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'''律宗'''(りっしゅう)は、[[戒律]]の研究と実践を行う[[仏教]]の一宗派である。中国で[[東晋]]代に戒律について翻訳されると、[[唐]]代には[[道宣]]が成立させた。日本には[[鑑真]]が伝来させ、[[南都六宗]]の[[日本の仏教|日本仏教]]の一つとなった<ref name="コトバンク南都六宗">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%BD%E5%85%AD%E5%AE%97-108904|title=南都六宗(なんとろくしゅう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-03}}</ref>。
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'''律宗'''(りっしゅう)
  
== 中国の律宗 ==
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南都六宗の一つ。戒律の研究実践を解脱の因とする宗派。中国,唐の[[道宣]]によって成立。天平勝宝6 (754) 年に道宣の弟子,恒景から受戒した[[鑑真]]が来日し,東大寺に戒壇院を設けた。次いで唐招提寺を建立して第1祖となり,また下野薬師寺,筑紫観世音寺に戒壇を設けるにいたり,律宗は大いに栄えた。のち次第に衰微して明治維新後は真言宗の所管となったが,1900年独立した。現在,唐招提寺を総本山としている。
[[中国]]では、日本と異なり、正式な[[僧]]となるには[[戒律]]を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。
 
 
 
[[東晋]]代に、『[[十誦律]]』『[[四分律]]』『[[摩訶僧祇律]]』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。[[北魏]]では、[[法聡]]が'''四分律宗'''を開宗した。その後、[[地論宗]]に属する[[慧光]]([[468年]] - [[537年]])が律宗の勢力を拡張した。
 
 
 
[[唐]]代には[[南山律宗]]を開いた[[道宣]]が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。道宣の孫弟子である[[鑑真]]は、留学僧の要請で[[日本]]に律を伝えたとされている。
 
 
 
一方、[[法励]]([[569年]] - [[635年]])が『四分律』を研究し、[[相部宗]]を開いた。その弟子、[[懐素]]([[625年]] - [[698年]])は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、[[東塔宗]]を開宗した。
 
 
 
その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、[[宋代]]まで伝承された。一方で、[[義浄]]三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
 
 
 
== 日本の律宗 ==
 
[[ファイル:Toshodaiji Nara Nara pref02s3s4560.jpg|thumb|left|250px|総本山 [[唐招提寺]]]]
 
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
 
 
 
[[天平勝宝]]5年([[753年]])、[[鑑真]]が6度の航海の末に唐から招来され、[[東大寺]]に[[戒壇]]を開き[[聖武天皇|聖武上皇]]や[[孝謙天皇|称徳天皇]]を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。後に[[唐招提寺]]を本拠として戒律研究に専念し、[[南都六宗]]の一つとして今日まで続いている。
 
 
 
鑑真が伝えたのは『[[四分律]]』によるものであったが、[[平安時代]]の[[最澄]]や[[空海]]はこれを支持せず、空海は『[[十誦律]]』を重んじた(ただし、最澄は[[延暦寺]]に独自の戒壇を設置するが、空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、[[官僧]]の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
 
 
 
平安時代末期から[[鎌倉時代]]には[[実範]]・[[明恵]]が戒律復興を論じ、それを引き継いで[[嘉禎]]2年([[1236年]])[[覚盛]]・[[有厳]]・[[円晴]]・[[叡尊]]の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]を拠点に[[真言宗]]の『十誦律』を中心とした[[真言律宗]]を開いた。更に[[京都]][[泉涌寺]]の[[俊芿]]が[[南宋]]より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊芿の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。この3派の革新派を'''新義律'''と呼称して、それ以前の'''古義律'''と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、中世には[[禅宗]]と律宗を合わせて'''禅律'''とも呼ばれて重んじられた。[[室町時代]]には禅宗に押されて再び衰退するが、[[江戸時代]]には[[明忍]]・[[友尊]]・[[慧雲]]が出現して再度戒律復興が唱えられた。
 
 
 
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、[[1900年]]([[明治]]33年)律宗として独立した。
 
 
 
=== 宗義 ===
 
[[戒律]]の研究と実践を主とする。
 
 
 
=== 本山 ===
 
*総本山 [[唐招提寺]]([[奈良市]])
 
*大本山 [[壬生寺]]([[京都市]][[中京区]])
 
 
 
=== 所依 ===
 
*[[四分律]]([[曇無徳部]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
{{No footnotes|date=2017年1月|section=1}}
 
<!--[[特別:差分/23622533/25144403|律宗(2009年3月31日12:39)]]にて出典として用いられた痕跡がある-->
 
*[[平川彰]]『律蔵の研究』(1960年)「著作集」が[[春秋社]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[梵網経]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.toshodaiji.jp/ 律宗総本山唐招提寺]
 
*[http://www.toshodaiji.jp/ 律宗総本山唐招提寺]
  
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2018/10/23/ (火) 08:44時点における最新版

律宗(りっしゅう)

南都六宗の一つ。戒律の研究実践を解脱の因とする宗派。中国,唐の道宣によって成立。天平勝宝6 (754) 年に道宣の弟子,恒景から受戒した鑑真が来日し,東大寺に戒壇院を設けた。次いで唐招提寺を建立して第1祖となり,また下野薬師寺,筑紫観世音寺に戒壇を設けるにいたり,律宗は大いに栄えた。のち次第に衰微して明治維新後は真言宗の所管となったが,1900年独立した。現在,唐招提寺を総本山としている。

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