惟康親王

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惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王嫡男

生涯

相模国鎌倉に生まれる。文永3年(1266年)7月、宗尊親王が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。今日では宮将軍の一人として惟康親王と呼ばれることが多いが、実は将軍在職期間の大半を源惟康すなわち源氏将軍で過ごしていた[1]。これは、当時の蒙古襲来元寇)という未曽有の事態に対する、執権北条時宗による政策の一環であったとされ、時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、将軍・源惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は北条義時を自称する[2]ことで、御家人ら武士階級の力を結集して、に勝利することを祈願したのだという[3]弘安2年(1279年) の正二位への昇叙、弘安10年(1287年)の右近衛大将への任官はいずれも源頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕府の政治を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える。

弘安7年(1284年)に時宗は死去するが、その後も安達泰盛平頼綱が時宗の遺志を受け継ぎ、頼綱政権下の同10年(1287年)に惟康は右近衛大将となって「源頼朝」の再現が図られた。しかし、わずか3ヶ月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下がなされ、惟康親王と名乗ることとなった[4]。これは、北条氏(執権は北条貞時)が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康の追放の下準備を意図したものであったらしく、26歳となった正応2年(1289年)9月には将軍職を解任されに戻された。『とはずがたり』によれば、鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中をで包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる。同年12月に出家

嘉暦元年(1326年)10月30日薨去享年63。

官歴

※日付=旧暦

将軍在職時の執権

系譜

以下に示す通り、惟康は源義朝の女系子孫、更に言えば源頼朝同母妹の子孫にあたる。正元2年(1260年2月5日、第5代執権・北条時頼(時宗の父)は京より近衛宰子を猶子に迎え、将軍・宗尊親王の御息所として備えた[6]が、宰子が宗尊親王に嫁げば、その間に生まれる子も義朝の血筋をひくことになるので、時頼がこのことを宮将軍の正統性を下支えする要素として重視していた可能性がある[7]

登場作品

脚注

  1. 惟康は、23年に及ぶ将軍在任期間のうち、王族として4年5ヶ月、源氏として16年9ヶ月、親王として2年弱を過ごした(細川、2007年、P.102)。
  2. 『若狭国税所今富名領主代々次第』(『群書類従』第四輯所収)には、時宗について号徳崇(徳崇は義時の追号とされる)と記している(細川、2007年、P.98)。
  3. この政策については、足利家時伊予守に任じられたのを、蒙古襲来に対して「治承・寿永の乱における軍事統率者および勝利者である源義経」の再現を意図したものであるとする別の見解も出されている(前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、初出は阿部猛 編『中世政治史の研究』、日本史史料研究会、2010年))。
  4. 以上に示した内容は、細川重男の見解(同氏「右近衛大将源惟康」)に基づくものである。
  5. 本朝皇胤紹運録』『尊卑分脈』『諸門跡傅』では宗尊親王の子および久明親王の子として両方に記載がある。『天台座主記』『僧官補任』では久明親王の子とする。
  6. 吾妻鏡』同日条。 正元二年二月小五日癸夘。晴。酉剋。故岡屋禪定殿下兼經公御息女御年二十爲最明寺禪室御猶子。御下着。則入御山内亭。是可令備御息所給云々。
  7. 山本、『紫苑』第9号 P.54。

参考文献・論文

  • 細川重男 「右近衛大将源惟康―得宗専制政治の論理―」(同氏『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)第四章に所収、初出は『年報 三田中世史研究』9号、2002年)
  • 山本みなみ 「近衛宰子論 ―宗尊親王御息所としての立場から―」(『紫苑』第9号、2011年、京都女子大学 宗教・文化研究所ゼミナール)  ※PDF版はこちらより。

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