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(内容を「 '''愛'''(あい、{{lang-en-short|love}}、{{lang-fr-short|amour}}) 愛は人間の根源的感情として,全人類に普遍的であり,人格的な交わり…」で置換)
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{{Otheruses|一般概念としての愛|作品名、人名 等|愛 (曖昧さ回避)}}
 
{{複数の問題
 
| 未検証 = 2009年10月30日 (金) 13:59 (UTC)
 
| 観点 = 2005年2月27日 (日) 18:11 (UTC)
 
| 独自研究 = 2011年12月29日 (木) 00:23 (UTC)
 
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[[File:Haynes-Williams Motherhood.jpg|thumb|right|180px|[[母親|母]]の子への愛を「[[母性]]愛」という。]]
 
[[File:Severin Nilson-I pappas famn.jpg|thumb|right|180px|[[父親|父]]の子への愛を「[[父性]]愛」という。]]
 
[[File:Psyche et LAmour.jpg|thumb|right|180px|『[[プシューケー]]と愛』 [[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]、1889年。 ]]
 
'''愛'''(あい、{{lang-en-short|love}}、{{lang-fr-short|amour}})について解説する。
 
  
==概要==
+
''''''(あい、{{lang-en-short|love}}{{lang-fr-short|amour}})
最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。
 
 
 
<!--{{要出典|date=2014年4月}}宗教的、理念的ものから、[[恋愛]]、そして欲望に至るまで様々な意味で用いられる概念である。-->
 
<!--{{要出典|date=2014年4月}}「愛」の意味は、時代とともに多様化してきている。-->
 
 
 
<!--{{要出典|date=2011-8}} 愛は愛-->
 
 
 
===辞典等の主要語義の解説===
 
[[広辞苑]]では、次のような語義をあげている。
 
*親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、[[人間]]や[[生物]]への思いやり<ref name=koujien>広辞苑</ref>。
 
*男女間の愛情。恋愛<ref name=koujien/>。
 
*大切にすること。かわいがること。めでること<ref name=koujien/>。
 
*〔[[キリスト教]]〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。[[アガペー]]<ref name=koujien/>。
 
*〔[[仏教]]〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「[[十二因縁]]」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる<ref name=koujien/>。
 
相手が幸せでいてくれればいいという気持ち。
 
 
 
==日本語の「愛」の意味の変遷==
 
日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい<ref name=oubunsyakogo>旺文社『古語辞典』</ref>、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま<ref name=oubunsyakogo/>、を意味した<ref>。竹取物語のかぐや姫の昇天の段には「翁をいとほしく愛しとおぼしつることも失せぬ」といった表現もある</ref>。
 
 
 
[[近代]]に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. [[キリスト教]]の愛の概念、2.[[ギリシア]]的な愛の概念、3. [[ロマン主義]]小説の[[恋愛]]至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた。
 
 
 
== 伝統的な説明、宗教的な説明 ==
 
=== 古代ギリシア・キリスト教での愛 ===
 
[[キリスト教]]において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりも'''[[アガペー]]'''である。
 
そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに[[古代ギリシア]]時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現。)について説明している<ref>スコット・ペック『愛と心理療法』創元社, 1987年, ISBN 4422110837 など</ref>ことが多い。それらは以下のとおり。
 
 
 
*「{{仮リンク|ストルゲー|en|storgē}}」 <span lang="gr">''στοργή''</span> <span lang="en">''storgē''</span>
 
**キリスト教では家族愛。(古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛、であった。)愛とは、互いに慈しみを持ち、感謝をささげること。
 
 
 
*「[[エロース|エロス]]」 <span lang="gr">''έρως''</span> <span lang="en">''érōs''</span>
 
**キリスト教では性愛。(古代ギリシアでは自己を充実させる愛、であった。)
 
*「[[フィリア|フィーリア]]」 <span lang="gr">''φιλία''</span> <span lang="en">''philía''</span>
 
**暗キリスト教では隣人愛。[[友愛]]。(古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。<ref group="注">古代ギリシア語では「<span lang="gr">φιλειν</span>(philein フィレイン、愛する)」という動詞があり、それに対応する名詞が「[[フィリア|フィーリア]]」である。
 
この動詞φιλειν phileinは、その語幹 phil-と様々な語との組み合わせで用いられている。
 
*たとえば[[古代ギリシア語]]の「<span lang="gr">φιλοσοφία</span>(フィロソフィア)」はこのフィレインと「<span lang="gr">σοφία</span>(ソフィア=知)」の組み合わせであり、もとは「知を愛すること」という意味で、これが[[哲学]](また18世紀までの[[学問]]全般)になった。
 
* 『[[ルカによる福音書]]』および『[[使徒言行録]]』の冒頭に献呈する相手の名として「テオフィロ様」とあるが、テオ(テオス)は「神」のことで、「神を愛する者」という意味の名である。
 
* [[:en:philology|philology]] [[フィロロジー]]は、「言葉を愛すること」という意味から[[言語学]]や[[文献学]]を指す。
 
* [[:en:philanthropy|philanthropy]] [[フィランソロピー]]は、「人類を愛すること」という意味で、人類への愛にもとづいた様々な慈善活動を指す。
 
* philharmonie [[フィルハーモニー]]は、「フィレイン」と「[[ハーモニー]]」の組み合わせであり、ハーモニーを愛すること、という意味から[[交響楽団]]、交響楽演奏などの意味で使われている。
 
</ref>)
 
*「'''[[アガペー]]'''」 <span lang="gr">''αγάπη''</span> <span lang="en">''agápē''</span>
 
**キリスト教では真の愛。(古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛、であった。)新約聖書においては「神は愛です」([[ヨハネの手紙一]] 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特に[[イエス・キリスト]]を通して愛が示されている。「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない<ref name="shinseishojiten" />。
 
 
 
イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」([[マタイによる福音書|マタイ]] 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。
 
 
 
[[パウロ]]は対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」([[コリントの信徒への手紙一|1コリント]] 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵<span lang="en">''charis''</span>([[ローマの信徒への手紙|ロマ]] 1:5、ほか)と呼び、これはのちに<span lang="la">''gratia''</span>とラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。
 
 
 
西欧の伝統、キリスト教の[[信仰]]においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。
 
 
 
 
 
=== ユダヤ教「ヘブライ語聖書」における愛 ===
 
 
 
[[ヘブライ語聖書]]においては'''愛'''に相当する語として、[[ヘブライ語]]の「אהב」(エハヴ)(エハヴァ)(エハヴァー)が使われているが、日常でも用いられる。なお、[[ヘブライ語]]をカタカナで表すのは難しく、「א([[声門破裂音]]アレフ)・ה([[無声声門摩擦音]]へー)・ב([[軟口蓋接近音]]ヴェート)」の発音が組み合わさると、「ה」と「ב」は「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。また、主の名と、[[アダム]]の妻の名と、愛、これら三つの言葉は、発音がよく似ている。
 
 
 
また、[[キリスト教]]の英語[[旧約聖書]]で「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」と訳される「慈悲」の意味の「חסד」(ヘセド)<ref>[http://biblesuite.com/hebrew/chesed_2617.htm ヘブライ語対訳英語聖書 「חסד」(he-sed)]</ref>は、他に「favor」「Loyalty」「disgrace<ref>[http://interlinearbible.org/leviticus/20.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Leviticus 20:17]</ref>」などと訳されて「えこひいき」「忠誠心」「恥」の意味にも使われているが、「Loyalty(恥)」と訳された「חסד」(ヘセド)を[[ヘブライ語聖書]][[レビ記]]20章17節に見ると「慰み」の意味合いも含まれていることがわかる。神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である<ref name="shinseishojiten">{{Cite book|和書|title=新聖書辞典|publisher=いのちのことば社|page=3-4}}</ref>。
 
 
 
*「מאהבת」は<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/7.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 7:8]</ref>、主の「'''愛'''」の意味。この綴りは、主が「'''愛した'''」という意味の「אהב」を<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/4.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 4:37]</ref>核とする。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[申命記]]7章8節「ただ、あなたに対する主の'''愛'''のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、[[ファラオ]]が支配する奴隷の家から救い出されたのである。 」と翻訳されている。
 
*「מאהבת」はまた<ref>[http://interlinearbible.org/2_samuel/1.htm ヘブライ語対訳英語聖書  2 Samel 1:26]</ref>、女の「'''愛'''」も意味する。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[サムエル記]])下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の'''愛'''にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。
 
*「אהבתך」は<ref>[http://interlinearbible.org/2_samuel/1.htm ヘブライ語対訳英語聖書  2 Samel 1:26]</ref>、親友の「'''愛'''」を意味する。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[サムエル記]]下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの'''愛'''を。 」と翻訳されている。
 
*「אהבת」は<ref>[http://interlinearbible.org/genesis/22.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 22:2]</ref>、息子に対するアブラハムの「'''愛'''」。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[創世記]]22章2節「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの'''愛する'''独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 」と翻訳されている。
 
*「ואהבת」は<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/6.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 6:5]</ref>、主を「'''愛すべし'''」の意味。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[申命記]]6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を'''愛しなさい'''。 」と翻訳されている。
 
*「ואהבת」はまた<ref>[http://interlinearbible.org/leviticus/19.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Leviticus 19:18]</ref>、隣人を主である私のように「'''愛すべし'''」という意味の聖句にも使われている。なお、主は、[[キリスト教]][[申命記]]10章9節にも記されているとおり、[[レビ族]]の<ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/10.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9]</ref>嗣業を意味する。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[レビ記]]19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を'''愛しなさい'''。わたしは主である。 」と翻訳されている。
 
*「לאהבי」は<ref>[http://interlinearbible.org/exodus/20.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Exodus 20:6]</ref><ref>[http://interlinearbible.org/deuteronomy/5.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 5:10]</ref>、主から慈悲を与えられる「'''愛人'''」の意味。主の「לאהבי」('''愛人''')であることに対する見返りが、主の「חסד」(慈悲)である。
 
**[[キリスト教]]では、[[新共同訳聖書]][[出エジプト記]]20章6節並びに[[申命記]]5章10節「'''わたしを愛し'''、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 」と翻訳されている。
 
 
 
=== 仏教での愛と慈悲 ===
 
[[仏教]]における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。
 
 
 
「愛」に相当する、概念には
 
[[サンスクリット語]]ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。
 
 
 
;愛
 
;tRSNaa ([[トリシュナー]])
 
:人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう<ref>{{Cite |和書|title=完全図解 仏教早わかり百科 |date=1999-12-01 |author=ひろさちや |isbn=978-4391123951 |page=38}}</ref>。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。
 
:広義には[[煩悩]]を意味し、狭義には[[貪欲]]と同じ意味である。
 
:また、この「愛」は[[十二因縁]]に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
 
;kaama (カーマ)
 
:kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
 
:[[仏教]]では、[[性愛]]については抑制を説いたが、後代の[[真言密教]]になると、男女の性的結合を絶対視する[[タントラ教]]の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を[[涅槃]]そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。
 
:密教が[[空海]]によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に[[立川流 (密教)|立川流]]が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。
 
:性愛を表す[[愛染]]という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
 
 
 
;慈悲
 
;preman, sneha
 
:preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
 
:子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、[[菩薩]]の理想である。
 
 
 
<!--{{要出典範囲|仏教では、中心的なテーマは愛ではなく、それは「[[瞑想]]の道」とも呼ばれ、愛の道と対比され、探求には愛の実践は含まれないか中心的な重要さはもっていない。|date=2013年2月}}-->
 
仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。[[仏]]や[[菩薩]]が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「[[慈悲]]」という表現で呼んだ。
 
 
 
特に[[大乗仏教]]では、[[慈悲]]が[[智慧]]と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『[[スッタニパータ]]』にも慈悲の章がある。
 
{{Quotation|あたかも母が己の独り子をば[[自己犠牲|身命を賭けて護る]]ように、一切の[[生命|生きとしいけるもの]]に対しても、無量の[[慈悲|慈しみのこころ]]を起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『[[スッタニパータ]]』<ref>
 
並川孝儀『スッタニパータ ―仏教最古の世界』岩波書店、ISBN 4000282859</ref><ref>[[中村元 (哲学者)|中村元]]『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波文庫、1958、ISBN 4003330110</ref>}}
 
 
 
一切[[衆生]]に対する純化された想い(心)を[[慈悲]]という。それは仏だけでなく、普通の人々の心のの中にもあるものだと大乗仏教では説く。
 
<!--この場合は愛が状態であり、対象や相手を持たないが、更に愛があふれ出ている。近くに来る人は慈悲を受け取り、愛をいっぱいに受け取ることができるとも言われる{{要出典|date=2012-3}}。-->
 
 
 
[[観音菩薩]](や[[聖母マリア]])は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。
 
 
 
{{人間関係}}
 
 
 
=== 儒教での愛 ===
 
[[仁]]は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、[[孔子]]は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。
 
 
 
一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と述べた。
 
 
 
[[孟子]]は仁と義に対等の価値をみとめ、利と相反するものとしたが、[[墨子]]は義即利とみて、孟子と対立した。<ref>平凡社 哲学事典</ref>
 
 
 
仁をただちに愛としないのは愛を情(作用)とみ、仁を性(本体)とみているからである。<ref>平凡社 哲学事典</ref>
 
<!--
 
「心理学における説明」の節が独自研究に陥っている。
 
 
 
本当に心理学の標準的な教科書で、「愛」の説明でいきなりコンプレックス症例ばかりを列挙しているのか? 2009年にタグが貼られ1年半経過したのに出典が提示されていない。特定のウィキペディアンが自分の感覚で特定の方向で話を強調して、文章を作っている可能性が大。「心理学における」と謳うからには、愛を主題にした心理学の論文・書籍か、心理学の教科書に「愛」という章がわざわざ割かれている出典を見つけて、素直にそこでどのように説明されているのか、しかもどの心理学者による説明方式なのか、心理学者名を明示しつつ、中立的に記述する必要がある。
 
 
 
==心理学における説明==
 
{{出典の明記|section=1|date=2009年12月}}
 
 
 
===コンプレックス症例===
 
家族愛を表す用語として[[コンプレックス]](抑圧された複合意識)という用語が使われることがある。ただ、こういった用語はその前提となる考えがそれぞれ違うため、単純にイコールにはできない。例えば、[[エディプスコンプレックス]]は父親に対する対抗心として母親への愛があり、[[マザーコンプレックス]]は単純な母親への感情を意味する。そのため、細かく見ればそれぞれ意味は異なる。
 
 
 
前述のように子供から母親に対する度を過ぎた愛は[[マザーコンプレックス]]あるいは[[エディプスコンプレックス]]と呼ばれる。また、[[ジークムント・フロイト]]は女の子が初め母親に愛情を向けることを指摘し、また[[カール・グスタフ・ユング]]は純粋な母親への愛は女性に良く見られると指摘した。一方、母親から子への愛を表す用語は[[阿闍世コンプレックス]]と言われる。この用語は母親の無限の愛を前提にする。息子の場合は[[アグリッピーナコンプレックス]]と呼ばれることもある。この用語の場合母親の歪んだ息子に対する愛を前提にする。
 
 
 
一方、子供から父親への度を過ぎた愛情は[[ファザーコンプレックス]]という。女性の場合[[エレクトラコンプレックス]]という。この場合は母親への愛の次の段階としての女性の父親に対する愛を意味する。男性の場合[[オレステスコンプレックス]]というが、これは母親への愛との重なり合いで苦しめられているという意味合いを含む。父親の息子への度を過ぎた愛は[[アブラハムコンプレックス]]という。この場合は息子離れが出来ず、親離れをしようとする息子を憎む意味合いを含む。父親の娘への愛は[[白雪姫コンプレックス]]と言われる。これは、母親の嫉妬が背後にある。
 
 
 
兄弟愛、姉妹愛という言葉があるが、これもまた度が過ぎた場合、「シスコン([[シスターコンプレックス]]の略)」「ブラコン([[ブラザーコンプレックス]]の略)」と呼ばれる。親の愛をめぐる心理葛藤として「[[カインコンプレックス]]」と呼ばれる場合もある。
 
-->
 
 
 
<!--
 
== 愛の特徴 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2009年12月}}
 
「{{要出典範囲|愛は、他の感情に作用しやすく、愛がある故に喜び怒り悲しみ憎しみ嫉妬などの感情が生まれる場合もある。|date=2011-8}}」と言った{{誰|date=2011-8}}。
 
-->
 
 
 
== 愛の対象 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2009年12月}}
 
<!--出典が欠如している。 愛を主題とした出典で、本当に「愛の対象」という章や節がつくられ、そこに以下のようなリストが作られているのか? 怪しい。もしも出典において、自己愛などの説明がある場合でも、もっと異なった切り口・文脈で言及されているのなら、それを尊重すべき。-->
 
 
 
「人間が抱く「愛」の感情は、必ずしも対象を限定しておらず、その範囲は広大である。「 - を愛する」という動詞の表現はかなり広く用いられている。
 
 
 
===自己愛===
 
{{main|ナルシシズム}}
 
社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。自分自身を支える基本的な力となる。
 
( 英語でself-love とも。 narcissism の訳語として用いられることもある。)
 
 
 
生まれてきたばかりの赤ん坊は、保護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。その過程で(成人するまでに)自身が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与している。「自分が望まれている」事を前提に生活できることは、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得る。また、自己に対する信頼が安定すること、自分という身近な存在を愛せることは、その経験から他者を尊重することにも繋がる。
 
 
 
[[心理学者]]らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されている。自分を愛するように、人を愛することができるという訳である。自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われる。
 
 
 
しかし子供によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれることがある。この場合、その子供は努力次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなど可能性もある。もし後者で自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する体験がかぎの一つとなる。
 
 
 
周囲から見て精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評されることがある。これは、対象を愛して(気分が舞い上がりなどして)いる自己に酔っている、また、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものである。しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすい。
 
 
 
「{{要出典範囲|自己愛にはいくらかの傾向が見出されるが、いずれも全く個別的なものではなく重なり合っていると言えるだろう|date=2011-8}}」と言う{{誰|date=2011-8}}。
 
 
 
===家族愛===
 
{{Main|家族愛}}
 
親子、兄弟姉妹、祖父母と孫など肉親同士で発生する場合が多い。血が繋がらなくても養子など家族の形をとれば家族愛は生まれることがある。動物を家族の一員としてとらえる人もいる。
 
 
 
====親子間の愛====
 
親子間、特に親が子に対して抱くものも愛であり、性別に応じて「[[母性]]愛」、「[[父性]]愛」などと呼ばれる。子供は特にその初期には守られなくては生存できない存在であり、親の愛はこれを守り育てる活動の原動力となるものである。ただし、母性愛と父性愛にはやや異なった傾向があるとも言われる。(これらについては、[[母性]]・[[父性]]の項を参照されたい。)
 
 
 
==性と愛==
 
性的な愛、あるいは愛と性をまとめて扱う場合に「[[性愛]]」という言葉が使われる例もある。なお、「愛」という言葉は、文脈・状況によっては性交そのものを指す例もある(「いっぱい愛して」など)。
 
 
 
[[文鮮明]]は、「真の愛は直短距離([[生殖器]])を通る。」と言った。
 
 
 
[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]は、あらゆる形式の愛が性への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているのであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない<ref>平凡社 哲学事典</ref>。
 
フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.Hロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる<ref>平凡社 哲学事典</ref>。(生殖とは、生物の個体が自己の体の一部を基として自己と同じ種類の別の個体を生じる現象をいう。個体にはそれぞれだいたい一定の寿命があって死滅するが、生殖によって種属の絶滅がふせげる。生物には個体維持の本能とともに生殖を全うしようとする種属保存の本能があり、両者を生物の二大本能という。生じた個体はその基となった個体とかならずしも同似ではないが、一定の世代数をへて同似のものにもどる。<ref>平凡社 哲学事典</ref>)
 
 
 
==恋と愛==
 
{{出典の明記|section=1|date=2011年8月}}
 
[[Image:The Kiss - Gustav Klimt - Google Cultural Institute.jpg|thumb|240px|[[接吻 (クリムト)|接吻]] (''The Kiss'') - [[グスタフ・クリムト]] (Gustav Klimt)]]
 
 
 
男女間・([[同性愛]]者における)同性間の愛は、日本語においては'''恋'''という特別な言葉でも表現できる。愛とほぼ同じ意味で使われることも多い。しかし、恋は必ずしも人間に対してのみ持つ感情ではない。植物、土地、歴史等を恋しく思う場合にも用いられる。
 
 
 
恋と愛の両方を英語ではLoveと表現する。英語におけるLoveと日本語における恋と愛はイコールではない。これは両言語を用いる各種族の歴史観、宗教観、思想の相違による。日本語において「ラブ」「Love」は若者の言語や芸術では恋、愛両方を表す言葉として頻繁に用いられている。
 
 
 
プラトンによると愛 erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能な限り無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものから新しいものをのこしていくことによって可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラブはもとこのような善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動である。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えるものでもない<ref>平凡社 哲学事典</ref>。
 
 
 
サルトルによれば、情動émotionとしての怒りは非反省的意識であるのに対して、情動passonとしての憎しみは、情動に向けられた反省的意識によって構成された超越的対象である。憎しみは、怒りや反発など無数の意識に対する過去および未来にわたる一つの信任であり、これらの無数の意識の超越的統一である。しかし、日常の不純な反省にあっては、「私がかれに反発するのは憎いからだ」とこの関係は逆転され、憎しみは怒りや反発が流出する源としてとらえられる。<ref>平凡社 哲学事典</ref>
 
 
 
プラトンは、エロスは神々と人間との中間者であり、つねに欠乏し、美しいものをうかがい、智慧を欲求する偉大な精霊(ダイモン)であるという。生殖の恋も愛智としての恋も、ともに不死なるものの欲求である。恋の奥義は地上の美しいものどもの恋から出発して、しだいに地上的なるものを離れ、ついに永遠にして絶対的な美そのものを認識するに至ることにある<ref>平凡社 哲学事典</ref>。
 
 
 
<!--独自研究。まず愛を主題にした出典を用意して、<ref>で出典と論者名を明記して、中立的に記述するべし。
 
 
 
「{{要出典範囲|男女間、あるいは同性間の恋については、様々な要因が引き金となって始まると思われる」と指摘した人がいる{{誰2|date=2011年8月}}{{いつ|date=2011-8}}。{{要出典範囲|要因の1つに、10代における身体の性的な成熟がある。この感情が芽生えるまでの少年少女の時期、彼ら彼女らにとって社会や人間関係は未知の世界であると言われている|date=2011-8}}{{誰2|date=2011年8月}}。この感情が芽生えると、寝ても覚めても相手のことで頭がいっぱいになったり、相手との人間関係を普通とは違う特別なものだと感じるようになったりする。人間以外の動物間にもこの感情が芽生えるかどうかについては不明。恋が起こるのには人によってそれぞれの「きっかけ」があり、そのきっかけは人の人生においてとても大事なものになる場合がある。{{要出典範囲|恋愛は結果に関わらず人間性を成長させる要素となる。|date=2011年8月|title=人間性の成長というのが抽象的すぎるので具体的に。あと、児童虐待やDVを行っているのは恋愛で「人間性を成長させ」たはずの人間であることからすればこの主張は明らかに誤りのように見えるが。}}
 
-->
 
[[File:Emblem-favorites.svg|thumb|180px|[[ハート (シンボル)|ハート]]]]
 
 
 
==脚注==
 
===注釈===
 
<references group="注"/>
 
 
 
===出典===
 
<references/>
 
 
 
==参考文献==
 
*[[スコット・ペック]]『愛と心理療法』[[創元社]]、1987年、ISBN 4422110837。
 
*[[エーリヒ・フロム]]『[[愛するということ (エーリヒ・フロム)|愛するということ]]』[[紀伊國屋書店]]、1991年、ISBN 4314005580。
 
* ドニ・ド・ルージュモン『愛について – エロスとアガペ』平凡社、1993年、ISBN 978-4582760149。
 
*[[ジョーン・ボリセンコ]]『愛とゆるしの心理学』[[日本教文社]], 1996年、ISBN 4531080971。
 
*[[飯田史彦]]『愛の論理』[[PHP研究所]], 2000年、ISBN 4569612172。
 
* ジャック・アタリ『図説「愛」の歴史』原書房、2009年、ISBN 978-4562045044。
 
* カーター・リンドバーグ『愛の思想史』教文館、2011年、ISBN 978-4764218550。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{sisterlinks|commons=category:Love|commonscat=Love}}
 
* [[エロス]]
 
* [[フィリア]]
 
* [[アガペー]]
 
* [[信頼]]
 
* [[同情]]
 
* [[嫉妬]] - 恋愛は嫉妬を生む。
 
* [[性]]
 
* [[自体愛]]
 
* [[エクスタシー]]
 
* [[プラトニック・ラブ]]
 
* [[動機]]
 
 
 
* [[恋愛]]
 
* [[性愛]] - 極度に情愛の高まった男女間・異性間が達する。
 
* [[感情の一覧]]
 
* [[愛染明王]]:愛欲にかかわる[[明王]]
 
* [[アイルランド]] - '''愛'''はアイルランドの漢字表記の略称でもある。
 
* [[あ]][[い]] - [[日本]]国で主に使われる[[日本語]]で標準的に用いられる[[平仮名]]と[[片仮名]]は、この2文字から始まる。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[{{NDLDC|824003/1}} 『愛を論ず』]([[1894年]]文献)[[国立国会図書館]]
 
{{IEP|love|Philosophy of Love|愛の哲学}}
 
{{SEP|love|Love}}
 
  
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愛は人間の根源的感情として,全人類に普遍的であり,人格的な交わり,あるいは人格以外の価値との交わりを可能にする力である。ときに憎しみの対立概念とみなされることがあるが,根源的な生命的原理としては,それをも包括するものである。愛は歴史的に,地理的に,さらには交わりの形において諸相をとる。古代ギリシアにおける愛は[[エロス]]と呼ばれ,これは肉体的な愛からさらに真理へいたろうとする憧憬,衝動を含んでいる。キリスト教における愛すなわち[[アガペー]]は,人格的交わり (隣人愛) と神への愛を強調し,これを最高の価値として自己犠牲により到達されるとした。ルネサンスにおいて愛は再び人間謳歌の原動力ともみなされたが,これは愛の世俗化を意味するものともみられ,工業化の進む現代はその傾向をますます強めている。愛は人間の根源的感情であるところから,ヒンドゥー教での[[カーマ]],儒教における[[仁]],仏教における[[慈悲]]などすべての文化圏にもみられる。また愛の現れ方は一様ではなく,性愛や友愛,愛国心,家族愛など交わりの諸相によって異なる。交わりの関係がかたよった場合には,異常性愛や憎しみに近い偏執的愛に変ることもあるが,これはもはや本来的な愛とはいえない。
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2018/10/25/ (木) 17:26時点における最新版

(あい、: love: amour

愛は人間の根源的感情として,全人類に普遍的であり,人格的な交わり,あるいは人格以外の価値との交わりを可能にする力である。ときに憎しみの対立概念とみなされることがあるが,根源的な生命的原理としては,それをも包括するものである。愛は歴史的に,地理的に,さらには交わりの形において諸相をとる。古代ギリシアにおける愛はエロスと呼ばれ,これは肉体的な愛からさらに真理へいたろうとする憧憬,衝動を含んでいる。キリスト教における愛すなわちアガペーは,人格的交わり (隣人愛) と神への愛を強調し,これを最高の価値として自己犠牲により到達されるとした。ルネサンスにおいて愛は再び人間謳歌の原動力ともみなされたが,これは愛の世俗化を意味するものともみられ,工業化の進む現代はその傾向をますます強めている。愛は人間の根源的感情であるところから,ヒンドゥー教でのカーマ,儒教における,仏教における慈悲などすべての文化圏にもみられる。また愛の現れ方は一様ではなく,性愛や友愛,愛国心,家族愛など交わりの諸相によって異なる。交わりの関係がかたよった場合には,異常性愛や憎しみに近い偏執的愛に変ることもあるが,これはもはや本来的な愛とはいえない。




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