日産・スカイライン

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スカイライン (SKYLINE) は日産自動車が製造・販売している自動車である。

日産・スカイライン
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13代目 セダン ハイブリッド
販売期間 1957年-
製造国 日本の旗 日本
ボディタイプ 2ドアクーペ
オープンカー
ハードトップ
4ドアセダン
3/5ドアステーションワゴン
ライトバン
ハッチバック
SUV
先代 プリンス・セダン
別名 プリンス・スカイライン(初代-2代目)
日産・プリンス・スカイライン(2代目)
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概要

1957年富士精密工業(のちのプリンス自動車)の主力車種として生産を開始。1966年にプリンスが日産自動車と合併した後も車名が引き継がれ、長期に渡って生産されてきた。

車名は「山並みと青空を区切る稜線」に由来する。2007年3月21日、名付け親の桜井眞一郎がこの名を思いついた場所である群馬県草津町の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」に、生産50周年を記念して「スカイライン命名の地」のプレートが設置される。

ボディラインナップは2018年現在4ドアセダンのみである。過去には2ドアクーペ、5ドアハッチバック、ステーションワゴンライトバンなども存在した時期もあるが、日産自動車の類似車種統一化政策等により、他の同クラスと統合されスカイラインとしての製造は廃止となっている。

(特にR34以前は)ミドルクラス(Dセグメント)セダンに位置するが、自動車レースで用いられた過去があり、特にGT-Rグレードは同クラスの他車に比べてレース色が強く、実際に製品としての性格付けもそのようになっている。

GT系は愛称として「スカG」(スカジー)と呼ばれることも多い。

長野県岡谷市鳥居平やまびこ公園内には、自動車博物館としては異例の単一車種の博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム」がある。

C10型からR32型までは、型式毎にCMキャッチコピーなどに基づく愛称(通称)を持つ。

歴史

初代 SI型/S2型(1957年-1963年)

1957年4月
富士精密工業(当時)より発売されたALSI-1型がスカイラインの初代となる。当時の日本における小型乗用車規格に合わせ、当初は1,500ccでの発売となった。グレードはスタンダード(ALSIS-1型)とデラックス(ALSID-1型)の2種類。ボディスタイルはプリンスの自社オリジナルで、アメリカ資本の欧州車を思わせるボリューム感のあるデザインだったが、ヨーロッパのモーターショーでは同時期発表の中型セダンであるシムカ・アリアーヌからのデザイン盗用を疑われたこともある。
構造面は、やや旧弊化した在来プリンス車から完全に一新され、低床バックボーン・トレー式シャーシを持つセミ・モノコック構造となった。前輪は前年のプリンスで既に採用されていたダブルウィッシュボーン独立懸架、後輪は日本最初のド・ディオンアクスルを採用し、先進性をアピールした。搭載するエンジンは直列4気筒OHV・1,484ccのGA30型で、プジョー系の設計の発展形であるプリンス在来型エンジンの改良であるが、60PSの出力は、競合するトヨタや日産の同クラス車を上回るものであった。カタログスペックでは当時の日本製1,500cc車最速の最高速度125km/hを称した。
1958年
マイナーチェンジ。
1958年10月
第5回全日本自動車ショウ(後の東京モーターショー)に、排気量拡大型の試作車「スカイライン1900」(BLSI-1型)を出品。この試作車は当時の皇太子明仁親王の愛車となり、明仁親王が自ら運転したことでも知られる。
1959年2月
前年の全日本自動車ショウに出品した1,900ccモデルを「グロリア」(BLSIP-1型)として発売。直列4気筒OHV1862cc GB30型エンジンを搭載する。
1959年7月
第1回日本アルペンラリーに出場し、優勝および総合3位を飾る。優勝ドライバーは自動車ジャーナリストの古我信生。
1959年10月
エンジン出力を70PSへ向上し、スタンダード(ALSIS-2型)、デラックス(ALSID-2型)となる。
1960年2月
マイナーチェンジ。スタンダード(ALSIS-2改1型)、デラックス(ALSID-2改型)ともにテールランプを丸型2灯に変更、併せてデラックスのみ4灯式ヘッドランプを採用となる。
1960年9月
スタンダード(ALSIS-2改2型)がマイナーチェンジにより4灯式ヘッドランプに変更。デラックスのフロントグリルがグロリア同様の格子型に変更。
1960年11月
第42回トリノショーにイタリアのカロッツェリアジョヴァンニ・ミケロッティ」にデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」(BLRA型。後にR21A/B型と改称)を出展。
1961年5月
「1900デラックス」(BLSID-3型)追加。直列4気筒OHV 1,862cc GB4型を搭載する。
1961年10月
「1900スタンダード」(BLSIS-3型)追加。
1962年4月
「スカイライン・スポーツ」(BLRA-3型/R21B型)を追加。日本初のスペシャルティカーといわれる。つり目4灯ヘッドライトの特徴的なスタイル、クーペとコンバーチブルの2タイプの設定等、注目を集めたが、ボディの殆どがイタリアの職人の指導によるハンドメイド(ジョバンニ・ミケロッティとアレマーノ社の手により製作)で高コスト・高価であり、また市場も十分に育っていなかったため、製造台数は60台ほどでビジネスとしては成功したとはいえない。特徴であるつり目ヘッドライトは、板金型がハンドメイドゆえに誤差があり、左右で角度が若干違っている。搭載するエンジンはGB4型。同年の第4回日本アルペンラリーに出場し、7位完走を果たす。コンバーチブルはテレビドラマ「ウルトラQ」の劇中で使用されていた。
当時の価格はコンバーチブルが195万円、クーペが185万円。なおベースとなったグロリアは115万円だった。総生産台数はクーペ33台または35台、コンバーチブル25台とされている[1]。コンバーチブルは現在3千万円を超える価格が付いている。
1962年9月
マイナーチェンジ。「スカイラインスーパー」(S21D型)、「スカイライン」(S21S型)発表。4灯式ヘッドランプをもつフラットデッキスタイルとなる。搭載するエンジンは直列4気筒OHV 1,862cc G2型(91PS/4,800rpm、15.0kgm/3,600rpm)。

プリンスにおける乗用車派生型の商用モデルは、1957年にプリンス・セダンの設計をベースに開発された「プリンス・コマーシャル・バン/コマーシャル・ピックアップ」が最初であり、プリンス・セダンがスカイラインにモデルチェンジした後も暫く継続生産されていたが、1959年にはスカイラインの派生モデルである「スカイウェイ」にモデルチェンジした。ライトバンとピックアップが設定されたが、ライトバンには前席のみ2ドア仕様の他、1960年に車体左側のみに後席ドアを追加した3ドア型が追加された。1961年にはスカイライン同様に1,900ccモデルも追加されている。

2代目 S5型(1963年-1968年)

1963年9月
S50D-1型発売。1,900cc以上の上級市場はグロリアに譲り、1,500ccクラスの量販車市場を拡充するために、G1型直列4気筒OHV1,484ccエンジンを搭載する、小型ファミリーセダンとして開発・投入された。
モノコック構造を採用したボディのバリエーションは4ドアセダンとステーションワゴン(W50A-1型)の2種類。当初、バンはスカイウェイ(V51A-1型)としてラインナップしていたが、後のマイナーチェンジでスカイラインバンと改称された。当時の欧米自動車業界で本格化しつつあったメンテナンスフリー化を積極的に進め、4万kmまたは2年間保障の封印エンジン[注釈 1]や、1年間3万km無給油シャシーなどが話題を呼んだ。
1963年10月
第10回全日本自動車ショーに、S50型をベースとした2ドアクーペ「スカイライン1900スプリント」を参考出品。好評を博した。
1964年4月
スタンダード(S50S-1型)追加。
1964年5月
第2回日本グランプリGTクラス出場のため、より強力なグロリアスーパー6用のG7型直列6気筒OHC1,988ccエンジンを、ボディのフロント部を200mm延長して搭載したスカイラインGT(S54A-1型)を開発。ホモロゲーション用に100台を生産し販売した。
1965年2月
フロントディスクブレーキを標準装備し、更にレースモデルと同等にウェーバー製のキャブを3連装し、125PSを出力したスカイライン2000GT(S54B-2型)発売。
1965年9月
シングルキャブ仕様(105PS)の2000GT-A(S54A-2型)が追加。2月に発売されていた2000GTは「2000GT-B」となった。GT-Aは青のGTエンブレム(通称;青バッヂ)、GT-Bは赤のGTエンブレム(赤バッヂ)を装着した。
1966年8月
プリンス自動車が日産自動車と合併したため、車名をニッサン・プリンス・スカイラインに変更。
1966年10月
マイナーチェンジ。2000GT-B(S54B-3型)、2000GT-A(S54A-3型)、1500デラックス(S50D-2型)、1500スタンダード(S50S-2型)。外観上の変更は全車グリルが横桟のデザイン化、Cピーラーにエアアウトレット設置となる。GT-Bはリアブリスターフェンダー化。スタンダード、デラックスはテールライトの形状が丸型から大型コンビネーションタイプへ変更。
1967年8月
G1型に替わり、G15型直列4気筒OHC1,483ccエンジン(88PS)を搭載するS57D型が登場。6万km無給油シャシーとなった。(但し、スタンダードS50S型やバンV51A/B型、エステートW50A型は引き続きG1型エンジンを使用。)

当時の価格はGTが86万円であった。

3代目 C10型(1968年-1972年)

通称:ハコスカ

1968年8月
フルモデルチェンジ。
日産との合併後初めて新規発売されたモデルである。4ドアセダン(C10型)、エステート(WC10型)、バン(VC10型)が発表された
エンジンはプリンス製の直列4気筒OHC1,500cc G15型を搭載する。
足回りはフロントがマクファーソンストラットとコイルスプリングの組み合わせに変更された。リアはリーフリジッドである。
グレード展開は、スタンダードとデラックスのみであったが、デラックスにはシート形状とトランスミッションにより、ファミリーデラックス(3速コラムシフトベンチシート)、ツーリングデラックス(3速コラムシフト・セパレートシート)、スポーティデラックス(4速フロアシフト・セパレートシート)の3種のほか、女性仕様の「Lパック」がメーカーオプションとして用意され、バリエーションを確保した。
1968年10月
直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)を追加。S5型同様、フロントノーズを延長しているが、S54型と違い、開発当初から6気筒化を配慮した設計構造とデザインを備えており、6気筒モデルの方がバランスの整った外見となった。
S54型に搭載されていたプリンス製G7型エンジンに代わり、日産製直列6気筒OHC2,000ccのL20型(シングルキャブ)を搭載する。発売当初はかまぼこ型シリンダーヘッドと呼ばる後年主流となるL系エンジンとは形状が異なる物が搭載された、最高出力は105馬力。1969年以降L20型エンジンを搭載する全車種で新設計のエンジンに順次切り替わり、115PS(レギュラーガソリン仕様)となった。新旧を区別するため、新型をL20Aと呼称(車検証上の原動機の型式に変更はない)したが、旧エンジンの淘汰にともない、後年は新型もL20と呼称するようになった。サスペンションは、フロントは4気筒同様のマクファーソンストラットであるが、リアはセミトレーリングアームとコイルスプリングへ変更され、4輪独立懸架となる。
同月、第15回東京モーターショーに、「スカイラインGTレーシング仕様」が出品される。翌年発売されるGT-Rのコンセプトカーである。
1969年2月
プリンス系列の技術陣によって開発された直列6気筒4バルブDOHC2,000ccS20型エンジンを搭載したGT-R(PGC10型)と1800シリーズ(PC10型)を追加。
カタログにはレーシング直系を印象付けるため、R380A-IIIも登場する。外観でのGTとの相違は、拡大されたトレッドに対応するため、リアフェンダーのサーフィンラインがカットされている他、前後ウインドシールドをはじめとした全てのガラスが青色の熱線吸収タイプでは無く無色透明、リアデフォッガーも無いこと、モール類が装備されない点などである。
ローレルに先行搭載されていたプリンス系の直列4気筒OHC1,800cc G18型を搭載した1800スポーティデラックスとスポーティSを追加。
1969年10月
マイナーチェンジ。従来の3分割式のフロントグリルを一体成型のワンピースグリルに変更、テールランプの意匠変更、細部ではラジオアンテナが左フェンダーから右のピラーに位置変更されるなど主に外観の変更が施された。
1970年10月
マイナーチェンジおよび2ドアハードトップモデルの追加発売。
新意匠のダッシュパネルなど室内の大幅変更が施されたほか、フロントグリル、テールランプや前後のバンパーなど外観の変更。
各排気量車に2ドアハードトップモデルを追加、1500、1800の各4気筒シリーズ(KC10・KPC10型)と2000GTシリーズ(KGC10型)。GT-Rはセダンが廃止されハードトップ(KPGC10型)に移行された。ハードトップはセダンに対し70mmホイールベースを短縮したことにより、運動性能が向上した。GT-Rの当時価格は150万円。
1971年9月
マイナーチェンジおよびGT-Xを追加発売。
フロントグリル、リアガーニッシュがハニカム調のデザインに変更されたほか、シート縫製基調など細部の変更が施された。
フェアレディZなどに採用されていたL20SUツインキャブレター仕様が搭載されたGT-Xを追加、最高出力は125PS(ハイオクガソリン仕様は130PS)、その他のGTとの相違点は部分クロス張りのシートやパワーウインドウ、間欠ワイパーなど。エンブレムはGTが青色、GT-Rは赤色なのに対し「金色」。
1972年3月
セダンGT-Xを追加発売。セダンGT-Xにはパワーウインドウが装備されない。キャッチコピーは「精悍4ドア」。
モデル末期頃に日産車統一仕様の一環として5MT車の左テールランプ下部に「5speed」のエンブレムが追加取り付けされた、次代C110型へのフルモデルチェンジ間際であったため取り付けられた車輌は極めて少ない。
4気筒モデル
K P C10
ボディ形状 搭載エンジン 基本型式
無記号 4ドアセダン
K 2ドアHT
V バン
W エステート
無記号 G15
P G18
C10
6気筒モデル
K H L G C10
ボディ形状 搭載エンジン ハンドル位置 ホイールベース 基本型式
無記号 4ドアセダン
K 2ドアHT
無記号 L20
H L24
P S20
無記号 右
L 左
G ロング C10

4代目 C110型(1972年-1977年)

通称:ケンメリ、ヨンメリ(セダンモデルのみの愛称)

1972年9月
C110型にモデルチェンジ。ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアハードトップ、およびワゴン/バンを有し、先代同様、セダン/ハードトップにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載したGT系の設定がある。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通。
サーフィンラインのプレスラインは、ごく浅く、プレーンな面構成となった。2ドアハードトップは太いCピラーを特徴とし、ワゴン/バンはクオーターウインドウを廃し、スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーにデカール式のピンストライプが設定されている。これは当時の日産自動車の社長命令によるものといわれる。
搭載するエンジンはG15型をボアアップした直列4気筒OHC1,600ccのG16型、タクシー教習車用のG16LPG仕様(販売は1975年頃まで)、先代より継続されたOHC1,800ccのG18型、およびL20型の4機種。足回りはフロントがマクファーソンストラット、リアは4気筒モデルがリーフリジッド、6気筒モデルがセミトレーリングアームとコイルスプリングの組合せである。
GT-Xはセダンにもパワーウインドウが装備される。
4ドアセダンのGT系、および2ドアハードトップの全グレードのテールライトが丸型4灯式となった。これは、以後スカイラインのアイデンティティの一つとして、10代目のR34まで受け継がれていくことになる。
この代から警察庁パトロールカー警らパトカー)として導入された。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は嘔吐物や血液汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されている。
C110型から右ハンドル圏の日本国外へも輸出されるようになった。車名は「ダットサン・240K」。その名の通りエンジンは2,400ccに拡大されている。
通称は、広告キャンペーン「ケンとメリーのスカイライン」から。これは、先代のC10型の時代に展開された「愛のスカイライン」キャンペーンを継承、発展させたもので、「愛のスカイライン」のキャッチコピーも引き続き使用された。内容としては、若い男女のカップルがスカイラインに乗り、日本各地を旅するというシリーズもののCMで、この二人の名がケンとメリーである。性能の高さや、レースでの栄光といった旧来のスカイラインの硬派なイメージとは異なるソフトなイメージのCMシリーズであったが、当時の世相ともマッチし、一般的には、このCM自体が人気を博し、やがては社会現象と呼べるまでになった。また、車そのものの販売成績はもとより、それにちなんで多数作られたグッズもヒットし、例えばTシャツの販売枚数は30万枚を超えたという。
4ドアセダンはヨンメリと呼ばれる事もあるが、これは、「4(ヨン)枚(ドア)のケンメリ」の略である。
1972年10月
第19回東京モーターショーに「ハードトップ2000GT-Rレーシング仕様」を出品。
1973年1月
「ハードトップ2000GT-R」(KPGC110型)を追加。先代同様S20型エンジン(1,989cc 160PS/7,000rpm、18.0kgm/5,600rpm)を搭載し、専用ラジエータグリル、前後オーバーフェンダー、リアスポイラー等を装備する他、先代では標準でなかったラジオが標準装備とされている。排出ガス規制の影響もあり、わずか197台が生産され、うち195台(000051~000245)が市販されたのみで終了している。残りの2台はレースカーの試作車である。レースに出場することはなかったが、旧車趣味界においても希少なGT-Rとして知られている。この後、R32型までGT-Rは設定されていない。製造台数が197台となった理由には、S20エンジンの在庫が197基だったとも、三国工業から購入したS20エンジン用ソレックスキャブレターが、197台分だけ残っていたからとも言われている。ただし、生産台数には諸説あり、試作車も含めて少なくとも200台以上が生産されたと思われる節が見受けられる。その根拠としては旧車専門ショップ「ガレージ石坂」よりカーメイキングマナブスの社長、近藤学が購入した日産が放出した車両に刻印されていたフレームナンバーが今まで公にされてきた番号より若い(000021)上にフロントメンバーの形状が通常市販車と違い、マウントも異なっていたことから日産がロータリーエンジンを開発する際のテストベッドであった可能性も指摘されている。なお、この車両は近藤が購入後、日産から正式に生産証明を与えられ、ナンバープレートを取得して公道走行可能な状態にされている。
1975年5月
マイナーチェンジ。4気筒モデルのエンジンはプリンスが開発したG16型、G18型から、日産が開発したL16型、L18型に変更された。
1975年9月
昭和50年排出ガス規制 (A-) 対応の、電子制御燃料噴射(ニッサンEGI)を採用するL20E型を搭載する「セダン/ハードトップ2000GTX・E」を追加。
GT-R譲りの4輪ディスクブレーキやアルミ地のインパネを装備した「セダン/ハードトップ2000GTX・ESタイプ」を追加。GTエンブレムの色はグリーン。
オプションでパワーステアリングを設定。
1975年10月
セダン/ハードトップの1600・1800・2000(L20S型搭載車)系をNAPSにより昭和50年排出ガス規制 (A-) に適合。同時にマイナーチェンジ、フロント/リアのデザインが変更される。最下位グレードがセダン1600DXとなりLPG営業車とワゴンが廃止される。
1976年2月-3月 GT系のL20E搭載車が、昭和51年排出ガス規制 (C-) に適合。翌月には1600も昭和51年排出ガス規制に適合
1976年6月
GT系のL20S搭載車、1800系が昭和51年排出ガス規制に適合。

1980年代、手頃な価格とあいまって若者を中心に人気があったこのモデルは、姉妹車のローレルとともに暴走族の改造車(族車)の定番になり、テールライトの中心寄り2つをパテ埋めする「ワンテール仕様」や、ウインカーやグリルをローレルのものに交換する、テールライトをチェリーのものに交換するなどといった、当時の日産車同士のパーツの互換性を活かした多彩な改造が流行した。また、ハードトップのGT系を中心に、希少車だったGT-Rのエンブレム・フロントグリル・リアスポイラー・オーバーフェンダーなどを装着する改造も見られた。


5代目 C210型(1977年-1981年)

通称:ジャパン

1977年(昭和52年)8月
C210型発売。通称は、自ら「日本の風土が生んだ名車」であると名乗った広告キャンペーンのキャッチコピー「SKYLINE JAPAN」から。プラットフォームは日産・ローレル(C230型)と基本的に共通。ボディバリエーションはC110型と同様、4ドアセダン、2ドアハードトップおよびバンの3系列を設定し、セダンおよびハードトップには直列6気筒エンジン搭載車と直列4気筒エンジン搭載車が用意され、ホイールベースはそれぞれ2,615 mm, 2,515 mmとされた。バンは直列4気筒エンジンのみの設定であった。
搭載するエンジンは直列4気筒OHCがL16S型(1,595 cc)、L18S型(1,770 cc)、L18E型の3機種。直列6気筒OHCがL20S型(1,998 cc 115 PS/5,600 rpm、16.5 kgm/3,600 rpm)、およびL20E型(130 PS/6,000 rpm、17.0 kgm/4,400 rpm)の2機種。
発売当初は自動車排出ガス規制の影響を受け、DOHCもターボも設定されなかった。
グレード体系は直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TI(ツーリング・インターナショナル)シリーズ」の2系列となった。GTとTIとでは従来同様、搭載する気筒数の関係でノーズの長さが違い、ラジエーターグリルおよびテールランプの意匠が異なる。ヘッドランプは、前期型はGT系、TI系とも丸形4灯式で、後期型ではGT系のみ異型角形2灯式となった。テールランプは、GT系が丸形4灯式なのに対し、TI系は2段重ねの角形4灯式になる。サーフィンラインはエッジのあるブリスター形状となり、リアトレッド拡大に寄与している。足回りはフロント側がストラット式、リア側は4気筒モデルが4リンク式、6気筒モデルがセミトレーリングアーム式の組合せ。GTバッジは3種類となり、GTおよびGT-E・Lが青バッジ、GT-E・Xが金バッジ、GT-E・Sが赤バッジとされた。GT・LおよびGT-E・Xはデジタル時計が装備され、それ以外のグレードはアナログ時計が装備された。GT-E・Sにはリアワイパーおよびヘッドランプクリーナーが標準装備された。また、GT-E・SおよびTI-E・Sには4輪ディスクブレーキおよびリアスタビライザーが装備された。
1978年(昭和53年)3月
2ドアハードトップ2000GT-E・Lおよび1800TI-E・Lに特別仕様車「ブラッキー」を設定。アルミホイール、70 %偏平率ラジアルタイヤ、オーバーヘッドコンソール、およびヘッドランプクリーナーを装備した。
1978年(昭和53年)8月
L16/L18型エンジンを、急速燃焼方式(ツインスパークプラグ)を採用する直列4気筒OHC Z16/18型エンジンに変更。L20型エンジンについても一部変更が施され、昭和53年排出ガス規制に適合し、車両型式がC211型となる。同時に「1800TI-E・X」を追加。
1979年(昭和54年)7月
マイナーチェンジにより前後の意匠変更がなされる。GTシリーズは異型角形2灯ヘッドランプとされ、TIシリーズは丸型4灯ヘッドランプを継承したが、ラジエーターグリルが変更された。GT-E・Xにはパワーステアリングを標準装備化した。翌8月、厳しくなる排出ガス規制の中でDOHCエンジン搭載車をラインナップし続けていたトヨタ・セリカ(A40/50型)がマイナーチェンジし、名ばかりのGT達は、道を開ける。」のキャッチコピーで挑発を受けることとなる[2]
1979年(昭和54年)8月
ワゴン(WPC211型)追加。Z18型エンジンを搭載する。また、バンが昭和54年排出ガス規制対応及び一部車種にサンルーフ、本皮シート、テクニクスカーコンポがオプション設定される。
1979年(昭和54年)11月
2000GT-Eに特別仕様車「スーパーGT」を設定。セダンはミケロッティマグネシウムホイールクロモドラ製)、ハードトップはカンパニョーロホイールを装備した。
1980年(昭和55年)3月
2000GT-E・Sおよび2000GT-E・Xに特別仕様車「ゴールデンカー」を設定。専用のゴールド塗装のほか、E・Sはパワーサンルーフ、カンパニョーロマグネシウムホイールを装備し、E・Xはミケロッティマグネシウムホイール、ミシュランタイヤを装備した。
1980年(昭和55年)4月
ターボエンジンを搭載したモデルを追加。L20E型エンジンにターボがプラスされ、パワー&トルクは145 PS/5,600 rpm、21.0 kgm/3,200 rpmを搾り出した。発売当時の価格は165.8万円。「セドリック/グロリア」、「ブルーバード」に次ぐ日産において3車種目のターボ車であり、日産初のターボとATを組合わせた車種となった。同時にノンターボの「2000GT-E」、「2000GT-E・S」が廃止となる。「今、スカイラインを追うものは誰か」のキャッチコピーも同時に採用し、日産はターボモデルがなかったトヨタ・セリカを逆に挑発した[2][注釈 2]
1980年(昭和55年)6月
直列6気筒OHC LD28型ディーゼルエンジンを搭載する「セダン/ハードトップ280D GTシリーズ」(EGC211型)、直列4気筒OHC Z20E型エンジンを搭載する「2000TIシリーズ」(UC211型)、100万円を下回る最廉価版「1600TI-A」(BC211S型)、およびバンに直列4気筒OHC LD20型ディーゼルエンジン搭載車を追加。280D GTはこの当時の国産ディーゼル乗用車としては最速を誇っていた。また、2000TIのスポーティグレード「ES」はリアサスペンションがセミトレーリングアーム式独立懸架となり、4輪ディスクブレーキを装備するなど4気筒エンジンながらGT系に匹敵する高度なメカニズムを持つ。動力性能は6気筒NAとほとんど変わらず、重量(特に前輪荷重)が軽いこのモデルはC210型中の「ベストハンドリングカー」との声もある。

1980年代、先代モデルのケンメリと同じく暴走族の改造車としても人気を得ていた。ケンメリ同様、ワンテール化やライト、グリルの移植が流行していた。

宮城県登米市にある警察資料館には実際に宮城県警察が使用していたC210型のパトカーが展示されており、現存する警らパトカーとしては最も古い。

6代目 R30型(1981年-1985年)

バンを除き1981年 - 1985年

通称:ニューマンスカイライン、鉄仮面(後期型RSの通称)、New愛のスカイライン(前期)

1981年8月
R30型発売。
アメリカの俳優ポール・ニューマンが広告キャラクターであったため、「ニューマン・スカイライン」と呼ばれた[3]。グレード体系はC210型同様のL20型直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TIシリーズ」の2系列だが、ホイールベースは1種類となった。ボディバリエーションは、4ドアセダン・2ドアハードトップ・5ドアハッチバック[3]・後に追加されるライトバン(エステート)の4種。
ハッチバックはスカイライン史上初である。現在は常識となっているテンパータイヤは、このR30型ハッチバックが日本初採用であり[3]、スペアタイヤに空気圧減圧警告灯なども装備されていた。搭載エンジンは、Z18S型(エステート・TI)、Z18E型/Z20S型/Z20E型(TI)、L20E型/L20ET型/LD28型(GT)の7機種。
サイズを抑えることによりさわやかなイメージを出した[3]
1981年10月
直列4気筒4バルブDOHC FJ20E型エンジン(150PS/6,000rpm、18.5kgm/4,800rpm)を搭載する「2000RS」(DR30型)を追加。GT-Rの再来と期待されたが、FJ20E型が直列4気筒であるがためにGT-Rを名乗らなかったともいわれている。「4バルブなくしてDOHCは語れない」というキャッチコピーが用いられる。同時にZ18S型を搭載する「エステート」が追加。
1982年10月
一部変更。「TIシリーズ」の1,800cc Z18型エンジンを直列4気筒OHC CA18型/CA18E型エンジンへ変更(FJR30型)。「TI Lエクストラ」および「GT Xエクストラ」を追加し、「2000RS」に60%偏平率タイヤを装着。
1983年2月
FJ20E型にターボチャージャーを追加した、FJ20ET型(190PS/6,400rpm)を搭載した「2000ターボRS」(DR30JFT型)を追加。歴代スカイラインのどれよりも高出力であったことから「史上最強のスカイライン」というキャッチコピーが用いられる。また、日産は、このモデルにてハコスカ以来となるワークスとしてレースに復帰。
1983年8月
マイナーチェンジにより後期型へ。前後の意匠変更、大型バンパーの採用等を行う。RSの後期型は薄型ヘッドランプ、ラジエーターグリルレスのデザインにより「鉄仮面」と呼ばれた。パワーランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様「2000ターボRS-X」(DR30XFT型)を追加。
ファイル:R30-pnv.jpg
ポール・ニューマンバージョンのサインデカール
1983年10月
日本初のAT専用グレードであるNAの豪華仕様「2000RS-X(DR30XFE型)」、および15インチアルミホイール、ブロンズガラス、専用ステッカーを装備する「2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン」(HR30JFT型)を追加。
1983年11月
日産50周年記念限定車「50アニバーサリー バージョン」を発売。これは2ドアハードトップ2000ターボRS-Xをベースに、メッキドアミラー、専用エンブレム、「ハイタッチモケット」と呼ばれる専用の内装(後にオプション設定)を備え、白のほかにガンメタ/赤茶ツートンの専用ボディカラーも用意された。同時に特別仕様車「TI ハイ サルーン」も発売。
1984年1月
「2000GT-E・Xパサージュ」(HR30GAE型)を追加。特別仕様車「TI ハイ サルーンⅡ」発売。
1984年2月
インタークーラー搭載モデルである「2000ターボインタークーラーRS/RS-X」(DR30JFS/DR30XFS)を追加。このモデルは「ターボC」と呼ばれる。外観上の違いはフロント左下のエプロンにインタークーラーの冷却用開口部が設けられた。尚、RS-XターボCでは、前述のハイタッチモケット仕様の内装が選択可能となった。インタークーラー付きFJ20ET型エンジンはグロス表示ながら205PS/6,400rpm、25.0kgm/4,400rpmを発生させ、いまだに根強いファンを持つ。キャッチコピーは「クールに乗れ」。
1984年8月
エンジンの点火系を変更した「プラズマスパークシリーズ」を発売。高パフォーマンスのエンジンでのイージードライブを可能とした「2000ターボインタークーラーRS-X A/T」(DR30XAS型)、および「2000ターボGT-E・II」(HR30HFT型)を追加。
RS-XのATは4「パワー・エコノミー自動切換式電子制御OD付きフルロックアップ・オートマチック・トランスミッション」であった。またASCD(オートスピードコントロール)を装備し、60km/h~100km/hの範囲でセットできた。[4]
1984年10月
新塗色「ダークブルー」(111)・「シルバー」(210)・「レッドメタリック」(329)・「ブルー/グレー ツートン」(434)追加。
1985年8月
モデルチェンジによりR31型に移行するが、5ドアハッチバックは廃止となる(12代目にクロスオーバーとして再登場)。エステート(バン)は1990年2月まで継続生産されるが、こちらもこのモデルを最後に廃止された(後継車はアベニールカーゴ1990年5月 - 1999年6月)、現在はADエキスパートが販売されている。

7代目 R31型(1985年-1989年、クーペ1986年-1989年、ワゴン1986年-1990年)

通称:7thセブンス)、都市工学スカイライン

ボディバリエーションは、4ドアセダン・4ドアハードトップ・2ドアクーペ・ワゴンの4種。

1985年8月31日
R31型発売。プラットフォームは日産・ローレル日産・レパードと共通。発売当初はスカイライン初の4ドアハードトップモデルと4ドアセダンのみの設定。メカニズム面では、ケンメリGT-Rに搭載されていたS20型エンジン以来の直列6気筒4バルブDOHCエンジンで、2ヵ月後にZ31型フェアレディZに搭載された180PS(発売当初はグロス値表記で210PS)を発生するRB20DET型を搭載し、上級グレードには4輪独立操舵システムであるHICASを搭載したモデルである。
搭載するエンジンは前述のRB20DET型のほか、直列6気筒がDOHC RB20DE型、SOHCターボ RB20ET型、SOHC RB20E型、SOHCディーゼル RD28型。直列4気筒はSOHC CA18S型の計6機種。サスペンションはフロントがストラット式、リアがセミトレーリングアーム式。但し4ドアセダン・4ドアハードトップの各1800シリーズおよびワゴン全車はリアが5リンク式リジッド。
当初は、当時大流行していたハイソカーに近い路線を打ち出していた。センターコンソールを使った「5連装カセットチェンジャー」といった豪華装備のほか、「カードエントリーシステム」が本車種で初めて採用された。これは、専用の「エントリーカード」を身につけ、ドアハンドルやトランクリッドのリクエストスイッチを押して施錠・解錠を行うシステムであり、後に普及する「インテリジェントキーシステム」からエンジンの始動・停止に関する機能を省略したものと言える。本車種のエントリーカードは「SKYLINE」のロゴが入った専用品であったが、後に他車種へ展開されたときには「NISSAN」ロゴのみが入った汎用品となった。
また、この時期はフェンダーミラー車からの乗り換えが多かったこともあり、視覚違和感を軽減するため運転席側にドアミラー、助手席側にフェンダーミラーを装備した「アンシンメトリーミラー」がオプションで設定されていた。
しかし、従来のスポーツ路線とは大きく異なる高級志向は不評の結果となり[注釈 3]、登場から1年もたたないうちに2ドアクーペやワゴンの導入というテコ入れが図られることになる。
1986年1月
ワゴン追加。ワゴンのGTパサージュターボはスバル・レガシィツーリングワゴンが登場するまでは国内スポーティーワゴンの雄であった。
1986年2月
特別仕様車4ドアハードトップ「GTリミテッドS」発売。
1986年5月
2ドアスポーツクーペのGTSシリーズを追加。R30型までの2ドアハードトップと異なり、車体剛性確保のためBピラー付きのモデルとなったことからボディ名称にはクーペが用いられた。ターボ・チャージャーのタービン素材に軽量なセラミックを採用しターボラグの低減を図った「セラミック・ターボ」を採用している点が特筆される。時速70kmを超えるとフロントエアダムから自動でせり下がる「GTオートスポイラー」やABSもオプション設定された。発売初期のCMキャラクターは岩城滉一。このGTSシリーズ追加を機に、CMも含めてスポーツ路線への回帰を図る。一部車種にCDデッキをオプション設定。キャッチコピーは「そのとき、精悍。」。
1986年8月28日
「4ドアセダン1800エクストラG」を追加。
1986年9月24日
一部改良。2ドアスポーツクーペに引続き、4ドアハードトップにもGTSシリーズを追加。アンシンメトリーミラーのオプション設定を廃止。
1987年2月
「2ドアスポーツクーペGTSツインカム24VターボNISMO」を限定1000台にて設定。イタルボランテステアリングホイール、バケットシート等を装備する。
1987年5月28日
「4ドアセダン1800エクストラGリミテッド」、および「4ドアセダン1800Gリミテッド」を追加。
1987年8月
マイナーチェンジ。外観とエンジン(若干のパワーアップで、RB20DETが190PS)に手が入る。4ドアセダン・4ドアハードトップのフロント周りの造形が2ドアスポーツクーペと共通するデザインへ変更され、量産車で世界初のプロジェクターヘッドランプ(ただしロービームのみ)が採用される。このマイナーチェンジに伴い4ドアセダンに限り「2000GTパサージュツインカム24」、および「2000GTパサージュターボ」がそれぞれ廃止され、ガソリンエンジン・ディーゼルエンジンを問わず全車SOHCの自然吸気エンジンに統一された。キャッチコピーは「We,Motor Sports」。
マイナーチェンジと同時に、当時のグループAのホモロゲーションモデルとして「2ドアスポーツクーペGTS-R」を800台限定で設定。フロントオートスポイラーを固定化し、大型スポイラーを装備、さらに大型ターボチャージャー・専用インタークーラー・等長ステンレス製エキマニ等のチューニングを施し210PS(ネット値レギュラー仕様)を発生させる。1987年11月のインターTECにてデビューし、全日本ツーリングカー選手権をはじめ国内レースを席巻した。
1988年1月
特別仕様車「GTS-X ツインカム24V リミテッド」発売。同時に一部改良し1800Gにブロンズガラス追加。
1988年5月
日産の子会社であるオーテックジャパンが独自にエンジンや足回りをチューニングし、GTS-Rと同じ210PS(ネット値)を発揮する限定車「GTSオーテックバージョン」が登場(限定200台)。注文数が大きく上回り、発売日には抽選で販売した。5月24日、特別仕様車「GTサルーン」「エクセルサルーン」を共に全国限定2000台で発売。
1988年9月
「Vシリーズ」追加。
1988年10月
AT車にシフトロック追加。
1988年11月21日
特別仕様車「1800リミテッド」発売。

なお、カタログモデルでタクシー仕様車が設定されたのは同型が最後となった(エンジンはCA18P型-LPG仕様。小型タクシーの全長の規定によりマイナーチェンジ後もフロントおよびリヤバンパーの変更は無かった)。

オーストラリアでは4気筒モデルがピンターラ (Pintara) という名称で現地生産された(6気筒モデルは日本と同じく「スカイライン」を名乗った)。2代目ピンターラは日本ではオーズィとして輸入販売された。

また、コンプリートカーメーカーのトミーカイラがオーストラリア向け車両に搭載されていた3,000cc SOHCのRB30E型エンジンのシリンダーブロックを流用しRB20DEのヘッドを組み合わせた3,000cc DOHCエンジンを搭載し、コンプリートカートミーカイラM30として市販した。これは、日本初の公認チューニングカーとしてトミーカイラが世に出した最初のモデルでもある。このM30は2007年2月時点での日本での現存が8台(R31HOUSE調べ)という超稀少車種となっている。

また同じくコンプリートカーとしてM20も存在した。こちらも生産台数30数台という稀少車種である。

8代目 R32型(1989年-1993年)

通称:超感覚スカイライン

1989年5月

4ドアセダン7グレード、2ドアクーペ5グレードで登場。GT-R以外の系列は最後の5ナンバースカイラインとなる。当時日産が推し進めていた901運動の最重要車種として開発された。ボディタイプはR31型まで存在した4ドアセダン、およびステーションワゴンが姿を消し、ピラードハードトップ構造の4ドアスポーツセダンと2ドアクーペの2本立てとなった。4ドアハードトップはR32型を最後に消滅した(R33型以降は窓枠付きのセダン)。 標準モデルの搭載エンジンは直列6気筒が215PSまでパワーアップされたRB20DET型(GTS-t)を筆頭にRB20DE型(GTS)、SOHCのRB20E型(GTE)と直列4気筒SOHCのCA18i型(GXi)もあったが、R31型まで設定されたディーゼルエンジンの設定はなかった。中でもR32型のGTS-4にはRB20DET型エンジンにGT-Rと同じアテーサE-TSを組み合わせているのでGT-R並の高性能も味わえた(実際には鉄パーツ多用による重量と、ブリスターフェンダー非装着なのでトレッドの細さがあるが)。後にマイナーチェンジで2,500ccのRB25DE型を搭載し、5速ATを組合わせたGTS25も追加され、GT-R以外の3ナンバーモデルも発売されたが、A31型セフィーロの様に全車3ナンバー化はされなかった。また歴代モデルで唯一、4気筒、6気筒にかかわらず、すべてのグレードにおいて丸型4灯テールランプが採用されている。

GT-Rの復活ばかりが注目され陰に隠れるかたちになってしまった標準モデルだが、当時の基準としてはボディがやや肥大化しすぎた感があった7代目をダウンサイジングしてスリム化したスタイリングは、自動車評論家やレーサーからは最もバランスの取れたモデルとして歴代のスカイラインの中でもきわめて評価が高い。しかし、4ドアセダンは先代と比べてかなり狭くなった車内空間(特に後部座席)でファミリーユースが減少、新たな兄弟車種であるセフィーロやスカイラインより格下のクラスでありながらスポーティーなハンドリングを身上とし、FFレイアウトを用いたファミリーセダンであるプリメーラの存在、そして車の流行がミニバンRVに変わっていった時期とも重なり、販売台数は落ち込んでしまう。なお、前期・後期共に教習車仕様が存在していた。

パトカー仕様の設定はこの代が最後となる(E-YHR32型車が1991年8月まで製造)[注釈 4]。 なお先代R31型までは中東やオセアニア向けなどの輸出仕様が存在したが、このR32型は日本国内専用モデルであった。

1989年8月

16年ぶりにGT-Rグレードが復活し、日本国内のみならず海外の自動車レースを席巻した。内に秘めたポテンシャルでは当時のフェラーリ・348等を上回ると絶賛された。かつてのGT-Rは自然吸気の直列6気筒4バルブDOHC 2,000ccエンジンを搭載する後輪駆動(FR)であったが、復活したR32型GT-R(BNR32型)では、2,568ccの直列6気筒4バルブDOHCエンジンにセラミックスツインターボRB26DETT型)を搭載し、FRをベースとしつつも、高度な電子制御によって4輪に自在に駆動力を配分できる4輪駆動システム(アテーサE-TS)を搭載する4輪駆動車とされた。

グループAホモロゲーションモデルとして、タービンをセラミックス製から耐久性の高いメタル製へ、ダクト付きフロントバンパー(通称ニスモダクト)、フードスポイラー、リアワイパーレス等の変更を加えた「GT-R NISMO」(限定500台)や、角型ハロゲンヘッドライト、ブレンボ製ブレーキ、NISMO純正ホイール、NISMO製ステアリング、マフラー、ストラット・タワーバー等を装備し耐久用ベース車「N1」も約228台のみ製造された。

1990年9月

特別仕様車「4ドアセダン GTSアーバンロード」発売。

1991年1月

90年全日本ツーリングカー選手権シリーズチャンピオン獲得記念限定車「GTSVセレクション」発売。

1991年8月

標準モデルをマイナーチェンジ。フロントバンパー、フロントグリル、ヘッドライト、バッジ類などを小変更。内装はクロスの素材や色、メーターパネルなどを変更。またサイドドアビームや運転席エアバックをオプション設定するなどの衝突安全対策を充実。4ドアセダンにTypeXシリーズや2,500ccのRB25DE搭載モデルを追加。 キャッチコピーは「I Love You,SKYLINE」。CM出演者は羽田美智子

1992年

オーテックジャパンより、4ドアスポーツセダンGTS-4をベースに、GT-R用RB26DETT型をNA化し、鍛造ピストンや高回転カムシャフトを採用するRB26DE型(220PS/6,800rpm、25.0kgm/5,200rpm)と4速ATを組合わせた「オーテックバージョン」[6]が発売された。同年1月、91年全日本ツーリングカー選手権シリーズチャンピオン獲得記念限定車「GTSVセレクションII」発売。5月には乗用車生産4000万台突破記念限定車「2ドアスポーツクーペ GTS SV」、「4ドアスポーツセダン GTS25 SV」、「GTE SV」発売。6月にはGT-Rを除く全車にフッ素樹脂塗装をオプション設定。10月、スカイライン35周年記念として「4ドアスポーツセダン GTE タイプX・V」追加。CM出演者は田中広子に変更。

その他、コンプリートカーメーカーのトミーカイラがオーストラリア向け車両に搭載されていた3,000ccSOHCのRB30E型エンジンをRB26DETT型のパーツを流用しDOHC化。NAながら280PSを発揮させるRB30DE型を独自開発し、オーテックと同じくGT-Rではなく2ドアスポーツクーペGTS-tの車体に搭載しコンプリートカーとして市販した。

スカイラインの生みの親である桜井眞一郎率いるS&Sエンジニアリングの手により、R32型GT-Rの優良中古車をベースに、R33型とR34型の純正パーツを使用し制作された「BNR32 S&S Limited Version」がインターネット限定で32台販売され、即時完売した。

社内での開発コードはRXだった。当初、メーカーの広報車の一部には、「RX」のロゴとストライプを組み合わせたデカールが貼られていた。また、そのストライプデカールは ディーラー・オプション品として設定されていた。

近年では少なくなったミドルサイズのボディとアフターパーツの多さ、軽量さなどから後継のR33とは比べ物にならない高い人気を登場後30年近く経過した現在でも維持しており、程度のいい車両は高値がつき、GT-Rに至っては500万円以上で取引される車両もある。(走行10km未満で人気色のクリスタルホワイト、無改造のフルノーマル、グレード:V-specIIの物件が1,000万円で取引された例もある)

モータースポーツ

標準モデルが同時期の日産車と同様にスポーツ走行に適した設計であったため、2ドアのGTS-tタイプMがドリフトのベースとして、4WDモデルはGTS-4が改造のベースとして好まれた。GTS-4は当時あまり人気がなく、アテーサE-tsを搭載している割に車両価格が安価であったことからGTS-4改GT-R仕様に改造するのに重宝された。

9代目 R33型(1993年-1998年)

キャッチコピーは本流グランドツーリングカー。ボディをふたたび大型化。主力は2.5Lとなり、全車3ナンバーとなった。CM出演者はジャン・マルク・バールと田村翔子。GT-Rは1995年1月に発売された。R32型に比べて全体的に大型化された事により、居住性は大幅に上がったが同時に車両重量も増加した。特に発売初期の頃はGT-Rも含めR31型程ではないが評価・評判共にあまり芳しくなかった。R33が発表されたとたんに、在庫のR32に注文が殺到したというエピソードもある。しかし今となってはその大柄なボディが生み出す直進安定性と、当時の不人気ぶりから来る値ごろ感(R32、R34が年式から考えられる値段より遥かに高値安定状態)から、お買い得モデルとして認識され始めている。

サスペンション形式はR32と同じくマルチリンクだが、前アッパーアームをI型からA型に変更、後ダンパーのストローク増、などの改良が図られている。

GT-R含むクーペ全てとセダンの前期モデルは、バッテリーをトランク奥に設置するハイトラクションレイアウトを採用している。搭載される専用バッテリーは高価だが大した容量を持っていない。

開発当初はクーペをショートホイールベースにする予定だったが、終盤でセダンとのシャシー共用によるコストカットを求められた。そのためかクーペの外観は間延びしたものとなっており、ドアもかなりの大きさを持つ。

エンジンのラインアップはGT-R専用となる2.6L RB26DETT型、2.5L RB25DET型とRB25DE型、および2.0L RB20E型(R33型唯一のSOHCエンジン)の4タイプであった。トランスミッションは5速MTと5速AT(5速ATはマイナーチェンジにて4速ATに変更される)であった。RB25DET型エンジンは『リニアチャージコンセプト』により過給圧を抑えレスポンスの向上を図っていたが、市場からの評価はターボらしくないと芳しいものではなかった。

R33型デビュー直後、東京モーターショーでGT-Rのプロトタイプが発表されたが、市販モデルではフロント周りを見直された。そして一般車にしては前代未聞の東京オートサロンにてデビュー。

一般的には問題がないが、チューニングした上で非常にハードな走行を繰り返すと、Cピラー根元がストレスに耐え切れず、曲がってしまうというトラブルが報告されている。

GT-Rの型式が前回のBNR32からBCNR33へとアルファベットが変更された。前回はB=RB26DETT、N=アテーサ+HICAS、R=スカイラインの意味を持たされていた。R33ではB=RB26DETT、N=アテーサ、C=HICAS、R=スカイラインの意味なのだが、このモデルにだけ"C"がつくのは、R32型・R34型共にアテーサ装着車にはHICASが自動的に装着されていたのに対し、R33型GT-R以外のモデルではアテーサ装着車でもHICASが装着されていないモデルも存在したことにより、差別化のためCが表記されている。

しかし、OptionではR34でまたC=HICASが社内記号での判断となり消滅したことと合わせ、「C=C34ローレルとのシャーシ共用を意味してるのではないか?」と書かれていた。しかし実体は上記の通りであり、単なる都市伝説と考えるのが正解である。

発売後、NISMOからは400Rと呼ばれるコンプリートカーが限定車として44台販売された(限定台数は99台であったが、その前に販売が終了)。当時の販売価格は1200万円である。この400Rの名前の由来は搭載されたエンジン、ニスモが「RB-X GT2」と呼ぶ2.8L排気量アップ版の最大出力400PSに由来する。

1995年1月
一部変更。運転席SRSエアバッグ、およびテールパイプフィニッシャーを標準装備としたほか、外装を一部変更。セダンのラジエータグリル、ヘッドランプ周りをスモークシルバーに変更し、GTSタイプG系にアルミホイールを標準装備化。クーペのラジエータグリルをボディカラー化し、「エアロパッケージ」を設定。「セダンGTS25タイプG・SE」および「セダンGTS-4タイプG」を追加。さらに、BNR32型が継続販売されていた「GT-R」がフルモデルチェンジしBCNR33型となる。桟の無いラジエータグリルにGT-Rのエンブレムを配し、角度変更可能なリアウイングを採用した。RB26DETT型エンジンの出力は280PS/6,800rpm、37.5kgm/4,400rpmとなる。グレードは標準車のほか「GT-R Vスペック」、「GT-R VスペックN1仕様」の3種類。N耐参戦ベース車である「Vスペック N1仕様」は、カーボンセンターリヤスポイラー(角度調整機構付)、カーボン製アンダーカバー、メタルタービン、空冷式エンジンオイルクーラーなどの専用装備を持ち、軽量化として助手席エアバッグ、エアコン、オーディオ、集中ドアロック、リヤワイパーなどが省かれている。なおボディカラーの設定はホワイト(#QM1)のみであった。
1996年1月
ビッグマイナーチェンジ。外装が大幅に変更された。助手席にもSRSエアバッグを標準装備とした。CM出演者は牧瀬里穂。キャッチコピーは当初「男だったら、乗ってみな。」だったが、諸般の事情で半年で「好きだったら乗ってみな。」に変更となった。
1997年2月
一部変更。ABSを標準装備とした。
1997年10月
第32回東京モーターショーに「GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー」を出展。スカイライン生誕40周年を記念した限定車。BCNR33型GT-Rをベースに4ドアのボディを載せた、PCG10型GT-R以来の4ドアGT-Rである。2ドアGT-Rのブリスターフェンダーを再現するために、わざわざリアドアとリアフェンダーのプレス型を作り直すほどであった。
同じく、97年10月には基準車に対しても、スカイライン生誕40周年記念車を設定する。車種は3種、2ドア「GTS25t TypeM 40thANNIVERSARY」、4ドアには「GTS TypeXG 40thANNIVERSARY」に加え、電子制御トルクスプリット4WDシステム ATTESA E-TS搭載車両の「GTS-4 TypeXG 40thANNIVERSARY」を設定し販売する。
エンジンは3機種となり、2ドア「GTS25t TypeM 40thANNIVERSARY」にはRB25DETエンジンを、4ドア2車種については「GTS TypeXG 40thANNIVERSARY」がRB20Eエンジン、そして「GTS-4 TypeXG 40thANNIVERSARY」にはRB25DEエンジンを、それぞれ搭載した。
また外板塗装色についても、GT-R系に設定された「ミッドナイトパープル<#LP2>」を2ドアのみ、専用車体色として設けた。
装備の具体的内容としては、ベースとなる基準車にプラスして2ドアが、「リヤストラットタワーバー」・「リヤ間欠ワイパー」・「40周年記念エンブレム&シートマスコット」となり併せて、C.S.Rハロゲンヘッドライト&フロントバンパー組み込みハロゲンフォグランプ、大型リヤスポイラー(LED式ハイマウントリヤスポイラー)を装備。4ドアには、「スカイラインサウンドシステム」・「スーパーファインハードコート」・「40周年記念エンブレム&シートマスコット」のほか併せて、15×6JJアルミロードホイール、リモートコントロールエントリーシステムを設定して、販売となった。
1998年1月
「GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー」を発売[7]。型式は「BCNR33改」となる。村山工場で組み立てされた後、座間事業所にて仕上げを施され、出荷された。神奈川県警が白黒、埼玉県警が覆面パトカーとして2台ずつ導入している。
同じく、98年1月には基準車に対しては97年10月より、設定のあったスカイライン生誕40周年記念車について、新たに2ドアのみ「GTS25t TypeM-R 40thANNIVERSARY」を設定し販売した。外板色は限定され、40周年記念車種似設定のあったもののうち、「ミッドナイトパープル」・「ソニックシルバー」・「ブラック」・「ホワイト」の4色となった。
この「TypeM-R」については、現存数はきわめて少なく主な追加装備として、既設の40周年記念車種に併せ「専用エアロフォルムバンパー(フロント)」・「サイドシルプロテクター」・「リヤアンダープロテクター」・またGT-Rタイプの「大型タイプリヤスポイラー(LED式ハイマウントストップランプ付)」となった。

GT-Rのみ100台限定でイギリスへ輸出されている(下記「#GT-R」参照)。

この頃のGT-RやJZA80スープラRZ等のスポーツモデルは出力こそ自主規制値の上限である280PSとなっているが、実際にはマフラー等で出力を絞っているだけであり、マフラー等の吸排気系を社外品に変えるだけのライトチューンでも実測値で400PS弱という出力が発生してしまうため[8]、自主規制は有って無いような物となっている。また、トランスミッションといった駆動系部品が、後にローレルのMT換装に数多く使用される事態となったため、一時期この種の部品の中古価格が高騰する現象が起きた。

10代目 R34型(1998年-2001年、GT-R1999年-2002年)

1998年5月
R34型発売。キャッチコピーはドライビングボディ。GT志向でスポーツイメージを薄めた先代の反省からホイールベースを短縮し、ボディ剛性を徹底して向上。社内測定値ではメルセデスやBMWを凌駕するボディ剛性を達成。同時に受動安全性も向上した。搭載エンジンは全てRBシリーズの直列6気筒DOHC。2.0LのRB20DE型、2.5LのRB25DE型、および2.5LターボRB25DET型の3種類。マニュアルモード付ATを2.5L 2WDモデルに設定した。MTはクーペの全仕様、セダンのターボモデル、4WDモデルおよび2.0Lモデルに設定された。スタイリングは先々代を踏襲した先代から一変し、R31回帰ともとれる直線基調・ハイデッキのウェッジシェイプだが、R32で認知を得た若年ファン層の反響は渋かった。クーペはS14型末期およびS15型シルビアと「走り重視の硬派スポーツ」というキャラクターが重複し、身内で人気を食い合うかたちとなった。
標準車系での最強グレードでRB25DET型を搭載する「25GT-TURBO」はカタログ値280PSを発揮するに至ったが、「どっかん」と山なりに立ち上がるターボ感を排し、スムーズな吹け上がりやリニアリティを優先したパワーフィールなど、6気筒らしい上質感ある躾がなされていた。セールス面ではそれが仇となり、WRC戦略車のランサーエボリューションインプレッサSTIがすでに同程度の出力を達成する中、各種メディアによる筑波サーキット等での比較テストではそれらの後塵を拝することも多く、絶対パフォーマンス重視のスポーツユーザー層からは大きな支持を得られなかった。
1999年1月
R34型GT-R発売。キャッチコピーは「人に翼を」。前回同様に東京オートサロンデビューとなったが、有名なショップには事前に納車され、若干チューニングが施された車が展示され、NISMOからはコンプリートカー状態になったものが展示されていた。
このR34型は第2世代最後のRだけに歴代GT-Rの中でも究極のGT-Rといえる進化を遂げた。特にVスペックは量産車初のオートクレーブ製法で形成されたカーボンディフューザーやフロントバンパー下部の追加エアダム、可変2段リアウイングスポイラーから構成されたアドバンスドエアロシステムを採用し、日本車初のマイナスリフト(最大値約10kg)を達成した。
純正品としては異例の、ぜい肉を極限まで削ぎ落とした鍛造6スポーク18インチホイールを装備。トランスミッションは独ゲトラグ社と共同開発した6速MT、ブレーキはイタリアの名門ブレンボ製とした。エンジンは第2世代最後となるRB26DETT型を搭載。自主規制枠一杯の最大出力280PSはそのまま(ちなみにエンジンの実測馬力は約330PS。チューニングによりタービンを容量一杯まで使い切る事で550PSも可能)ではあるが、R390GT1で培われた技術を活用し、最大トルク40.0kgmを達成する等、究極のドライビングプレジャーを体現する存在となった。その結果、当時COOとして日産に赴任していたカルロス・ゴーンをして、「日産で最も好きな車」と言わしめた。車内では、インパネ中央上部ににマルチファクションディスプレイモニターが搭載され、水温、ブースト圧などの各種車両情報を表示させることができる。Vスペックとノーマルでは多少表示項目が異なる。なお、インパネのセンター面がドライバー寄りに8°捻られており、2.5ターボの3連メーターはその面に合わせて取り付けられていたが、本モニターは視認性を高める狙いでさらに捻りを4°強めて設置されたため、機能優先とはいえやや見た目の統一感には欠けていた。
1999年2月
4ドアセダンに電動SUPER HICAS、リヤビスカスLSD等、ターボ車同様の足回りを持つ「25GT-V」を追加。R34型登場時には設定のなかった2WDセダンのNA 2.5LとMTの組み合わせとなる。
3月末までの期間限定モデルとして売り出されたが、4月以降も生産され翌年発売された2ドアと共に、後期型ではカタログモデルとなった。
1999年9月
2ドアスポーツクーペ・4ドアセダンともにリヤビスカスLSDをヘリカルLSDに変更。また細かいところでは、エンジンカバーに書かれた「Turbo」「NEO STRAIGHT 6」の文字に施された赤い塗装が廃止されたことがカタログから読み取れた。
2000年1月
2ドアスポーツクーペに「25GT-V」を追加。GT-Rに第33回東京モーターショーに参考出品された特別塗装色ミッドナイトパープルIIIを3か月期間限定で設定。
2000年8月28日
マイナーチェンジ。内外装を一部変更したほか、RB25DET型の5速MT車にて、エンジンのトルクアップを施した。ただし、このマイナーチェンジ車はGT-Rを除きわずか10か月しか販売されていない。
2000年10月
GT-Rがマイナーチェンジ。内外装の一部変更、およびVスペックに替わりVスペックIIをラインナップ。量産車としては初のNACAダクト付きカーボンファイバー製ボンネットフードを採用。その他色の変更、アルミペダル化、ターンシグナルランプのクリア化が行われた。なお、この代のGT-Rはイギリスでも100台限定ながら輸出販売されている(下記「GT-Rとは」参照)。
後期型へのマイナーチェンジ直後、工場閉鎖のため2000年9月29日(GT-Rは8月5日)に村山工場での生産を終了し、「工場5」のモデルプレートを持つ車両は絶版となる。以降は栃木工場が生産拠点となる。GT-Rの村山最終生産車両は同車開発主管の渡邉衡三が保有する。
2001年5月
「GT-R M・spec」追加。リップルコントロールショックアブソーバーを採用したほか、専用の本革シートを装備し、専用色を設定した。
2001年6月
約3年という短いモデルライフでV35型に代替わり。GT-Rは継続販売された。
2002年1月
同年8月にGT-Rを生産終了することを発表。平成12年排出ガス規制の非適合車種に設定された生産猶予期限が切れるためである。本発表と同時に最終特別限定車「M・spec Nür」、および「V・spec II Nür」を設定。前者が630万円、後者が610万円である。「Nür」とは、GT-Rもテスト走行で使用した、ドイツニュルブルクリンクから命名された。この「Nür」にはヘッドカバーを金色塗装されたN1仕様エンジン、N1タービン、シャフト、ピストンなどの特別部品を使用した他、300km/hスケールのスピードメーターを装備。通常ならばステッカーの後部グレード標記が立体エンブレムになり、コーションプレートもゴールドになっている。さらに専用色である「ミレニアムジェイド」を設定している(「V・spec II Nür」はシリカブレス、「M・spec Nür」はベイサイドブルーがラインナップにはない)。「Nür」は元来それぞれ300台の生産予定だったが、1月の発表後にメディアがで大きく取り上げた為か問い合わせが殺到。急遽各500台に増産発表するも、さらに反響に応えるかたちで最終的に両グレード各1000台の生産が決定し、1月24日に発表・即日予約完売(発売日は2月26日)という、第二世代GT-Rの劇的な締めくくりを飾った[注釈 5]。このNürもGT-Rの名にふさわしく東京オートサロンで展示されたが、室内試乗用のノーマル車両だったためか、派手なドレスアップや猛々しいチューニングが施された車両群に埋もれ、ほとんどの来場者に気づかれていなかった。
2002年8月
平成12年排出ガス規制非適合のためGT-R生産終了。
2002年12月
GT-Rの全在庫分が販売終了。
2005年
NISMOより、R34型GT-Rの最終形態ともいえる、2.8L化されたRB26DETTを搭載するZチューンが20台限定1,774万5,000円で発売された[注釈 6]。(ユーザー所有のR34GT-Rを工場に持ち込みチューンする「パーツコンバージョン」は1,312万5,000円。ただしボディカラーはベース車両のままでハードコートも施工できない。また、ミッドナイトパープル色は受付不可)このZ-チューンは、最高出力500PSを誇る反面、日常使用も意識した仕様になっている。ホイールなどはZ-チューン仕様のLMGT4を使用している(このLMGT4は後に限定で市販されている)。
車重がノーマルより増加したにもかかわらず、街乗りもまったく苦にしない上に、0-400加速は10秒フラットを記録できるなど、究極のロードゴーイングカーの名にふさわしい仕様になっている。
2007年3月
ベース車の入手・確保が困難(チューニングに耐えうる中古車の流通が減った)となり、持ち込み登録が終了した。総架装台数は試作車1台、保存車1台、日本国内13台、日本国外4台の計19台であった。
なお、2ドアクーペは交通取締り用のパトカーとして数台採用された。4ドアセダンのGTターボは交通取締り用の覆面パトカーとして前期型50台が導入され、その後に後期型も少数ながら、埼玉や和歌山などの高速隊で導入されている。その後捜査用車両としてNAエンジンの4ドアセダンが127台導入された、最近では交通取り締まり用はクラウンの覆面パトカーにその座を譲る事が多くなった。GT-Rのパトカーは現在埼玉県警察のみ所属しており、白黒車4台とシルバーの覆面車1台体制で東北自動車道で現在でも使用されている[注釈 7]

11代目 V35型(2001年-2006年、クーペ2003年-2007年)

1999年10月
第33回東京モーターショーに、ポルシェデザインスタイリングによるコンセプトカー、「XVL」を出品。スカイラインとは別のモデルとして発表され、日産の新しいスポーツセダンとして開発が始められた。
2001年6月18日
「XVL」を、ルノー上層部の意向でV35型スカイラインとして発売。10代目の項の通り、R34型登場から3年後にV35型が登場したが、先代までのフルモデルチェンジのサイクルと比較して短い。この型から、従来スカイラインGTの象徴の一つであった直列6気筒エンジンに替わり、V型6気筒直噴ガソリンエンジンのVQ30DD型、およびVQ25DD型エンジンを搭載。トランスミッションは4速および5速ATのみの設定。他の同クラスの日本車と同様に180km/hのスピードリミッターが自主規制で装備されているが、多くのスピードリミッターが180km/hに達すると燃料カットが働いていったん減速するのに対し、V35のスピードリミッターは180km/hのまま巡航できるシステムになっている。
また、丸型のテールランプが廃止(後のマイナーチェンジで復活)、全体的なデザインテイストの変更などを行われたことなどから、新世代のスカイラインの在り方を表現したモデルといえ、プレミアム・スポーツセダンとしてみた場合、性能的にポテンシャルは極めて高い。
しかし結果から言えば、この方針は「スカイライン」というブランドにはミスマッチであった。酷評されたり想定ユーザー層やコンセプトの極端な変化が受け入れられなかったりするなど[9]「新世代のスカイライン」としての外観とそれに付随するイメージが、結果としてかつてのスカイラインファンを遠ざける結果となってしまった。旧来のスカイラインファンからはおとなしすぎるスタイリングや乗り味が総合的に不評で、そのため日本市場では大きめのボディサイズやセダン需要の低迷も加わり販売は低迷した。ただし先述の通り、元々別の車種として開発されたモデルであり、旧来のファンが「スカイライン」としての違和感を覚えたのは当然という意見もある。
一方、国外では、日産の上級ブランドであるインフィニティの販売網によりインフィニティ・G35として販売され、好評を得ている(「インフィニティG20」(日本名プリメーラ)の後継車である)。
前述の理由などにより、レースシーンに登場せず、スカイラインとしては走りのイメージが少ないためチューニングベースとしての人気は低い。しかし、この「遅そうな」スカイラインのイメージを変えようとトップシークレットはツインターボ、VK45DEスワップ、トランスアクスル化しV35GT-Rを制作した。ドイツのアウトバーンで最高速341km/hを記録した。
埼玉県警察では高速道路交通警察隊に350GT-8の白黒パトカーが導入されており、250GT・300GTも一部の県で交通取締用白黒・覆面パトカーとして導入されている。また、国費で全国の警察本部に350GTの警護用覆面パトカーが、機動捜査隊用に250GTが捜査用覆面パトカーとして導入されている。茨城県警察では研修用に導入されている。
このモデルから、スカイラインのエンブレムは、日産のエンブレムに変更になった。
2001年9月26日
2.5L車にスノーシンクロモード付アテーサE-TSが搭載された4WD車「250GT FOUR」を追加。
2002年1月
北米国際オートショーに北米向けV35型「インフィニティ・G35」2003年モデルを出品。VQ35DE型エンジンを搭載する。
2002年1月31日
セダンに新グレード「250GTm」を追加。スウェード調クロスシートインテリアとCD一体AM/FM電子チューナーラジオを標準装備とした。
2002年2月19日
セダンに「350GT-8」を追加。エクストロイドCVTのみの設定で、日本国内初となる8段変速マニュアルモードを搭載。またパドルシフトも装備された。
2002年3月
北米にてインフィニティ・G35を発売。
同月、第102回ニューヨーク国際オートショーに、V35型とプラットフォームを共用する2+2クーペである「インフィニティ G35スポーツクーペ」を出品。
2002年11月
北米にてインフィニティ G35スポーツクーペ」発売。搭載するエンジンはVQ35DE型エンジンのみ。
2003年1月16日
スカイラインクーペ」を追加(MT車は同年2月6日発売)。搭載するエンジンはVQ35DE型エンジンのみしか設定されず、駆動方式も2WD (FR)方式。クーペでは丸型テールランプが復活している。あわせて、セダンも内外装を一部変更し、グレード体系の見直しを行った。
2003年6月3日
セダンに「350GTプレミアム」、および「350GT」を追加。6速MTのみの設定。
2004年11月
セダンをマイナーチェンジ。内外装の変更で丸型テールランプが復活し、フロントグリル・バンパーの形状が変更されたほか、VQ30DE型エンジン搭載モデルを廃止しグレード体系を見直しするも、売り上げの回復には至っていない。また、VQ35DEエンジン搭載車にはマニュアルモード付5速オートマチックが設定された。
クーペについても同時に一部改良が行われ、新たに19インチホイールが設定された。
2005年10月
第39回東京モーターショーにリファレンス・モデルとしてクーペのマイナーチェンジ版とされるものを出展。
2006年11月
V36型の発表・発売によりセダンの生産終了。クーペは継続生産。
2007年8月
クーペの販売終了。この2か月後にV36型クーペが登場している。
M35型ステージア、Z33型フェアレディZ、およびフーガはV35型のFMプラットフォームから派生したモデルである。
セダンはエンジンがVQ35DE型 V6 3.5L(272PS)とVQ25DD V6 2.5L(215PS)の2タイプで、前者のトランスミッションはCVT、6MT、5ATの3タイプから選べる。クーペはエンジンがVQ35DE型 V6 3.5L(280PS)のみで、トランスミッションは6MTと5ATの2タイプがある。

12代目 V36/J50型(2006年-2014年、クーペ2007年-2016年、クロスオーバー2009年-2016年)

SHIFT_ワードSHIFT_passion ときめきをシフトする。(廃止)

2006年4月
ニューヨーク国際オートショーで輸出仕様である新型インフィニティG35セダンが出展される。この時点でクーペはコンセプトモデルの発表だった。
2006年11月20日
日本発売。
駆動方式はFRの他に4WD(アテーサE-TS)が設定され、エンジンは改良型VQエンジン(約80%の部品が新設計)のVQ35HR・V6DOHC・3.5L 315PS(232kW)/6,800rpm 36.5kgm(36.5N・m)/4,800rpm とVQ25HR・V6・DOHC・2.5L 225PS(165kW)/6,800rpm 26.8kgm(26.8N・m)/4,800rpm を搭載[注釈 8]
北米仕様のインフィニティG35セダン向けVQ35HRは2007年1月米ワーズ社の「10ベストエンジン」を受賞した。VQエンジンとしては13年連続の受賞で、このような長い期間の連続受賞は単一のエンジンとしてはきわめて異例のことである。
スポーツグレードである350GT typeSPと350GT typeSには世界初搭載の四輪操舵システム「4輪アクティブステア (4WAS) 」をメーカーオプション設定。ミッションは5AT(北米向けG35は6MTもある)で、パドルシフトの設定もある。このパドルシフトはマグネシウム製とすることで軽量化と剛性の強化を、本革張りとすることで質感の向上を図っている。一方で位置に関しては、誤操作を防ぐ配慮かステアリングホイールからやや遠い位置にあるが、一部の批評家にはこのことが不評である。他にスイッチ照明付きプッシュエンジンスターターを全車標準装備としている。
全高は2WDモデルでV35より20mm低くなり、スポーティな印象が増した。各所にインフィニティのデザインモチーフや歴代スカイラインのモチーフをあしらい、フロントのデザインはフーガを連想させるようなデザインになっている。グレード間の外観差はフーガのGT系とXV系のように明確ではないが、スポーツグレードの350GT typeSPと350GT typeSは専用スポーツバンパー及び専用スポーツバンパーグリルとなる。
ナビゲーションは日産初のHDDタイプが設定される。エンターテイメント機能として内蔵HDD(30GB)に最大約3,000曲分もの音楽データを収録可能なミュージックボックスとDVD及びコンパクトフラッシュの再生機能がある。発売翌年にオーディオ機能に小変更が行われBluetoothオーディオ対応となった。ディーラーオプションのナビゲーターは設定されていない。オーディオにはBOSE社製のシステムを採用し、車内7組11個のスピーカーをスカイライン専用に新設計。これはHDDナビとのセットオプションとなる。基本の再生システムは250GT/250GT FOURにはスカイラインホログラフィックサウンドシステムII、他のグレードはスカイラインホログラフィックサウンドシステムIが標準装備される。IとIIの違いはCDプレイヤー (II) かインダッシュ6チェンジャーCDプレイヤー(I)かだけである。インテリアには本木目(オプション・材質はビュバンガ)と本アルミのパネルにエクリュブラックフォーブの内装色が選べる。また、フーガで好評のインパネ アナログ時計を全車標準装備する。
2007年4月
ニューヨーク国際オートショーにおいてG37クーペが発表された。
2007年10月2日
クーペ発売開始。エンジンはVVEL|VVEL(ブイベル)[注釈 9]を採用した3.7LのVQ37VHR型(333PS/7,000rpm)を搭載。セダンにはなかった6速MTも設定され、日本初となる歩行者との衝突時に瞬時にボンネットを浮かせる「ポップアップエンジンフード」も搭載された。
2007年11月27日
セダンに「250GT Type S」追加。同時に、スカイライン生誕50周年記念として専用の刺繍入り赤本革シートとシリアルナンバープレート等が付いた期間限定車「50th Limited」を設定。2008年3月までの期間限定受注販売。
2008年12月2日
マイナーチェンジ。内外装を若干手直しすると共にVQ35HR型エンジンを廃止し、クーペに搭載されているVQ37VHR型を搭載(出力は330PS/7,000rpm)。また、このエンジンには従来の5速ATに代わって、前日に登場したZ34型フェアレディZにも採用された、新開発の7速ATを新搭載(VQ25HR型は従来どおり5速ATの組み合わせ)。
2009年4月16日
V6 3,700cc VQ37VHR型エンジンを搭載するクロスオーバーSUVスカイラインクロスオーバーの追加を発表、同年夏発売予定。従来型にもアテーサE-TS方式の四輪駆動車はあったが、SUVの設定はスカイライン史上初であり、ハッチバックを持つ車型も、6代目・R30型系以来となる。同車はインフィニティ・EX37として海外市場にすでに投入されており、2009年4月18日から(同年5月31日まで)日産ギャラリーにおいて、スカイラインクロスオーバーの先行展示が行われる。

覆面パトカーとして全国の警察本部に警護用として350GTセダン、機動捜査隊用として250GTセダンが配備されており、交通取り締まり用として埼玉県警察高速道路交通警察隊に4台の350GTセダンが配備されている。また、構内専用ながら安全運転中央研修所にはV36の白黒パトカーが配備されている。

日産のプレスリリース[10]によると、V36型系の発売から約1か月間の年齢層別受注内訳は、中高年層が大半で、29歳以下の購入者は3%程度となっている。

V37型発表後もV36型は2.5L車3グレード(「250GT」・「250GT Type S」・「250GT FOUR」)に集約し、装備の追加や価格改定による車両本体価格の値下げを行った上で販売が継続された[11]。併せて、日産ホームページのWebカタログにV36型スカイラインセダンのページが新設され、元々あるスカイラインセダンのWebカタログとは区別される。その後、V37型2.0Lターボ車の登場に伴い2014年度にて生産終了となった。

13代目 V37型(2014年-)

セダン

2013年9月に、北米で新型インフィニティ・Q50が発表された。日本では同年11月11日に13代目V37型スカイラインとして発表され、翌2014年2月26日に発売。スカイラインでは初となるハイブリッドモデルが新たに追加された[12]。また、「インフィニティ」の開発によって培われた高い技術力やデザインの知見によるモデルのため、その証としてインフィニティのバッジが装着されている。国内の商品企画を担当した日本商品企画部リージョナルプロダクトマネージャーの寺田美穂は、「年齢でいうと40代前半の男性。共働きの奥さんがいて、娘が1人。外資系企業で管理職をしており、非常にタフな環境の第一戦で活躍している人。都心のタワーマンションに住んでいる。」をターゲット層としているという[13]

2014年5月には提携先のダイムラーより供給される直列4気筒2.0L・DOHC16バルブ・インタークーラーターボ・エンジンを搭載する200GT-tを追加発表し、翌月に販売を開始した。尚、4気筒エンジン搭載のスカイラインは8代目・R32型「GXi」以来となる。

GT-R

日産・スカイラインGT-Rも参照

GT-Rは、C10型(通称:ハコスカ)から続くスカイラインの中でもサーキットでの使用を主眼にして開発(メーカーチューン)された車両である。乗用車ベースでありながらレースで勝つことを使命とし、スカイラインの他のグレードと違った装備やエンジンを搭載し、他の国産スポーツカーにも影響を与えるほどの車である。それゆえに熱狂的なファンが多く、エンジニアにも特別のこだわりがある。そのためにGT-Rの名を冠することが許されなかったモデルもあり、それがGT-Rの存在をより特別のものとしている。 「世界的に有名な3つのアルファベットがあります。G、T、Rです。私はここでお約束いたします。必ずGT-Rは復活します。」と2001年東京モーターショーのプレス・カンファレンスでカルロス・ゴーンCOO(当時)が“GT-Rコンセプト”を前に、プレゼンテーションの冒頭で発言した。徹底した合理化戦略ばかりが取り上げられることが多いゴーンにこのような内容を託したことからも、この車に懸ける日産の姿勢が伺える。この約束をカルロス・ゴーンは果たし日産・GT-Rを2007年10月24日第40回東京モーターショーで量産型を発表し2007年12月6日に販売される事となる。 特にR32型からではあるが、海外のレースで大いに活躍した功績から、Rの評判は国内のみならず世界にもその名を知られており、ゴジラ(Godzilla)と呼ばれるほど浸透している[注釈 10]。それゆえに、スカイラインはほぼ日本販売専用車であるが、R32、R33、R34のGT-Rが輸出業者の手により海外へと渡っている。評判は非常に高く、正規輸出としてもR33GT-Rはモデル末期に100台限定で、さらに、R34GT-Rも同じくV-specが100台限定ながらイギリスや香港ニュージーランド左側通行国で販売された。

これは日産自動車側に「海外でも販売して欲しい」という要望が強かったことと、ル・マン24時間耐久レースに、「NISMO GT-R LM」として出場した事によりヨーロッパでの知名度が上がったこと、そして最大の理由は、イギリスBBCで放送されているトップ・ギアに出演しているジェレミー・クラークソンがR33型の記事を寄稿したことによるものである。イギリスでは関税の影響で、日本円に換算すると1080万円する(日本仕様のV-specIIの新車価格は574.8万円)ことで、高所得層しか購入できなかったが、フェラーリ以上の価値(希少性)やステータスがあるというユーザーもあり、「スポーツ走行ができる程高性能なのに、家族も乗せられる」と、実用面に対しての満足度も非常に高い。英国の自動車誌では、「パフォーマンスとテクノロジーは最高だが、見た目は東京タクシーのようだ」と評されたが、この書き方は英国流のジョークであり、むしろ「外見が普通の乗用車的なのに中身はスポーツカー」というコンセプトが、新鮮なものとして受け入れられていることの裏返し的表現である。現に「カーガイ(クルマ好き)」には好感を持って迎えられた。なおこの計200台はいずれも数日で完売している。

その他、ドイツフランススイスアメリカUAEなどの右側通行国などへは個人輸出されたケースも多い(アメリカではによっては基準に適合していない車を入れることは法律違反となる場合もあり、業者が警察当局に拘束、収監されてしまったケースもある)。

  • SUPER GTで活躍するミハエル・クルムは日本国内でR34GT-Rを2台購入し、モナコへ輸送している。
  • マニー・ラミレスもGT-Rを2台保有しており、高知に入団する以前にプライベートで日本を訪れチューニングショップに依頼して約2千万円をかけて改造した[14]。高知入団後も岡山市内のチューニングショップに依頼して改造している。

英国仕様は、日本仕様とは特に大きな差異はないが、R34型は現地の法規に合わせた対応(セキュリティの強化やヘッドライトのハロゲンバルブ化(保安基準に適合しなかったための変更)、スピードリミッターを欧州の自主規制値である250km/hへ引き上げ、及び200マイル/hスケールスピードメーターの採用等)や、後に国内仕様のMスペックにも採用された本革シートが装備されている(英国仕様の本皮はコノリー社により手作業で張られたもので、日本のラインナップにはなかった赤色表皮も選択でき、一応日本でもNISMOから20脚限定で発売されていた)。

ハコスカ時代、初代GT-Rが発売される前年の1968年東京モーターショーには市販直前型のプロトタイプが参考出品されているが、この時点ではまだGT-Rの名は明かされておらず、2代目スカイラインのホットモデルに付けられたGT-AおよびGT-Bの流れを汲み、市販時にはGT-Cとなるとの噂もあった。

GT-Rはストックの状態で、すでにチューニングカーとしての完成度が高いことから、むやみに手を入れることを嫌うオーナーが多い。また、標準モデルにGT-Rのエンブレムをつけたりバンパーを移植するなどして、GT-Rっぽく見せるチューニングも多く行われることからGT-Rのスタイルの人気が伺える。もちろんコアなチューニング好きに、内に秘めるエンジンパワーをしっかり受け止めるために外装に大幅なモデファイが加えられることも多い。

スカイラインのモータースポーツ活動

スカイラインは初代モデルからモータースポーツに参戦しているが、本格的に参戦したのはS54型による第二回日本グランプリが最初。ホモロゲーションモデルであるGT、そしてGTのレーシング・バージョンの量産モデル2000GT(改称後は2000GT-B)から「スカG」の歴史が始まった。

3代目PGC10型/KPGC10型GT-R は国内レースで、マツダロータリー勢に苦しめられながらもクラス50勝を達成したほか、数々の伝説を残す。

その後、R30シルエット・フォーミュラ、R31・GTS-RでのグループA全日本ツーリングカー選手権参戦を経て、 グループAの頂点を目指すべく、GT-R(BNR32型)が復活、デビューからレース終焉まで29連勝の新たな伝説を築く。

全日本GT選手権では、1993年の開幕から2003年シーズンまで、R32からR34までの3世代のモデルが参戦し、すべてタイトルを獲得している。

※5代目(C210型)については排ガス規制の対策に追われたため、特にモータースポーツ活動はない。

初代 (SI系/S2系)

1959年7月第1回「日本アルペンラリー」にスカイラインが参戦。

1963年5月 第1回日本グランプリB-IIクラスに「スカイライン・スポーツ」、C-IVクラスに「スカイライン」がそれぞれ参戦。「スカイライン・スポーツ」は7位、10位。「スカイライン」は8位。

2代目(S5系)

ファイル:S54 Nissan Skyline 2000GT.JPG
スカイラインGT(S54A-1型)

1964年5月 第2回日本グランプリGT-IIクラスにスカイラインGT(S54A-1型)出場。T-Vクラスにスカイライン1500(S50D-1型)出場。GT-IIクラスでの決勝では1周だけ優勝候補であったポルシェ・904の前を走り、結局2~6位独占[15]。ツーリングカーT-Vクラスのスカイライン1500は1~8位独占[16]、およびツーリングカーT-VIクラスのグロリア・スーパー6(S41D-1型)も1、2位独占で優勝を飾っている[17]。GT-IIクラス優勝のポルシェ・904は、プリンスの日本グランプリ3冠を阻止するべくトヨタが取り寄せた、との噂が出回った。ポルシェ・904のドライバーは式場壮吉であり、式場は前年度トヨタのワークスドライバーとして日本グランプリに参加しているからである。当時、東京新聞の記者だった三本和彦が「羊の皮をかぶった狼」と記事のタイトルにしたが、当時のプリンス自工の広報部からクレームがついたらしい。

3代目(C10型)

ファイル:JapanGrandprixGT-R.jpg
スカイライン2000GT-R '71日本グランプリレース大会出場車両のレプリカ

1969年5月 「'69JAFグランプリレース大会」クラブマンレース・特殊ツーリングカークラスでGT-R(PGC10型)がデビュー。1位でゴールしたトヨタ1600GTが、日産側の抗議によって走路妨害と判定され、1周減算された結果、GT-Rが優勝となる。

同月 「JAF公認700キロ ノンストップラリー」にて「スポーティデラックス」が優勝を飾る。

1969年8月 「第5回モーターファン&AUTO SPORTラリー」にてGT-Rが総合3位を獲得。

1969年10月 「'69日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースにてGT-Rが1-3位を独占。

1970年3月 「JMCマウンテン・サファリラリー」に1800が参戦。1970年5月 「'70JAFグランプリレース大会」特殊ツーリングカーレースにてGT-Rが1位、2位、4位を獲得する。このときの優勝車(58号車)をエブロが1/43ミニカーとしてモデル化している。

1970年6月 「ツール・ド・ニッポン」に2000GTが出場。同月 「全日本富士300マイル」100マイルBレースにて、長谷見昌弘のドライブするGT-Rが優勝。長谷見はスペアカーで決勝に臨み、最後尾スタートであった。

1971年5月 「'71日本グランプリレース大会」ツーリングカーbレースにてGT-Rが1-3位、5位を獲得する。

1971年9月 マイナーチェンジ。1500、および1800の出力を向上。1500シリーズにハードトップ、およびGTシリーズ「ハードトップ2000GT-X」を追加された。

1971年12月「第6回富士ツーリスト・トロフィーレース」で50連勝をかけたレースで、GT-R勢にトラブルが相次ぎサバンナとの戦いに敗れる。

1972年3月 「'72富士GCシリーズNo1 富士300キロスピードレース」スーパーツーリングレースにて、GT-Rが豪雨の中、高橋国光が全車を周回遅れにして1位、プライベートの久保田洋史が2位、同じくプライベートの河原伸光が6位を獲得し、通算50勝を達成する。

1972年5月 「'72日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースbにGT-Rが出場。表彰台をマツダロータリーサバンナカペラに独占され、GT-R勢は4-6位。

1972年9月 「'72GCシリーズ 富士インター200マイルレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースにてサバンナとこれまでに無いほどの熾烈な戦いを制し、北野元が駆ったGT-Rが1位、プライベートの久保田洋史が3位、同じくプライベートの正谷栄邦が6位を獲得し、通算52勝目を飾る。

1972年10月 「'72GCシリーズ第4戦 富士マスターズ250キロレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースに黒沢元治長谷見昌弘の駆るGT-Rが出場。サバンナとすさまじいトップ争いを演じていたが、ラップ14で周回遅れのサバンナとともにクラッシュし、優勝を逃す。GT-Rの最高順位は4位。9月にC110型にモデルチェンジしたこともあり、徐々にKPGC10型GT-Rのレースへの出場は減っていった。

海外に於いても1972年、スパ・フランコルシャン24時間レースに地元ベルギーのディーラーによる支援を受けたシャルル・バン・ストールが4ドア2000GT(GC10)の輸出仕様「ダットサン2000GT」を3台ディビジョン2に出場させ、ガスケットトラブルによりリタイヤした61号車以外の2台が完走、60号車が総合20位、62号車が同じく28位に入るという健闘を見せた。2ドアGT-Rではない理由としてはFIAで国際公認を取得していたのがグループ2のC10(4ドア)だけであったのとGT-Rは日本国内のみの販売だったため。なお、同じレースの同クラスにはマツダスイスレーシングの手により2台のサバンナRX-3も出場しており、予選ではサバンナのほうが速かったものの決勝では65号車の25位という結果に終わった。

4代目(C110型)

1973年6月 「JAF公認・JMC主催 第10回北海道周回ノンストップラリー」にて、「セダン1800(PC110型)ラリーバージョン」が総合優勝を飾る。

1975年6月 「北海道周回ラリー」にて「セダン1800」が総合優勝を飾る。

1975年7月 「第3回JMCオーバーナイトラリー」にて「セダン1800」が優勝を飾る。

1976年11月 「JMC中部ラリー」にて「セダン1800GL」が優勝を飾る。

この年、「オーストラリア トタル エコノミーラン」にオーストラリア向けスカイライン「ダットサン240K」が出場。優勝を飾っている。

6代目(R30型)

1982年5月 当時のグループ5規定に合わせたレーシングカー「スカイライン スーパーシルエット」が登場。「ハードトップ2000RS(KDR30型)」をベースに車体の一部をパイプフレームとするノバエンジニアリング製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト製のカウルをまとい、「RS」のイメージカラーである赤/黒の2トーンカラーが特徴。ドライバーはかつてPGC10型GT-Rを操った長谷見昌弘。エンジンはサファリラリー等で使用された「バイオレット」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型(にエアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせ、 570PS/7,600rpm、55kgm/6,400rpmというパワーを誇った。トミーがメインスポンサーを勤め、トミカのバリエーションとしてモデル化もされたが、日本各地の日産プリンス販売会社からのカンパに大きく支えられた面もある。

また日産自動車の意向により、同様のレーシングカーが「シルビア(KS110型)」および「ブルーバード(KY910型)」でも製作され、それぞれ星野一義、柳田春人がドライブした。「シルビア」のメインスポンサーは日本ラヂヱーター(現カルソニックカンセイ)、「ブルーバード」のメインスポンサーはコカ・コーラ[注釈 11]であった。1984年度まで国内外のレースに参戦し、1983年シーズンではR30型のマイナーチェンジに伴い、フロントフェイスおよびテールランプが変更された。また、スプリント用とは別に1982年8月に耐久用マシン(日産・スカイラインターボC)も追浜ワークスで製作され、南アフリカのキャラミ9時間に参加した。翌年グループC規定にあわせマシンも改造され、全日本耐久選手権に参戦する。

7代目(R31型)

1987年インターTECにGTS-Rがデビュー。

1988年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。

1月 第1戦「新春NRC鈴鹿300km自動車レース」 優勝
3月 第3戦 「西日本300kmレース」優勝

1989年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。

5月 「89ハイランドグループA300kmレース」 優勝
8月 「89レース・ド・ニッポン」 優勝
9月 「SUGOグループA 300kmレース」 優勝
9月 「グレード20ドライバーズレース」 優勝
※長谷見昌弘がドライバーズ・タイトル獲得

8代目(R32型)

ファイル:R32 Calsonic Skyline 001.jpg
1990 カルソニック スカイライン
ニスモのエキシビションにて

1990年全日本ツーリングカー選手権(JTC)第1戦西日本サーキットにてGT-R(グループA仕様)はレースデビュー。星野/鈴木組のカルソニックスカイラインがポール・トゥ・ウィンを飾るだけでなく、予選ではコースレコードを2秒近く短縮、決勝では全てのマシンを周回遅れとするなど、圧倒的な力の差を見せつけた。その後もシリーズ全戦でポールポジション獲得・優勝。翌年度より徐々に参戦車数が増え、最終シーズン1993年には7台のGT-Rが参戦、事実上のワンメイク状態とまで化した。結局、1990年の初戦からJTCというカテゴリーが終了する1993年まで無敗を誇り、最終的に29連勝という偉業を成し遂げる。なおN1耐久シリーズ(現・スーパー耐久)にもGT-Rで参戦。

また国内だけでなく、海外のレースにも積極的に参戦し、世界3大耐久レースの一つ、スパ・フランコルシャン24時間レースには1990年~1992年に出場。91年にはGr.Aクラスで日産ワークスから送り込まれたZEXELスカイラインが国産車初の総合優勝を果たしている。しかし、あまりにも速過ぎたためテレビ映りが悪く、局から苦情を受けた。同じく1990年には、マカオギヤレースに参戦。圧倒的な速さで予選トップを獲得、決勝でもその力を見せつけ、1度もトップを譲らずに優勝した。なお、他にもプライベートチームよりヨーロッパや北米のレースにも数多く参戦し、ほとんど優勝を飾っている。これらの結果を受けて、ル・マン24時間レースを主催するACOからは4WDシステムの完成度の高さから4WD自体の禁止という事態となった。

まさにGT-Rの復活を裏付けるこれらの結果やエピソードからも、いまだにBNR32は歴代GT-Rの中でもファンが多いことで知られる。

1990年に一度だけ世界ラリー選手権 (WRC) にも出場していた事がある。国内外で活躍したBNR32であるが、元々ラリー用に設計されている車種ではないので、これに関しては流石に結果を挙げる事はできなかった。

なお、Gr.A終了後はJTCCと同時に始まった全日本GT選手権に転用される車両もあった。

9代目(R33型)

ファイル:GT-RLMKeepTheDream.jpg
ル・マン24時間レース参戦車両
1995年
ル・マン24時間レースに参戦。総合10位。
全日本GT選手権シリーズタイトル獲得。
1996年
ル・マン24時間レースに参戦。総合15位。翌年はGT-Rで参戦せず、R390で参戦している。ル・マン24時間レースの車輌規定上、「同一車種に4ドア車が存在する車種のエントリーは認めない」とする規定が存在する為、日産NISMO GT-R LMという独立した車種を製作、ナンバーを取得して規定に合わせるという作業が行われた。「公認を得た"ロードカー"を最低一台製作すること。但し、販売の義務は無い」という条項を利用した。後のR390もこれを利用した形となっている。
1998年
パイクスピークに「ニスモ400R」で参戦。チャンピオン獲得。
全日本GT選手権シリーズタイトル獲得。

1994年より始まったJTCCにも4ドアセダンが近藤レーシングガレージにより参戦していた。当初はR32型で参戦を予定していたが日産がホモロゲーション申請していたのがBNR32、つまりGT-Rのみであったのだが何とかR32で出場したいとの願いから関係各所を回ってみたものの「旧型車にはホモロゲーションを与えられない」との一点張りで渋々諦めた所、日産がR33セダンのホモロゲーション申請を行い、車両を提供されて参戦を果たした。ちなみにR32型で参戦予定していたレーシングカーはFRと4WDの2台製作され、ほぼ完成状態まで来ていたが先述のホモロゲーション問題により参戦が不可能となった時点で解体され産業廃棄物として処理されたという。

10代目(R34型)

1999年:JGTCに参戦。GT500クラスに1月に発売されたBNR34型が3台、前年度モデルであるBCNR33型が2台。「ペンズオイル・ニスモGTR」(エリック・コマス)が2年連続のシリーズチャンピオンを獲得。

スーパー耐久シリーズに参戦。JGTC同様BNR34型が参戦し、「日産プリンス千葉GT-R★FALKEN」がシリーズチャンピオンを獲得した。

2000年

全日本GT選手権に参戦。GT500クラスにBNR34型が4台参戦。
スーパー耐久シリーズに参戦。「5 ZIGEN☆ファルケンGTR」がシリーズチャンピオンを獲得。

2001年

JGTC参戦。GT500クラスにBNR34型が3台参戦し、「ニスモ」が2001年JGTCチームチャンピオンを獲得。
スーパー耐久シリーズに参戦。「FALKEN GT-R」が5年連続となるシリーズチャンピオンを獲得。

2002年

全日本GT選手権に参戦。GT500クラスにBNR34型が3台参戦した。第3戦にはRB26DETT型に替わり、V型6気筒のVQ30DETT型を搭載するGT-Rが登場。第5戦以降は全てVQエンジン搭載となる。
スーパー耐久シリーズに参戦。「エンドレスアドバンGT-R」がシリーズチャンピオンを獲得。

2003年

JGTC GT500クラスに参戦。RB26DETT型ではなくV型6気筒DOHCツインターボ VQ30DETT型エンジンに積み替えたことにより戦闘力を向上し、GT500クラスドライバーズチャンピオンおよびチームチャンピオンを獲得した。
スーパー耐久シリーズに参戦。

脚注

注釈

  1. 1960年代初頭までの自動車は、ほこりや砂などでエンジン内が磨耗を起こしがちであったため、ライナーを打ち込んで内部を研削し磨耗代を復元するためのヘッド開閉は頻繁で、これを長期不要としたのは画期的であった。長く用いられた在来エンジンの設計を踏襲してはいるが、「封印エンジン」が実現したのは、材質の改良や、内部の表面加工改良のたまものである。
  2. トヨタ・セリカのターボモデルの設定はA60型にモデルチェンジされた1年2ヵ月後の1982年(昭和57年)9月である。A60型セリカの姉妹車種で、1982年(昭和57年)10月にターボモデルを設定したトヨタ・コロナ(T140型)も、日産・ブルーバード(910型)と、CMキャラクターやキャッチコピーで対抗しあっていた。
  3. 開発主管の伊藤修令は、自身の初見での印象が芳しくなかったことと、周囲の反応から、発表前の時点で危機感を抱いていたことを証言している[5]
  4. 1991年にはV6エンジン(VG20E)を搭載するグロリアが採用されたが、その後同じRB20Eを積むクルーを投入。
  5. ランサーエボリューションも限定販売→増産というパターンはよくとられているが、即日で完売した例は最近ではNür以外にはない。
  6. 型式認定を受けない改造車のため、書類上持ち込み登録の販売となる。
  7. 神奈川県警察もR32、R33と導入しているが、R34型は導入していない。
  8. HRは高回転型(High Revolving)の略。
  9. バルブ作動角・リフト量連続可変システム
  10. 最初にゴジラとして紹介したのはオーストラリアのWheels magazineである。
  11. 翌年からオートバックスがメインスポンサーとなる、尚現在このプラモデルが再発売されている

出典

  1. 第45回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その4) 【これっきりですカー】 - webCG
  2. 2.0 2.1 【昭和クルマ列伝】セリカの挑発で始まった馬力競争 スカイラインもターボで逆襲産経WEST 2015年10月24日
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p87
  4. 『NISSANスカイラインRSのすべて』 三栄書房、2017-3-1。
  5. 「R31の父、語る。」『R30&R31 Magazine オレたちのスカイライン』 三栄書房〈サンエイムック Domestic Tuning & Racing Car Series〉、2018年。ISBN 978-4-7796-3476-5。
  6. スカイラインオーテックバージョンR32公式サイト
  7. スカイラインGT-R 40th ANNIVERSARY AUTECH VERSION 公式サイト
  8. driver 2007年4月5日号「やっぱりスポーツカーに乗らなきゃ」57ページを参照。
  9. 【期待が外れた】日産 スカイライン V35型…こんなカタチで自ら終わらせなくても
  10. 新型スカイラインの受注状況について 日産自動車プレスリリース
  11. 新型「スカイライン」を発表 - 日産自動車 ニュースリリース 2013年11月11日(2013年11月12日閲覧)
  12. 日産が7年ぶり新型スカイライン 13代目は初のHVmsn産経ニュース
  13. 「新型スカイライン」の想定顧客 実は600人位しか実在しない? – ガジェット通信
  14. 週刊文春,2017年1月26日号pp.132-133『史上最強助っ人ラミレスは日産GT-Rの走り屋だった』
  15. JAF公式サイト 第二回日本グランプリレース GT-IIクラス結果
  16. JAF公式サイト 第二回日本グランプリレース T-Vクラス結果
  17. JAF公式サイト 第二回日本グランプリレース T-VIクラス結果

関連項目

外部リンク

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