文屋康秀

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文屋 康秀(ふんや の やすひで)は、平安時代前期の官人歌人文琳とも。縫殿助・文屋宗于[1]または大舎人頭・文屋真文[2]の子。官位正六位上・縫殿助。六歌仙および中古三十六歌仙の一人。子に朝康がいる。

経歴

官人としては元慶元年(877年山城大掾、元慶3年(880年)縫殿助に任官したことが伝わる程度で卑官に終始した。

古今和歌集』仮名序では、「詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし」と評される。勅撰和歌集には『古今和歌集』4首と『後撰和歌集』1首が入集するが[3]、『古今集』の2首は子の朝康の作ともいわれる。

小野小町と親密だったといい、三河国司#三河掾として同国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという。のちに『古今著聞集』や『十訓抄』といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった。

代表作

  • 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ
  • 春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき

官歴

『古今和歌集目録』による。

脚注

  1. 中田憲信『皇胤志』、『勅撰作者部類』
  2. 鈴木眞年『百家系図稿』巻8,文室
  3. 『勅撰作者部類』

関連項目