平泉町

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平泉町(ひらいずみちょう)は、東北地方の中部、岩手県の南西部に位置する

概要

平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地があった町として有名である。当時は平安京に次ぐ大都市として栄えた。現在でも、中尊寺毛越寺などの遺跡から、当時の繁栄を偲ぶことができる(平泉参照)。

地理

岩手県内で最も面積が小さい自治体であり、東西16.15km、南北8.51kmの東西に細長い町域となっている。町の中央が北上盆地の一部を成しており、北上川が南流して氾濫原を形成している。西側を奥羽山脈から東に延びる平泉丘陵の東端、北側を衣川、南側を太田川、東側を北上川に囲まれたやや平坦な土地が町の中心部となっており、ここにJR東北本線平泉駅国道4号、町役場などがあり、また、奥州藤原氏時代の寺院や遺跡も集中している。なお、当時は北上川が現在より東側を流れていたと考えられている。

人口

平泉町(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

歴史

平泉は衣川磐井川に挟まれた比較的開けた丘陵地帯に位置し、すぐ東には北上川が流れているために水運の拠点として優れた地域であったことから、奈良時代以降平安時代にかけて、この地をめぐり各勢力による争奪戦が繰り広げられた。

8世紀には胆沢平野一帯において大和政権蝦夷勢力との間で軍事衝突が発生し、そのうち最大規模の戦闘であった延暦11年(792年)の大和政権の坂上田村麻呂と蝦夷方のアテルイの戦いでは平泉近辺が戦場となった。この戦に敗れた蝦夷勢力は次第に衰退し、延暦21年(802年)の胆沢城築城によって平泉一帯は大和政権の支配下に入るようになり、間もなく近辺で莫大なが産出することが判明すると水運拠点としての平泉の重要性はいよいよ高まった。

平安時代後期には衣川を拠点とする地元の豪族であった安倍氏俘囚長として奥六郡を支配し、近辺では国司よりもはるかに強力な勢力を持つに至ったが、前九年の役源頼義義家親子に滅ぼされた。平泉はその際に源氏に味方した清原氏の支配下に置かれたが、清原氏の内紛である後三年の役を経て勝ち残った清原清衡(藤原清衡)が、前九年の役で安倍氏に味方して滅ぼされた実父の姓に復して藤原氏を名乗り(奥州藤原氏)、本拠を江刺郡豊田館(奥州市)から磐井郡平泉に移して居館を建設した。以後、清衡から藤原泰衡のまで4代にわたり奥州藤原氏の本拠地として栄華を極めた。奥州藤原氏の治世下では今日でも有名な中尊寺毛越寺などが建立され、さらに第3代当主・藤原秀衡は名馬や金を朝廷にたびたび献上して京都の文化を取り入れた。また、十三湊アイヌを介して北宋沿海州とも交易をしていた。

この時期の平泉の人口については諸説あり、チャンドラーは、軍隊との人口比から平泉の都市人口を5万人と推定し[1](平安時代末の鎌倉の都市人口を10万人とする推計に基づく)、佐貫利雄は、10箇所あった金鉱が養える人口がそれぞれ1万人であるとして、最盛期の平泉の人口を10万から15万人と推定している[2]

一方、『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往時の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人と見積もる説が流布しているが[3]、『吾妻鏡』の平泉に関連する記述にはかなりの数字の誇張がある[4]ことから、実際の都市規模はもっと小さかったと考えられている[5]

しかし、秀衡死後の文治5年(1189年)、源義経を匿ったことから源頼朝の追討を受け、泰衡は敗走の混乱の中で家臣に殺され奥州藤原氏は滅亡した。その後、平泉は奥州総奉行として赴任した葛西氏の本拠となったが、鎌倉時代の平泉は産金量の低下や御家人の領地細分化などで次第に都市としての力を失い、中世末期までには奥州藤原氏によって建設された造営物の大半が失われてしまった。

江戸時代前期の元禄2年5月13日(西暦1689年6月29日)、平泉を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原氏の当時繁栄を極めた居館のあった場所が田野となっている有様を見て、

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

俳句を詠み、また朽ちかけていたもののかろうじて光を残す中尊寺金色堂においては、

五月雨の 降(ふり)残してや 光堂

の句を残している(いずれも『奥の細道』所載)。

現在では、日本屈指のの生産地となっている。

沿革

行政

氏名 就任 退任 備考
1 千葉知三郎 明治22年(1889年)5月21日 明治30年(1897年)5月20日
2 千葉壮治 明治30年(1897年)5月21日 明治36年(1903年)5月7日
3 千葉恭平 明治36年(1903年)5月20日 明治39年(1906年)7月24日
4 南洞頼顕 明治39年(1906年)8月10日 明治45年(1912年)4月29日
5 吉崎清賢 明治45年(1912年)4月30日 大正10年(1921年)2月2日
6 高橋九左ェ門 大正10年(1921年)2月4日 大正11年(1922年)6月13日
7 西洞一太郎 大正11年(1922年)11月13日 大正15年(1926年)12月25日
8 葛西与右ェ門 昭和2年(1927年)1月1日 昭和5年(1930年)12月31日
9 南洞頼熏 昭和6年(1931年)1月13日 昭和11年(1936年)11月13日
10 鈴木省三 昭和11年(1936年)11月22日 昭和15年(1940年)11月21日
11 佐々木馬之亟 昭和15年(1940年)11月22日 昭和21年(1946年)5月10日
12 西洞一郎 昭和21年(1946年)5月11日 昭和28年(1953年)9月30日
  • 歴代町長
昭和の合併以前
氏名 就任 退任 備考
1 西洞一郎 昭和28年(1953年)10月1日 昭和30年(1955年)4月14日 村長より留任
昭和の合併以後

初代 - 西洞一郎

合併問題

平成の大合併で、平泉町は両磐地方との合併を見送り、単独町政の道を選んだ。

当初平泉町議会は一関地方よりも隣接する衣川村(現在の奥州市)との合併の方が歴史的な経緯を踏まえて当然と主張していた。

しかし住民投票の結果、両磐9市町村(一関市西磐井郡平泉町、花泉町東磐井郡大東町藤沢町千厩町東山町室根村川崎村)との合併に賛同し、合併協議会での決戦投票の結果、平泉29票、磐井28票で新市名が平泉市に決定した。

しかし平泉市決定を前に平泉町の委員が花泉町の委員に対し「平泉市に決定しなければ一緒に退席してほしい」と要請していたとの噂から不信感が広がり、合併が直前になって白紙撤回される運びとなった。この破談の背景には旧一関市において新市名への抵抗が強かったことが要因にあるとされる。

結局、新市名を巡る駆け引きで合併は撤回され、平泉町は、国営農地開発事業等により過大債務を抱え、合併した際に新市への負担が大きいと判断された藤沢町と共に合併から離脱する結果となり、平泉町と藤沢町を除く1市4町2村で新一関市が発足した(藤沢町は2011年に新一関市に編入合併された)。

金融機関

農協生協

姉妹都市・提携都市

国内

姉妹都市
その他
  • 日本の旗全国門前町サミット - 全国の神社仏閣を中心に発展してきた門前町を有する自治体・観光協会・商業関係者などが集まり地域活性、街作り推進のため開催する会議。

海外

提携都市

TVチャンネル・ラジオ周波数

平泉町内テレビ中継局
東北道の防音壁に遮られて束稲山(一関テレビ・FM中継局)からの電波が届きにくい地区をカバー。アナログ時代はIATのみ中継局が無かったが、地デジではIATもデジタル新局として中継局を設置した。なお町内の多くの世帯は束稲山にアンテナを向けている。
  • 在盛ラジオはAMがIBC奥州前沢局(1062kHz)及びNHK盛岡親局(第1放送531kHz、第2放送1386kHz)を、FMは束稲山を各々受信。また隣県のTBCラジオも仙台親局1260kHz経由で昼夜通して良好に受信可能(東北道平泉トンネル一関トンネルでは在盛局のみならずTBC仙台親局も再送信。但しIBCは奥州前沢局ではなく盛岡親局684kHzを再送信)。

産業

伝統産業

郵便局

  • 平泉郵便局(集配局)
  • 長島郵便局
  • 中尊寺簡易郵便局

教育

  • 平泉町立平泉中学校
  • 平泉町立平泉小学校
  • 平泉町立長島小学校

交通

鉄道路線

路線バス

道路

ナンバープレート

観光

世界遺産

以下の五つの資産が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている。

旧跡・観光名所

博物館施設

祭事・催事

  • 元朝詣り(1月)
  • 修正会(1月)
  • 毛越寺二十日夜祭(1月)
  • 節分会(2月)
  • 春の藤原まつり(5月)
  • 哭まつり(5月)
  • 曲水の宴(5月)
  • 毛越寺あやめ祭り(6月〜7月)
  • 平泉水かけ神輿まつり(7月)
  • 薪能(8月)
  • 平泉大文字まつり(8月)
  • 萩まつり(9月)
  • 菊まつり(10月〜11月)
  • 秋の藤原まつり(11月)

作品

テレビドラマ

テレビアニメ

出身有名人

脚注

  1. (a) George Samson, A History of Japan to 1334, Stanford, CA: Stanford University Press, 1961. (b) Tertius Chandler, Gerald Fox, Three Thousand Years of Urban Growth, New York, NY: Academic Press Inc., 1974.
  2. 佐貫利雄『成長する都市衰退する都市』(時事通信社、2000年)
  3. 荒木伸介・角田文衛・埴原和郎・大矢邦宣『奥州平泉黄金の世紀』(新潮社、1987年)
  4. 例えば『吾妻鏡』によると鎌倉軍と奥州軍の総勢はそれぞれ28万4千騎、17万騎であったとされるが、『薩摩旧記雑録』所収の文治5年(1189年)8月20日付の源頼朝から島津忠久へ宛てた書状には鎌倉方の主力軍が総勢2万人であると記されている(佐藤文二「我旧時の兵数に就て」『軍事史研究』2巻5号41–58頁および2巻6号頁、ともに1937年)。
  5. 斉藤利男『平泉:よみがえる中世都市』(岩波書店、1992年)

関連項目

外部リンク