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{{Otheruses|秦の始皇帝に仕えた方士|後漢・三国時代の人|徐庶}}
 
[[画像:Jofuku park03bs1600.jpg|180px|thumb|徐福像(新宮市[[徐福公園]]内)]]
 
'''徐 福'''(じょ ふく)は、[[中国]]の[[秦|秦朝]]([[紀元前3世紀]]頃)の[[方士]]<ref>[[方術]]に秀でた者・学者。</ref>。[[田斉|斉]]国の[[琅邪郡]](現在の[[山東省]][[臨沂市]]周辺)の出身。別名は'''徐巿'''<ref>'''巿'''(ふつ)は「'''一'''」と「'''巾'''」から成り、'''市'''(いち)は「'''亠'''」+「'''巾'''」から成る別の字である。</ref>(じょふつ)。
 
  
== 『史記』による記述 ==
+
'''徐 福'''(じょ ふく)
[[司馬遷]]の『[[史記]]』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、[[秦]]の[[始皇帝]]に、「東方の三神山に'''長生不老'''([[不老不死]])の[[霊薬]]がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、[[五穀]]の種を持って、東方に船出し、「'''平原広沢'''(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
 
{{Quotation|又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。|{{Cite book|和書|author=司馬遷|title=史記|volume=巻118|chapter=淮南衡山列伝|url=https://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7118}}}}
 
  
東方の三神山とは渤海湾の先にあるとされる島で[[神仙]]が住むとされ、[[蓬莱]]・[[方丈]]・[[瀛州]](えいしゅう)のことである。蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺ともいい、あわせて「三壺」ともいう。のち日本でも広く知られ、『[[竹取物語]]』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。<ref name="宮崎2005">{{Cite book|和書|author=宮崎正勝|authorlink=宮崎正勝|year=2005|month=9|title=海からの世界史|series=角川選書 383|publisher=角川学芸出版|page=68|isbn=4-04-703383-9}}</ref>。蓬莱や瀛州はのちに[[日本]]を指す名前となった<ref name="宮崎2005" />。瀛州は「[[東瀛]](とうえい)」ともいう。[[魏晋南北朝時代]]の[[487年]]、「瀛州」は、行政区分として制定される。
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中国,秦代の方士 (ほうし) 。徐市 (じょふつ) ともいう。秦の始皇帝の命で童男童女数千人を連れて,海中の三神山に不死の薬を捜しに出かけたという。しかし,三神山は発見できず,日本の紀州へ上陸した,といわれてその記念碑が現存し,連れて行った童男童女から生れた子孫が日本民族である,という説すらあるが,いずれも後世の伝説にすぎない。
 
 
同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている<ref name="原田2007">{{Cite book|和書|author=原田実|authorlink=原田実|year=2007|month=6|title=トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-02751-7|pages=pp. 102-107 }}</ref>。現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたものである。
 
 
 
== 出航地 ==
 
[[File:Jo-Fuku.jpg|220px|thumb|『列仙酒牌』より]]
 
出航地については、現在の[[山東省]]から[[浙江省]]にかけて諸説あるが、紀元前219年の第1回出航は[[河北省]][[秦皇島]]、第2回の紀元前210年の出航では浙江省[[寧波市]][[慈渓市]]<ref>慈渓市は寧波市の中にある[[市中市]]である。</ref>が有力とされる。途中、現在の[[大韓民国|韓国]][[済州道]][[西帰浦市]]<ref>地名の由来は「徐福が西([[中国大陸]])に帰って行った港」との説もある。</ref>(ソギポ市)や[[朝鮮半島]]の西岸に立寄り、[[日本]]に辿り着いたとされる。
 
 
 
== 伝承 ==
 
=== 日本における伝承 ===
 
日本各地に徐福ゆかりの伝承が残されており、それらは[[鹿児島県]][[出水市]]、[[いちき串木野市]]、[[佐賀県]][[佐賀市]]、宮崎県[[延岡市]]、[[京都府]][[伊根町]]、[[広島県]][[廿日市市]]、[[和歌山県]][[新宮市]]、[[三重県]][[熊野市]][[波田須町]]、[[愛知県]][[一宮市]]、愛知県[[豊川市]]、[[長野県]][[佐久市]]、[[山梨県]][[富士吉田市]]、東京都[[八丈島]]、[[秋田県]][[男鹿市]]、[[青森県]][[中泊町]]と、北は青森県から南は鹿児島県に至るまで全国に及ぶ<ref>{{Cite journal|和書|author=荒井保男|authorlink=荒井保男|year=2002|month=3|title=医のことば:その百二十四:徐福|journal=新薬と治療|volume=52|issue=3|pages=46-48|publisher=山之内製薬|issn=0559-8664|url=http://med2.astellas.jp/med/jp/pr_magazine/shinyaku/pdf/436_46.pdf|format=PDF}}</ref><ref>『日本に生きる徐福の伝承』山本紀綱 1979 謙光社</ref>。
 
 
 
徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、[[蘇我馬子]]が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。阿須賀神社の別宮には古くから徐福が祀られています。また、金立神社に農耕・養蚕・医薬の神として祀られています。
 
 
 
また、京都府の[[丹後半島]]にある伊根町も、徐福上陸の地と伝えられ、町内の[[新井崎神社]]付近は[[菖蒲]]や黒節の[[よもぎ]]などの薬草が自生していて、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。先進的な文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で[[麻疹]]が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福の神を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。現在も徐福が祀られている新井崎神社に伝わる古文書『[[新大明神口碑記]]』に、徐福の事が記されている。<ref>丹後建国1300年記念事業実行委員会『丹後王国ものがたり 丹後は日本のふるさと』2013年、50頁</ref>。
 
 
 
<!--徐福が茶を運んだとされる中国茶は、別名埼玉茶であるが、自生種と言われ商業には適さず畑のあぜ道に境界として留めている。鎌倉に上陸した栄西上人が運び込んだのは抹茶用の宇治茶の品種である。徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられる。中国の御茶の原木(プーアル茶やウーロン茶そして紅茶の葉は中国茶の品種である)と埼玉の中国茶とDNA鑑定の照合をすれば、徐福が持ち込んだことが証明される。
 
 
 
静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術を伝来させている。天女のような羽衣が駿河の浜で銀の柄杓で水を汲んでいたと竹取物語に記述があるが、絹の透けた着物を織ることができたからである。徐福の一族の女官の着物姿のことを指していると言えよう。
 
 
 
-->八丈島に童男、童女を五百人づつ別々に乗船させてきて、離れた島に童男を着けたと郷土史資料館に記述がある。<!--男の島までの距離はおよそ1000mである。泳いで渡れる距離であった。両島の北西に船を着床させられる岩棚が唯一存在する。陰暦の七夕の日に南風が吹き、その風に乗れば相模湾まで航行可能である。王子と姫を幽閉させさせて三年後に秦始皇帝は暗殺され、八丈島は見捨てられたのである。牢屋番の宦官が死ぬと、伊豆七島づたいに本島に移り住んだのである。
 
 
 
当時の造船技術は進んでいた、長さ120m幅20mである。木材は鉄木という堅木を使う。亜熱帯のフィリッピンに自生する船舶用の木材である。比重は重く水に浮くことはない。腐りにくく船のキール材に使われる。また当時の船は腐敗し存在しないが、徐福が最初の航海で渤海航路を使って帰路に着いた証拠として、アムール川の河川敷きから数百メートル離れたところに長さ120m幅20mの木造船の遺構が衛星写真で確認ができる。地形が隆起したために腐敗を免れたのである。
 
 
 
逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であると推理して間違いはないであろう。遺構から漁具や水深測量の石球が出土している。中国の徐福村の出土品と形状が酷似している。横須賀市郷土資料館に保存されている。逗子市小坪から古代帆船の石碇が出土している。逗子市教育委員会管理。-->
 
 
 
徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ」という植物が自生する。フロフキは、[[カンアオイ]](寒葵)の方言名で地元では俗に「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。
 
 
 
徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須からは、2200年前の中国の硬貨である[[半両銭]]が発見されている。[[波田須駅]]1.5kmのところに[[徐福ノ宮]]があり、徐福が持参したと伝わる[[すり鉢]]をご神体としている。
 
 
 
徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある<ref>『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』長野県佐久市教育委員会全434中27P昭和53年11月15日発行</ref>。
 
 
 
徐福に関する伝説は、[[中華人民共和国|中国]]・日本・韓国に散在し<ref name="前田2003">{{Cite book|和書|author=前田豊|authorlink=前田豊|year=2003|month=2|title=消された古代東ヤマト 蓬莱の国東三河と徐福|publisher=彩流社|isbn=4-88202-790-9|page=103}}</ref>、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『[[富士文献]]』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、[[漢語]]と[[万葉仮名]]を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり<ref name="前田2003" />、また徐福の来日した年代が、『[[海東諸国記]]』の[[孝霊天皇]]の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。ただし、宮下文書はいわゆる「[[古史古伝]]」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で[[俗文学]]の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。
 
 
 
=== 中国における伝承 ===
 
[[三国志]]の[[呉]]の[[孫権]]は東の海上にある夷州と亶州を征服しようとして水軍を送り込んだが敗北した。亶州は秦の徐福が住み着いてその子孫が暮らし、住民は会稽郡東冶県に時々は交易にきていたという。夷州は今の台湾という説があり、亶州は海南島説・ルソン島説・沖縄説・種子島説・日本説・済州島説がある。
 
 
 
[[釈義楚]]の[[義楚六帖]]には、徐福が富士山に漂着したことが記され,顕徳五年(958)日本僧[[弘順大師]]が、“ 徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し。”と伝えたとあります。<ref>山本紀綱『徐福渡来伝説考』謙光社、1975;『日本に生きる徐福の伝承』』謙光社1979</ref>
 
 
 
[[北宋]]の政治家・[[詩人]]である[[欧陽脩]]の『[[日本刀歌]]』には「'''{{lang|zh-hant|其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧}}'''」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。
 
<!--
 
秦記30年の年 徐福たちが逃亡に成功した年である。資治通鑑と史記の記述は、その年は何も記することが無かった。と記されているが、資治通鑑は女たちは黒衣を着て喪に服していた。これは、徐福たちが集団でエスケープしたために、残された老人たちや男たちが逃亡幇助の罪で殺害された事を意味しているのである。そして秦記の汚点になるので記載をしなかったのである。
 
-->
 
 
 
=== 朝鮮における伝承 ===
 
[[朝鮮半島]]で書かれた『[[海東諸国記]]』には、[[孝霊天皇]]の時に不老不死の薬を求めて[[日本]]の[[紀伊国|紀州]]に来て、そして[[崇神天皇]]の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。
 
<!--
 
徐福達が最初の航海のとき、帰路について渤海航路で上陸し徒歩または朝鮮で調達した馬車で秦国までもどる。そのときの記載の可能性が高いのである。
 
-->
 
 
 
== その他・現在 ==
 
[[1982年]]に、中国において『中華人民共和国地名辞典』編纂の際の調査において、[[江蘇省]][[連雲港市]][[カン楡県|贛楡県]][[金山鎮]]にある徐阜という村が[[清]]の[[乾隆帝]]の時代以前に「徐福村」と呼ばれており、徐福にまつわる伝承や遺跡があることが判明した<ref name="宮城谷2001">{{Cite book|和書|author=[[宮城谷昌光]]ほか|year=2001|month=|title=異色中国短篇傑作大全|series=講談社文庫|publisher=講談社|isbn=4-06-264970-5|page=146}}</ref>。ただし、[[1980年代]]になるまでは、現地の旧家では「明代になって先祖がこの地に移住した」との伝承がなされていたことと、徐福の実在性自体が疑わしいことから、これは「日本からの観光客を狙った村おこしではないか」との指摘がなされている<ref name="原田2007" />。実際、徐阜村では日本人観光客が多く訪れ、名物「徐福茶」も好評とのこと。
 
 
 
また徐福が出航したとされる候補地の一つ、慈渓市では[[2000年]][[3月30日]]に「徐福記念館」が開館したことを契機に日本の徐福研究者や縁者との交流が始まり、翌[[2001年]]秋には同市[[三北鎮]]文宛南路に「徐福小学」が開校した(なお、同校の[[揮毫]]は徐福の末裔と主張<ref>{{Cite web|date=2007-11-20|url=http://news.cri.cn/gb/12764/2007/11/20/2945@1847927.htm|title=日前首相羽田爱穿中山装|publisher=[[中国国際放送]]|accessdate=2018年4月19日}}</ref>する[[日本徐福会]]名誉会長で[[内閣総理大臣]]も務めた[[羽田孜]]が行った<ref>{{Cite book|和書|author=鳥居貞儀・徐福友好塾|authorlink=鳥居貞義|year=2005|month=12|title=徐福さん 伝承地に見る徐福像と徐福伝説|publisher=ネスト企画||page=171}}</ref>)。
 
 
 
<!--
 
伝説や民話の枠から出れないのは、確たる証拠が無いからである。鎌倉湘南地域の世界遺産エントリーで科学的証拠が雄弁に語るものがある。船で渡来したのであるから、船の残骸があっても良い、また多数の船であるから、漂流したり難破するものもある。湘南地域に出土する丸石がその物的証拠になる。横須賀市のくるわ海岸に「子産石」という碑がある。実は難破船のウエイトである。同じ石が数千個も八丈島に石垣として現存する。火山土壌の島に化石を含んだチャート岩があるのは持ち込まれたからである。その石とは、徐福がつれてきた少年500人と少女500人を乗船させた船のものである。徐福は斉国人であり、時の皇帝は秦始であった。全七国の六国をすべて平定し、各王や姫は打ち首とした。その際に女官は土地の豪族に払い下げたのである。その女官の腹の中には敗北した王の子供が宿っていたのである。生まれた子供は15歳から赤子まですべて各王の直系である。その子達は生かしておいたら秦始は敵として刺客になる。殺せば農民の反乱にあう、そこで徐福を呼んで東方の蓬莱に幽閉するように命じたのである。黄色の絹織物を姫に織らせ献上品とさせたのである。宦官は牢屋番として雄島から彦星が泳いで渡来するのを監視したのである。監視小屋の遺構が出土している。陰暦の七夕の日に密会をした記録が、起源となって平塚市では七夕祭りになっている。科学的に石の成分は景徳鎮の白を含んでいる。銭塘江の下流には上流から下り丸くなった石が河口に集まる。ちょうど造船所があったので、その石を積み込んだのである。
 
 
 
富士吉田市の小明見(こあすみ)に徐福の墓がある。徐福が住んでいたのは、忍野村である。その真北に墓は存在するが、道教では墓は陽宅の真北に祭るのが慣わしである。竹取物語の中に駿河の国の不死山(富士山)の裾野に徐福は住んだと記載されている。源氏物語の中で竹取物語は紹介され古いことが証明される。さらにチベットの「斑竹物語」婚姻三難題物語が日本で発展して婚姻五難題として発展したのである。
 
-->
 
[[2008年]]10月、[[佐賀市]]に於いて佐賀・徐福国際シンポジウムが開催された。日本国内・中国・台湾・韓国から研究者が多数参加し、発表を行なった。[[吉野ヶ里遺跡]]との関連についても講演が行なわれた。
 
 
 
== 奇説 ==
 
徐福が[[イスラエルの失われた10支族]]の一つであるヨセフ(ジョセフ)ではないかという奇説が存在する。古くは、1937年に藤井尚治が[[国史異論奇説新学説考]]の中で言及している<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=t0CnJ8S9iUMC&pg=frontcover 国史異論奇説新学説考] 藤井尚治 1937年</ref>。
 
 
 
== 関連作品 ==
 
* 『琅邪の鬼』は[[丸山天寿]]による徐福を題材にしたミステリー小説。
 
* [[今野敏]]の小説『蓬莱』は徐福伝説を扱っている。
 
* [[諸星大二郎]]の短編コミックス『[[徐福伝説]]』は徐福伝説を扱っている。徐福の連れていた童子は3000人ではなく男子23人・女子23人の合計46人としている。
 
* [[松波太郎]]の小説『[[西暦二〇一一]]』(『LIFE』所収)は熊野地方の徐福伝説と中国の徐福村を扱っている。
 
* [[本宮ひろ志]]の漫画『[[こううんりゅうすい〈徐福〉]]』は不老不死となった徐福がその後の歴史を見守っていくという展開になっている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* [[海東諸国紀]]
 
* [[史記]]
 
* [[資治通鑑]]
 
* [[新大明神口碑記]]
 
* [[富士古文献]]
 
* [[宮下文書]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[秦]]、[[始皇帝]]
 
* [[占星術]] - [[占い師]]でもあるとされている。
 
* [[方術]]、[[方士]]
 
* [[安曇族]]
 
* [[縄文時代]]、[[縄文人]]
 
* [[弥生時代]]、[[弥生人]] 
 
* [[台湾]] - 台湾の別名として[[蓬莱]]がある。
 
* [[徐福公園]]
 
* [[秦氏]] - 一切の根拠は無いが、始皇帝の子孫を自称した日本の古代氏族。また、表記が異なる元首相[[羽田孜]]を出した羽田家はその末裔だと自称している。
 
* [[フジ]]
 
* [[鄧小平]] - 訪日の際に日本の発展から学び取ろうとした自らを徐福に擬えた。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm 徐福伝説] - 古代史の扉
 
* [http://www.jofuku.or.jp/rekishi.htm 歴史・伝説] - 財団法人 新宮徐福協会
 
* [http://www.east-asia.jp/archives/50610354.html 公開講座 「徐福の足跡をたずねて」PART2] - 東アジア交流学院
 
* [http://www.chingokuji.org/jyofuku/index.htm 霊峰冠嶽(冠岳)と徐福] - 冠嶽山鎭國寺頂峯院
 
* [http://www.jofuku-saga.jp/index.html 佐賀に息づく徐福] - 佐賀県徐福会・村岡央麻
 
* [http://www2.saganet.ne.jp/jyofuku 佐賀の徐福伝説] - 佐賀市徐福長寿館/薬用植物園
 
 
 
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2019/4/27/ (土) 16:26時点における最新版

徐 福(じょ ふく)

中国,秦代の方士 (ほうし) 。徐市 (じょふつ) ともいう。秦の始皇帝の命で童男童女数千人を連れて,海中の三神山に不死の薬を捜しに出かけたという。しかし,三神山は発見できず,日本の紀州へ上陸した,といわれてその記念碑が現存し,連れて行った童男童女から生れた子孫が日本民族である,という説すらあるが,いずれも後世の伝説にすぎない。



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