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{{Infobox baseball player
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{{テンプレート:20180815sk}}
|選手名            = 新谷 博
 
|所属球団          = 佐賀魂
 
|役職              = 総監督
 
|背番号            = 17
 
|選手写真ファイル名 =
 
|写真サイズ        =
 
|写真のコメント    =
 
|国籍              = {{JPN}}
 
|出身地            = [[佐賀県]][[佐賀市]]
 
|生年月日          = {{生年月日と年齢|1964|7|14}}
 
|没年月日          =
 
|身長              = 183
 
|体重              = 77
 
|利き腕            = 右
 
|打席              = 右
 
|守備位置          = [[投手]]
 
|プロ入り年度      = {{NPBドラフト|1991}}
 
|ドラフト順位      = ドラフト2位
 
|初出場            = 1992年4月7日
 
|最終出場          = 2001年10月1日
 
|経歴              =
 
* [[佐賀県立佐賀商業高等学校]]
 
* [[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]]
 
* [[日本生命硬式野球部|日本生命]]
 
* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1992 - 1999)
 
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] (2000 - 2001)
 
|経歴補足題        = 監督・コーチ歴
 
|経歴補足          =
 
* 日本ハムファイターズ<br/>北海道日本ハムファイターズ (2002 - 2004)
 
* [[尚美学園大学]]
 
* [[佐賀魂]]
 
* [[女子野球日本代表]]
 
|選出国            =
 
|選出年            =
 
|得票率            =
 
|選出方法          =
 
}}
 
'''新谷 博'''(しんたに ひろし、[[1964年]][[7月14日]] - )は、[[佐賀県]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]、右投右打)・[[プロ野球コーチ]]、野球監督。{{by|2013年}}現在、[[女子野球日本代表]]および[[尚美学園大学]]女子硬式野球部の監督、[[北海道放送]]の野球解説者、[[佐賀魂]]の総監督、ディレクト・アスリーツの[[取締役]]を務めている。
 
 
 
== 経歴 ==
 
=== アマチュア時代 ===
 
====高校時代まで====
 
[[佐賀市]]の[[公務員]]の家庭で、姉2人のいる末っ子として生まれた<ref name="Number_19910815_77">Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.77</ref>。小学校3年生で[[野球]]を始めて中学校では[[捕手]]を務め<ref name="Number_19910815_77"/>、3年生になるとエースで四番を任され主将となったが、監督と激しく喧嘩し退部している<ref name="asahi_20030710">朝日新聞、2003年7月10日付朝刊、佐賀地方面</ref>。身長が高かったこともあって[[バスケットボール]]部に転部したが、高校では再び野球をやりたいと考えて強豪の[[佐賀県立佐賀商業高等学校|佐賀商業]]に進学した<ref name="Number_19910815_77"/>。
 
 
 
佐賀商で野球部に入ると[[腹筋運動]]1,400回など毎日6-7時間の練習を行い、帰宅しても2階の自室まで上がる体力が残らないほどだった<ref name="asahi_20030710"/>。一方、入学時は柔軟な身体や高いセンスを持ちながらも身体が細かったが、これらの練習によってフィジカルが強化されて故障の心配も減ったという<ref name="Number_19910815_78">Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.78</ref>。2年の春になると同期の[[田中孝尚]]らが投手を務めて新谷は控えの[[三塁手]]となっていたが、投手陣がそろって体調を崩した際に代役を任され、それをきっかけに投手に転向している<ref name="Number_19910815_78"/>。一方、田中は捕手に転向し、新谷とバッテリーを組む事になる。2年秋の県大会ではエースとしてチームを支えたが、決勝戦で敗れ[[第54回選抜高等学校野球大会|翌春の選抜大会]]出場はならなかった<ref name="Number_19910815_78"/>。
 
 
 
この敗戦をきっかけとして練習に真剣に取り組み、短期間で[[カーブ (球種)|カーブ]]、[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[フォークボール]]をマスターし、いずれの球種でも[[ストライク (野球)|ストライク]]が取れるほどになった<ref name="Number_19910815_78"/>。
 
{{by|1982年}}の3年夏の[[全国高等学校野球選手権佐賀大会|県大会]]では前評判通りの強さで優勝し、チーム[[打率]]と[[防御率]]は同年の[[第64回全国高等学校野球選手権大会|選手権大会]]出場校のなかでともにトップだった<ref name="Number_19910815_78"/>。本大会初戦の[[8月8日]]の対[[青森県立木造高等学校|木造高校]]戦では、1人の走者も許さずに9回二死を迎えながら27人目の[[代打]]・世永幸仁に[[死球]]を与え、[[完全試合]]は逃したものの次打者を打ちとり[[ノーヒットノーラン]]を達成した。新谷自身は完全試合を達成すれば大会史上初だったという事を知らず、安打を避けることを優先して内角を攻めた世永への配球を悔やんだという<ref name="Number_19910815_80">Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.80</ref>。
 
 
 
2回戦では[[東京農業大学第二高等学校|東農大二]]を6安打1失点に抑えて[[完投]]勝利を収め<ref>[http://www2.asahi.com/koshien/game/1982/400/7499/ asahi.com 第64回全国高校野球選手権大会 佐賀商 対 東農大二]</ref>、[[大分県立津久見高等学校|津久見高]]との3回戦でも延長14回を投げ抜いて8安打3失点と好投したが、惜しくも敗れている<ref>[http://www2.asahi.com/koshien/game/1982/400/7508/ asahi.com 第64回全国高校野球選手権大会 津久見 対 佐賀商]</ref>。大会後は[[荒木大輔]]や[[畠山準]]らとともに日本代表に選ばれて遠征に参加した。複数のプロ球団から[[スカウト (勧誘)|スカウト]]が勧誘に来たが、当時は、[[柳川事件|過去の経緯]]からプロ経験者の就任に制約が大きかった高校野球の指導者を志しており、監督からの強い勧めもあって進学希望を早くから表明していた<ref name="Number_19910815_80"/>。[[1982年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト]]で[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]から2位指名を受けたが、意思は変わらず[[駒澤大学]]に進学した。
 
 
 
この時、先述の田中孝尚も[[オリックス・バファローズ|阪急]]から2位指名を受け、こちらは入団している。しかし1軍出場の無いまま1986年限りで引退しており、プロの舞台で再会する事はなかった。
 
 
 
====大学・社会人====
 
[[駒澤大学硬式野球部|駒大野球部]]では4年生になったらエースを任せるという[[太田誠]]監督の方針もあり<ref name="Number_19910815_81">Number、1991年8月15日 臨時増刊号、P.81</ref>、無理な起用などはなかった。2年生では[[河野博文]]の存在もあって[[リリーフ]]などで起用され<ref>読売新聞、1984年9月20日付朝刊、P.16</ref>、3年生になると先発を任され春季リーグ戦では無四球[[完封]]を達成<ref>読売新聞、1985年6月1日付朝刊、P.16</ref>している。3年の秋季までに16勝を挙げる<ref name="Number_19910815_81"/>など期待に応える成長を見せ、同学年の[[阿波野秀幸]]とともに[[東都大学野球連盟|東都リーグ]]を代表する投手と評されていた<ref name="base_20081117_112">週刊ベースボール、2008年11月17日号、P.112</ref>。
 
 
 
しかし3年冬の走塁練習で右ひざを強打し、[[後十字靭帯]]を損傷。手術を行えば1年間の[[リハビリテーション|リハビリ]]が必要と診断されたが、卒業後のプロ入りを希望していたため靭帯付近の筋肉を鍛えて手術を避ける方法を選んだ<ref name="base_20081117_112"/>。そのままシーズンオフとなったため監督にはケガを報告しなかったが、軸足の負傷によって投球の感覚が損なわれ<ref name="base_20081117_112"/>、さらに腰を痛めて制球が悪化し、そのまま無理に練習を続けてヒジを痛めてしまった<ref name="Number_19910815_81"/>。靭帯損傷などを知らない太田監督はベンチ入りメンバーから外すなどの方法で復調のきっかけを探したが、球のキレが失われて[[ノイローゼ]]に近い状態に陥った<ref name="Number_19910815_81"/>。4年秋のリーグ最終登板では救援を成功させた<ref name="Number_19910815_81"/>がプロから声はかからず、太田監督の勧めで[[社会人野球]]に進み[[日本生命硬式野球部|日本生命]]に入社した。なお、東都大学リーグでは通算40試合に登板し、16勝6敗、防御率2.62、127奪三振の成績を残している。
 
 
 
{{by|1987年}}に入社した日本生命では[[早瀬万豊]]や[[伊藤伸幸]]がエースとなっており、さらに翌年には[[木村恵二]]が入社して新谷の出番は少なく、下積みが続いた<ref name="Number_19910815_81"/>。イメージ通りの投球ができず、当時は[[イップス]]になっていたという<ref name="base_20081117_112"/>。{{by|1989年}}にはチームが[[第16回社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]に3年ぶりの出場を果たし、木村の連投でベスト4まで進んだ。[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]との準決勝では先発を任されたが、自信がないまま登板して3失点し、チームも敗れている<ref name="base_20081117_113">週刊ベースボール、2008年11月17日号、P.113</ref>。結果が出ないまま3年間が過ぎたが、練習には真摯に取り組み、全体練習の後に個人練習をしながら疲労が限界に達して外野で座ったまま眠ることもあったほどだという<ref name="base_20081117_113"/>。
 
 
 
{{by|1990年}}は4月に腰を痛めて1週間休んだが、復帰直後に球速が突然140km/h後半まで上がり、全盛期の投球とともに自信を取り戻した<ref name="base_20081117_113"/>。[[第17回社会人野球日本選手権大会|同年の日本選手権]]では初戦の対[[東北マークス|NTT東北]]戦で先発を任され、ともに大会タイ記録の6者連続を含む14奪三振で完封勝利を挙げた<ref name="base_20081117_113"/>。準決勝の対[[河合楽器硬式野球部|河合楽器]]戦でも先発で7回を1安打無失点に抑え<ref name="Number_19910815_81"/>、日本石油との決勝でも先発して無失点の好投でチームの優勝に貢献。自責点0で3勝を上げた活躍が評価され<ref name="Number_19910815_81"/>、大会MVPに選ばれている。この大会前後から再びプロのスカウトに注目されるようになったが、木村のプロ入りが決まっていたというチーム事情もあって同年はドラフトで指名を受けなかった<ref name="Number_19910815_81"/>。
 
 
 
翌{{by|1991年}}は[[杉浦正則]]とともに[[野球日本代表|日本代表]]のエース級が2人そろったチームとして高い評価を受けていた<ref>毎日新聞、1991年9月25日付夕刊、P.10</ref>が、[[第62回都市対抗野球大会|都市対抗]]と[[第18回社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]はともに初戦で敗退した。翌年の[[バルセロナオリンピック野球日本代表|バルセロナ五輪代表]]の候補に挙げられていたが、「契約金と指名順位で納得する評価を受けられればプロに進みたい」としてドラフトの除外対象には含まれなかった<ref name="mainichi_19911120">毎日新聞、1991年11月20日付夕刊、P.2</ref>。出身地に近い[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]や[[埼玉西武ライオンズ|西武]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の4球団から獲得の打診があり<ref name="mainichi_19911120"/>、[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で西武から2位指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ8,000万円、1,200万円(いずれも推定)と、1位指名の[[竹下潤]]を上回る高条件だった<ref>読売新聞、1991年12月5日付朝刊、P.19</ref>。
 
 
 
=== プロ野球選手時代 ===
 
入団当時の西武は黄金期を迎えており、登板機会が得られないのではないと不安があったという<ref name="base_20011112_133">週刊ベースボール、2001年11月12日号、P.133</ref>。しかし社会人野球を経験して肉体が鍛えられており、[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]で一軍投手陣に負けない球を投げられた事で自信を得た<ref name="base_20011112_133"/>。また、[[渡辺久信]]や[[鹿取義隆]]の気づかいでチームに溶けこんでいった<ref name="base_20011112_133"/>。開幕2戦目の[[4月7日]]の対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦で早くも初登板を果たし、[[渡辺智男]]の不振などから[[8月2日]]には初めて先発を任され<ref name="base_20011112_133"/>、初勝利を挙げた。同年は9月中旬まで計8試合に先発し、2完投を含む2勝を記録している。[[1992年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第5戦で初登板して5回途中から1回2/3を投げ5安打を浴びて1失点した<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1992_5.html NPB公式記録 1992年度日本シリーズ 第5戦]</ref>ものの、第6戦では4回途中から1回1/3を1安打無失点に抑えた<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1992_6.html NPB公式記録 1992年度日本シリーズ 第6戦]</ref>。
 
 
 
翌{{by|1993年}}は年俸が2,400万円(推定)に倍増し<ref>読売新聞、1992年12月6日付朝刊、P.17</ref>、[[先発ローテーション]]の5番手として19試合に先発し、[[8月7日]]の対[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]戦ではプロ初完封を達成している<ref>読売新聞、1993年8月8日付朝刊、P.20</ref>。[[1993年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では中継ぎに回り、第2戦では[[郭泰源]]の後を受けて3回表から7イニングを投げ5安打1失点に抑えている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1993_2.html NPB公式記録 1993年度日本シリーズ 第2戦]</ref>。オフには年俸が2,000万円増の4,400万円(推定)となった。8勝1敗の成績を残したものの投球内容には納得がいかず、翌年にかけて体を開かずネジるような投球フォームに変更している<ref>週刊ベースボール、1994年7月4日号、P.20</ref>。
 
 
 
{{by|1994年}}は[[村田勝喜]]や[[小野和義]]の加入もあり、前半戦は中継ぎや抑えを任された<ref name="base_20011112_134">週刊ベースボール、2001年11月12日号、P.134</ref>。[[4月14日]]の対ダイエー戦で、1点リードして2死満塁の場面で[[松永浩美]]相手にフルカウントとなり、[[伊東勤]]のサインに首を振ってストレートで空振り三振を取った。この場面はプロ野球で最も印象に残っている会心の投球で、これを機に伊東からサインに首を振ることを許可され、自身に取って大きなターニングポイントとなったという<ref name="base_20011112_134"/>。5月はリリーフとして7試合に登板し、20回1/3を投げ4勝1敗1セーブ、防御率1.33の成績で初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞した<ref>毎日新聞、1994年6月7日付朝刊、P.19</ref>。また[[1994年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも初めて出場し、第1戦で7回1死満塁の場面に登板して1回1/3を1安打無失点に抑えている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1994_1.html NPB公式記録 1994年度サンヨーオールスターゲーム 第1戦]</ref>。
 
 
 
後半戦も谷間の先発を含め[[杉山賢人]]とともに様々な場面で起用され、必死で投げていたという<ref name="base_20011112_134"/>。同年は自己最多の41試合に登板し、シーズン最終戦の[[10月10日]]の対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で1回1/3を投げて3失点ながら[[規定投球回]]に達し<ref>読売新聞、1994年10月11日付夕刊、P.13</ref>、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]のタイトルを受賞した。[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第4戦の5回途中から登板し、3回2/3を4安打無失点に抑えた<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1994_4.html NPB公式記録 1994年度日本シリーズ 第4戦]</ref>。オフの[[最優秀選手 (野球)|MVP]]の投票ではシーズン210安打を達成した[[イチロー]]に大差を付けられたものの、イチローの満票獲得を阻止して次点となっている<ref>朝日新聞、1994年11月1日付朝刊、P.23</ref>。契約更改では西武の投手としては過去最高のアップとなる4,000万円増の年俸8,400万円(推定)となった<ref>読売新聞、1994年12月15日付朝刊、P.16</ref>。
 
 
 
{{by|1995年}}は[[工藤公康]]の移籍などから先発ローテーションの中心となり、夏場に[[急性胃腸炎]]で一時先発を外れた<ref>週刊ベースボール、1996年11月11日号、P.68</ref>ものの同年のチーム最多となる11勝を挙げ、防御率はリーグ6位の2.93だった。オフには年俸9,000万円(推定)で契約を更改し<ref>読売新聞、1995年12月27日付朝刊、P.17</ref>、前年の[[羽生田忠克]]の結婚披露宴をきっかけに交際を始めた[[フライトアテンダント]]の女性と結婚式を挙げている<ref name="base_19960304">週刊ベースボール、1996年3月4日号、グラビア</ref>。翌{{by|1996年}}は自身初の[[開幕投手]]を任され、3年連続二桁勝利となる11勝を挙げた。同年の契約更改では年俸が1億1,000万円(推定)となり、[[清原和博]]と[[潮崎哲也]]に並ぶチーム史上最速の6年目で1億円の大台に到達した。
 
 
 
{{by|1997年}}は前年チーム最多勝を挙げた[[西口文也]]に次ぐ2、3番手の先発と見られていた<ref name="asahi_19980211"/>が、シーズン初登板となった[[4月9日]]の対オリックス戦で7安打6失点(自責点は1)の内容で3回で降板<ref>読売新聞、1997年4月10日付朝刊、P.19</ref>し、続く[[4月17日]]の対日本ハム戦では初回に6安打を浴びて5点を失い、1死しか取れずに28球でKOされた<ref>読売新聞、1997年4月18日付朝刊、P.19</ref>。この深刻な不振のため、初めて一軍登録を抹消されて[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|二軍]]で調整を行っている。6月に一軍に復帰したものの再び打ち込まれて二軍に戻り、前年オフに伸ばし始めた[[髭|ヒゲ]]を剃り落とし、走り込みと投球フォームの確認を続けた<ref>読売新聞、1997年8月26日付朝刊、P.26</ref>。[[8月18日]]に一軍に再昇格し、翌日の対ロッテ戦でシーズン初勝利を挙げたものの、同年はわずか2勝に終わった。[[1997年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第4戦に先発し、4回を投げ6安打3失点で5回表に代打を送られ敗戦投手となった<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1997_4.html NPB公式記録 1997年度日本シリーズ 第4戦]</ref>。3回の2死二、三塁の場面で安易に勝負に行き、[[古田敦也]]に2点タイムリー二塁打を打たれたことが敗北の大きな原因になったと評されている<ref>読売新聞、1997年10月23日付朝刊、P.23</ref>。オフの契約更改では3,000万円の大幅減で年俸8,000万円(推定)となった。
 
 
 
[[西崎幸広]]や[[橋本武広]]と並ぶ投手陣の最年長として迎えた<ref name="asahi_19980211">朝日新聞、1998年2月11日付朝刊、P.25</ref>{{by|1998年}}は、キャンプで早めの調整を進めたものの、シーズン当初は中継ぎとして起用され防御率も10点を超えていた<ref>読売新聞、1998年5月28日付朝刊、P.16</ref>。しかし同年初先発となった[[5月27日]]の対ロッテ戦で勝利を挙げるとそのまま先発ローテーションに定着し、[[6月20日]]の対オリックス戦では1年9ヶ月ぶりに完封勝利を収めている<ref>読売新聞、1998年6月21日付朝刊、P.21</ref>。規定投球回には達しなかったものの、16試合に先発して防御率3.67の成績を残した。[[1998年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第5戦の7回途中から5点ビハインドの場面で登板したが、[[横浜ベイスターズ|横浜]]の[[マシンガン打線]]につかまり8回に3点、さらに9回に7点を失った。この1試合10失点および10自責点は、いずれも[[日本シリーズにおける各種記録|日本シリーズ新記録]]となっている。投手コーチの[[杉本正 (野球)|杉本正]]は「先発も早々に降板しており、他の投手への負担を避けるため仕方なかった」と述べ、新谷自身は「野手に迷惑をかけてしまった」と語っている<ref>読売新聞、1998年10月25日付朝刊、P.19</ref>が、[[森祇晶]]からは日本シリーズにふさわしい采配と言えるか疑問を投げかけられている<ref>週刊ベースボール、1998年11月9日号、P.29</ref>。オフの契約更改では1,000万円減の年俸7,000万円(推定)となった<ref>読売新聞、1998年12月9日付朝刊、P.19</ref>。
 
 
 
{{by|1999年}}は4月に2試合に先発したが両試合とも2回も持たずに6失点で降板し<ref>読売新聞、1999年4月14日付朝刊、P,22</ref>、[[4月14日]]に一軍登録を抹消された。同年は[[イースタン・リーグ]]で先発として7勝を挙げたが[[10月6日]]に球団から戦力外通告を受け、同じく西武を解雇された元二軍投手コーチの[[森繁和]]とともに[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]に入団した<ref>週刊ベースボール、1999年11月1日号、P.36</ref>。
 
 
 
移籍1年目の{{by|2000年}}は[[4月7日]]の対ダイエー戦で3回5失点で降板したものの、[[4月14日]]の対ロッテ戦で2年ぶりの勝利を完投で挙げている<ref name="yomiuri_2000415">読売新聞、2000年4月15日付朝刊、P.21</ref>。その後5月にかけて3連勝し、マスコミにも騒がれたが投球内容には自信を持てなかったという<ref name="base_20011112_134"/>。チーム最年長の選手として、投手陣の決起集会を開くなどチームを支える役割を担っていた<ref name="base_20011112_134"/>。
 
 
 
{{by|2001年}}は中継ぎを務め [[10月1日]]の対西武戦で8回裏から4番手として登板し、[[垣内哲也]]にソロホームランを浴びながらも1回2/3を投げて1失点だった<ref>朝日新聞、2001年10月2日付朝刊、P.15</ref>。移籍後初の[[西武ドーム]]での登板だったこの試合が現役最終登板となり、それを予感していた両チームのファンから大きな声援が送られたという<ref name="base_20011112_132">週刊ベースボール、2001年11月12日号、P.132</ref>。シーズン終了後に日本ハムから一軍投手コーチ就任を打診され、家族や太田誠と相談した上で[[10月12日]]に球団に引退を申し入れて受諾した<ref>読売新聞、2001年10月13日付朝刊、P.17</ref>。
 
 
 
===現役引退後===
 
{{by|2002年}}から日本ハムで投手コーチを務め、野球の知識や技術を重視しつつメンタル面にも注力する指導を目指していた<ref name="base_20011112_133">週刊ベースボール、2001年11月12日号、P.133</ref>。{{by|2004年}}をもって日本ハムを退団し、スポーツコーチング術を学ぶため{{by|2005年}}に[[筑波大学]]の[[修士課程]]に入学した<ref>読売新聞、2008年9月17日付朝刊、埼玉地方面</ref>。一方、7月に[[尚美学園大学]]が女子硬式野球部を翌{{by|2006年}}に創設する事を発表したのにともない同部の監督就任の誘いがあり、これを承諾している<ref>朝日新聞、2005年7月2日付朝刊、P.17</ref>。また、[[九州]]で唯一[[佐賀県]]だけは[[硬式野球]]チームがない事を知り、全国的に社会人野球チームの減少が続ていた事もあってチーム創設の取り組みを始めた<ref name="base_20060206">週刊ベースボール、2006年2月6日号、P.78</ref>。佐賀には県単位の野球連盟がなかったため最初に連盟を組織し<ref name="base_20060206"/>、[[佐賀市]]に帰省した2005年7月に高校時代の後輩らに呼びかけたところ急速に反応が広がり、翌8月にはチームを結成している<ref>毎日新聞、2005年9月20日付朝刊、佐賀地方面</ref>。東京に居住している事から監督は別途探す予定だったが、周囲の協力が得やすくなる事などを考慮して自身が監督に就任した<ref name="base_20060206"/>。
 
 
 
{{by|2006年}}は主に週末に尚美学園野球部で指導を行い、部員数が6名ながらも[[片岡安祐美]]ら各地の選手を加えて尚美ドリームスというチームで8月の[[全日本女子硬式野球選手権大会|全日本選手権]]に参加し、ベスト4まで進出している<ref>Number、2007年1月4日号、P.98</ref>。{{by|2006年}}からは[[北海道放送]]の解説者も務め、同年春から翌年春にかけて尚美学園は[[ヴィーナスリーグ]]で3連覇を達成している。{{by|2008年}}の[[第3回IBAF女子ワールドカップ]]では[[第3回IBAF女子ワールドカップ日本代表|日本代表]]の投手コーチを務め、3連覇を目指す[[野球アメリカ合衆国女子代表|アメリカ]]を二次予選ラウンドで破り初優勝を遂げた。また、同年は尚美学園が[[全日本女子硬式野球選手権大会|全日本選手権]]で初優勝し、佐賀魂の監督を退いて総監督に就いたほか、大学院を修了した<ref>[http://www.shintani-online.com/profile.html オフィシャルサイト プロフィール]</ref>。
 
 
 
{{by|2010年}}の[[第4回IBAF女子ワールドカップ]]でも[[第4回IBAF女子ワールドカップ日本代表|日本代表]]の投手コーチに就任し、連覇に貢献した。{{by|2012年}}に[[エドモントン]]で開催される[[第5回IBAF女子ワールドカップ]]に向け、日本代表督に就任する事が{{by|2011年}}[[3月7日]]に発表された<ref>[http://www.asahi.com/sports/update/0307/TKY201103070370.html 朝日新聞、2011年3月8日付朝刊、P.16]</ref>。自身が監督を務める尚美大学の選手・OGを含む8人が選出された<ref>[http://www.saitama-np.co.jp/news09/09/01.html 沸き上がれ女子野球 尚美学園大奮闘でW杯3連覇]埼玉新聞、2012年9月9日. 2013年1月27日閲覧</ref>この大会で、史上初となる3連覇を達成している。
 
 
 
== プレースタイル ==
 
社会人後半からプロ前半にかけてはサイドスロー気味のスリークォーターから最速140km/h後半<ref name="base_20081117_113"/>の[[速球|ストレート]]、鋭い[[スライダー (球種)|スライダー]]<ref>読売新聞、1992年8月9日付朝刊、P.11</ref>をはじめとした多彩な変化球<ref>読売新聞、1992年4月10日付朝刊、P.19</ref>を駆使した。また、的を絞らせない投球が持ち味と評されている<ref>週刊ベースボール、1998年7月6日号、P.127</ref>。現役晩年は球威が衰えていたものの、低めへ制球した変化球を投げ分ける技巧派の投球を見せていた<ref name="yomiuri_2000415"/>。
 
 
 
大学以降は[[先発投手|先発]]、[[リリーフ|中継ぎ]]、抑えなど様々な役割を任されたが、どんな場合でも目の前の打者一人を抑えることに集中しており、打者に負けたくないという闘争心が野球に対するモチベーションとなっていた<ref name="base_20000605_19">週刊ベースボール、2000年6月5日号、P.19</ref>。その一方で、監督が決める役割の内容には興味が薄く、他の投手が先発や抑えにこだわる気持ちは理解しにくかったという<ref name="base_20000605_19"/>。
 
 
 
== 人物など ==
 
若い頃から[[神戸製鋼コベルコスティーラーズ|神戸製鋼]]を応援していた[[ラグビー]]ファンであり、[[松尾雄治]]の[[いとこ|従妹]]にあたる妻とは初デートで[[日本ラグビーフットボール選手権大会|日本選手権]]を観戦したという<ref name="base_19960304"/>。開幕投手へのこだわりなどが薄く、投球スタイルも性格もマイペースだと評されていた<ref>週刊ベースボール、1996年2月26日号、グラビア</ref>。
 
[[本宮ひろ志]]の作品を愛読しており、中でも「[[大ぼら一代]]」に受けた影響は大きいという。
 
 
 
== 指導者として ==
 
日本の[[女子野球|女子野球界]]では最も厳しい指導者とも評される一方、経験に裏打ちされた指導には多くの選手から信頼を寄せられている<ref name="yomiuri_20080917">読売新聞、2008年9月17日付朝刊、埼玉地方面</ref>。新谷自身は、女子選手は野球に対する熱意が高いため指導しやすいと感じていたという<ref name="yomiuri_20080917"/>。また、[[日本のアマチュア野球]]は技術面の訓練の比重が大きくなりすぎたという問題点があり、他分野でも通用する人材が育つように野球を通じた人格形成を重視すべきだと述べている<ref name="base_20060206_79">週刊ベースボール、2006年2月6日号、P.79</ref>。
 
 
 
尚美学園の監督に就任した際には、選手に対して個々のプレーに対する意味を説明して理解を深める事に努めた<ref name="Number_20070104_101">Number、2007年1月4日号、P.101</ref>。他のチームが勝つために努力してくるような強いチームを作り、また同時に指導者を務められる選手を育てる事で日本女子野球を発展させる事を目標としている<ref name="Number_20070104_101"/>。練習後には、選手と食事や[[ボウリング]]などに行くこともよくある<ref>[http://ameblo.jp/swing-smileys/entry-11070907176.html 兵庫スイングスマイリーズオフィシャルブログ Powered] 2011年11月06日 頑張れ!日本!! #8新原</ref>。選手と信頼関係を作る上で大事なのは自身が勉強すること、そしてその先には勝利によって喜びを与えてあげること重要であり、また選手の自主性プロと違いアマチュアである教え子にとって野球は大学の生活の一部に過ぎないという考えから、練習は練習、遊びは遊びとメリハリがきく選手に育てていると語っている<ref>[http://www.daily.co.jp/general/man_in_the_news/2012/07/30/0005253860.shtml 「マドンナジャパン」監督・新谷博 2-いま、この人。]デイリースポーツonline、2012年7月30日.2013年1月28日閲覧。</ref>。
 
 
 
かつては女子プロ野球について、「実力がアマより劣っていては意味がない」と語るなど<ref>谷岡雅樹 『甦る!女子プロ野球‐ヒールをスパイクに履きかえて』 梧桐書院、2010年。ISBN 978-4340140008{{要ページ番号|date=2013年1月}}
 
</ref>その実力を疑問視していたが、2012年4月21日の日本代表候補と女子プロ野球選抜との強化試合で、新谷率いる日本代表候補が女子プロ野球選抜に完敗し<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/21/kiji/K20120421003093220.html 女子日本代表候補完敗 女子プロリーグ選抜に2連敗]スポニチ Sponichi Annex、2012年4月21日. 2013年2月3日閲覧。</ref> 、「日本で一番いいチームをつくるのが役目であり、プロ選手の代表入りは当然ある」「一番大事なのはチームワークであり、性格、やる気を含めて判断する」と、史上初となるプロからの日本代表への選出に前向きな姿勢を見せ<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/feature/baseball/20100112-937038/news/20120422-OHO1T00139.htm 日本代表候補がプロに完敗!W杯V3目指しプロ代表入りへ…女子野球]スポーツ報知、2012年4月22日. 2013年1月27日閲覧。</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/21/kiji/K20120421003093700.html 新谷監督プロに脱帽「毎日野球をやっているだけのことはある」] スポニチ Sponichi Annex、2012年4月21日. 2013年1月27日閲覧。</ref>、結果プロからは5人が選出されることとなった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/22/kiji/K20120722003736360.html 女子野球の日本代表発表 プロから初めて5人選出]スポニチ Sponichi Annex、2012年7月22日. 2013年1月27日閲覧。</ref>。
 
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別投手成績 ===
 
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1992}}
 
|rowspan="8" style="text-align:center;"|[[埼玉西武ライオンズ|西武]]
 
|28||8||2||0||0||4||8||2||--||.333||453||108.2||94||10||30||3||2||108||4||0||43||40||3.31||1.14
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}}
 
|24||19||3||1||1||8||1||0||--||.889||469||117.0||99||22||32||2||3||108||4||0||42||40||3.08||1.12
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}}
 
|41||8||3||2||1||10||8||9||--||.556||517||130.0||97||15||35||4||5||99||3||0||47||42||'''2.91'''||1.02
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}}
 
|28||23||7||4||1||11||11||1||--||.500||668||169.0||129||16||44||2||5||115||3||0||58||55||2.93||1.02
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}}
 
|30||21||2||2||0||11||5||2||--||.688||632||145.0||144||'''23'''||56||2||5||121||3||0||64||55||3.41||1.38
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
 
|17||9||0||0||0||2||2||0||--||.500||227||47.2||61||7||24||1||3||40||1||0||40||35||6.61||1.78
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}}
 
|23||16||2||1||1||5||8||0||--||.385||469||110.1||113||11||27||2||8||72||5||1||49||45||3.67||1.27
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}}
 
|2||2||0||0||0||0||1||0||--||.000||17||1.1||11||1||1||0||0||3||0||0||12||11||74.25||9.00
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
 
|rowspan="2" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]
 
|28||8||1||0||0||3||3||0||--||.500||300||67.0||76||10||26||1||4||40||0||0||38||37||4.97||1.52
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2001}}
 
|17||0||0||0||0||0||0||0||--||----||89||22.1||18||7||5||0||1||18||1||0||11||11||4.43||1.03
 
|-
 
!colspan="2"|通算:10年
 
|238||114||20||10||4||54||47||14||--||.535||3841||918.1||842||122||280||17||36||724||24||1||404||371||3.64||1.22
 
|}
 
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
 
 
=== タイトル ===
 
*[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:1回 (1994年)
 
 
 
=== 表彰 ===
 
*[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回 (1994年5月)
 
 
 
===記録===
 
; 初記録
 
*初登板:1992年4月7日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]1回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点
 
*初セーブ:1992年4月9日、対オリックス・ブルーウェーブ3回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点
 
*初奪三振:1992年4月18日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]2回戦([[千葉マリンスタジアム]])、6回裏に[[愛甲猛]]から
 
*初先発・初勝利:1992年8月2日、対オリックス・ブルーウェーブ18回戦(西武ライオンズ球場)、6回1/3を3失点(自責点2)
 
*初完投勝利:1992年8月8日、対千葉ロッテマリーンズ18回戦(千葉マリンスタジアム)、9回3失点
 
*初完封勝利:1993年8月7日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]16回戦([[福岡ドーム]])
 
; その他の記録
 
*[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1994年)
 
 
 
=== 背番号 ===
 
*'''17''' (1992年 - 1999年)
 
*'''60''' (2000年 - 2001年)
 
*'''81''' (2002年 - 2004年)
 
 
 
== 関連情報 ==
 
=== 現在の出演番組 ===
 
*[[侍プロ野球]]
 
:2011年9月19日の西武対日本ハム戦でテレビ初登場となる。
 
*[[HBCファイターズナイター]]
 
*[[スカイ・A sports+]]
 
*[[FOX SPORTS ジャパン]]([[FOX bs238]]) 「BASEBALL CENTER」解説者
 
*[[鎌スタラジオ]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[佐賀県出身の人物一覧]]
 
*[[駒澤大学の人物一覧]]
 
*[[埼玉西武ライオンズの選手一覧]]
 
*[[北海道日本ハムファイターズの選手一覧]]
 
*[[筑波大学の人物一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://ameblo.jp/shintani-online/ 新谷博ブログ]
 
*[http://www.shintani-online.com/ 新谷博 オフィシャルサイト]
 
*[http://www.d-athletes.com/ 株式会社ディレクト・アスリーツ]
 
 
 
{{Navboxes|title=業績
 
|list1=
 
</span>
 
{{パシフィック・リーグ最優秀防御率}}
 
{{埼玉西武ライオンズ開幕投手|西武ライオンズ}}
 
}}
 
{{Navboxes|title=ドラフト指名
 
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</span>
 
{{西武ライオンズ1991年ドラフト指名選手}}
 
{{ヤクルトスワローズ1982年ドラフト指名選手}}
 
}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:しんたに ひろし}}
 
[[Category:日本の野球選手]]
 
[[Category:佐賀商業高校出身の野球選手]]
 
[[Category:駒澤大学硬式野球部の選手]]
 
[[Category:日本生命硬式野球部の選手]]
 
[[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]]
 
[[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手]]
 
[[Category:最優秀防御率 (NPB)]]
 
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
 
[[Category:日本の野球監督]]
 
[[Category:筑波大学出身の人物]]
 
[[Category:佐賀県出身の人物]]
 
[[Category:1964年生]]
 
[[Category:存命人物]]
 

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