新見正興

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新見正興
生誕 文政5年(1822年)5月
死没 明治2年10月18日1869年11月21日
幕府 江戸幕府 外国奉行
氏族 三浦氏 → 新見氏
ファイル:JapaneseMissionInWashington.jpg
ワシントン海軍工廠を視察する遣米使節:前列左から、外国奉行支配両番格調役・塚原但馬守、外国奉行頭支配組頭・成瀬善四郎、副使・村垣淡路守、正使・新見豊前守、監察・小栗豊後守、勘定方組頭・森田岡太郎

新見 正興(しんみ まさおき)は、幕末幕臣外国奉行として日米修好通商条約批准書を交換する正使の大役を帯びて渡米した。その当時の名乗りから、新見 豊前守(しんみ ぶぜんのかみ)としても知られる。

来歴

西御丸小納戸役・三浦義韶の子として生まれたが、文政12年(1829年)に大坂町奉行新見正路の養子となる。天保10年(1839年)より小姓、次いで中奥小姓となる。嘉永元年(1848年)10月に新見家の家督を継ぐ。安政元年(1854年)8月に小普請組支配、安政3年(1856年)3月には小姓組番頭となり、安政6年(1859年)7月に外国奉行に任じられ、8月より神奈川奉行を兼帯する。

万延元年遣米使節

万延元年(1860年)、新見は日米修好通商条約批准書を交換する重責を担った万延元年遣米使節の正使として、副使・村垣淡路守(範正)、監察・小栗豊後守(忠順)らとともに渡米した。

1月22日に横浜でアメリカ軍艦「ポーハタン」に乗り込み、ハワイ王国のホノルルを経由して太平洋を横断、サンフランシスコにいったん寄港の後、一路パナマへと向かい、パナマ地峡鉄道で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノークEnglish版」に乗って北上、首都ワシントンD.C.に到着したのは万延元年閏3月25日(1860年5月15日)のことだった[1]

ワシントンでは大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日(5月23日)に国務長官ルイス・カスと批准書を交換。一行はその後フィラデルフィアニューヨークでも熱烈な歓迎を受けた。5月12日(6月30日)にニューヨークでアメリカ軍艦「ナイアガラ」に乗船し、西回りで大西洋からインド洋に入り、9月27日(11月9日)に横浜に帰着した。新見はこの功績により300石加増され、10月には外国奉行専任となった。

帰国後

文久2年(1862年)6月、側衆となり、伊勢守に叙されるが、元治元年(1864年)9月に免職となる。慶応2年(1866年)12月に隠居し、閑水と号する。明治元年(1868年)、武蔵国下奥富村(現埼玉県狭山市下奥富)へ帰農したが、しかし翌明治2年(1869年)4月病気療養のため再び東京へ行き、そこで10月に病没した。享年48。新見家は明治維新後の混乱の中で没落した。

正興死後の娘たち

正妻との間に娘が3人いたが、長女は北海道へ嫁ぎ、次女・ゑつと三女・りょうは奥津家の養女となり、そこから柳橋に芸者として売られた。姉妹は並んで歩くと日頃から美形に見慣れた柳橋界隈の人々も振り返るほどの艶姿であったという。二人とも芸で身を立て、姉のゑつは特に柳橋一の芸達といわれるほどだった。

りょうは16歳の時、伊藤博文柳原前光が落籍を競い、妾として前光に囲われる事になる。柳原本邸近くの家を与えられ、18歳で女児を出産したが、これが後の柳原白蓮である。女児は前光の正妻・初子に引き取られた。産後病がちになり、明治21年10月7日、21歳で死去。りょうの元で養われていた母は、姉のゑつの元へ引き取られた。

ゑつは吉原の顔役であった飯島三之助に病身の母ごと落籍され、一人息子の房次郎をもうける。房次郎が芸事を嫌ったことから、吉原の芸妓から見込みのある娘・とめを養女として迎え、奥津姓と芸を継がせた。房次郎の妻の思い出によれば、ゑつは武家のように礼儀に厳しい姑だったという。昭和19年、80歳で死去。

柳原家とは身分違いであることから、飯島家から憚って親戚付き合いはなかったが、白蓮は宮崎家の人になってから生母の墓を探し当て、従兄弟の房次郎とも交流している。

人物・逸話

補注

  1. 最初の大陸横断鉄道が開通するのはこの9年後の1869年のこと、パナマ運河が開通するのはさらに後の1914年のことである。