新日鉄住金八幡ラグビー部

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新日鉄住金八幡ラグビー部(しんにってつ・すみきん・やはた・ラグビーぶ)は2017年度現在、トップキュウシュウAに属するラグビーチーム。

獲得した全国タイトルは、計16回(日本選手権1回・NHK杯2回・全国社会人大会12回・国体1回)を誇る。また、7人制ラグビー大会のYC&AC JAPAN SEVENSで歴代最多の優勝12回を誇る。

概要

黎明期

1927年、後に八幡製鐵副社長、日本ラグビーフットボール協会会長を歴任する湯川正夫[1]により、製鉄ラガークラブとして創設される。しかしその後、第二次世界大戦等の影響により、一時活動停止を余儀なくされる。

1948年に活動を再開。八幡製鐵ラグビー部と名称が変わった1950年度の大会で、前年度優勝チームの三井化学を九州予選で破って初出場を果たした全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)において、園田実高倉泰三らを擁し、決勝でトヨタ自工を32-0で破って優勝を果たすと、その後宿敵となる近鉄(1951年度)、川崎重工業(1952年度)をそれぞれ決勝で下し、同大会3連覇を達成した。

4連覇がかかった1953年度の同大会は、九州電力に九州予選で敗退して本大会出場すら果たせなかったが、1954年土屋俊明明治大学)、山崎靖彦佐藤英彦(ともに早稲田大学)の3人のラグビー日本代表選手が揃って入社したことで選手層に厚みが増し、同年度の全国社会人大会では大映を、1955年度は近鉄をそれぞれ破って連覇を果たした。

充実期

1956年、明治大学出身の「快速重戦車ウィング」と称された、日本代表WTBの宮井国夫が入社。宮井の加入により、走力があった土屋を、フォワードからバックスへとコンバートさせる策が試みられた。ところが、フォワード陣の高齢化・弱体化が露呈したため、3連覇がかかった同年度の全国社会人大会では、準決勝で近鉄に不覚を取った。一方、同大会が終了した後、当チームは香港遠征を行い、2勝1敗の戦績を挙げた。だが、1957年度の全国社会人大会でも、2回戦で京都市役所に同点抽選負けしてしまう。

2年連続して全国社会人大会で優勝できなかったことから、1958年、14名という大量の新人補強を行った。その成果が見事に現れ、決勝で3連覇を狙う近鉄を9-0で下し、3年ぶり6度目の優勝。さらに1959年度も近鉄を下して連覇を達成した。その後、カナダに遠征し、4勝2敗の成績を収めた。

1960年、後に「グレート草津」のリング名でプロレス界へと転身する草津正武が入社。全国社会人大会において三度近鉄を下し、同大会2度目の3連覇を達成した。また1960年度より開始された、日本協会招待NHK杯においても、学生代表の日本大学を50-13で破り、初代優勝チームとなった。しかし同年度シーズン限りで土屋が引退。その影響からか、1961年度の全国社会人大会では史上初の4連覇がかかったものの、4たび全国社会人大会の決勝で相見えた近鉄に5-6で敗れた。それは、近鉄が同大会の決勝において八幡を破った最初で最後の事例でもあった。

全国社会人大会4連覇達成

1962年度、王者奪回を果たすべく、山崎靖彦をコーチに据え、主将の松信要三(明治大学出身)との「二人三脚体制」がスタートした当チームは、決勝で谷藤機械(現 フリージア・マクロス)を破り9度目の全国社会人大会優勝を果たした。さらに同年度は、第3回日本協会招待NHK杯において明治大学を25-6で破り、2度目の同大会優勝を果たした。

1963年度、宿敵・近鉄を破って10度目の全国社会人大会優勝を果たした当チームは、4チームで覇が競われた、第1回日本ラグビーフットボール選手権大会(以下、日本選手権)に出場。しかし、1回戦で同志社大学に敗れた。だが1964年度、トヨタ自工を下して3度目の全国社会人大会3連覇を達成した当チームは、1965年1月15日に行なわれた第2回日本選手権において、法政大学を15-6で下し、初のラグビー日本一の座に就いた。

しかし1964年度のシーズン終了後、宮井が引退。さらに草津も突然引退し、プロレスへの転向を表明をしたあたりから当チームの衰退の兆しが見え始めてきた。加えて以前より、新人の補強がままならなくなっていたことや、山崎コーチと松信主将の確執が表面化し、後に山崎がチームを去る事態になったこともあって、以前よりチーム力の低下が顕在化していた。

それでも、宮井と草津が抜けたにもかかわらず、1965年に入社した高卒ルーキーの寺井敏雄が草津の穴を埋める活躍をしたこともあり、同年度の全国社会人大会では、近鉄を8-3で下し、ついに史上初の同大会4連覇を達成。さらに同大会の優勝記録を12に伸ばした。しかし、それが当チーム最後の栄光となってしまうのである。

栄光から一転衰退へ

その後、第3回日本選手権で早稲田大学と対戦。一進一退の攻防が続き、ノーサイド寸前まで9-9の同点だったが、早稲田のフルバック(FB)・山本巌にペナルティゴールを決められ、土壇場で日本一の座を逸した。その後、宿敵の近鉄が、坂田好弘石塚広治らを擁し、2年連続で全国社会人大会と日本選手権を制覇。一方、当チームは全国社会人大会では、決勝にすら駒を進められないでいた。

1968年度の全国社会人大会準決勝で、当チームは3連覇がかかる近鉄と対戦。しかしこれまでとは違って、下馬評は断然近鉄が優勢であった。ところが、執拗にタテ攻撃を展開した効果が出て、18-9でこれを撃破。翌日のスポーツ紙はこぞって、『古豪八幡、どん底からの再起』という見出しをつけたという。しかし当チームの踏ん張りもここまで。決勝ではトヨタ自工に14-19で敗れた。またここで事実上、八幡製鐵ラグビー部・栄光への道のりは幕を閉じた。

八幡製鐵から新日鐵八幡へ

1970年3月31日、八幡製鐵所と富士製鐵が合併して新日本製鐵が誕生したことに伴い、現チーム名へと変更された。その後は合理化策等の影響により補強もままならない状況が続き、一時は同好会に格下げされた時代もあったが、現在はラグビー部として活動している。2012年の「新日鉄住金」への社名変更に伴い、2012年度から「新日鉄住金八幡ラグビー部」に改称している。

試合会場・練習場

旧八幡製鐵時代から、同社(後に新日本製鐵)が所有し、後に北九州市の市営となった北九州市立鞘ヶ谷陸上競技場を使用している。

エピソード

  • 八幡製鐵ラグビー部時代に限って言うと、近鉄とは20年近くに亘って全国社会人大会において鎬を削った宿命のライバルであったが、同大会における通算戦績は10勝2敗であり、決勝戦に限っていえば7勝1敗と断然八幡のほうが分が良かった。しかし、1950年度から1967年度まで、八幡が取りこぼした年度には必ず近鉄が同大会で優勝していることを踏まえると、やはり近鉄の存在は侮りがたかったことが伺える。

リーグ戦戦績

トップキュウシュウ所属後の成績
  • 2003-2004 トップキュウシュウB 3位
  • 2004-2005 トップキュウシュウB 優勝、トップキュウシュウB残留
  • 2005-2006 トップキュウシュウB 3位
  • 2006-2007 トップキュウシュウB 2位、トップキュウシュウB残留
  • 2007-2008 トップキュウシュウB 4位
  • 2008-2009 トップキュウシュウB 6位
  • 2009-2010 トップキュウシュウB 2位
  • 2010-2011 トップキュウシュウB 3位
  • 2011-2012 トップキュウシュウB 2位、トップキュウシュウAへ昇格
  • 2012-2013 トップキュウシュウA 5位(予選リーグ 1勝5敗・6位、決勝リーグ4-7位グループ 2勝1敗)
  • 2013-2014 トップキュウシュウA 7位(予選リーグ 1勝5敗・6位、決勝リーグ4-7位グループ 3敗)、入替戦・敗戦、トップキュウシュウBへ降格
  • 2014-2015 トップキュウシュウB 優勝(5勝)、入替戦・勝利、トップキュウシュウAへ昇格
  • 2015-2016 トップキュウシュウA 8位(予選リーグ 1勝6敗・7位、決勝リーグ5-8位グループ 3敗)、入替戦・勝利、トップキュウシュウA残留
  • 2016-2017 トップキュウシュウA 7位(予選リーグ 6敗・7位、決勝リーグ4-7位グループ 3敗)
  • 2017-2018 トップキュウシュウA 4位(予選リーグ 1勝3敗・4位、決勝リーグ4位・5位決定戦 勝利)、入替戦・勝利、トップキュウシュウA残留

所属選手(2015-2016)

[2]

過去に在籍した主な選手

キャップ獲得日本代表選手
(カッコはキャップ数)
その他

参考文献

新日鐵住金グループのスポーツチーム

現在活動するスポーツチーム
かつて存在したスポーツチーム

関連項目

脚注

外部リンク


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