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'''擦文時代'''(さつもんじだい)とは、[[7世紀]]ごろから[[13世紀]]([[飛鳥時代]]から[[鎌倉時代]]後半)にかけて[[北海道]]を中心とする地域で'''擦文文化'''が栄えた時期である。本州の[[土師器]]の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも[[鉄器]]を用いる[[アイヌ文化]]にとってかわられた。(詳細は「[[蝦夷#えみし]]」の項を参照)
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この時代、[[9世紀]]([[平安時代#平安前期|平安時代前期]])までは擦文文化と並行してこれとは異質な[[オホーツク文化]]が[[道北|北海道北部]]から[[道東|東部]]の[[オホーツク海]]沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐ[[トビニタイ文化]]が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。
 
 
 
==時代と分布==
 
擦文式土器の使用の始まりは[[6世紀]]後葉から[[7世紀]]はじめ([[飛鳥時代#推古朝|飛鳥時代]]に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。前代の[[続縄文時代]]には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に[[刷毛]]目が付けられた。これは土器の表面を整えるため[[木]]の[[へら]]で擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。
 
 
 
この土器の表面調整技法は同時期の本州の[[土師器]]にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、[[奈良時代]]ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、[[平安時代#平安前期|平安時代前期]]以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。
 
 
 
擦文文化から[[アイヌ文化]]への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された[[遺跡]]の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。[[11世紀]]から13世紀([[平安時代#平安後期|平安時代後期]]から[[鎌倉時代]]後半)に終末を迎えたようである。
 
 
 
分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、[[10世紀]]から[[11世紀]]にかけて([[平安時代#平安中期|平安時代中期]])[[青森県]]地方を中心とする[[北緯40度線|北緯40度]]以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている<ref name=uchi>入間田ほか 1999</ref>。
 
 
 
==生活==
 
擦文時代の[[集落]]は、[[狩猟]]や採集([[狩猟採集社会]])に適した[[住居]]を構え方をしていた。たとえば、秋から冬にかけて[[サケ]]、[[マス]]などの獲物をとる時期には、[[常呂川]]や[[天塩川]]などの河口の丘陵上に[[竪穴住居]]の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。
 
 
 
擦文文化の人々は、河川での[[漁業|漁労]]を主に、狩猟と[[ムギ|麦]]、[[粟]]、[[キビ]]、[[ソバ]]、[[ヒエ]]、[[緑豆]]などの[[栽培]]植物の[[雑穀]][[農耕]]から[[食品|食料]]を得ていた。わずかだが[[米]]も検出されており、[[日本三代実録]]の記述から、それを本州との[[交易]]によって得ていたと考える研究者もいる<ref>鈴木信(2003)「続縄文〜擦文文化期の渡海交易の品目について」(北海道考古学第39号 所収)    </ref>。
 
 
 
擦文時代には[[鉄器]]が普及して、しだいに[[石器]]が作られなくなった。普及した鉄器は刀子([[ナイフ]])で、[[木器]]などを作る[[加工]]の[[道具]]として用いられたと考えられている。他に[[斧]]、[[刀]]、[[装身具]]、[[鏃]]、[[釣り針]]、[[裁縫]]用の[[針]]など様々な鉄製品が用いられた。[[銅]]の[[鏡]]や中国の[[銅銭]]も見つかっている。これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。[[製鉄]]は行わなかったと見られるが、鉄の加工([[鍛冶]])の跡が検出されている。また青森県[[五所川原]][[窯]]で作られた[[須恵器]]が北海道各地から出土している。
 
 
 
擦文文化の人々は方形の[[竪穴式住居]]に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。擦文文化から本州の人々と同じく[[竈|カマド]]が据えられるようになった。
 
 
 
[[伸展葬]]の[[土坑墓]]が一般的な[[埋葬]]形態である。[[8世紀]]後半から[[9世紀]]([[奈良時代]]から[[平安時代]]前期)には、[[北海道式古墳]]と呼ばれる小型の墳丘墓が[[石狩低地帯]]([[石狩平野]]西部と[[勇払平野]])に作られた。[[東北地方]]北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。
 
 
 
一方で10世紀半ばから[[12世紀]]はじめ([[平安時代#平安中期|平安時代中期]]から[[平安時代#平安後期|平安時代後期]])にかけて、北東北地方から[[樺太]]にかけて[[環濠集落]]・[[高地性集落]]が多数見られることから、これを[[防御]]性集落とし、「[[蝦夷|蝦夷(えみし)]]」から「[[アイヌ|蝦夷(えぞ)]]」への転換時期とする見解が出されている<ref name=uchi/>。
 
 
 
==文献史料==
 
北海道の擦文時代は、道外の[[飛鳥時代]]から[[鎌倉時代]]後期にかけての時期に相当する。『[[日本書紀]]』にある[[7世紀]]後半([[飛鳥時代]])の[[阿倍比羅夫]]の[[航海]]をはじめとして、[[六国史]]には[[渡島]](わたりしま)の[[蝦夷]](えみし)との交渉記事が多数ある。[[渡島]]の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。
 
 
 
==見学可能な遺跡等==
 
* '''[[常呂遺跡]]''' - 国の[[史跡]]。北海道最大規模の遺跡で、擦文文化のものに混じってオホーツク文化の住居跡も検出されており、特異な存在。周辺は「ところ遺跡の森」として整備されており、附近には旧石器時代からアイヌ文化のものまで数多くの遺跡が散在している。ワッカネイチャーセンターへも近い。([http://www.city.kitami.lg.jp/tok_guide04/guide04.htm 北見市による紹介])
 
* '''[[北斗遺跡]]''' - 国の史跡。[[釧路湿原]]西側(釧路市湿原展望台の南側)にあり、釧路湿原を望む高台に縄文・続縄文時代のものとともに擦文時代の住居跡が検出されており、そのうち6棟が復元されている。また、釧路湿原展望台へ至る[[北海道道53号釧路鶴居弟子屈線|道道53号]]から少々入ったところに史跡北斗遺跡展示館があり、住居の模型とともに続縄文・擦文時代の解説や出土品の展示があるほか、ここから木道伝いに復元住居(「擦文の村」)へ行くことができる。復元住居は湿原遊歩道(鶴井軌道跡)からも近く、また釧路市湿原展望台とも木道で結ばれている。([http://www.city.kushiro.hokkaido.jp/kankou/data/d002.html 釧路観光協会による紹介])
 
* '''[[標津遺跡群]]''' - 国の史跡(伊茶仁カリカリウス遺跡)。縄文期から擦文期の遺跡で、天然記念物に指定されている[[標津湿原]]と合わせて「ポー川史跡自然公園」として整備されている。歴史民俗資料館及び「開拓の村」を併設。([http://www.shibetsutown.jp/pogawa/index.html 標津町による紹介])
 
* '''[[オムサロ遺跡公園]]''' - 北海道指定史跡。縄文期からアイヌ期にかけての遺跡で、擦文時代の村が再現されている。([ リンク切れ 紋別市役所による紹介])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references/>
 
 
 
==参考文献==
 
* 野村崇・[[宇田川洋]]編『擦文・アイヌ文化』(新北海道の古代3)、北海道新聞社、2004年。ISBN 4-89453-306-5
 
* [[入間田宣夫]]他編『北の内海世界』、[[山川出版社]]、1999年。ISBN 4-63460-750-6
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[蝦夷#えみし]]
 
* [[蝦夷征討]]
 
* [[末期古墳]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/03/3100.html OKHOTSK(もう一つの日本列島史)]
 
 
 
{{アイヌの歴史}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:さつもんしたい}}
 
[[Category:日本の歴史]]
 
[[Category:蝦夷]]
 
[[Category:東北地方の歴史]]
 
[[Category:北海道の歴史]]
 
[[Category:樺太の歴史]]
 
[[Category:千島列島の歴史]]
 
[[Category:擦文文化|*]]
 
[[Category:日本の考古学]]
 

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