「徳川頼房」の版間の差分

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'''徳川 頼房'''(とくがわ よりふさ)は、[[常陸国|常陸]][[水戸藩]]の初代藩主。[[水戸徳川家]]の祖。[[徳川家康]]の十一男。母は[[養珠院]](お万の方)。
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'''徳川 頼房'''(とくがわ よりふさ)
 
 
== 生涯 ==
 
[[1603年]]([[慶長]]8年)、[[伏見城]]にて生まれる。[[1606年]](慶長11年)9月23日、3歳にして常陸[[下妻城]]10万石を、次いで[[1609年]](慶長14年)12月12日、兄の頼将([[徳川頼宣|頼宣]])の[[駿河国|駿河]]転封によって新たに常陸[[水戸城]]25万石を領したが、幼少のため[[駿府城]]の家康の許で育てられた。[[水戸徳川家]]の[[石高]]は兄[[徳川義直|義直]]の[[尾張徳川家]]、頼宣の[[紀州徳川家]]の半分にも満たなかった。その理由として「常陸水戸徳川家譜」は、家康が天守閣から飛び降りれば好きなものをやるといい、3人に欲しい物を聞いたところ頼房が「天下が欲しい。その後どうなろうと、飛び降りて地面に着くまでの間、天下人でいられれば武士として最高の栄誉」と答えたことから、乱を起こすおそれがあると家康に疎まれたことを挙げている<ref>得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、34-35頁</ref>。また、『南紀徳川史』では頼房が徳川姓を許されたのは[[1636年]]([[寛永]]13年)とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、同母兄・頼宣の分家とみなされていたという説もある<ref>『幕府祚胤伝』では、1609年(慶長14年)の従四位下左衛門督叙任の時に徳川氏を称したとある。</ref>。[[1610年]](慶長15年)7月、家康の命により、実子[[市姫]]を亡くした[[英勝院]](お梶の方)の養子となる。[[1611年]](慶長16年)には[[元服]]、頼宣と同様に[[清和源氏]]の[[通字]]の一つである「'''頼'''」の字を用いて'''頼房'''と名乗った。[[1614年]](慶長19年)、[[大坂の役|大坂の陣]]では駿府城を守備した。
 
 
 
家康の死後、駿府から江戸に移ったのちもしばらく水戸藩領には赴かず、[[1619年]](元和5年)10月、17歳のとき初めて就藩した。しかし2か月後の12月江戸に帰り、次の就藩は[[1625年]](寛永2年)である。江戸と領地を往復している兄の義直や頼宣と異なり、青年時代のほとんどを江戸で過ごした。これは秀忠が、頼房の1歳下の次期将軍・[[徳川家光|家光]]の年齢の近い身内として、学友的な立場に置いておこうとしたためという説がある。一方で『水戸紀年』には、若年の頃の頼房が異様な衣服や刀を纏い、行儀や節度のない振る舞いがあり、幕府が附家老[[中山信吉]]を呼んで譴責を加えようとしたので、中山信吉が命を懸けて諌言し改めたという話が残っている。
 
 
 
[[1626年]](寛永3年)家光の上洛に同行し、8月19日、[[従三位]][[権中納言]]となったが、同日、[[加賀藩]]主・[[前田利常]]や[[薩摩藩]]主・[[島津忠恒|島津家久]]、[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]主・[[伊達政宗]]も従三位権中納言となったことに不満を持ったため、翌年早々に[[正三位]]に昇叙する。これ以後、同家は三位権中納言となった。
 
 
 
[[1625年]](寛永2年)から[[1630年]](寛永7年)まで、寛永3年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町造営、さまざまな法令を定め、城下の整備を行った。しかし[[1631年]](寛永8年)、大御所秀忠が病となり(翌年1月死去)、将軍・家光の親政となると、頼房の就藩は途切れがちになり、家光死去の[[1651年]]([[慶安]]4年)までの17年間、就藩はわずか3回となっている。この事が先例となり、水戸藩主は基本的に江戸常住である[[定府]]となった。[[1630年]](寛永10年)6月、家光が英勝院を通じて、「其方之御事は別而心安思候まま心中をのこさす万談合申事に候、兄弟有之候而もやくにたたす候間、此上は其方を兄弟同前に思候まま、弥万事其心得可有候(そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい)」との書状を送っている([[彰考館徳川博物館]]所蔵)。当時、家光の弟は2人いたが、実弟の[[徳川忠長]]は改易となり高崎に幽閉中であり、異母弟の[[保科正之]]は養子先の[[高遠藩]]3万石を継いでまだ2年目であった。一方、尾張藩主の義直や紀州藩主の頼宣には、かつて謀反の疑いがかけられるなど溝があった。こうしたことから、家光は頼房を頼りになる身内として江戸に常住させたようである。水戸藩主が俗に“[[副将軍]]”と称する論拠となった。
 
 
 
[[1661年]]([[寛文]]元年)、水戸に就藩中に病となり、水戸城にて死去した。
 
 
 
== 官職および位階等の履歴 ==
 
※日付=旧暦
 
*[[1606年]]([[慶長]]11年)9月23日、常陸国下妻10万石を与えられる。
 
*[[1609年]](慶長14年)1月5日、従四位下左衛門督。12月22日、常陸国水戸25万石に転封。
 
*[[1611年]](慶長16年)3月20日、正四位下左近衛権少将。某月某日、[[元服]]。'''松平頼房'''と称する。
 
*[[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年)7月、左近衛権中将
 
*[[1620年]](元和6年)8月21日、参議。左近衛権中将如元。
 
*[[1622年]](元和8年)10月、3万石加増
 
*[[1626年]]([[寛永]]3年)8月19日、従三位権中納言
 
*[[1627年]](寛永4年)1月7日、正三位
 
*[[1636年]](寛永13年)7月、徳川賜姓
 
 
 
== 就藩 ==
 
下妻藩…就藩なし
 
 
 
水戸藩…計11回。
 
:※日付=旧暦
 
*[[1619年]](元和5年)10月就藩。同年12月帰府。
 
*[[1625年]](寛永2年)就藩、同年12月帰府。
 
*[[1627年]](寛永4年)7月就藩。同年12月帰府。
 
*[[1628年]](寛永5年)10月就藩。同年12月帰府。
 
*[[1629年]](寛永6年)11月就藩。同年12月帰府。
 
*[[1630年]](寛永7年)10月就藩。同年12月帰府。
 
*[[1635年]](寛永12年)8月就藩。同年12月帰府。
 
*[[1642年]](寛永19年)11月就藩。翌年3月帰府。
 
*[[1648年]](慶安元年)10月就藩。翌年4月帰府。
 
*[[1657年]](明暦3年)2月就藩。翌年1月帰府。
 
*[[1661年]](寛文元年)2月就藩。7月死去。
 
 
 
== エピソード ==
 
*頼房の時代、水戸藩では[[武家奉公人|中間]]が刀を差すことを許されていなかった。ある日、[[武家奉公人|中間]]の茂兵衛が献上鮭<ref>水戸藩では、城下の那珂川で捕れる[[初鮭]]を将軍家と朝廷に献上するのが慣わしとなっていた。</ref>を京都に運ぶ公用の途中、[[岡部宿]]で十数人の旗本たちにからまれ道を塞がれた。茂兵衛は「公用であるから」と道を譲ってくれるよう頼んだが、旗本たちは刀を抜いて脅し通さなかった。そのため、茂兵衛はやむなく素手で立ち向かい旗本数人を叩き伏せたあと槍で刺され壮烈な討ち死を遂げた。頼房は茂兵衛の忠勇を讃え、遺体を手厚く葬るとともに記念碑を建て、以後公用に限り[[武家奉公人|中間]]が脇差を帯びることを許可した。
 
*死の直前、世子光圀を通し、家来の[[殉死]]を止めさせるよう遺言した。4代将軍[[徳川家綱|家綱]]は頼房の死後、殉死禁止令を出した。
 
*徳川宗家の現当主・[[徳川恒孝]]は、頼房の男系子孫にあたる。
 
*自身[[香道]]に優れ、香道に関する著書を為したとされるが、伝存しない。
 
*頼房は生涯正室を迎えなかったが、何人かの側室から十一男十五女と子を多くもうけ、男子は高松藩を筆頭に多くの支藩に分かれた。そのおかげで、水戸藩は幕末に至るまで他家からの養子を一切迎えず、藩祖頼房の血統を守り抜いた。逆に水戸本家や支藩から他家へ養子に行く者が多かったので、頼房の血筋は更に広がり、幕末に活躍した[[徳川慶勝]]、[[松平容保]]・[[松平定敬|定敬]]などの高須四兄弟は頼房の男系子孫である。
 
 
 
== 系譜 ==
 
*側室:[[久昌院|久]](谷氏・久昌院・谷重則の娘)
 
**長男:[[松平頼重]](1622年 - 1695年) - 連枝[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]初代藩主
 
**三男:[[徳川光圀]](1628年 - 1700年) - 水戸藩2代藩主
 
*側室:勝(佐々木氏・円理院・佐々木政勝の娘)
 
**長女:通子(恵了院)(1624年 - 1664年) - 右大将権大納言・[[松殿道基|松殿道昭]]と婚約
 
**次男:亀丸(1625年 - 1628年)
 
**次女:万(長寿院)(1627年 - 1689年) - 家臣・[[太田資正(水戸藩家老)|太田資正]]室
 
**五女:菊(芳園院)(1628年 - 1706年) - 家臣・[[松平康兼]]室
 
**四男:[[松平頼元]](1629年 - 1693年)
 
**七男:[[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平頼雄]](1630年 - 1697年) 
 
**十女:千(1635年 - 1681年) - 家臣・[[真木景信]]室
 
**女:松(生没年不詳)
 
*側室:耶々(藤原氏・寿光院・[[興正寺]]十八世[[准尊]]昭玄の娘)
 
**三女:棄(1627年 - 1631年)
 
**六女:[[英勝寺#水戸徳川家からの歴代住持|小良]](1628年 - 1717年) - [[英勝寺]]初代住持・玉峯清因尼
 
**五男:[[松平頼隆]](1629年 - 1707年) 
 
**八男:[[松平頼泰]](1631年 - 1717年)
 
**七女:利津(光耀院)(1632年 - 1711年) - 家臣・[[山野辺義堅]]室
 
**十一男:[[鈴木重義 (雑賀鈴木家)|鈴木重義]](1634年 - 1668年) - 家臣・[[鈴木重次]]養子
 
*側室:喜佐(野沢氏・玉宝院)
 
**四女:[[清泰院 (前田光高正室)|大姫]](清泰院)(1627年 - 1656年) - [[徳川家光]]養女・[[前田光高]]室
 
*側室:玉(三木氏・証真院・播州光善寺長然の娘、[[三木之次]]の姪)
 
**六男:[[松平頼利]](1630年 - 1674年)
 
*側室:愛(丹波氏・厚善院・従四位下典薬頭丹波頼房の娘)
 
**九男:[[松平頼以]](1631年 - 1664年)
 
**十男:[[松平房時]](1633年 - 1682年)
 
*側室:俊(某氏・長松院・系譜不明)
 
**八女:布里(青松院)(1633年 - 1667年) - [[本多政利]]室
 
**十一女:竹(1636年- 1637年)
 
**十二女:梅(浄雲院)(1638年 - 1697年) - 家臣・[[宇都宮隆綱]]室
 
*側室:七(大井田氏・真善院・大井田義能の娘)
 
**九女:犬(1634年 - 1675年) - [[松平頼重]]養女・[[細川綱利]]室
 
**十三女:市(清雲院)(1639年 - 1690年) - 家臣・[[酒井忠治 (江戸時代前期)|酒井忠治]]室
 
*側室:幾都(高野氏・覚真院・高野清兵衛の娘)
 
**十五女:那阿(松寿院)(1649年 - 1709年) - 家臣・[[伊藤友玄|伊藤友次]]室
 
*
 
**養女:虎(珠光院)([[養珠院]]の妹婿田代信秀六女、[[鈴木重政]]室、のちに離縁)
 
**落胤説:[[大久保公忠]]([[高松藩]]大老)
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[松平忠昌]] - 頼房と同じく英勝院の養子となり、頼房の後に下妻藩主となる。
 
*[[武佐 (徳川頼房乳母)]]
 
 
 
 
 
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江戸時代前期,初代[[水戸藩]]主。家康の 11男。母は於万の方。死後,威公と呼ばれた。慶長 14 (1609) 年水戸 25万石を領したが,のち 28万石に加増。[[御三家]]の一つ水戸藩の基礎を築いた。大坂夏の陣に出陣。参議左中将から権中納言。
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2018/10/17/ (水) 23:20時点における最新版

徳川頼房
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 慶長8年8月10日1603年9月15日
死没 寛文元年7月29日1661年8月23日
常陸下妻藩主→常陸水戸藩
氏族 徳川氏徳川将軍家水戸徳川家

徳川 頼房(とくがわ よりふさ)

江戸時代前期,初代水戸藩主。家康の 11男。母は於万の方。死後,威公と呼ばれた。慶長 14 (1609) 年水戸 25万石を領したが,のち 28万石に加増。御三家の一つ水戸藩の基礎を築いた。大坂夏の陣に出陣。参議左中将から権中納言。



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