「斯波義敏」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
23行目: 23行目:
 
}}
 
}}
  
'''斯波 義敏'''(しば よしとし)は、[[室町時代]]後期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[越前国|越前]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]]守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は[[斯波持種|斯波(大野)持種]]、義父は[[斯波義健]]。子に[[斯波義寛|義寛]]、[[斯波義孝]]室、[[斯波寛元|寛元]]、[[斯波義雄|義雄]]。
+
'''斯波 義敏'''(しば よしとし)
  
== 生涯 ==
+
室町時代中期の越前,尾張,遠江の守護大名。持種の子。左兵衛督,従三位に進んだ。享徳1 (1452) 年9月斯波義健が没したあと,惣領家を継いだ。康正2 (56) 年権臣甲斐常治と争い,長禄2 (58) 年山城東光寺に入った。この紛争は幕府の仲介でいったん収拾されたが,翌年義敏は常治を攻めて幕府の怒りを買い,ついに周防に走り大内教弘を頼った。幕府は,義敏の分国を子の松王丸に与えたが,寛正2 (61) 年これを廃し,渋川義廉に斯波家を継がせたため ([[斯波義廉]] ) ,斯波家は2分し,義敏は細川勝元を頼って,義廉と争い,[[応仁の乱]]の一因となった。法号即源院深叟道海。
=== 武衛家相続と甲斐常治との対立 ===
+
[[永享]]7年([[1435年]])<ref>小泉(2015)は『康富記』の元服記事から永享9年生まれ説を採用する。</ref>、斯波一門の大野持種(斯波持種)の嫡男として誕生する。宝徳3年([[1451年]])12月12日に元服が行われた(『[[康富記]]』)。この頃、斯波本家である武衛家では当主の早世が相次ぎ、一門筆頭格の大野持種と、重臣筆頭格の[[甲斐常治]](執事、越前・遠江[[守護代]])が幼主の斯波義健を後見していた。しかし持種と常治は相容れず、主導権を巡って対立状況にあった。
 
 
 
[[享徳]]元年([[1452年]])9月、当主の義健が18歳で死去して嗣子が無かったため、義健と同年齢の義敏が[[室町幕府]]及び重臣に推されて武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した<ref>『斯波家譜』。なお、『尊卑分脈』『応仁記』などには右兵衛佐と記されているが、幕府発給文書には「左兵衛佐」と記されており誤伝と思われる。また、小泉義博は[[斯波義種]]系(大野斯波氏)の初任官は民部少輔であることから、義敏も元服時に同氏の後継者として民部少輔に任ぜられ、翌年の武衛家の家督継承によって左衛門佐に転じたと推定する(小泉(2015)、P287 - P288)。</ref>。これにより、一門筆頭(斯波持種)と家臣筆頭(甲斐常治)の対立は、主従(義敏対常治)の争いに発展した。義敏は常治と元から折り合いが悪く、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする常治の排除を企てていたともいわれる。分国越前で支配権を掌握する甲斐派を排除したい越前[[国人]]と権力回復を目論む義敏が結びつき、常治との権力闘争が生じたという面もあった。
 
 
 
=== 長禄合戦 ===
 
甲斐常治は[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の[[不知行地還付政策]]を支持しており、越前など分国の経営にあたっては幕府や武衛家重臣[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]などの支持を得ていた。義敏は常治の専横を幕府に訴えたが、[[長禄]]元年([[1457年]])に[[甲斐氏]]・[[朝倉氏|朝倉氏・]][[織田氏]]ら重臣と戦って敗れ、東山東光寺に篭居する羽目となった<ref>(『[[大乗院寺社雑事記]]』『[[経覚私要妙]]』『[[碧山日録]]』『[[在盛卿記]]』)福井県、P597 - P599、松原、P38 - P41、水藤、P5、渡邊、P75 - P77。</ref>。
 
 
 
長禄2年([[1458年]])2月、将軍や[[管領]][[細川勝元]]の仲裁によって両者はひとまず和解し、義敏は自邸に戻った。ところが越前では義敏派の国人[[堀江利真]]と甲斐派の朝倉孝景・[[甲斐敏光]](常治の息子)らが衝突、7月頃に[[長禄合戦]]へと発展した。緒戦は堀江利真の率いる義敏派が連戦連勝して戦局を有利に展開したが、不知行地還付政策に基づく寺社の[[荘園]]直接支配推進を利真が拒絶したため幕府の態度は硬化し、朝倉らの支持に傾いた。この頃、将軍義政の異母兄である[[堀越公方]][[足利政知]]の関東経略に進展が見られないことから、その救援のため、9月に義敏および常治が[[関東地方|関東]]への出兵が命じられた。だが両者は互いに警戒して動かず、長禄3年([[1459年]])1月には越前の義敏派と甲斐派の衝突が再燃した。義政から再三にわたる関東出兵命令を受けた義敏は、5月に兵を集めたものの関東には赴かず、甲斐方の[[金ヶ崎城]]や敦賀を攻めて逆に敗れた。義政の怒りを買った義敏は、息子の松王丸(義寛)に家督を譲らされ、[[周防国|周防]]の[[大内教弘]]の元へ追放された<ref>松王丸の家督継承の時期は不明であるが、長禄3年7月19日時点で甲斐常治が幕府の命によって施行状を発していることが確認できる(通常は幕命を受けて守護の施行状が出され、守護の施行状に基づいて守護代の施行状が出されるが、守護が幼少である場合には守護の施行状が省略される場合があった)ため、この段階で松王丸が既に斯波氏家督・守護であったことが判明する(小泉(2015)、P289 - P290)。</ref>。8月には堀江利真も越前に侵攻した朝倉孝景に討たれ、甲斐派が合戦に勝利した。もっとも甲斐常治自身はその間京都で病床に臥せっていたのであり、勝利の直後に病死している。
 
 
 
=== 武衛騒動 ===
 
[[寛正]]2年([[1461年]])9月、幕府の関東政策により、松王丸に替わって堀越公方執事[[渋川義鏡]]の子である[[斯波義廉]]が武衛家を継承した([[興福寺]][[尋尊]]の『[[大乗院寺社雑事記]]』寛正2年8月2日条は、朝倉孝景・甲斐敏光がこれに関与していたとする<ref>瀬戸(2015)、P262</ref>。ただし、孝景・敏光は遠江と関東に出陣していたため、この説は疑問)<ref>義政は事前に孝景・敏光両者を召してこの措置を伝え、孝景には領地を7箇所も与えて今後の越前守護代に関しても何らかの言い含めがあったとされる。福井県、P599 - P606、松原、P41 - P47、谷口、P42 - P43、水藤、P5 - P6、渡邊、P77 - P80。</ref>。そのため、義敏は反義廉となって将軍側近などに対し、復帰工作を行うようになる。 渋川義鏡が関東経略に失敗し、将軍義政の不興を買ったことで、義敏の立場も改善に向かっていく。
 
 
 
寛正4年([[1463年]])11月、将軍義政は側近の[[伊勢貞親]]、[[季瓊真蘂]]らの進言を容れ、生母[[日野重子]]の逝去に伴い義敏を赦免した。この時は京都への復帰は認められず、ようやく寛正6年([[1465年]])[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]に至って上洛を許す[[御内書]]が出たのを受けて義敏は周防を立ち、[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]に上洛、翌30日に父大野持種とともに将軍に拝謁した(『蔭涼軒日録』、『大乗院寺社雑事記』は対面を29日のこととする)。これを知った義廉が将軍に迫り、分国は引き続き義廉が支配するようにとの幕府奉行人奉書が同30日付で出された。興福寺の尋尊は義政の意図を図りかねて困惑している。
 
 
 
[[文正]]元年([[1466年]])[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]、幕府は義敏を武衛家家督に復し、[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]に尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じた。家督を奪われた義廉は岳父[[山名宗全]]を頼り、[[一色義直]]・[[土岐成頼]]らも義廉に味方する。さらに、同年に伊勢貞親の助言で大内教弘の子[[大内政弘|政弘]]が赦免されると、これに反対する細川勝元も貞親に敵対し、[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]に貞親・真蘂・[[赤松政則]]らの失脚([[文正の政変]])に発展した。[[9月14日 (旧暦)|14日]]に義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命された<ref>福井県、P609 - P610、松原、P48 - P49、谷口、P43 - P44、水藤、P6 - P9、渡邊、P81 - P85。</ref>。
 
 
 
=== 応仁の乱と朝倉孝景の自立 ===
 
こうした武衛家の内訌と[[足利将軍家]]・管領[[畠山氏]]の後継者争いなどに絡んだ[[守護大名]]の派閥抗争が[[応仁の乱]]に発展すると、義敏は細川勝元率いる東軍に属し、京都の戦乱を後目にいち早く越前において西軍の義廉陣営を掃討していくなど戦果を上げた。また将軍義政を擁する東軍に属したことで、[[応仁]]2年([[1468年]])7月には義敏・松王丸(のちに元服して義良)父子に武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還(西軍内では依然として義廉が武衛家当主及び三ヶ国守護扱い)されるなど、義廉陣営に対して有利な立場に立った。
 
 
 
[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])、越前国主の座を見返りに朝倉孝景が東軍へ寝返り、越前で実力支配を展開していった。この時、義政は孝景が合戦を起こしても行動しないように義敏に命じたので中立化したが、やがて越前の西軍勢力を駆逐した孝景の勢力の前に義敏は苦境に立たされる。最後は越前統一を目前とした孝景に対抗するため、越前大野の土橋城に籠もるものの、文明7年([[1475年]])末に孝景の総攻撃を受け、孝景によって京都に送り帰された。これを記述する『[[応仁記]]』は、西軍方であった甲斐氏が義敏に加担したとするが、甲斐氏が義敏と結んだ事実は確認できず矛盾があり、この記事は虚偽であるとする見解もある。
 
 
 
記録などから義敏と孝景の対立の公然化が確認できるのは、義良(後に義寛)が越前に下向する文明11年([[1479年]])以降である<ref>小泉(2015)、P291 - P293</ref>。義良は越前奪還の兵を出し、また幕府にたびたび訴訟を起こすが(長享の訴訟・延徳の訴訟)、ついに越前の回復を果たせなかった<ref>福井県、P612 - P630、P637 - P642、松原、P52 - P73、P84 - P91、水藤、P9 - P18、P23 - P29。</ref>。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
帰京後の義敏は文化的活動が主となり、武衛家当主としての実質的な活動は義寛に任せて、前将軍義政の側にあったと思われる。文明13年([[1481年]])に斯波氏嫡流の事績及び自分の嫡流相続の経緯をまとめ『[[斯波家譜]]』として残す<ref>『斯波家譜』の奥書では、「高祖父高経の肖像を見た将軍[[足利義尚]]と[[日野富子]]の母子より武衛家の詳しい次第を尋ねられたものの、自身が出陣中のために、その問いに満足に答えられなかった事を無念と思い、これを著した」とある。尚、「現在自分は在陣中であり、伝来の古記録等が手許に無い為、内容に多少の相違もあると思う」との断りも書かれてある。</ref>。また歴代の武衛家当主達と同じく[[連歌]]などもよく行い、『[[新撰菟玖波集]]』には7首が入選している。文明17年([[1485年]])8月に義政に従って出家、入道道海と号し、名実共に義寛に武衛家家督を譲る。永正5年(1508年)に死去。享年74。法名は即現院殿道海深叟。
 
 
 
武衛家の家督自体は、義敏が将軍父子を擁する東軍に属し、西軍の義廉に追討令が下ったこともあって取り戻すことには成功した。しかしこの一連の家督争いの間に、高祖父[[斯波高経|高経]]以来の領国であり斯波氏の本拠地ともいえる越前を家臣に過ぎなかった朝倉氏に奪われるなど、斯波氏はその後衰退してゆくこととなる。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※日付は旧暦
 
* [[享徳]]元年([[1452年]])、家督相続。従五位下左兵衛佐。越前、尾張、遠江守護補任。
 
* [[長禄]]3年([[1459年]])、三ヶ国守護職罷免。家督剥奪。
 
* [[文正]]元年([[1466年]])7月、家督再承。
 
* 文正元年(1466年)8月、三ヶ国守護職再任。
 
* 文正元年(1466年)9月、三ヶ国守護職罷免。
 
* [[応仁]]2年([[1468年]])7月、嫡子松王丸(義寛)に三ヶ国守護職補任。
 
* 文明7年([[1475年]])10月、尾張に赴く。
 
* 文明10年([[1478年]])7月24日、従四位下に昇叙。これ以降、左兵衛督に転任か?
 
* 文明16年([[1484年]])8月8日、従三位に昇叙。
 
* 文明17年([[1485年]])8月、出家。入道道海と号す。
 
 
 
== 偏諱を受けた人物 ==
 
* [[斯波政敏|斯波政'''敏''']](まさとし、息子、[[奥田秀種]]の実父)
 
* [[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉'''敏'''景]]([[朝倉氏]]第7代当主・英林孝景の初名) - 後に義敏と対立
 
* [[織田敏広|織田'''敏'''広]]([[織田氏|岩倉織田氏]](織田伊勢守家))
 
* [[織田敏定|織田'''敏'''定]]([[織田氏|清洲織田氏]](織田大和守家)) - 子とされる[[織田敏信|敏信]]<ref>織田敏信については、[[織田良信]]と同一人物であり、義敏の子・斯波義良(のちの義寛)の偏諱を受けた良信が義敏の守護復帰後に重ねて偏諱を受けて改名したものとする説もある(横山住雄『織田信長の系譜』より)。</ref>・[[織田敏宗|敏宗]]・[[織田秀敏|秀敏]]も「敏」の字を使用。
 
* [[織田敏任|織田'''敏'''任]](としとう、敏定の弟とされる)
 
* [[織田敏貞|織田'''敏'''貞]](としさだ、敏定・敏任の叔父(父・[[織田久長|久長]]の弟)とされる)
 
* [[織田敏仁|織田'''敏'''仁]](としひと、同上、久長の弟で養子とされる)
 
* [[甲斐敏光|甲斐'''敏'''光]](甲斐常治の子) - 後に義敏と対立
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[小川信]]『足利一門守護発展史の研究』[[吉川弘文館]]、1980年。
 
* [[今谷明]]・[[藤枝文忠]]編『室町幕府守護職家事典〔下〕』P50 - P51、[[新人物往来社]]、1988年。
 
* [[福井県]]『福井県史 通史編2 中世』福井県、1994年。
 
* [[松原信之]]『越前 朝倉一族<新装版>』新人物往来社、2006年。
 
* [[谷口克広]]『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。
 
* 『歴史と旅 増刊「守護大名と戦国大名」』[[秋田書店]]、1997年。
 
* [[水藤真]]『[[人物叢書]] 朝倉義景』吉川弘文館、1981年。
 
* [[渡邊大門]]『戦国誕生 <small>中世日本が終焉するとき</small>』[[講談社現代新書]]、2011年。
 
* [[小泉義博]]「斯波氏三代考」(初出:『一乗谷史学』6号(1974年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)
 
* [[瀬戸祐規]]「『大乗院寺社雑事記』『文正記』に見る長禄・寛正の内訌」(初出:大乗院寺社雑事記研究会 編『大乗院寺社雑事記研究論集 第三巻』(和泉書院、2006年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)
 
* 『武衛系図』(『[[続群書類従]]』)。
 
* 『[[尊卑分脈]]』。
 
* 『[[系図纂要]]』。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[室町時代の人物一覧]]
 
* [[武衛騒動]]
 
* [[享徳の乱]]
 
  
 
{{斯波氏歴代当主||第10代|1452年 - 1459年、1466年 - 1485年}}
 
{{斯波氏歴代当主||第10代|1452年 - 1459年、1466年 - 1485年}}
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
  
 
{{DEFAULTSORT:しは よしとし}}
 
{{DEFAULTSORT:しは よしとし}}

2018/10/5/ (金) 11:24時点における最新版

斯波義敏
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 永享7年(1435年
死没 永正5年11月16日1508年12月8日
幕府 室町幕府越前尾張遠江守護
氏族 斯波氏(大野家→武衛家)

斯波 義敏(しば よしとし)

室町時代中期の越前,尾張,遠江の守護大名。持種の子。左兵衛督,従三位に進んだ。享徳1 (1452) 年9月斯波義健が没したあと,惣領家を継いだ。康正2 (56) 年権臣甲斐常治と争い,長禄2 (58) 年山城東光寺に入った。この紛争は幕府の仲介でいったん収拾されたが,翌年義敏は常治を攻めて幕府の怒りを買い,ついに周防に走り大内教弘を頼った。幕府は,義敏の分国を子の松王丸に与えたが,寛正2 (61) 年これを廃し,渋川義廉に斯波家を継がせたため (斯波義廉 ) ,斯波家は2分し,義敏は細川勝元を頼って,義廉と争い,応仁の乱の一因となった。法号即源院深叟道海。




楽天市場検索: