対策としており、これもまた手堅い手法であった。だがL型は低速域からのトルクに富み、大排気量アメリカ車同様に実用域で扱いやすかった。ジャガーやポルシェの高性能だが複雑なパワーユニットに対して、シンプルな設計のおかげで手荒な取り扱いにも耐え、信頼性が高く整備も容易な、アメリカ市場でのユーザーニーズに合致したユニットであった。この面では、実用車向け量産エンジンをチューニングして搭載していたかつてのイギリス製スポーツカーの良き伝統を受け継いでおり、「Z」に実用型スポーツカーとしての優れた特性を与えた。

荷物スペースはスペアタイヤ2個分というスポーツカーとしては非常に大きな容量を確保しているが、これはスーパーマーケットで購入する「一週間分の食料」の積載を考慮したもので、アメリカ人のライフスタイルを反映したものである。

デザインは松尾良彦率いる日産自動車第1造形課・第4デザインスタジオに託され開発が始まった。この部署はスポーツカー担当部署であったものの、少量生産を前提とした小さな部署であった。メディアでは第4デザインスタジオチーフだった理由から「S30のチーフデザイナーは松尾良彦」と紹介されることが多いものの、実際は吉田章夫(よしだふみお)案のファストバックをベースに松尾案のフロントマスクを合わせたデザインが基本となっている。その後、1967年に田村久米雄・西川暉一・桑原二三雄の3名がスタジオ入りし、最終的な造形修正は田村が担当している[1]

ボディタイプは各種検討されており、松尾がS30発売以前にデザインしたロングホイールベースの2+2は1973年秋に実車となってシリーズに追加された。オープンエアを求める層に対しては、独立したトランクルームを持つタルガトップモデルが設計され、プロトタイプまで製作された。また、将来的なモアパワーの要求には、プレジデント用V型8気筒Y40型エンジン)で対処する松尾の私案もあったが、どちらも市販化には至っていない。スケッチで終わったモデルには吉田のデザインしたレース仕様のものや松尾のデザインした4人乗りスポーツワゴンなどもあった。このうちスポーツワゴンにおいては松尾が1966年に描いたスケッチをもとに、米在住で自動車レストア専門家の安宅二弥によって1台だけ再現され、2014年8月サンディエゴの日産主催のZコンベンションにてお披露目された。この様子は米国二スモのサイトでも紹介された。

1996年に北米での300ZX(Z32型系)の販売が中止になった後、ファンからの要望で北米日産が新品・中古パーツを集めてレストアして240Zを限定販売する企画が立ち上がり、ビンテージZと名付けられて販売された。しかしレストアには予想以上の費用と時間がかかり採算が合わない上、応募者が殺到したため、当初200台の予定が39台にとどまりその後中止となった。またビンテージZには受注ベースの車両もあったことと、全て地元の板金工場やショップが仕上げた為、個々の車体の仕上がりや仕様には様々なものがある。しかしメーカーが総力をあげて車をレストア販売するという異例の企画は当時画期的であった。

新車販売価格

日本国内における当時の新車販売価格が廉価版の「Z」が84万円、「Z-L」が105万円とスポーツカーとしては比較的安価であったことで爆発的にヒットした。「432」は182万円、後に追加された「240ZG」は150万円。

変遷

1969年

日本国内ではSUツインキャブレターを装備したSOHCのL20型と、当時の旧プリンス系で開発されスカイライン2000GT-Rに搭載されていたソレックスツインチョークキャブレターを3基装備したDOHCS20型の2種類の直6 2.0 Lエンジンが設定された。SOHCモデル(S30型)にはベースモデルで4速MT搭載の「フェアレディZ」と、5速MTを搭載し、AMラジオ付きカーステレオ、助手席フットレスト、リクライニングシートなどの装備を充実させた「フェアレディZ-L」、DOHCモデル(PS30型)は「フェアレディZ432」がそれぞれラインナップされた。「432」とは、「4バルブ・3キャブレター・2カムシャフト」の意であり、搭載されるS20型エンジンの構造に由来する。その他、競技用ベース車両として、ヒーターすらオプションとなり、キャブレータにエアクリーナーはなくファンネルのみが付き、FRP製エンジンフード、アクリル製ウィンドウを採用するなどの軽量化が施された「フェアレディZ432-R」も存在した。これには「運輸省(当時)に対し登録してナンバーを取得しないことを条件に型式認可をもらった」「購入者は競技のみに使用する旨の念書が取られた」などという(真偽不明の)逸話もある。アメリカとイギリスでは2.4LのL24型エンジンを搭載した「ダットサン240Z」(HLS30 / HS30型)を発売。

1970年

フェアレディZ-Lに3速AT(ニッサンフルオートマチック)車を追加。それまでハイオクガソリン仕様のみであったが、レギュラーガソリン仕様車も全グレードに追加発売された。L20はハイオクガソリン仕様130ps、レギュラーガソリン仕様125ps。S20はハイオクガソリン仕様160ps、レギュラーガソリン仕様155ps。

1971年

フェアレディZにも3速AT車を追加および細部のマイナーチェンジ。それまで輸出専用であったL24型エンジンを搭載した「フェアレディ240Z」「フェアレディ240Z-L」「フェアレディ240Z-G」を日本国内でも追加発売。240Z-Gには「グランドノーズ」(後年の通称“Gノーズ”:ただしカタログでは“エアロダイナ・ノーズ”)と呼ばれるFRP製のフロントバンパー一体型のエアロパーツとオーバーフェンダーが装着された。

1973年

2.0Lモデルの「Zシリーズ」をマイナーチェンジ。昭和48年排出ガス規制適合、ダッシュボードの意匠変更とテールランプとリアガーニッシュの変更が施され、バックランプがガーニッシュ内に配置された。折からの公害問題やガソリン高騰などにより、Z432シリーズと日本国内の240Zシリーズの2モデルの生産を中止した。

1974年

全長を310mm延長した、4人乗りモデルを追加(GS30、1月17日発表・発売)。2by2と称した。輸出モデルは従前の2.4Lから2.6LのL26型エンジンの変更で排気量アップした「ダットサン260Z」(RLS30)に変更。260Zは一部を国内基準に適合させ、当時右側通行だった沖縄で販売されている。日本国内でもL26型エンジンを搭載した「フェアレディ260Z」の発売を予定していたが、オイルショックなどの影響で断念している。

1975年
ファイル:1978 datsun 280z 2+2.jpeg
5マイルバンパーを装着した280Z

昭和50年排出ガス規制の施行に伴い、SUツインキャブからL20E型(ドイツ・ボッシュ開発のL-ジェトロニック式電子制御燃料噴射装置・ニッサンEGI)に変更、同時に排気系に触媒を有する、排気ガス浄化システム「NAPS(ニッサン・アンチ・ポリューションシステム)」を装着。型式が「A-S30・A-GS30」となる。輸出モデルは従前の2.6Lから2.8LのL28E型エンジンの変更で排気量アップした「ダットサン280Z」(HLS30)に変更。ニッサンEGIシステムであるが、触媒などの排気ガス浄化システムは装着されていない。北米モデルは5マイルバンパーと呼ばれるショックアブソーバ付きの大型バンパーを装着。

1976年

Z-LをベースにFM/AMマルチカセットステレオ、電動式リモコンフェンダーミラー、パワーウインドウなどを追加装備した上級グレードの「フェアレディZ-T」を追加。アルミホイールをオプション設定。昭和51年排出ガス規制の施行に伴い、排気ガス還流装置 (EGR) などを追加装備。型式が「A-S30・A-GS30」から「C-S31・C-GS31」と変更。

1978年

S130型へのフルモデルチェンジにより生産終了。

型式詳細

型式の解説
H L G S30
搭載エンジン ハンドル位置 ホイールベース 基本型式
無記号 L20
P  S20
H  L24
R  L26
H  L28
無記号 右
L 左
無記号 (標準・定員2名)
G (ロング・定員4名)
S30 昭和50年排出ガス規制以前車
S31 昭和51年排出ガス規制適合車 
  • 型式の頭に、昭和50年排出ガス規制適合車は「A-」、昭和51年排出ガス規制適合車は「C-」がそれぞれ付与される(日本国内販売車のみ)。
  • HLS30(左ハンドル・2名乗り)の場合、同一型式でL24型エンジン搭載車と後年発売されたL28型エンジン搭載車の2種類のエンジン搭載車が存在するため、型式だけではどちらなのか判断できないが、型式に続く車台番号が前者は5桁、後者は6桁であるため車台番号まで全て分かれば判別が可能である。HLGS30のL24型エンジン搭載車は存在しない。

2代目 S130型系(1978年 - 1983年)

1978年8月
S130型に1度目となるフルモデルチェンジ。
先代のロングノーズ・ショートデッキスタイルを継承しながら、2代目はややワイドサイズとなって登場。2.0Lの「200Z」と2.8Lの「280Z」の2つのL型エンジンを設定していた。先代を正常進化させたスタイルであったが、リアサスペンションがセミトレーリングアームに変更された影響で、燃料タンクとスペアタイヤ収納部がより後方へ移動し、リアオーバーハングが拡大した。
1980年
国産車で初めてTバールーフ仕様車を追加。
オープンタイプはダットサン・フェアレディからフェアレディZに移行されてからは初の生産となり、Z32までTバールーフの形態が続く(Z32のみフルオープンのコンバーチブルと併売、Z33及びZ34はTバールーフを廃止して「ロードスター」に変更・統一された)。
このモデルをガス圧開閉式セミガルウィングウィンドウ化改造されたものがテレビドラマ『西部警察』に登場するパトロールカー「スーパーZ」として使用された。
1981年10月29日
マイナーチェンジ。2.8Lモデルが圧縮比アップやフリクション低減などにより10ps出力向上し155psとなった。2.0LモデルのATをロックアップ式に、パワーステアリングをリサーキュレーティングボールからラック・アンド・ピニオンに変更。他にサスペンションチューニングの変更、全般的な軽量化、大型ソフトカラードバンパーの全車標準化、対米モデルと同じフードルーバー(NACAダクト)追加、センターピラー上のグリルやテールランプの変更、自動速度制御装置、リアサイドウインドウのリモコン機構、メタル対応デッキ、減光式ルームランプ、ドアキー照明、本革と人工皮革のコンビシート(オプション)の採用など。
第24回東京モーターショーにアメリカ合衆国で開催されていたレースSCCA(Sports Car Club of America )に参戦していた「DATSUN ZX TURBO V-8」を参考出品。FRP製のボディにプレジデント用のV8エンジンをベースにターボを組合わせたレーシングカーである。
1982年
アメリカでL28ET型エンジンを搭載した2.8Lターボモデルが誕生。初代に引き続きS130もアメリカでは大ヒットとなり、1年足らずで生産台数10万台を突破した。(L28ET登載車は日本の型式申請が通らなかった。)
1982年10月
歴代フェアレディZ初のL20ET型2.0Lターボエンジン搭載モデル「200Z-T」が追加。日本車初の60%偏平率タイヤとなる215/60R15装着車だった。当時はこれが『超ワイドタイヤ』と呼ばれた。
1983年
初代からの累計台数100万台を達成。


3代目 Z31型系(1983年 - 1989年)

1983年9月
ロングノーズ・ショートデッキというZの伝統的なコンセプトを引き継ぎながら、空力性能を重視して、エクステリアをシェイプアップした3代目が登場。5年ぶり2度目となるフルモデルチェンジ[2]。キャッチコピーは『較べることの無意味さを教えてあげよう』、『ワルツ・ナイト』、『セラミック・レスポンス』、『SOUL SYNCHRO MACHINE』など。
開発当初からヨーロッパ製の名門スポーツカーを凌ぐ、ハイパフォーマンスの追求を目標に掲げていた。プラザ合意に基づく急激な円高によって、海外輸出車の価格上昇は避けられず、廉価な日常用スポーツカーからハイパフォーマンス・スポーツカーへの宗旨替えは、北米を主要な市場とする本車種にとって時宜を得たものであった。
前期型のエクステリアデザインは社内によるもので、高木一正を中心としたチームによってまとめられた。
エンジンは直列6気筒のL型から新世代V型6気筒エンジンであるSOHCターボ2.0LのVG20ETと3.0LのVG30ET (日本国外向けにはNAのVG30Eがある)全グレードにV6ターボエンジンを搭載した[2]。後に再度直列6気筒モデルが設定されるも、ターボ搭載は守られた。ライバル関係にあるトヨタ・スープラが廉価版に2,000ccNAエンジンを採用したのは、好対照であった[注釈 1]。中でもVG30ETは当時としては大パワーを誇り、スープラに搭載される7M-GTEUが出るまではトップクラスの出力を誇り、空力に優れた欧州向けモデルでは、最高速度が250km/hに届いた。また当時の北米では直6エンジンは廉価な自動車のエンジンという印象が強かったため、ハイパフォーマンス・スポーツカーへの宗旨替えのためには、V6エンジンの採用は必須であった。
ターボチャージャーは2.0 L/3.0Lともにギャレットエアリサーチ製のT03型を使用。
販売当初のラインナップは、日本向けが2.0LのZ/ZS/ZG(ZGはTバールーフが設定されている)
3.0LはZXのみ、いずれもターボエンジンだった。
300ZXの5速MTボルグ・ワーナー製のT5型トランスミッションが搭載された。
サスペンションは全車に減衰力3段階切り替え式の3ウェイアジャスタブルショックアブソーバーを採用し、ソフト/ミディアム/ハードの3段階切り替えが可能だった。
外観では、通常の軸回転式リトラクタブル・ヘッドランプとは異なり、ランプが上下に平行移動する構造で、消灯時にもレンズの一部が露出するパラレルライズアップヘッドランプを採用した。ボディの一部を削ったかのようにしてのヘッドランプを装備という、従来のデザインを踏襲するためであるが、別体のパッシングランプを省略するためという実用上の意味合いもあった。ただ当時の米国ではヘッドランプに連邦自動車安全基準に準じない異形レンズの使用を認めておらず、北米輸出仕様では連邦自動車安全基準規格の角型ヘッドランプにドライビングランプを組み合わせた状態で対応した。1986年に行なわれたエクステリアの大幅なマイナーチェンジの際は異形レンズの使用が認可されるようになり、日本仕様と同様の状態で輸出された。輸出では永らくダットサン240~280Z/ZX(130後期まではダットサンプロダクテッド・バイ・日産のサブタイトルがあった)から全世界へ正式に「日産300ZX」となった。
1984/1985年
日産自動車創立50周年を記念した「アニバーサリー」を北米市場のみで発売。デジタルメーターやブラックの本革内装、リアオーバーフェンダー、専用アロイホイール、左カウルの記念オーナメントなどが特徴。日本では同仕様が販売されなかった為、逆輸入された個体が存在する。
日本国内では、久々の直列6気筒エンジンとなる、DOHCセラミックターボRB20DETを搭載したモデルが追加設定された。
セラミック製のターボはこれが世界初であった。日産は「セラミック・レスポンス」というキャッチコピーでアピールした。エンジンはもともとR31型系 スカイライン用として開発されたもので、インタークーラーが上置き形に変更されたため、ボンネット中央に設けられた大型エアスクープが外観上の特徴となった。ノーマルルーフの「200ZR-I」とTバールーフの「200ZR-II」の2種類があった。
1986年
日産の北米でのデザイン拠点である日産デザインインターナショナルが提案したエクステリアデザインを採用し、3Lモデルはキャビン部(含むリアゲート)と左右ドア以外のパネルを全て意匠変更するという大幅なマイナーチェンジを施される。北米輸出仕様と同様のワイドフレアーフェンダーの3ナンバー専用ボディを与えられた。2.0Lモデルについては前後のスキンチェンジのみでフロントとリアフェンダーは変わっていない。
エンジンは2.0LモデルのVG20ETが廃止されRB20DETのみとなり、3.0Lモデルは前期型からVG30ETを継続する「300ZX」に加え、2月にレパードに搭載されデビューを飾ったVG30DEとゲトラグ製5速MTが組み合わされた「300ZR」が追加された。この「ZR」は締め上げられた足回りと、Z31型系で唯一の自然吸気エンジンなどから、古典的でスパルタンな味わいを持つマニアックなモデルとなった。なお、このマイナーチェンジで、日本仕様の「300ZX」はATのみとなった。しかし1988年には3,000cc・DOHCターボで255PSを誇るVG30DETエンジンを搭載する日産・シーマが登場し大ヒット。本車はその後塵を拝することとなった。
1987年11月

AT車にシフトロックを追加。

1988年6月

3000cc車に50%偏平率タイヤとビスカスLSDがオプションで追加設定された。

4代目 Z32型系(1989年 - 2000年)

1989年平成元年)7月10日
スタイル、パフォーマンスを始めとして、完璧なスーパースポーツカーを目指した4代目が登場。キャッチコピーは『スポーツカーに乗ろうと思う』。バブル景気の絶頂期と崩壊、その後の日産の経営悪化のため10年以上という長期に渡り生産されたモデルである。
エクステリアデザインは当時日産自動車デザイン部に所属していた前澤義雄園勲夫・山下敏男等数名の手によるものである。イメージは獲物を狙う動物であり、静止した状態でも躍動感のあるフォルムを追求した。そして当時のデザインのトレンドを考慮し、従来からの特徴であるロングノーズ・ショートデッキを改め、新たにワイド&ローというスポーツカーの基本的イメージを決定し、日本本来の良さを持ったアイデンティティーや、いつまでも沈まないカリフォルニアの太陽に映えるボディデザインを検討したという[3]。また、前澤によれば、マイナーチェンジの際に前後オーバーフェンダーにし、ホイールを17インチ化する計画があったものの実現しなかったと語っている[4]
ワイド&ローの迫力のあるボディの設計にはCADが多用され、これによりV型6気筒DOHCの全高が高い設計のエンジンを、初代のような盛り上がりなしで低いボンネットに収めたが、その結果エンジンルームが狭く整備性が大変悪いという欠点を作ってしまった(特にタービン交換はエンジンを降ろさなければならない)。次代以降については衝突安全性と歩行者頭部保護に関する評価基準が引き上げられたことでボンネットが高くデザインされ、従来のデザインアイディンティティの変更を余儀なくされた。
ヘッドランプは3代目のパラレルライジングタイプから、再び固定式に戻された。このランプはレンズの傾斜が非常に緩いため、当時の一般的なレンズカットとハロゲンバルブの組み合わせでは透過率が低すぎて照度が確保できず、カットなしのレンズ(カバー)とし、プロジェクターランプ(ロービーム用)の採用とリフレクター(ハイビーム)の見直しでこの問題を解決している。ボディの一部を削ったかのようにしてランプを設置するというデザインを踏襲してはいるが、透明なガラスレンズによってボディ上面は平滑さを保っている。このランプユニットはその独特な形状から、後年ランボルギーニ・ディアブロR390(ロードカー)にも流用された。
車体寸法は幅方向が特に大きくなり、先代までの5ナンバーサイズから完全な3ナンバーサイズに変更された。2シーターおよび2by2と2つのシャシー、ボディがあり、それぞれホイールベースも異なるためシャシー別に設計、製造されているのがフェアレディZの特徴だが、Z32型は2シーターと2by2の外観上の違いは燃料給油口の位置が2シーターはドアとリヤタイヤハウスの間で2by2はリヤタイヤハウスの後ろに位置していることから容易に判別できるモデルである。2代目(S130型)から続くTバールーフも一部モデルに引き継がれた。なお、2by2はTバールーフが標準装備になっており、ノーマルルーフは設定されていない。
イグニッションキーの材質はチタン、車載ジャッキはアルミ製、スペースセーバー式スペアタイヤアルミホイールである。
メカニズム面においては同時期に発表されたスカイライン(R32型)と同じく電子制御式4WSであるスーパーHICASツインターボモデルに装備され、より理想的なコントロール性能を目指した。
搭載される2種類のエンジンはV6、3.0Lが採用されている。先代の300ZRで採用された自然吸気のVG30DE型[注釈 2](230ps)とMID4-IIに搭載されていた新開発・ツインターボチャージャー搭載のVG30DETT型をデチューンしたものが用意され、中でもVG30DETT型が搭載されたツインターボモデルは日本の自動車メーカーで初めて最大出力280PSに達した。当初は日産としては同時期のスカイラインGT-RインフィニティQ45とともに300PSを出し、300PSトリオとして発売する目論見であったが、運輸省(当時)からの指導により3車種とも280PSに抑えたという経緯がある。日本の各自動車メーカーが実施していた自主規制値の280PSはここから生まれた。なお輸出仕様については300PSである。また、VQ30DEに載せ換える計画が持ち上がったものの、エンジン換装にはモデルチェンジに近い仕様変更が必要だったため見送られている。
主要マーケットであった北米においては、ポルシェなど欧州製スポーツカーに伍する高級スポーツカーとしての認知が定着した。なお、従来は本車種が担っていた廉価版スポーツカーの立ち位置は、240SXが担う事になった。
当モデルより、旧日産店(ブルーバード販売会社)に加えてプリンス店(スカイライン販売会社)でも取り扱われるようになった。
1992年8月
フルオープンモデルとなる「フェアレディZコンバーチブル」を追加(2シーターのみ)。シートベルトのリトラクターとハンガーの位置がドア内部からボディ側に変更。
1993年8月
一部改良。リアスポイラーを高速安定性の高いウイングタイプへ変更。エアコン代替フロン(R-134a)の新冷媒エアコンに変更。ターボモデルに搭載されている、Super HICASが電動式になる。内装色を変更。
1994年10月
一部改良。運転席SRSエアバッグを全車標準装備としたほか、2シーター、2by2、コンバーチブルそれぞれに「バージョンS」追加。リアスポイラーおよび専用シートを装備する。また、2by2 Tバールーフには「バージョンSレカロ」を設定。「バージョンS」をベースに16インチBBS製鍛造アルミホイール、レカロ製シート、ミラーコートTバールーフ、電子制御アクティブサウンドシステムを装備する。全車に運転席SRSエアバッグビスカスLSDが標準装備。ターボモデルに装備されていたブースト計が廃止。ブレーキキャリパーの材質をアルミ合金から鋳鉄に変更。チタンキーの設定が廃止される。
1997年1月
一部改良。「バージョンR」追加、新ボディ色ミッドナイトパープル追加。ツインターボモデルとバージョンRはABSを標準装備。2シーターがバージョンSのみの設定となる。
1998年10月
マイナーチェンジ。ボディ剛性の向上。フロントバンパー、リアスポイラーなどを変更。サイドシルプロテクターを装備。フロントオーナメントとリヤの300ZXの文字を赤色化。メーカーオプションでポリッシュ仕上げのアルミホイールが設定される。ツインターボモデルにキセノンランプを標準装備。リヤコンビランプのターンランプを白色レンズ化。インナーフィニッシャーが黒色からクロームメッキに変更。「コンバーチブル」を廃止。シートカラーが変更される。
2000年9月
生産終了。以後、在庫のみの対応となる。
2000年12月
販売終了。30年の歴史にいったん幕を下ろし、2002年7月の5代目(Z33型)発売までは一時的に絶版車種となった。

5代目 Z33型系(2002年 - 2008年)

ファイル:Nissan350Z-02.jpg
5代目フェアレディZ

2002年7月30日、Z33型発売。2年ぶりの復活となった。ボディタイプは2シータークーペのみで、歴代フェアレディZに設定されていた2by2は廃止され、V35スカイラインクーペに代替された。搭載するエンジンの排気量は3.5Lで、最高出力は当初こそ自動車馬力規制の影響で280psだったが、年次改良を重ね、規制撤廃も相まって、最終的に313psまで向上された。モデルライフ途中にはオープンモデルのロードスターが発売された。2008年11月に販売終了し、次期型にモデルチェンジ。

6代目 Z34型系(2008年 - )

2008年12月1日に復活後初めてのフルモデルチェンジを行い、6代目 Z34型となった。

先代モデルをさらに進化させたモデルで、変速機、ボディなどを煮詰めた。 エンジンは、スカイラインなどでも採用された3.7LのVVELエンジンを搭載し、336PSを発生させる。モデルライフ途中でロードスターが遅れてフルモデルチェンジした。

車名の由来

ブロードウェイミュージカルの『マイ・フェア・レディ』に感銘を受けた川又社長が、クルマにも洗練されてゆく美しさを求めた名前といわれる。「FAIRLADY」は貴婦人、「Z」はアルファベットの最後の文字であることから究極を意味する。また、初代開発スタッフに、当時のアメリカ日産社長片山豊Z旗を贈ったエピソードもある。

ちなみに、日産ノースアメリカがこの車にちなみ「z.com」というドメインを所持していた(以前はフェアレディZのページへ転送されたが、後にHTTPでのアクセス用としては利用されなくなり、最終的に2014年11月にGMOインターネットに売却された[5])。

ミス・フェアレディ

横浜グローバル本社(現在は一時閉館中だが銀座4丁目にもショールームが存在)に置かれている日産自動車の直営ショールーム「日産ギャラリー」内にいるコンパニオンショールームスタッフ)は、「ミス・フェアレディ」と呼ばれており、日産自動車の顔として活躍している。また、東京モーターショーや新車発表披露会、各種イベントでもコンパニオンとして活躍している。

レース活動

初代

11月 RACラリーに「240Z」が参戦し、総合7位(クラス2位)。ドライバーはラウノ・アルトーネン
モンテカルロ・ラリーに「ダットサン・240Z」が参戦。アルトーネン/ポール・イースター組が総合5位(クラス2位)を獲得。トニー・フォール / マイク・ウッド組が総合10位(クラス3位)。
サファリラリーに「ダットサン・240Z」が参戦。1-2フィニッシュを達成し、総合・クラス・チーム優勝の3冠を獲得。優勝ドライバーは前年もダットサン 510で優勝のエドガー・ヘルマンである。2位はシェカー・メッタ、7位はアルトーネン。
1月 全日本鈴鹿300kmレースにて「ダットサン・240Z」が優勝。
6月 富士グランチャンピオンレースGCクラスにて「ダットサン・240Z」が優勝。ドライバーは「Zの柳田」の異名を持つ柳田春人
モンテカルロ・ラリーに「240Z」が参戦し総合3位。ラウノ・アルトーネン/ジャン・トッド
サファリラリーに「240Z」が参戦。ヘルマンが総合5位。
サザンクロスラリーに「240Z」が参戦し、アルトーネンが総合2位。
6月、「富士グラン300マイルレース」にて「フェアレディ240Z」が優勝。
世界ラリー選手権モンテカルロ・ラリーに排気量を2.5Lに拡大した「240Z」が参戦し総合9位。
世界ラリー選手権サファリラリーに「240Z」が参戦。シェカー・メッタが総合優勝を獲得。2位にブルーバードU (610) が入りチーム優勝も獲得。
4月 レース・ド・ニッポンにて「フェアレディ240ZR」が2位獲得。
全日本鈴鹿1000kmレースにて「フェアレディ240ZR」が総合優勝を飾る。
サファリラリーに「240Z」が参戦し、総合4位。
5月 78 JAF富士グランプリ GTSクラスにて「フェアレディ280Z」が2位獲得。
9月 富士インター200マイルレース スーパーT&GTクラスにて「フェアレディ240Z」が優勝。

2代目 - 4代目

ファイル:Datsun280ZXrace.jpg
1983年のIMSA-GTOクラスに参戦した280ZX。ドライバーはエレクトラモーティブの創設者、ドン・デベンドーフ。
ファイル:Cunningham 300ZX.jpg
1994年のデイトナ24時間レースで優勝した、クレイトン・カニンガム・レーシングの300ZX

S130型からは、レース活動の主軸を北米に移し、ポール・ニューマンによってIMSA-GTOに活躍の場を見出した。IMSAの統括団体の解散に至るZ32型まで、北米でのレース活動が継続された。

1985年、3代目(Z31)300ZXターボが全日本ラリー選手権年間総合優勝。ドライバーは神岡政夫

4月 第3戦 関西ラリー 5位
   第4戦 ACKスプリングラリー リタイヤ
   第6戦 ツール・ド・九州 優勝
   第7戦 ツール・ド・東北 優勝

1987年、Z31型200ZR-Iで参戦。

Z32がIMSA1990年から参戦。エンジンはプレジデントに搭載していたV8エンジンを搭載。ドライバーはスティーブ・ミレン1992年1994年、ドライバーズとマニュファクチャラーの両タイトルを獲得。 また1994年デイトナ24時間レースセブリング12時間レースで優勝、ル・マン24時間レースでも総合5位・クラス1位を獲得。

5代目

参照: 日産・フェアレディZ Z33#モータースポーツ

6代目

参照: 日産・フェアレディZ Z34#モータースポーツ


パトカー仕様

1972年にS30型240ZGのパトカーが日産より神奈川県警察高速道路交通警察隊に寄贈された。当時は“最強のパトカー”ともいわれ、1980年まで活躍した。その後S130型、Z31型、Z32型、Z33型と代替わりしていった。1992年に導入されたZ32型は寄贈された車両であり廃車できなかったため2004年ごろまでは現役であり、2006年にZ33型のパトカーが導入された。またS30型の240ZGのパトカーは車両が廃棄されず残っており、県警交通安全センターで展示されていたが閉館したため県警が保管していた。現在は日産自動車に返還され、座間事業所内の座間記念車庫に保管されている。

1975年には当時三重県警察本部長であった佐々淳行が、部下から「東名阪自動車道で『三重県警のパトカーはオンボロで違反車に追いつかない』と、ドライバーがスピード違反を平気でしている」と聞き、更新予定であったパトカー8台分の予算を使って高速道路の上下線用に各1台、計2台のフェアレディZを導入した。この車両は今までの同県警高速隊の車両(佐々の著作によると『トヨペット・カスタム』)では逃げられてしまっていた悪質速度違反車の取り締まりに絶大な効果を発揮し、またこのことはドライバー間でも話題となり、ついに三重県の高速道路からスピード違反が一掃された。[注釈 3]

2007年にはZ33型Version NISMOが栃木県警高速隊本隊に配属され、東北自動車道で運用されている[注釈 4]

2016年にはZ34型NISMOが警視庁高速隊に導入された(2004年マツダ・RX-8の後継車種)[6]

他にも大阪府警察でも導入されたことがある。

脚注

注釈

  1. 同じくライバル関係だった初代トヨタ・ソアラ日産・レパードにおいては、前者が廉価版でも2,000cc6気筒だったのに対し、後者は1,800cc4気筒を採用してブランドイメージを損ねている。
  2. ただし、シリンダーヘッドや吸排気系、シリンダーブロック、クランクシャフトといった骨格の部分に至るまで新設計となっているなど、Z31型に搭載された物とは相違点が多い。
  3. 『菊の御紋章と火炎ビン―「ひめゆりの塔」と「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」』佐々淳行 文藝春秋、2009年。なお、同書ではこの2台を「日本初めての白黒ツートンカラーのフェアレディZ」と記しているが、この時点で前述のとおりすでに神奈川県警にフェアレディZが導入されていた。
  4. モーターマガジン社による高速隊への取材。細部の写真も公開されている。

出典

関連項目

外部リンク

テンプレート:NISSAN

テンプレート:トップスポーツカー