成田新幹線
成田新幹線(なりたしんかんせん)とは、東京都千代田区の東京駅から千葉県成田市の新東京国際空港(現・成田国際空港)まで結ぶ予定だった新幹線である。1976年(昭和51年)度の開業を目指して[1]建設されていたが、沿線自治体の建設反対運動が激しく、用地買収が進まなかったため、開業することなく、工事・供用が中止となった未成線である。
Contents
路線データ(計画)
計画の歴史
反対運動
日本国有鉄道による先行工事は、1974年(昭和49年)に着工された[1]。しかし1970年代中盤から後半の日本では、新幹線は左翼過激派などによる公害問題の批判対象の一つであった。
経由地となる東京都江戸川区や千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)の住民が、都市計画の阻害になる点や、当時の騒音問題になりつつあった『名古屋新幹線訴訟』を取り上げ[1]、さらに通過するだけで鉄道駅が無いなど、地元にとってのメリットが皆無という理由で猛反発した。特に江戸川区は、当時の運輸大臣を相手に、工事認可の取り消しを求めた訴訟を行い、最高裁判所まで争った[1][注釈 1]。
住民のみならず、革新知事の美濃部亮吉東京都知事が計画の凍結を主張し、友納武人千葉県知事も「成田新幹線に絶対に反対ではないが、現在の計画には賛成できない」と難色を示した。また市川市・船橋市・浦安町の各市・町議会では反対の決議も採択された[2]。このため用地買収もほとんど行えず、成田新幹線計画は暗礁に乗り上げた[3]。
また、成田新幹線が『新東京国際空港の象徴』として受け取られ、三里塚闘争を展開していた空港建設反対派からの反対も大きかった[1][注釈 2]。完成予定の1976年(昭和51年)は元より、新東京国際空港開港の1978年(昭和53年)にも開業することが不可能であった。
工事中止
新東京国際空港開港から5年後の1983年(昭和58年)、成田新幹線の工事は凍結された。先行工事だけで900億円以上を投じたが、結局、着工できたのは東京駅の一部[4]と千葉県成田市の土屋地区(成田駅から北へ約2 km、成田線との交差部)から新東京国際空港までの路盤・トンネルおよび、成田空港駅までの約8.7 kmにおける設備だけであった[5][6][7]。それ以外にも、僅かながら建設用地の買収などが行われた。
1986年(昭和61年)、日本国政府は「再開は困難」として、成田新幹線計画を断念した[1]。1987年(昭和62年)には、国鉄分割民営化によって、基本計画が失効し[8]、1972年(昭和47年)までに運輸省が告示した新幹線路線の中で唯一の未成線となっている。
計画代替案
成田新幹線の計画が遅滞していることにより、東京都心と新東京国際空港(成田空港)が、鉄道で直結していない状態が続いたため、成田空港アクセス鉄道問題は、他の解決方法も模索されており、1982年(昭和57年)、新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会が当時の運輸省に、以下の3案を答申した[9]。
- A案(「成田新幹線」計画ルートの再整備)東京 - 新砂町〈現:新木場付近〉 - 西船橋 - 新鎌ヶ谷 - 小室 - 印旛松虫 - 成田空港
- B案(北総鉄道北総線を延伸、京成成田空港線として開業)上野 - 高砂 - 新鎌ヶ谷 - 小室 - 印旛松虫〈現:印旛日本医大付近〉 - 成田空港
- C案(成田線を分岐して新東京国際空港に直結、現「成田エクスプレス」の運行ルート)JR総武本線・成田線の東京 - 錦糸町 - 千葉 - 佐倉 - 成田 - 成田空港
1984年(昭和59年)、運輸省はB案(北総線延伸)を採択し推進すると決定した[9]。
先行したのはC案だった。1987年(昭和62年)5月、当時の運輸大臣の石原慎太郎が「成田新幹線に使用予定だった設備と用地を活用し、京成線とJR線を成田空港に乗り入れさせる上下分離方式案」を指示した。翌1988年に成田空港高速鉄道が設立され、第2旅客ターミナルが開業する前年の1991年(平成3年)に、成田線(空港支線)と京成本線(駒井野分岐点 - 成田空港駅間)の形で現実化した[9]。
一方、B案は東京都心と成田空港の高速輸送計画として、京成成田空港線(成田高速鉄道アクセス株式会社)に受け継がれる形になっている。京成成田空港線は2010年(平成22年)7月17日に開業し、同時に160km/hの高速運転が可能なAE形(2代)による「スカイライナー」の運行が開始された。
以上の2案が2010年までに実現し利便性が飛躍的に向上したのみならず、さらに都心直結線(京成押上線押上駅 - 新東京駅(丸の内仲通り地下) - 京急本線泉岳寺駅)も本格的に検討されるようになり、これが実現すれば、東京駅から成田空港までの所要時間は、成田新幹線で検討されていた所要時間と2分差となる。
年表
- 1964年(昭和39年)
- 1966年(昭和41年):新東京国際空港の建設決定。
- 1970年(昭和45年)5月18日:全国新幹線鉄道整備法公布。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)2月:成田空港内での駅整備工事着工[3][11]。
- 1977年(昭和52年)11月28日:田村元運輸大臣が成田新幹線計画の代替として、成田新高速鉄道構想を発表(現在の京成成田空港線に相当)[3]。
- 1978年(昭和53年)5月20日:新東京国際空港が開港。新空港自動車道(現:東関東自動車道)が開通。
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)5月:新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会が、「A案」(成田新幹線)、「B案」(現・京成成田空港線に相当)、「C案」(現・成田空港高速鉄道を使用したJR在来線乗り入れに相当)を運輸相に提案[3]。
- 1983年(昭和58年)5月:工事凍結[12]。
- 1984年11月:運輸省が「B案」推進を発表[3]。
- 1986年(昭和61年)10月29日:橋本龍太郎運輸大臣が参議院本会議で建設断念を表明[13]。
- 1987年(昭和62年)4月1日:日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に伴い、基本計画が失効(日本国有鉄道改革法附則32条)、遺構は日本国有鉄道清算事業団に引き継がれる[3]。
- 1988年(昭和63年)
- 6月:前年の石原慎太郎運輸大臣による指示を受け、暫定措置としてJR東日本と京成電鉄の2社の路線から、既に完成していた新幹線鉄道施設のうち土屋からの路盤と駅を活用して空港ターミナルへの乗り入れを図ることが発表される[3]。
- 10月28日:成田空港高速鉄道設立。土屋 - 成田空港間で完成していた路盤を成田空港高速鉄道が保有し、東日本旅客鉄道(JR東日本)および京成電鉄用に転用する上下分離方式を採用。
- 1990年(平成2年)3月10日:東京側(東京駅 - 越中島貨物駅間)の用地を京葉線に転用して営業開始。
- 1991年(平成3年)3月19日:JR東日本成田線(空港支線) 成田 - 成田空港間と京成本線 駒井野信号場 - 成田空港間が開業。両路線が成田新幹線用に完成していた成田空港駅への乗り入れを開始(「C案」の実現)[3]。
- 1992年(平成4年)12月3日:JR東日本・京成電鉄の空港第2ビル駅が開業。
- 2004年(平成16年)4月1日:新東京国際空港が成田国際空港に改称。
- 2010年(平成22年)7月17日:京成成田空港線(成田スカイアクセス) 京成高砂 - 成田空港間が開業(「B案」の実現)。
設置予定駅
所在地の地名は計画時点のもの。
駅名 | キロ程 | 所在地 | ||
---|---|---|---|---|
東京駅 | 0.00 | 東京都 | 千代田区 | |
千葉ニュータウン駅(仮称) | 37.67 | 千葉県 | 印旛郡印西町 (現・印西市) | |
成田空港駅(仮称) | 64.99 | 成田市 |
現在の空港第2ビル駅に相当する鉄道駅は、成田新幹線では計画されていなかったものの、将来第二ターミナルが完成した際の駅設置を考慮した構造・ルートで建設された。
京成本線の京成成田駅 - 駒井野信号場 - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、成田新幹線のルートが具体化する前の段階では、京成電鉄が『新空港線』として計画していた区間である[14]。当時の計画では、現在の空港第2ビル駅・成田空港駅の位置に、当初から京成電鉄の駅として、第二ターミナル駅・第一ターミナル駅の建設がそれぞれ予定されていた[14]。しかし成田新幹線が計画されたことにより、新東京国際空港公団が京成の空港ターミナル直下への乗り入れを認めなかったため、成田空港駅も当初予定されていた位置とは離れた場所に建設された(現在の東成田駅)。一旦白紙になったこれら計画駅は、その後、成田新幹線として整備が開始されるも中止になり、その後JR・京成電鉄の乗り入れに転用された。
千葉ニュータウン駅は当初設置の予定はなかったが、国鉄の「途中駅なしでは採算性に疑問」という主張を受けて、千葉ニュータウン内に設置されることになっていた[15]。設置予定地は現在の北総鉄道千葉ニュータウン中央駅の位置である。
なお将来的には、東京駅から新宿駅までの延伸構想もあったという[16]。新宿駅では、当初同駅をターミナルとする形で計画された上越新幹線と接続し直通運転を行うことも想定されていたといい、東京駅のホームの場所が他路線と離れた鍛冶橋通りの地下とされたのも「新宿延伸が容易」という理由があったとされる[16]。
運行計画
東京 - 成田空港間を速達型の列車で最速30分、千葉ニュータウン駅停車の各駅停車型の列車では35分で運転することが予定されていた。なお2018年現在、空港第2ビル駅までは東京駅から成田エクスプレスで50分、日暮里駅からスカイライナーで36分で、成田空港駅までは東京駅から成田エクスプレスで53分、日暮里駅からスカイライナーで38分で結んでいる[注釈 3]。
列車編成は開業当初は荷物車1両を含んだ6両編成で運行し、将来は12両編成まで対応することを検討していた。
計画ルート
成田新幹線の路線計画は、線形が最急勾配15‰(一部19.8‰)で、最小曲線半径が基本4000メートル(地形上やむを得ない場合300メートル)となるよう、以下のルートが選定された[3]。
東京駅
将来の新宿方面への延伸を考慮し、東海道本線と鍛冶橋通りが交差する地点(東京駅 - 有楽町駅間のほぼ中間)の地下に、成田新幹線用の駅施設が計画された。国鉄により現在京葉線への乗り換え通路として使われている通路の一部が建設されたが、乗り場部分の実際の掘削工事には着手されないまま、1983年の工事凍結を迎えた[17][18]。その後JR東日本により、京葉線の駅施設の建設工事が同じ場所で新たに開始され、現在のプラットホームその他施設として使用されている。
東京駅 - 越中島貨物駅付近
成田新幹線用に検討された用地を活用する形で京葉線が建設された[3]。このためこの区間のルートは現在の京葉線とほぼ同一である。なお、用地を流用しただけであり、京葉線用のシールドトンネルは新規に掘られたものである。
越中島貨物駅付近 - 原木中山駅付近
総武本線越中島貨物駅の西側で地上に出て東方向へほぼ直進し、荒川を渡ったあたりから原木中山駅付近まで東京メトロ東西線に並行する予定だった。
原木中山駅付近 - 武蔵野線交差部
原木中山駅の北側で東西線から少し離れ、現在の千葉県船橋市本郷町付近から中山競馬場の南東側まで長さ1.8kmの地下トンネルを通り、トンネルを抜けた直後に武蔵野線の下をくぐる予定だった[19]。
- 原木中山駅付近
- 原木中山駅の北側にある真間川の両岸で用地買収が行われている。右岸の用地は以前、日本国有鉄道清算事業団の宿舎があったが、現在は民間企業のビルが建っている。また、左岸の用地は2008年現在で駐車場であった、“工”字の境界標が今も残る[20]。
- 武蔵野線交差部
- 武蔵野線西船橋 - 船橋法典間のほぼ中間の線路施設は、成田新幹線を下に通すことを考慮し、比較的スパンの長い鋼製の架道橋(小金線中山架道橋)が設けられている[20]。
武蔵野線交差部 - 千葉ニュータウン駅付近
北東方向へほぼ一直線に進み[注釈 4]、新京成電鉄新京成線の三咲駅付近を通って現在の北総鉄道北総線の小室駅と千葉ニュータウン中央駅のほぼ中間で北総線に合流する予定だった。
千葉ニュータウン駅付近 - 印旛日本医大駅付近
千葉県が確保した鉄道用地を使用する予定だった。千葉県は千葉ニュータウンの造成工事の際、ニュータウンを東西に横断する複々線分の鉄道用地と北千葉道路の用地を確保し、当初の計画では新鎌ヶ谷 - 小室間で北総開発鉄道(現・北総鉄道北総線の第一種鉄道事業区間)と千葉県営鉄道北千葉線(未成線、2002年3月31日免許廃止)を並行して整備し、小室(実際は小室 - 千葉ニュータウン中央間のほぼ中間) - 印旛日本医大間では、成田新幹線と北千葉線(現・北総鉄道北総線の第二種鉄道事業区間)を並行して建設することになっていた[21]。
北総鉄道北総線の北側に並行して成田新幹線用の敷地が空き地のまま残っていたが、2017年(平成29年)に大規模太陽光発電所(ソーラーパネル)が開設された[22]。また、千葉ニュータウン中央駅に隣接して成田新幹線の千葉ニュータウン駅(東京駅起点37.7km地点)が設けられる予定だった[19]。
印旛日本医大駅付近 - 成田市土屋付近
印旛日本医大駅の北側から、現在の京成成田空港線(成田高速鉄道アクセス)と、並走するようなルートをとる計画だった。印旛沼の東側(八代付近)には、車両基地(成田総合車両基地)の設置が予定されていた。また、現在の京成成田空港線成田湯川駅以東の単線にあたる区間は、成田新幹線では、ほぼ直線で土屋付近に到達する予定だった。
成田市土屋付近 - 成田空港駅
1983年(昭和58年)の工事凍結までに、成田市土屋地区から成田空港まで高架、地下トンネルによる路盤が完成した。完成後1983年(昭和53年)に、航空燃料用パイプライン輸送が完成するまでの間、土屋地区に燃料中継基地が置かれ、市原・鹿島からのジェット燃料輸送用の貨物列車の受け入れを行なっていた。パイプライン完成後、暫く放置されていたが、1991年(平成3年)に開業した成田空港高速鉄道線に転用された。
脚注
注釈
- ↑ {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}によれば最高裁では棄却された。
- ↑ {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}によれば、鉄道アナリストの川島令三は、日本国政府としては成田国際空港の開港に力をとられ、成田新幹線までは手が回らなかったと述べている。
- ↑ いずれも最速所要時間
- ↑ 途中、千葉県立船橋二和高等学校脇を通る。日本大学二和グラウンドとの境界(道路)が北東に伸びているのはその名残。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『封印されたミッキーマウス』{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
- ↑ 国会議事録 参議院交通安全対策特別委員会 - 6号 昭和52年5月11日
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 (2015) 新幹線50年史. 交通協力会, 348-350.
- ↑ 厳密には現在の京葉線乗換通路のみ。詳細は#東京駅を参照
- ↑ 『鉄道ピクトリアル』1975年8月号、電気車研究会
- ↑ 『鉄道ピクトリアル』1976年10月号、電気車研究会
- ↑ 『鉄道ピクトリアル』1977年9月号、電気車研究会
- ↑ e-Gov(電子政府総合窓口行政ポータルサイト) (1986年12月4日). “日本国有鉄道改革法等施行法 抄”. . 2009閲覧. 附則第32条第2項
- ↑ 9.0 9.1 9.2 杉山淳一 (2008年11月7日). “どうなる、こうなる首都圏の鉄道網--(最終回)成田新線・新交通編”. Business Media 誠 . 2017閲覧.
- ↑ 『週刊鉄道データファイル』 デアゴスティーニ・ジャパン File8-048 「鉄道の歴史 東北・上越新幹線開業」
- ↑ 浅野明彦 1998, p. 49.
- ↑ 浅野明彦 1998, p. 50.
- ↑ 『鉄道ジャーナル』第21巻第1号、鉄道ジャーナル社、1987年1月、 121頁。
- ↑ 14.0 14.1 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1970年8月号
- ↑ 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1978年4月号
- ↑ 16.0 16.1 東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ - 東洋経済ONLINE・2018年5月13日
- ↑ 草町義和 2011, pp. 23-27.
- ↑ 『週刊鉄道データファイル』 デアゴスティーニ・ジャパン File8-064 「鉄道の歴史 北陸新幹線東京駅改良工事完成」
- ↑ 19.0 19.1 『ちばの鉄道一世紀』{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}。
- ↑ 20.0 20.1 『鉄道ファン』2008年8月号 (No.568) p110 - p117、交友社
- ↑ 『幻の成田新幹線をたどる』草町義和 2008。
- ↑ 幻の成田新幹線「日本最長」メガソーラーに…千葉ニュータウンで開所式 - レスポンス、2017年7月18日。
参考文献
- 『成田新幹線調査報告書 : 東京・成田間』 日本国有鉄道、日本鉄道建設公団[編]、日本国有鉄道、1971。
- 安藤健二 『封印されたミッキーマウス : 美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』 洋泉社、2008-05-22。ISBN 9784862482617。
- 浅野明彦 『鉄道考古学を歩く : 古レールから成田新幹線まで、遺跡・遺物が語る鉄道物語』 JTB〈JTBキャンブックス〉、1998-04。ISBN 4533029760。
- 草町義和 『鉄道未完成路線を往く : 生まれなかった幻の鉄道路線』 講談社ビーシー、講談社 (発売)、2011-08。ISBN 9784062171311。
- 白土貞夫 『ちばの鉄道一世紀』 崙書房出版、1996-07。ISBN 4845510278。
- 草町義和「幻の成田新幹線をたどる」、『鉄道ファン』第568号、2008年8月。
関連項目
- 成田国際空港
- 空港連絡鉄道
- 建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画
- 京成成田空港線(成田スカイアクセス)
- 成田エクスプレス
- スカイライナー
- 東京成芝電気鉄道(成田急行電鉄)
- 千葉ニュータウン
- 羽田・成田リニア新線構想
- HSST(磁気浮上式鉄道技術の一つ、当初は日本航空が開発)