「戊辰戦争」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''戊辰戦争'''(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)) 明治維新期,倒幕派と幕府派との...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{複数の問題|参照方法=2014年2月|観点=2008年1月}}
 
{{Battlebox
 
|  battle_name = 戊辰戦争
 
|    campaign = 戊辰戦争
 
|colour_scheme = background:#ffccaa
 
|        image = [[File:Boshin war.svg|250px]]
 
|      caption = 戦線の変遷
 
|    conflict = [[#鳥羽・伏見の戦い|鳥羽・伏見の戦い]]、[[#甲州勝沼の戦い|甲州勝沼の戦い]]、[[#宇都宮城の戦い|宇都宮城の戦い]]、[[#北越戦争|北越戦争]]、[[#東北戦争|東北戦争]]、[[#箱館戦争|箱館戦争]]
 
|        date = <br />([[天保暦|旧暦]])[[慶応4年]][[1月3日 (旧暦)|1月3日]] - [[明治]]2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]<br />([[グレゴリオ暦]])[[1868年]][[1月27日]] - [[1869年]][[6月27日]]
 
|        place = {{JPN}}
 
|      result = [[明治維新#中央政府|新政府軍]]の勝利、[[江戸幕府]]の完全解体。
 
|  combatant1 = [[ファイル:Flag of the Japanese Emperor.svg|25x20px]] [[明治維新#中央政府|新政府軍]]<br />([[東征大総督|東征大総督府]])
 
* [[ファイル:Maru_juji.svg|25x20px]] [[薩摩藩]]
 
* [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[長州藩]]
 
* [[ファイル:Japanese crest Tosa kasiwa.svg|25x20px]] [[土佐藩]]
 
* [[官軍|新政府軍諸藩]]
 
|  combatant2 = [[ファイル:Mon-Tokugawa.png|25x20px]] [[江戸幕府|旧幕府軍]]<br />[[ファイル:Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northen Alliance in Japan.svg|25x20px]] [[奥羽越列藩同盟]]<br />[[ファイル:Seal of Ezo.svg|25x20px]] [[蝦夷共和国]]
 
* [[ファイル:Flag_of_Japan.svg|25x20px]] [[幕府陸軍]]
 
* [[ファイル:Flag_of_the_Tokugawa_Shogunate.svg|25x20px]] [[幕府海軍]]
 
* 旧幕府軍諸藩
 
|  commander1 = [[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] [[有栖川宮熾仁親王]]
 
* [[ファイル:Maru_juji.svg|25x20px]] [[西郷隆盛]]
 
* [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[大村益次郎]]
 
* [[ファイル:Japanese crest Tosa kasiwa.svg|25x20px]] [[板垣退助]]など
 
|  commander2 = [[ファイル:Mon-Tokugawa.png|25x20px]] [[徳川慶喜]]<br />[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] [[北白川宮能久親王|輪王寺宮能久親王]]
 
* [[ファイル:Aizu Aoi (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[松平容保]]
 
* [[ファイル:Take ni Suzume.svg|25x20px]] [[伊達慶邦]]
 
* [[ファイル:Japanese Crest Uesugi Sasa.svg|25x20px]] [[上杉斉憲]]
 
[[ファイル:Seal of Ezo.svg|25x20px]]  [[榎本武揚]]
 
|    strength1 =
 
|    strength2 =
 
|  casualties1 =
 
|  casualties2 =
 
}}
 
'''戊辰戦争'''(ぼしんせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年 - 明治2年([[1868年]] - [[1869年]]))は、[[王政復古 (日本)|王政復古]]を経て[[明治維新#中央政府|明治政府]]を樹立した[[薩摩藩]]・[[長州藩]]・[[土佐藩]]らを中核とした新政府軍と、[[佐幕|旧幕府勢力]]および[[奥羽越列藩同盟]]が戦った[[日本]]の[[内戦]]。名称は慶応4年/明治元年の干支が[[戊辰]]であることに由来する。
 
  
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の[[交戦団体]]が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する[[政府]]として国際的に認められることとなった。
+
'''戊辰戦争'''(ぼしんせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年 - 明治2年([[1868年]] - [[1869年]]))
  
以下の日付は、断りのない限り[[旧暦]]でしるす。
+
明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した[[会津藩]],[[桑名藩]]の兵は,鳥羽,伏見で[[薩摩藩]],[[長州藩]]を中心とする新政府軍と戦って敗れた ([[鳥羽・伏見の戦い]] ) 。新政府は[[有栖川宮熾仁親王]]を東征大総督に任じ,大坂から江戸へ退去した旧幕府勢力を追って,徳川追討の軍を起こした。同 1868年2月薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道,東山道,北陸道の三方に分かれて進発した。[[徳川慶喜]]は恭順の態度をとって謹慎し,駿河に迫った東征軍に対して[[勝海舟]]を通じて交渉し,助命と引き換えに江戸城の自発的開城を約束させた。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが,抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは上野にこもって輪王寺宮公現法親王 ([[北白川宮能久]] ) を戴いて[[彰義隊]]を結成,東征軍に抗戦したが敗れ,輪王寺宮は奥羽に逃れた (彰義隊の戦い) 。一方,鳥羽・伏見の戦いで賊名を負わされた会津,桑名両藩にも追討令が出された。奥羽諸藩は会津藩の赦免を東征軍に斡旋したがいれられず,ついに5月北越諸藩をも加えた[[奥羽越列藩同盟]]を結成するにいたり,輪王寺宮を擁して官軍と対決した。しかし奥羽・北越戦争で,優秀な装備をもつ薩長を中心とする官軍は,まず北越を平定し,次いで9月会津藩を降伏させた ([[会津戦争]] ) 。これに先立ち,旧幕府海軍副総裁[[榎本武揚]]らは,軍艦8隻に搭乗して江戸を脱出,箱館を占拠し,武器,軍艦の引き渡しを拒んだ。官軍は,翌明治2 (1869) 年5月箱館に進撃し,箱館戦争が開かれたが,5月 18日五稜郭は開城され,榎本らは降伏して ([[五稜郭の戦い]] ) ,戊辰戦争は終結した。この国内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。
  
== 概要 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
[[Image:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period.jpg|300px|right|thumb|戊辰戦争中の薩摩藩の藩士([[着色写真]])。[[フェリーチェ・ベアト]]撮影]]
 
 
 
戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。
 
「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」([[原口清]])、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」([[石井孝]])
 
 
 
石井はさらにこれを次の三段階に分けた。
 
#「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」([[鳥羽・伏見の戦い]]から[[江戸開城]])
 
#「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・[[奥羽越列藩同盟]]との戦争」([[東北戦争]])
 
#「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「[[士族反乱]]の先駆的形態」([[箱館戦争]])
 
 
 
薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]](グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府は[[フランス第二帝政|フランス]]から、奥羽越列藩同盟・会庄同盟は[[プロイセン王国|プロイセン]]から軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。
 
 
 
戊辰戦争開始までの経緯および個々の事象については、[[幕末]]・[[明治維新]]および個々の語句を参照。
 
 
 
== 鳥羽・伏見の戦い ==
 
[[ファイル:Yodokoj7.jpg|thumb|200px|戊辰戦場址碑]]
 
[[ファイル:Kinki (1868).jpg|thumb|right|200px|戊辰戦争で新政府軍が用いた錦旗([[錦の御旗]])の模写図。]]
 
{{main|鳥羽・伏見の戦い}}
 
 
 
=== 開戦に至る経緯 ===
 
[[四侯会議]]の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年10月13日、14日に[[討幕の密勅]]が薩摩と長州に下される。これを受け、江戸の薩摩邸は政治活動を活発化させ、定め書きを書いて攻撃対象を決めた。攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
 
 
 
しかし、慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・[[徳川慶喜]]は日本の統治権返上を[[明治天皇]]に奏上、翌15日に勅許された([[大政奉還]])。討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり、薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えた。慶喜は10月24日には[[征夷大将軍]]職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、[[公議政体論]]のもと[[徳川宗家]]が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。
 
 
 
しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩([[薩摩藩]]、[[越前藩]]、[[尾張藩]]、[[土佐藩]]、[[安芸藩]])は12月9日に[[薩摩藩|クーデター]]を起こして朝廷を掌握、下級貴族の[[内大臣|岩倉具視]]が[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し[[内大臣]]職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し([[内大臣|辞官納地]])、[[禁門の変]](蛤御門の変)以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。こうして、禁門の変では[[内大臣|孝明天皇]]がいる[[内大臣|御所]]に向かって砲撃をし、孝明天皇から[[内大臣|朝敵]]の宣告を受けていた[[内大臣|長州藩]]藩主・[[内大臣|毛利敬親]]は、[[内大臣|明治天皇]]により朝敵の認定を解除された。
 
 
 
慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため、京都・[[二条城]]から[[大坂城]]に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても[[山内容堂]](土佐藩)・[[松平春嶽|松平慶永]](越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ[[議定]]へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。
 
 
 
一方、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上取り消され、それが江戸薩摩藩邸に伝えられたが、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人はこの命令を無視して工作を続けていた。西郷隆盛が率いる薩摩藩は、旧幕府側を挑発する目的で、江戸で火付け(放火)・強盗を行った。2月23日には[[江戸城]]西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた[[奥女中]]の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた[[庄内藩]]の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・[[稲葉正邦]]は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる([[江戸薩摩藩邸の焼討事件]])。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。
 
 
 
一連の事件は[[大阪|大坂]]の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく[[会津藩]]らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の[[幕府歩兵隊]]・会津藩・[[桑名藩]]を主力とした軍勢(総督・[[大河内正質]])を京都へ向け行軍させた。
 
 
 
{{quotation|臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主[[島津茂久]])奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。|討薩表(部分)}}
 
 
 
=== 戦闘の勃発 ===
 
[[File:TobaEncounter.jpg|thumb|left|433px|小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。絵の左側に幕府陸軍の日の丸と桑名藩の九曜紋。右側に薩摩藩の旗 [[File:Flag of Satsuma domain.svg|10px]] 、右下に長州藩の旗 [[File:Flag of Choshu domain.svg|10px]] が見える。]]
 
[[File:Encounter at Fujimi Toyogobashi bridge.jpg|thumb|left|豊後橋で発生した戦闘]]
 
慶応4年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]](1868年[[1月26日]])夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる、藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、薩摩藩士・[[税所篤]]が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・[[長州藩]]によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。
 
 
 
新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、[[小松宮彰仁親王|仁和寺宮嘉彰親王]]を征討大将軍と為し[[錦旗]]・[[節刀]]を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も[[迅衝隊]]・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って[[官軍]]に任ぜられた。逆に旧幕府の中の反乱勢力は[[賊軍]]と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により1月5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた[[淀藩]]は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた[[津藩]]が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
 
 
 
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
 
 
 
=== 鳥羽・伏見の戦いの与えた影響 ===
 
5日、山陰道鎮撫総督・[[西園寺公望]]及び東海道鎮撫総督・[[橋本実梁]]が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた[[会津藩]]・[[桑名藩]]・[[高松藩]]・[[備中松山藩]]・[[伊予松山藩]]・[[大多喜藩]]の官位剥奪と[[京屋敷]]を没収、3月7日に[[姫路藩]]が追加された<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P178。</ref>。藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い[[小浜藩]]・[[大垣藩]]・[[宮津藩]]・[[延岡藩]]・[[鳥羽藩]]が藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩は10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって[[賞典禄]]まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣([[小原忠寛]])がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P220-224。</ref>。
 
 
 
11日には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために親藩・譜代藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。1月末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、3月には近畿以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P8-12・22-24・55</ref>。
 
 
 
9日、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に[[岩倉具定]]が任命された。11日、[[神戸事件]]が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督・[[高倉永祜]]が発遣された。また、神戸事件に誘発される形で、[[堺事件]]も発生した。
 
 
 
幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。
 
 
 
== 西国および東海の状況 ==
 
西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では[[備後福山藩|福山藩]]を除きほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。東海地方および北陸地方では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。
 
 
 
=== 東海 ===
 
鳥羽・伏見の戦直前の1月2日、新政府は近江方面から旧幕府軍に京都を挟み撃ちにされることを警戒して橋本実梁に大津防衛を命じて、先発として[[大村藩]]兵が3日に大津に入る。旧幕府軍は大津侵攻を回避したために挟み撃ちの危険性が減少した5日、新政府は改めて橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じた。ところが、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた[[彦根藩]]がこの段階で尊王に藩論を転換させて大津防衛の援軍を派遣しており同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の征討に移った。[[膳所藩]]・[[水口藩]]の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、本格的な東進が開始され、22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。藩主の座から追われた[[松平定敬]]は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。[[尾張藩]]は20日、藩主の父・[[徳川慶勝]]の「朝命により死を賜る」との命により[[家老|御年寄列]][[渡辺在綱|渡辺新左衛門在綱]]を含む3重臣及び11藩士が処刑されるという[[青松葉事件]]がおき、藩論は勤皇に一本化された。2月になると東海道鎮撫総督は東海道先鋒総督兼鎮撫使と改められて東進を開始、東海道最大の雄藩である尾張藩が尊王に転じた事をきっかけに2月末までに[[小田原藩]]以西の全ての藩が恭順を誓ったこともあり、大きな衝突もなく東進することが出来た。
 
 
 
=== 東山道(中山道) ===
 
1月9日岩倉具定を東山道鎮撫総督に任じ、21日に京都を出発した。なお、[[大垣藩]]は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は[[定府大名]]が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、北関東に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した[[世直し一揆]]などの動きへの対応に迫られることになった。
 
 
 
=== 丹波・山陰道 ===
 
すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を[[山陰道]]鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて[[丹波国]]に進軍させていた。これは佐幕派の[[丹波亀山藩]]の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、[[園部藩]]・[[篠山藩]]・[[丹後田辺藩|田辺藩]]・[[福知山藩]]などが次々と新政府軍に降伏。そのまま[[丹後国]]に入り[[宮津藩]]を開城させたのち、[[因幡国]]を通って[[出雲国]]に進み、2月下旬には佐幕派の[[松江藩]]をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。
 
 
 
=== 四国の状況 ===
 
[[公議政体論|公議政体派]]から[[勤皇]]を旨とする武力討幕派へ藩論を統一した[[土佐藩]]士・[[板垣退助]]の[[迅衝隊]]を主力部隊として、[[丸亀藩]]・[[多度津藩]]が協力して、[[讃岐国]]の旧幕府方[[高松藩]]に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。27日には残る[[伊予松山藩]]も開城し、四国を無血開城せしめて勤皇支持に統一された。
 
 
 
ところが、翌28日になって[[伊予松山城]]に近い[[三津浜 (松山市)|三津浜]]に[[堅田大和]]・[[杉孫七郎]]率いる長州藩軍が上陸した。これは征討府における土佐藩と長州藩の合意に基づく出兵だった。しかし、この情報を知らされていなかった土佐藩本国の部隊は同藩が四国進出を目論むものと考えて激しく反発して協力を拒絶した。新政府内部の調整によって最終的に四国に関しては土佐藩に一任することとなり、3月3日に長州藩軍は三津浜から撤退して本州に帰還した<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P391-394</ref>。
 
 
 
=== 中国路の状況 ===
 
長州藩兵は上京の途中の正月9日に[[備後福山藩]]領に侵入し[[福山城 (備後国)|福山城]]に砲撃を加え、籠城する福山藩兵と銃撃戦を開始するが、家老・[[三浦義建]]及び御用係・[[関藤藤陰]]は長州に恭順の意を示したことから、勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた[[備前藩]]が15日に[[備中松山藩]]に派兵するが、執政・[[山田方谷]]は城を無血開城した。[[姫路藩]]は藩主・[[酒井忠惇]](老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守で、在藩家臣が降伏している。
 
 
 
=== 九州の情勢 ===
 
正月14日、[[長崎奉行]]・[[河津祐邦]]は秘かに脱走し、[[佐賀藩]]・[[大村藩]]・[[薩摩藩]]・[[福岡藩]]などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは[[澤宣嘉]]が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。[[日田市|日田]]代官所にあった[[西国筋郡代|西国郡代]]の[[窪田鎮勝]]は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には[[日田県]]が設置された。老中・[[小笠原長行]]を世子とする[[唐津藩]]は討伐の対象となったが、[[松方正義]]がこれを抑え、藩主・[[小笠原長国]]が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。天草の幕府領も程なく薩摩・[[肥後藩]]によって接収されている。また、これとは別に薩摩藩は勤王と新政府への支持を表明する誓書の提出を対馬藩以外の九州全藩に求め、2月末までに唐津藩や鳥羽・伏見の戦いで敵対したとされた[[延岡藩]]、他の佐幕派である[[高鍋藩]]・[[府内藩]]も含めた全藩がこれに応じており、この時点で九州諸藩は全て勤王に転じたと言える<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P399-403</ref>。残された延岡藩の朝敵認定の解除問題も4月に藩主・[[内藤政挙]]が上京して短期の謹慎の後に赦免されたことで解決されることになった。
 
 
 
== 江戸への進軍 ==
 
=== 甲州勝沼および野州梁田の戦い ===
 
{{main|甲州勝沼の戦い}}
 
[[ファイル:KoshuKatsunuma.jpg|300px|サムネイル|[[錦絵]]『勝沼駅近藤勇驍勇之図』]]
 
江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・[[小栗忠順]](小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て[[上野]]の[[寛永寺]]に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
 
 
 
一方、明治天皇から[[朝敵]]の宣告を受けた[[松平容保]]は、本拠地の会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったことで新政府から標的にされていた[[酒井忠篤 (庄内藩主)|庄内藩]]藩主・[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]は、会津藩と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
 
 
 
新政府は[[有栖川宮熾仁親王]]を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。
 
 
 
旧幕府軍は[[近藤勇]]らが率いる[[甲陽鎮撫隊]](旧[[新撰組]])をつくり、[[甲府城]]を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった[[土佐藩]]士・[[板垣退助]]、薩摩藩士・[[伊地知正治]]が率いる新政府軍・約400人は、板垣が率いる[[迅衝隊]]が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]](同[[3月29日]])、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。
 
 
 
一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・[[足利市]])で宿泊していた旧[[幕府歩兵隊]]の脱走部隊(後の[[衝鋒隊]])に対して、朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけた。幕府軍・約310人は応戦し、梁田宿一帯で市街戦が起こった。最終的には幕府軍の敗北で決着がついた。この戦いは梁田戦争とも呼ばれ、戊辰戦争の東日本における最初の戦いと称される<ref>[http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/page/yanada-yanadasensou.html 梁田戦争をご存知ですか(足利市公式サイト)]</ref>。
 
 
 
=== 江戸城無血開城 ===
 
{{main|江戸開城}}
 
駿府に進軍した新政府は[[3月6日 (旧暦)|3月6日]](同[[3月29日]])の軍議で[[江戸城]]総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使[[ハリー・パークス]]は新政府に江戸攻撃・中止を求めた。新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。
 
 
 
恭順派として旧幕府の全権を委任された[[陸軍総裁]]の[[勝海舟]]は、幕臣・[[山岡鉄舟]]を東征大総督府[[下参謀]]の[[西郷隆盛]]に使者として差し向けて会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。西郷は[[3月13日 (旧暦)|3月13日]](同[[4月5日]])、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、[[池上本門寺]]の東屋でも記録が残っている。翌日[[3月14日 (旧暦)|3月14日]](同[[4月6日]])、高輪の薩摩藩邸で勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること」「江戸城は明け渡しの後、即日[[田安徳川家|田安家]]に預けること」等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、[[4月4日 (旧暦)]](同[[4月26日]])に勅使(先鋒総督・[[橋本実梁]]、同副総督・[[柳原前光]])が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は[[尾張徳川家|尾張家]]に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、[[4月11日 (旧暦)|4月11日]](同[[5月3日]])に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。[[4月21日 (旧暦)|4月21日]](同[[5月13日]])には東征大総督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。
 
 
 
=== 船橋の戦い ===
 
{{main|市川・船橋戦争}}
 
慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部・約2000人が[[千葉県|千葉]]方面に逃亡、[[船橋大神宮]]に陣をはり、[[4月3日 (旧暦)|閏4月3日]]([[5月24日]])に[[市川市|市川]]・[[鎌ヶ谷市|鎌ヶ谷]]・[[船橋市|船橋]]周辺で新政府軍・約800人と衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の[[南関東]]地方における最初の本格的な戦闘([[上野戦争]]は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。
 
 
 
=== 宇都宮城の戦い ===
 
{{main|宇都宮城の戦い}}
 
江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は[[徳川家]]の聖地である[[日光東照宮|日光廟]]に篭って兵を募り、そこで新政府軍・約700人と戦うつもりで大挙して江戸を脱走、[[下野国]][[日光山]]を目指していた。一方、時を同じくして当時下野国で起きていた[[世直し一揆]]を鎮圧するために[[東山道]]総督府が下野国[[宇都宮市|宇都宮]]に派遣していた下野鎮撫・[[香川敬三]](総督府大軍監)は、手勢を引き連れ[[日光道中]]を北上中、[[武蔵国]][[粕壁]]で[[下総国]][[流山]]に[[新撰組]]が潜んでいる噂を聞き[[有馬藤太]]を派遣して近藤勇を捕縛した。近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、[[大鳥圭介]]は[[伝習隊]]、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国[[市川市|市川]]を日光に向けて出発、途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを[[小山宿|小山]]で迎え撃った。兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。翌日には旧幕府軍が[[宇都宮城]]を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、[[大山巌]]や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地[[日光市|日光]]での決戦に備えるべく退却した。
 
 
 
=== 上野戦争 ===
 
[[ファイル:UenoSenso.jpg|thumb|上野戦争の図。画題は『[[本能寺の変|本能寺合戦]]の図』となっているが、実際には上野の戦闘を描いている。]]
 
[[ファイル:Shaguma troops in the Battle of Ueno at Ueno Park temple.jpg|thumb|赤熊の被り物をして戦う[[土佐藩]]の迅衝隊([[上野戦争|上野合戦]])]]
 
{{main|上野戦争}}
 
 
 
徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・[[彰義隊]]があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝海舟にとって、一定の成果ではあった。しかし実際の彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。勝との江戸城会談で当事者となった西郷隆盛は、彰義隊をどうにか懐柔しようとしていた幕府恭順派である勝との関係の手前、対応が手ぬるいとの批判を受けた。大総督府は西郷を司令官から解任し、長州藩士・[[大村益次郎]]を新司令官に任命。大村は[[海江田信義]]ら慎重派を制して、武力による殲滅を主張した。新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発した。
 
 
 
東北地方・北海道および新潟で[[仙台藩]]藩主・[[伊達慶邦]]らにより[[奥羽越列藩同盟]]が結成された2週間後の[[5月15日 (旧暦)|5月15日]](同[[7月4日]])、新政府軍・約10000人は彰義隊・約4000人を攻撃し、上野戦争が始まった。新政府軍は[[佐賀藩]]が製造した新兵器・[[アームストロング砲]]を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。
 
 
 
== 東北戦争 ==
 
[[Image:Standard-bearer_in_2006_Aizu_parade.JPG|thumb|会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手]]
 
{{main|奥羽越列藩同盟}}
 
 
 
=== 新政府の会津藩・庄内藩の処遇 ===
 
[[文久の改革]]後、[[京都守護職]]および[[京都所司代]]として京都の治安を担当していた[[松平定敬|会津藩]]藩主・[[松平容保]]および[[松平定敬|桑名藩]]藩主・[[松平定敬]]の兄弟は、[[松平定敬|京都見廻組]]および[[松平定敬|新撰組]]を用い[[松平定敬|尊王攘夷派]]の弾圧を行い、尊王攘夷派・のちの新政府([[松平定敬|薩摩藩]]・[[松平定敬|長州藩]])の恨みを買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいて会津藩と桑名藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。
 
 
 
また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した[[松平定敬|庄内藩]]藩主・[[松平定敬|酒井忠篤]]は、新政府によって会津藩への報復と同様の報復がなされることを予期し、以後両藩は連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
 
 
 
=== 奥羽越列藩同盟の成立 ===
 
慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は、”東北地方の大国”である[[松平定敬|仙台藩]]の藩主・[[松平定敬|伊達慶邦]]に会津藩の追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。
 
 
 
2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。
 
 
3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩および庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督府および新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・[[九条道孝]]、副総督・[[澤為量]]、参謀・[[醍醐忠敬]]、[[下参謀]]の[[世良修蔵]](長州藩)と[[大山綱良]](薩摩藩)がいる。3月29日、奥羽鎮撫総督府は、仙台藩・[[米沢藩]]をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩および庄内藩への追討を命じた。
 
 
 
4月19日、藩主・伊達慶邦が率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り、戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い、4月21日、会津藩は仙台藩に降伏した。降伏の条件は、会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎することおよび会津藩の削封、という内容だった。しかし数日後、会津藩は仙台藩に合意を翻す内容の嘆願書を渡し、これを見た仙台藩は会津藩の説得をあきらめた。
 
 
 
4月23日、奥羽鎮撫総督府副総督・澤為量および下参謀・大山綱良が率いる新政府軍は、藩主・酒井忠篤の庄内藩を攻撃するため仙台から出陣した。しかし庄内藩は新政府軍を倒し、閏4月4日、庄内藩は天童城を攻め落とした。
 
 
 
4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東地方で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を一時占領した。この報が東北地方に伝わると、仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。閏4月4日、仙台藩主席家老・[[但木成行]]の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため、閏4月17日、新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。
 
 
 
{{main|白石会議}}
 
 
閏4月20日、仙台藩は新政府軍が庄内藩を攻撃するため出陣していった留守をつき、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(長州藩)を白石で捕縛して処刑した。さらに仙台藩は、九条総督と醍醐参謀を仙台城下に軟禁した。
 
 
 
これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した[[越後長岡藩|長岡藩]]ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって[[奥羽越列藩同盟]]が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。
 
 
 
ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟(地方政権)が、[[越後長岡藩|東北地方]]・[[越後長岡藩|北海道]]・[[越後長岡藩|新潟]]に誕生した。しかし、これは天皇への嘆願目的の{{要出典範囲|各藩のルーズな連合であり、|date=2015年3月}}また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。<ref>石井孝, 『戊辰戦争論』, 2008年</ref>
 
 
 
=== 輪王寺宮と幻の仙台朝廷 ===
 
{{main|北白川宮能久親王}}
 
仙台藩が仙台城下に軟禁した奥羽鎮撫総督府の九条総督らは、列藩同盟にとって重要な”錦の御旗”だった。ところが、九条総督らが新政府側の佐賀藩・小倉藩によって騙し取られてしまうという事件が起こる。そこで6月、仙台藩と会津藩は、上野戦争かられ逃れてきた[[孝明天皇]]の義弟・輪王寺宮公現法親王(後の[[北白川宮]][[北白川宮能久親王|能久親王]])を仙台城下に迎え入れ、輪王寺宮を”新たな錦の御旗”として、列藩同盟の盟主にそえた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請したが、6月16日に盟主のみの就任で決着した。
 
 
 
仙台藩と会津藩には、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があった。ただし、史料が限られており、輪王寺宮の即位の有無には議論がある。この新朝廷においては、仙台藩主・[[伊達慶邦]]は征夷大将軍に、会津藩主・[[松平容保]]は征夷副将軍に就任する予定だったとされる。詳しくは[[北白川宮能久親王#「東武天皇」即位説]]の項を参照。
 
 
 
=== 秋田・庄内戦線 ===
 
==== 奥羽鎮撫隊の集結 ====
 
新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため、澤為量副総督および下参謀・大山綱良(薩摩藩)の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし、大富豪・[[本間家]]からの献金で洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。その後、列藩藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵(長州藩)が仙台藩によって殺害され、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀は軟禁された。
 
 
 
新政府は九条総督救出のため、佐賀藩士・前山長定([[前山清一郎]])率いる佐賀藩兵および小倉藩兵を仙台藩に派遣した。閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったため、仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。こうして仙台藩は、新政府に九条総督らを騙し取られてしまった。
 
 
 
6月18日、救出された総督府の一行は[[盛岡藩]]に到着した。藩主・[[南部利剛]]は1万両を献金したが、態度は曖昧なままだった。続いて7月1日、総督府一行は[[久保田藩]]に入った。久保田藩は国学者・[[平田篤胤]]の出身地という影響もあって、攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は、庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた澤為量・大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。澤為量副総督は分隊を率い[[弘前藩]]説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって[[矢立峠]]は封鎖されており、そのため奥州鎮撫総督府およびその部隊は久保田藩にとどまることになった。結果的に総督府一行は久保田藩で集結することになった。
 
 
 
==== 秋田戦争 ====
 
{{main|秋田戦争}}
 
久保田藩の新政府への接近に気づいた仙台藩は、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に世良修蔵を殺害されていた大山綱良・[[桂太郎]]らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして久保田藩は[[奥羽越列藩同盟]]を離脱し、[[東北地方]]における新政府軍の拠点となった。
 
 
 
久保田藩に続いて[[新庄藩]]・[[本荘藩]]・[[亀田藩]]・[[矢島藩]]が新政府軍に恭順した。この状況に対して、南方へ兵を向けようとしていた庄内藩は一部の部隊を北方へ派遣し、7月14日に新庄藩主[[戸沢氏]]の居城・[[新庄城]]を攻め落とした。さらに、庄内藩・仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田領・矢島領・本荘領を制圧していった。総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。
 
 
 
また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の[[楢山佐渡]]が帰国すると列藩同盟に与することを決定した。8月9日に盛岡藩は久保田藩に攻め込み、[[大館城]]を攻略した。
 
 
 
しかし、[[佐賀藩]]を中心とする援軍の到着により久保田軍は勢いを盛り返し、9月7日には盛岡軍を藩境まで押し戻した。庄内藩も、9月12日に上山藩が降伏したことで南方の不安が増したため、17日に退却し以後は自領防衛に徹した。9月22日、会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決すると、同日盛岡藩が降伏した。24日、最後まで領内に新政府軍の侵入を許さなかった庄内藩も、亀田藩とともに降伏した。
 
 
 
=== 白河戦線 ===
 
[[File:Shirakawa Komine Castle 20100625-01.jpg|thumb|250px|right|[[白河小峰城]]]]
 
{{main|白河口の戦い}}
 
 
 
[[白河市]]は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の[[白河小峰城|白河城]]は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点で、この地は新政府の管理下となっていた。仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の下参謀・世良修蔵(長州藩)を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同じ閏4月20日、会津軍と仙台軍は呼応して新政府から白河城を奪い取った。
 
 
 
しかし5月1日、薩摩藩士・[[伊地知正治]]が率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。
 
 
 
以後100日余りに渡って、攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかった。会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍・約4500人は司令官・[[薩長|西郷頼母]](会津藩)のもと、7回にわたって白河城の奪取を試みた。しかし、いずれも失敗に終わった。この激戦で、両軍併せ約1,000人の死者が出た。この白河城奪還戦が、戊辰戦争の”天王山”だと言われている。
 
 
 
=== 北越戦争 ===
 
{{main|北越戦争}}
 
[[File:Echigo no kuni Uesugi Kagekatsu katoku arasoi kassen.jpg|thumb|320px|[[北越戦争]]を描いた浮世絵。画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い([[御館の乱]])に見立てて描いたもの。[[新潟県立図書館]]蔵<ref>[http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/DigitalShosai?DIGITAL_IMAGE_ID=536 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』]</ref>。]]
 
[[File:Cemetery of Feudal retainer of Satsuma Domain, Battle of Hokuetsu.jpg|thumb|北越戦争における薩摩藩戦死者の墓(新潟県上越市金谷山)]]
 
越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された[[新潟港]]があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したが、イタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟にとって武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の[[岩村精一郎]]は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で、長岡藩の[[河井継之助]]と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府の権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。
 
 
 
長岡藩は河井により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井の指揮下で善戦したが、5月19日に長岡城が落城。7月25日に同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたが([[八丁沖の戦い]])、この際指揮をとっていた河井が負傷した(後に死亡)。新政府軍はすかさず長岡城を再奪取し、4日後の29日に長岡藩兵は撤退した。一方、新政府軍が軍艦で上陸し、[[米沢藩]]兵・会津藩兵が守る[[新潟市|新潟]]も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。
 
 
 
=== 平潟戦線 ===
 
{{main|磐城の戦い|旗巻峠の戦い}}
 
平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路[[常陸国]]([[茨城県]])[[平潟港]]に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。
 
 
 
当時、[[榎本武揚]]の旧幕府艦隊は健在だったが、新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1,500人となった。
 
 
 
6月24日、東山道先鋒総督府参謀・[[板垣退助]](土佐藩)が率いる[[官軍|新政府軍]]の[[迅衝隊]]が白河から平潟との中間にあった[[棚倉城]]を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い[[磐城平城]]を占領(平城の戦い)。16日には断金隊々長・[[美正貫一郎]]の尽力によって、[[三春藩]]が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、[[三春城]]は新政府軍の病院としての一翼をになった。22日に仙台追討総督・[[四条隆謌]]が増援を率いて平潟に到着、29日に[[二本松城]]を三春城から北上した新政府軍が占領した([[二本松の戦い]]・[[二本松少年隊]])。8月7日、[[相馬中村藩]]が新政府軍に降伏。四条隆謌と参謀・[[河田景与]]および[[木梨精一郎]]らは相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の[[駒ヶ嶺 (新地町)|駒ヶ嶺]]を占拠、ここで仙台藩と戦闘を繰り広げた。
 
 
 
白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。
 
 
 
新政府軍の総司令官・[[大村益次郎]]([[長州藩]])は、仙台藩の攻撃を優先するべきだと主張した。しかし、現地の司令官・[[薩長|伊地知正治]]([[薩摩藩]])と[[薩長|板垣退助]]助([[土佐藩]])は会津藩を攻めるべきだと主張し、伊地知・板垣の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。
 
 
 
=== 東北戦争の終結 ===
 
[[File:AizuCastle.jpg|thumb|260px|損傷した若松城(降伏後に撮影)]]
 
{{main|会津戦争}}
 
8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、[[母成峠の戦い]]が行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか、[[白虎隊]]の悲劇などが発生した。
 
 
 
9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・[[上杉斉憲]]は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏、22日に会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、24日に新政府に降伏した。
 
 
 
奥羽越列藩同盟諸藩の降伏後、行き場を失った水戸藩・[[諸生党]]を中心とする旧幕府方残党は[[水戸城]]に侵攻するが、10月1-2日の[[弘道館戦争]]で敗退した。旧幕府方残党は南に敗走し、10月6日、[[下総国]][[匝瑳郡]]松山村付近の[[松山戦争]]で壊滅した。
 
 
 
== 箱館戦争 ==
 
{{main|箱館戦争}}
 
[[ファイル:BakufuTroopsToEzo.jpg|thumb|left|280px|蝦夷へ向かう旧幕府軍]]
 
[[ファイル:五稜郭本陣.jpg|thumb|200px|五稜郭本陣 (明治元年冬撮影)<br /><small>新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。</small>]]
 
榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、奥羽越列藩同盟からの度重なる参戦要求を無視し、もはや列藩同盟の敗色が濃くなった8月19日になってから、ようやく江戸湾から脱出した。出航が遅れたのは、徳川慶喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。8月26日、[[仙台藩]]内の[[浦戸諸島]]・寒風沢島ほか([[松島湾]]内)に寄港し、奥羽越列藩同盟軍の残党勢力よび大鳥圭介・[[土方歳三]]等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容、10月12日に[[蝦夷地]]([[北海道]])へと向かった。このとき、仙台藩の精鋭である洋式部隊・[[内大臣|額兵隊]]も、榎本艦隊に収容された。[[松前藩]](北海道)は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。10月26日榎本は[[箱館]][[五稜郭]]などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または[[蝦夷共和国]])。
 
 
 
榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる[[開陽丸]]を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、[[宮古湾海戦]]を挑んだものの敗れた。その後、新政府軍は、[[青森市|青森]]に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]](1869年[[5月20日]])江差の北、[[乙部町|乙部]]に上陸する。その後、進軍され[[5月18日 (旧暦)|5月18日]](同[[6月27日]])、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。
 
 
 
== 戦後処理 ==
 
慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、[[徳川家達|田安亀之助]]に[[徳川将軍家|徳川宗家]]を相続させ、[[駿府]]70万石を下賜することを発表した。
 
 
 
また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる。
 
 
 
;戦功賞典(永世禄)
 
:{{Main|賞典禄}}
 
:* 10万石:[[島津久光]]父子(薩摩)、[[毛利敬親]]父子(長州)
 
:* 4万石:[[山内容堂|山内豊信]]父子(土佐)
 
:* 3万石:[[池田慶徳]](鳥取)、[[戸田氏共]](大垣)、[[大村純熈]](大村)、[[島津忠寛]](佐土原)、[[真田幸民]](松代)
 
:* 2万石:[[佐竹義尭]](久保田)、[[藤堂高猷]](津)、[[井伊直憲]](彦根)、[[池田章政]](岡山)、[[鍋島直大]](佐賀)、[[毛利元敏]](長府)、[[松前修広|松前兼広]](松前)
 
:* 1万5千石:[[前田慶寧]](金沢)、[[戸沢正実]](新庄)、[[徳川慶勝]]父子(尾張)、[[浅野長勲]](広島)、[[大関増勤]](黒羽)
 
:* 1万石:[[松平春嶽|松平慶永]]父子(福井)、[[六郷政鑑]](本荘)、[[榊原政敬]](高田)、[[津軽承昭]](弘前)、[[戸田忠恕]]父子(宇都宮)、[[黒田長知]](福岡)、[[有馬頼咸]](久留米)、[[秋元礼朝]](館林)など
 
; 処分された藩
 
:*[[仙台藩]] - 62万石から28万石へ、34万石の減封。藩主・[[伊達慶邦]]は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。
 
:* [[会津藩]] - 23万石から[[会津藩#斗南藩|陸奥斗南藩]]3万石に転封。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。
 
:* [[盛岡藩]] - 20万石から旧仙台領の白石13万石に転封。家老1名が処刑された。
 
:* [[米沢藩]] - 18万石から14万石に減封。
 
:* [[庄内藩]] - 17万石から12万石に減封。
 
:* [[山形藩]] - [[近江国]]朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。
 
:* [[二本松藩]] - 10万石から5万石に減封。
 
:* [[棚倉藩]] - 10万石から6万石に減封。
 
:* [[越後長岡藩|長岡藩]] - 7万4千石から2万4千石に減封。すでに死亡していた処刑が相当の家老2名は家名断絶とされた。
 
:* [[一関藩]] - 3万石から2万7千石に減封。
 
:* [[上山藩]] - 3万石から2万7千石に減封。
 
:* [[福島藩]] - 3万石から[[三河国]][[重原藩]]2万8千石へ転封。
 
:* [[亀田藩]] - 2万石から1万8千石に減封。
 
:* [[天童藩]] - 2万石から1万8千石に減封。
 
:* [[泉藩]] - 2万石から1万8千石に減封。
 
:* [[湯長谷藩]] - 1万5千石から1万4千石へ減封。
 
:* [[請西藩]] - 1万石をすべて没収(戊辰戦争による唯一の[[除封]][[改易]])。藩重臣は死罪、藩主・[[林忠崇]]は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い[[男爵]]に叙任された。
 
;所領安堵となった藩
 
:* [[八戸藩]] - 藩主・[[南部信順]]が島津氏からの養子ということもあり、沙汰無しになったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘には、遠野南部氏共々参加していない。陰で久保田藩と通じる文書を交わしていたことも明らかになっている。
 
:* [[村松藩]] - 家老1名が処刑された。
 
:* [[村上藩]] - 家老1名が処刑された。
 
:* [[磐城平藩]] - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
 
:* [[相馬中村藩]] - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
 
:* [[三春藩]]
 
:* [[新発田藩]]
 
:* [[三根山藩]]
 
:* [[黒川藩]]
 
:* [[下手渡藩]] - 藩主・[[立花種恭]]が入京した後に、既に新政府に恭順していた事実を隠して列藩同盟に参加。後にその事実が発覚して下手渡の陣屋が仙台藩に攻撃されたため、旧領である筑後国三池に陣屋を戻して[[三池藩]]を立藩。石高は1万石から変わらず。
 
 
 
明治2年([[1869年]])5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老・[[但木成行]]、仙台藩江戸詰め家老・[[坂英力]]、会津藩家老・[[萱野長修]]は東京で、盛岡藩家老・[[楢山佐渡]]は盛岡で、[[刎首刑]]に処された。続いて仙台藩家老の[[玉虫左太夫]]と[[若生文十郎]]が、[[切腹]]させられた。しかし、仙台藩主戦派のイデオローグである思想家・[[大槻磐渓]]は、死を免れた。仙台藩の[[大槻磐渓|伊達氏]]は、34万石の減封という全国の諸大名の中で最も過酷な処分を受けた。これが仙台藩による北海道開拓へとつながってゆく。仙台藩は秩禄が減って困窮した家臣団を救うために、北海道への入植を行った。仙台藩は新政府と共に[[坂英力|道庁]]所在地の[[坂英力|札幌市]]を開拓したほか、単独で[[坂英力|伊達市]]などを開拓した。こうして仙台藩は、北海道開拓の歴史上に多大な功績を遺した。
 
 
 
会津藩と庄内藩については対照的な結果となった。会津藩は斗南3万石に転封となった。明治2年8月、当時若松県大参事だった[[岡谷繁実]]による猪苗代での会津藩5万石の再興の提言を受け、明治政府は明治2年9月11日に会津松平家を3万石で存続させることを許し、11月3日に封地を陸奥に決定した。斗南は元々盛岡藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められている土地で、実際に年貢として納められた米は7,310石だった。収容能力を超えて移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や日本国外に散る者もいた。
 
 
 
下北半島の郷土史家の笹沢魯羊は、転封地に関して新政府が斗南か猪苗代の選択肢を示し、会津藩内の議論の末、[[広沢安任]]の主張を採択して斗南を選択したと記述し<ref>『田名部町誌』(1935年)</ref>、それが多くの書籍で引用されている。一方で[[野口信一]]は、猪苗代説の元史料の存在は認められず、議論は旧盛岡藩領への移住そのものに対する議論であると主張している<ref>野口信一P.240~246</ref>。
 
 
 
庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。前庄内藩主・[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]らは西郷の遺訓『[[南洲翁遺訓]]』を編纂し、後の[[西南戦争]]では西郷軍に元庄内藩士が参加している。
 
 
 
奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩などは功を労われ、明治2年([[1869年]])には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格と見なされず、戦費・戦災に見合うほどの恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では[[自由民権運動]]が活発化した。
 
 
 
箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、[[黒田清隆]]らによる助命運動により、明治5年([[1872年]])1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。
 
 
 
{{出典の明記|section=1|date=2016年1月20日 (水) 15:17 (UTC)}}
 
<!--== 遺恨 ==戊辰戦争には様々な遺恨にまつわる話が語りつがれている。交戦した[[新政府軍]]と[[江戸幕府|旧幕府軍]]の対立はもとより、[[奥羽越列藩同盟]]における内部分裂からの遺恨も目立つ。特に戦争の深い遺恨で知られるのが[[会津藩]]である。会津藩は開戦以前から薩長と対立しており、新政府に対する敵意は強く、戦後処理を担当した[[福井藩]]の対応にも怨恨を抱いていた。俗説ではあるが、後の[[西南戦争]]の際に政府軍として参戦した旧会津藩士が「戊辰の仇!」と叫びながら薩軍に突撃した、と語られるなど遺恨の話は多い。現代でも、[[太平洋戦争]]後に書かれた歴史小説などの影響で、[[山口県]]や[[鹿児島県]]を敵視する風潮があるとも言われる([[観光史学]]を参照)。奥羽越列藩同盟に与した[[亀田藩]]の所領全域と[[盛岡藩]]の所領の一部は、新政府軍に与した[[久保田藩]]を前身とする[[秋田県]]に統合された。秋田県は1930年(昭和5年)に[[県歌]]として[[秋田県民歌]]を制定したが、3番の歌詞に「錦旗を守りし戊辰の栄は」--><!-- 著作権保護期間満了 --><!--とあり久保田藩を称えるものだったことから、旧亀田藩領・旧盛岡藩領だった地区ではこの歌を忌避する風潮が生じた。そうした経緯から、今日では2番までを歌うのが通例になっている。
 
 
 
2000年(平成12年)になっても、秋田県で開かれた「戊辰戦争百三十年in角館」で[[宮城県]][[白石市]]長の[[川井貞一]]が久保田藩の寝返りを批判しており、遺恨の根の深さがここでも見て取れる。
 
 
 
また、[[福島県]]には、列藩同盟を離脱した[[三春藩]]を「三春狐」と揶揄する歌が伝わっている。--><!-- ← これは「会津猪 仙台むじな 三春狐に 騙された 二本松 まるで了見 違い棒」という戯れ歌のことをおしゃっているのだと思いますが、三春にかぎらず会津も仙台も二本松もみなこき下ろされており、これはむしろ町人の立場から戊辰戦争を引き起こして商家や民百姓に散々な迷惑をかけた愚かな士族どもを総体的に愚弄した恨み言のようなものではないかと思います。-->
 
 
 
== 戊辰戦争をテーマにする作品 ==
 
=== TV ドラマ ===
 
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]
 
* [[獅子の時代]]
 
* [[白虎隊 (1986年のテレビドラマ)|白虎隊]]
 
* [[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]
 
* [[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]
 
* [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]
 
* [[新撰組!]]
 
* [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]
 
* [[白虎隊〜敗れざる者たち]]
 
* [[八重の桜]]
 
* [[花燃ゆ]]
 
* [[るろうに剣心]]
 
 
 
=== ゲーム ===
 
* 北海道共和国([[アドテクノス]])
 
* 明治維新([[翔企画]]SSシリーズ)
 
* 函館1869([[シックスアングルズ]])
 
* 戊辰戦争([[ゲームジャーナル]])
 
* 上野戦争([[ゲームジャーナル]])
 
* 北越戦争([[コマンドマガジン]])
 
* 河井継之助最後の賭け([[コマンドマガジン]])
 
* 箱館戦争/箱館湾海戦([[ウォーゲーム日本史]])
 
* 志士の時代 幕末ボードゲーム([[ウォーゲーム日本史]])
 
* 会津戊辰戦争([[ウォーゲーム日本史]])
 
* 維新回天
 
* [[維新の嵐]]シリーズ([[コーエーテクモゲームス]])
 
*薄桜鬼シリーズ([[オトメイト]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=大山柏|authorlink=大山柏|title=戊辰戦役史 上下|publisher=時事通信社|year=1968}}
 
* 菊地明(他)編,『戊辰戦争全史』〈上・下〉, 新人物往来社 (1998/04), ISBN 4404025726, ISBN 4404025734
 
* [[佐々木克]],『戊辰戦争』, 中公新書 (1977), ISBN 4121004558
 
* 保谷徹,『日本の戦争18 戊辰戦争』, 吉川弘文館, ISBN 4642063285
 
* [[野口武彦]],『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』, 中公新書 (2002/11), ISBN 4121016734
 
* 稲川明雄(他)編,『北越戊辰戦争史料集』, 新人物往来社 (2001/11), ISBN 4404029233
 
* 中須賀哲朗(訳),『英国公使館員の維新戦争見聞記』, 校倉書房 (1974)
 
* 『会津戦争-痛憤 白虎隊と河井継之助』, 学習研究社 (1994/9), ISBN 9784056005868
 
* 川崎三郎、『戊辰戦史』、博文館、1894年[{{NDLDC|773511/1}}]
 
* 『長岡藩戊辰戦争関係史料集』〈長岡市史双書 No.31〉、長岡市、[[1995年]]。
 
* [[野口信一]]『会津えりすぐりの歴史―資料から読み解く真実の歴史』歴史春秋社刊 (2010), ISBN 978-4897577531
 
* 水谷憲二,『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』, 八木書店 (2011), ISBN 978-4840620444
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[大政奉還]]
 
* [[王政復古の大号令]]
 
* [[鳥羽・伏見の戦い]]
 
* [[江戸開城]]
 
* [[奥羽越列藩同盟]]
 
* [[会津戦争]]
 
* [[箱館戦争]]
 
* [[青松葉事件]]
 
 
 
{{Commonscat|Boshin war}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:ほしんせんそう}}
 
{{DEFAULTSORT:ほしんせんそう}}
 
[[Category:戊辰戦争|*]]
 
[[Category:戊辰戦争|*]]

2018/12/31/ (月) 13:16時点における最新版

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))

明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した会津藩桑名藩の兵は,鳥羽,伏見で薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗れた (鳥羽・伏見の戦い ) 。新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ,大坂から江戸へ退去した旧幕府勢力を追って,徳川追討の軍を起こした。同 1868年2月薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道,東山道,北陸道の三方に分かれて進発した。徳川慶喜は恭順の態度をとって謹慎し,駿河に迫った東征軍に対して勝海舟を通じて交渉し,助命と引き換えに江戸城の自発的開城を約束させた。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが,抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは上野にこもって輪王寺宮公現法親王 (北白川宮能久 ) を戴いて彰義隊を結成,東征軍に抗戦したが敗れ,輪王寺宮は奥羽に逃れた (彰義隊の戦い) 。一方,鳥羽・伏見の戦いで賊名を負わされた会津,桑名両藩にも追討令が出された。奥羽諸藩は会津藩の赦免を東征軍に斡旋したがいれられず,ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟を結成するにいたり,輪王寺宮を擁して官軍と対決した。しかし奥羽・北越戦争で,優秀な装備をもつ薩長を中心とする官軍は,まず北越を平定し,次いで9月会津藩を降伏させた (会津戦争 ) 。これに先立ち,旧幕府海軍副総裁榎本武揚らは,軍艦8隻に搭乗して江戸を脱出,箱館を占拠し,武器,軍艦の引き渡しを拒んだ。官軍は,翌明治2 (1869) 年5月箱館に進撃し,箱館戦争が開かれたが,5月 18日五稜郭は開城され,榎本らは降伏して (五稜郭の戦い ) ,戊辰戦争は終結した。この国内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。



楽天市場検索: