「広島藩」の版間の差分

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'''広島藩'''(ひろしまはん)は、[[安芸国]]一国と[[備後国]]の半分を領有した大[[藩]]で、現在の[[広島県]]の概ね半分にあたる。藩庁は[[広島城]](現在の[[広島市]])に置かれた。'''芸州藩'''(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
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'''広島藩'''(ひろしまはん)
 
 
== 藩史 ==
 
[[ファイル:Keep tower of Hiroshima Castle 20121122, 001.jpg|thumb|250px|広島城]]
 
[[ファイル:Nagaakira Asano.jpg|thumb|190px|浅野長晟]]
 
[[ファイル:修道学園01.jpg|thumb|修道学園]]
 
[[ファイル:NigitsuShrine-2.JPG|thumb|饒津神社]]
 
[[安土桃山時代]]、[[中国地方]]は[[毛利氏]]がその大半を治めていた。[[天正]]19年([[1591年]])には[[広島城]]が築城されて毛利氏の居城となり、広島は[[政治]]・[[経済]]の中心地となっていた。しかし[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で西軍の総大将として参戦し敗戦した[[毛利輝元]]は、戦後[[周防国|防]][[長門国|長]]2国([[長州藩]]・現在の[[山口県]])に[[減封]]された。
 
 
 
代わって安芸・備後2ヶ国の49万8000石の太守として、[[尾張国]][[清洲城|清洲]]より[[福島正則]]が入封した。正則は慶長6年([[1601年]])から検地を実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。しかし正則は[[大坂の陣]]が終わった後の[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上[[信濃国]][[川中島藩]]に[[転封]]された。実際は[[豊臣氏]]恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって[[江戸幕府]]が豊臣氏を滅亡させたことに異を唱えた事によるものであったと思われる。
 
 
 
代わって[[紀州藩]]より、[[豊臣政権]]下で[[五奉行]]を務めた[[浅野長政]]の次男・[[浅野長晟]]が安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封した。国主。広島は[[大坂]]との[[瀬戸内海]]航路の海運に恵まれ藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と[[江戸時代]]中期の学者・[[海保青陵]]([[儒学]]・[[経済学]])より評された。
 
 
 
長晟は福島氏時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み、統治機構の近代化を目指した。
 
 
 
第2代藩主・光晟(長晟の次男)は[[徳川家康]]の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・[[浅野長治]]に5万石を分与した。これが支藩である[[三次藩]]の立藩である。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。
 
 
 
第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも[[九条道房]]の娘を迎えている。道房の母は[[豊臣秀勝]]の娘である[[豊臣完子]]であり、以降の浅野宗家は[[豊臣氏]]の血を女系で受け継ぐ事になる。
 
 
 
第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の[[元禄]]14年([[1701年]])、分家の[[赤穂藩]]主・[[浅野長矩]]が[[赤穂事件|刃傷事件]]を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、[[進藤俊重]]、[[小山良速]]など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の[[大石良雄]]の盟約にも切り崩しをはかり、[[進藤俊式]]や[[小山良師]]ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は失敗した。しかし、数年後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させて大石良雄の三男・[[大石大三郎|大三郎]]など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれている。
 
 
 
こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・[[浅野吉長]](綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて[[享保]]3年([[1718年]])3月に大規模な[[一揆]]にあい、失敗に終わった。なお、享保5年([[1720年]])5月に三次藩が断絶したため、享保15年([[1730年]])3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、[[新田分知]](広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の[[修道中学校・修道高等学校]]・広島修道大学)を創始した。
 
 
 
第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。
 
 
 
第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水や旱魃、冷害、虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、結局のところ、財政は悪化した。しかも天明6年([[1786年]])には[[打ちこわし]]も起こっている。
 
 
 
第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。
 
 
 
第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家斉]]の娘・末姫との婚儀、[[饒津神社]]の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、[[幕末]]になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行なった。しかし藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団で対立まで起こり、改革は事実上頓挫した。
 
 
 
第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。
 
 
 
第11代藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、[[文久]]2年([[1862年]])、[[辻維岳|辻将曹]]を家老に抜擢し文久の改革を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。[[長州征討]]で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。
 
 
 
慶応2年([[1866年]])に第14代将軍・[[徳川家茂]]が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年([[1867年]])には長州藩・[[薩摩藩]]と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・[[徳川慶喜]]に[[大政奉還]]を推進するなどしている。このため、広島藩は後の明治政府の中枢から排除されることにはなったが、官軍に加わって[[戊辰戦争]]を戦った。
 
 
 
明治2年([[1869年]])6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は[[版籍奉還]]により広島藩知事に任じられる。[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により広島県となった。明治17年([[1884年]])、藩主・浅野家は[[侯爵]]となり[[華族]]に列し、家老三家は[[男爵]]となった。なお長勲は[[昭和]]12年([[1937年]])に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。
 
 
 
なお、支藩として[[#三次藩|三次藩]]、[[#広島新田藩|広島新田藩]]があった。また赤穂藩(元の[[常陸]][[真壁藩]]、同[[笠間藩]])も支藩とみなす説もある。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 福島家 ===
 
[[ファイル:Masanori Fukushima.JPG|thumb|190px|福島正則]]
 
[[外様大名|外様]] 49万8000石 (1600年 - 1619年)
 
#[[福島正則|正則]]
 
 
 
=== 浅野家 ===
 
外様 42万6000石 (1619年 - 1871年)
 
#[[浅野長晟|長晟]]
 
#[[浅野光晟|光晟]]
 
#[[浅野綱晟|綱晟]]
 
#[[浅野綱長|綱長]]
 
#[[浅野吉長|吉長]]
 
#[[浅野宗恒|宗恒]]
 
#[[浅野重晟|重晟]]
 
#[[浅野斉賢|斉賢]]
 
#[[浅野斉粛|斉粛]]
 
#[[浅野慶熾|慶熾]]
 
#[[浅野長訓|長訓]]
 
#[[浅野長勲|長勲]]
 
 
 
== 支藩 ==
 
=== 三次藩 ===
 
'''三次藩'''(みよしはん)は、江戸時代中期まで備後北部を領有した藩。藩庁として[[三次市|三次]]に[[三次城]]が置かれた。知行高は5万石。
 
 
 
[[寛永]]9年([[1632年]])初代広島藩主・浅野長晟の庶子で長男の[[浅野長治|長治]]が三次郡・恵蘇郡を与えられ立藩した。[[享保]]4年([[1719年]])4月、4代・長経は13歳で没し一旦は広島藩領となったが、同年11月、長経の弟・長寔に相続が認められた。しかし、長寔も翌、享保5年([[1720年]])10歳で没したため廃藩となった。
 
 
 
==== 歴代藩主 ====
 
;浅野家
 
5万石 (1632年 - 1720年)
 
#[[浅野長治|長治]]
 
#[[浅野長照|長照]]
 
#[[浅野長澄|長澄]]
 
#[[浅野長経|長経]]
 
#[[浅野長寔|長寔]]
 
 
 
=== 広島新田藩 ===
 
'''広島新田藩'''(ひろしましんでんはん)は、享保15年([[1730年]])より広島藩の蔵米3万石を与えられ、広島藩4代・綱長の三男・長賢により立藩した。藩主は[[参勤交代]]を行わず[[江戸]][[定府]]の[[大名]]であった。[[元治]]元年([[1864年]])には[[吉田町 (広島県)|吉田]](現在の[[安芸高田市]])に[[吉田陣屋]]を構えた。明治2年([[1869年]])広島藩に併合され廃藩となった。
 
 
 
現存する建物としては通称「三菱窟」が現存し、市内甲田町の個人宅に西御門が移築現存し、そして市内教徳寺には陣屋門が現存している。
 
 
 
==== 歴代藩主 ====
 
;浅野家
 
3万石 (1730年 - 1869年)
 
#[[浅野長賢 (広島新田藩主) |長賢]]
 
#[[浅野長喬|長喬]]
 
#[[浅野長員|長員]]
 
#[[浅野長容|長容]]
 
#[[浅野長訓|長訓]]
 
#[[浅野長勲|長興]]
 
#[[浅野長厚|長厚]]
 
 
 
<!--
 
== 広島新田藩の現存建物 ==
 
*三菱窟が現存
 
*西御門…安芸高田市甲田町の民家に移築現存
 
*教徳寺に陣屋門が移築現存
 
-->
 
=== 真岡藩・真壁藩・笠間藩・赤穂藩 ===
 
*[[下野国]][[真岡藩]]2万石(1601 - 1611年)
 
*[[常陸国]][[真壁藩]]5万石(1611 - 1622年)
 
*常陸国[[笠間藩]]5万3500石(1622 - 1645年)
 
*[[播磨国]][[赤穂藩]]5万3500石(1645 - 1701年)、1671年に分家を2戸創設のため分地により5万石に変更
 
**[[浅野長重]](浅野長政の三男)の系統。1701年に浅野長矩が[[吉良義央]]に対して殿中で刃傷に及び改易。
 
 
 
== 家老 ==
 
*浅野氏(備後[[三原城|三原領]]3万石(現在の[[三原市]])・藩主一門)筆頭家老、維新後[[男爵]]
 
[[浅野忠吉]]([[浅野長政]]の従弟)=[[浅野忠長|忠長]]-[[浅野忠真|忠真]]-[[浅野忠義|忠義]]-忠綏-忠晨=[[浅野忠正|忠正]]=忠愛=[[浅野忠順|忠順]]=[[浅野忠敬|忠敬]]=[[浅野忠|忠]]=[[浅野忠英|敬五]]
 
*東城浅野氏(備後東城領1万石(現在の[[庄原市]][[東城町]])・藩主一門)維新後男爵
 
[[浅野高勝]](堀田高勝)-[[浅野高英|高英]]-高次-高尚-高方-俊峰-高明=道寧=高景-高通=高平=道博=道興=道敏=守夫
 
*[[上田氏]](安芸小方領2万石・家臣)維新後男爵
 
[[上田重安]]-重政-重次-重羽-義行-義従-義敷=義珍-安虎-安世=安節=重美=亀次郎
 
 
 
== 5ヵ寺 ==
 
[[ファイル:Kokutaiji Temple.jpeg|thumb|国泰寺]]
 
*[[国泰寺 (広島市)|国泰寺]]([[曹洞宗]])
 
*[[月光山大日蜜寺 明星院|明星院]]([[真言宗]])
 
*[[松栄寺]]([[天台宗]])
 
*[[日通寺]]([[法華宗]])
 
*[[正清院]]([[浄土宗]])
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
1869年(明治2年)に編入した広島新田藩領も含む。
 
* [[安芸国]]一円
 
** [[沼田郡]] - 42村
 
** [[安芸郡 (広島県)|安芸郡]] - 48村
 
** [[佐伯郡]] - 85村
 
** [[山県郡]] - 74村
 
** [[高田郡]] - 59村
 
** [[高宮郡]] - 36村
 
** [[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]] - 90村
 
** [[豊田郡]] - 88村
 
* [[備後国]]
 
** [[御調郡]] - 100村
 
** [[世羅郡]] - 50村
 
** [[三谿郡]] - 38村
 
** [[奴可郡]] - 40村
 
** [[三上郡]] - 18村
 
** [[三次郡]] - 52村
 
** [[恵蘇郡]] - 45村
 
** [[甲奴郡]]のうち - 8村(残部は[[中津藩]]領、[[倉敷代官所]]管轄の[[天領|幕府領]])
 
 
 
上記のほか、[[明治維新]]後に[[北見国]][[常呂郡]]、[[釧路国]][[網尻郡]]を管轄した。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]]、[[1977年]]
 
*『幕藩制国家の展開―広島藩・[[備後福山藩|福山藩]]を中心として』 [[土井作治]]/著 渓水社、[[1985年]]
 
*『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』[[新人物往来社]]、[[1997年]] ISBN 978-4404025241
 
*『広島藩 地方書の研究』 [[勝矢倫生]]/著  [[宮帯出版社]]、[[1999年]]
 
*中嶋繁雄『大名の日本地図』[[文春新書]]、[[2003年]] ISBN 978-4166603527
 
*[[八幡和郎]]『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』[[光文社新書]]、[[2004年]] ISBN 978-4334032715
 
 
 
== 関連項目 ==
 
 
 
==脚注==
 
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== 外部リンク ==
 
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/geihannshi.html 芸藩志(MF:広島市立図書館寄託)|国立国会図書館 憲政資料室]
 
  
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安芸 (あき) 藩,芸州 (げいしゅう) 藩ともいう。江戸時代[[安芸国]] (広島県) 広島地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後 120万 5000石の毛利輝元が長門 (山口県) 萩へ移封,代って[[福島正則]]が尾張 (愛知県) 清洲から 49万 8000石で入封したのに始る。福島正則は元和5 (1619) 年石垣修理のことから除封 (同年信濃川中島4万 5000石に再封) され,代って[[浅野長晟]] (ながあきら) が紀伊和歌山から 42万 6500石で入封。次の光晟 (みつあきら) の代に寛永9 (32) 年に備後国 (広島県) に支藩三次 (みよし) 藩5万石を創設。享保4 (1719) 年の吉長の代に三次藩は廃して三次町奉行をおいた。同15年には廩粟 (りんぞく。もみ米) 3万石を長賢 (ながかた) に分与して広島新田藩を創設,明治維新にあっては討幕派の中心勢力の一つとして活躍し,廃藩置県にいたった。浅野氏は外様,江戸城大広間詰。
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2018/8/26/ (日) 16:22時点における最新版

広島藩外様42万6千石の位置
広島藩
外様
42万6千石
広島藩の位置

広島藩(ひろしまはん)

安芸 (あき) 藩,芸州 (げいしゅう) 藩ともいう。江戸時代安芸国 (広島県) 広島地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後 120万 5000石の毛利輝元が長門 (山口県) 萩へ移封,代って福島正則が尾張 (愛知県) 清洲から 49万 8000石で入封したのに始る。福島正則は元和5 (1619) 年石垣修理のことから除封 (同年信濃川中島4万 5000石に再封) され,代って浅野長晟 (ながあきら) が紀伊和歌山から 42万 6500石で入封。次の光晟 (みつあきら) の代に寛永9 (32) 年に備後国 (広島県) に支藩三次 (みよし) 藩5万石を創設。享保4 (1719) 年の吉長の代に三次藩は廃して三次町奉行をおいた。同15年には廩粟 (りんぞく。もみ米) 3万石を長賢 (ながかた) に分与して広島新田藩を創設,明治維新にあっては討幕派の中心勢力の一つとして活躍し,廃藩置県にいたった。浅野氏は外様,江戸城大広間詰。

先代:
安芸国備後国
行政区の変遷
1600年 - 1871年 (広島藩→広島県)
次代:
広島県