川崎フロンターレ

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川崎フロンターレ
原語表記 川崎フロンターレ
愛称 川崎、川崎F、フロンターレ
クラブカラー     サックスブルー[1]
    ブラック[1]
    ホワイト[1]
創設年 1955年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン J1リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 神奈川県川崎市[1]
ホームスタジアム 216px
等々力陸上競技場[1]
収容人数 27,495[1]
運営法人 株式会社川崎フロンターレ[1]
代表者 藁科 義弘[1]
公式サイト 公式サイト
テンプレート

川崎フロンターレ(かわさきフロンターレ、Kawasaki Frontale)は、日本神奈川県川崎市をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

1955年富士通サッカー部として創部[1]1997年Jリーグ準会員に承認され、1999年にJリーグへ加盟した[1]。ホームスタジアムは中原区等々力陸上競技場[1]、練習場は麻生区川崎フロンターレ麻生グラウンドである[1]

チーム名の「フロンターレ (Frontale) 」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、すなわち正面から正々堂々と戦う姿勢を表している[1]。ちなみに富士通にはアメリカンフットボールチームの富士通フロンティアーズXリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子バスケットボール富士通レッドウェーブWリーグ・1985年創部)、富士通カワサキレッドスピリッツV・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としており、バレーボールを除き川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーに参加している。

歴史

前史

1955年に創部された「富士通サッカー部」が前身であり[1]1972年日本サッカーリーグへ昇格、1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加[1]1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」(ふじつうかわさきフットボールクラブ)へ改称し、11月21日に運営会社となる「富士通川崎スポーツマネジメント株式会社」(ふじつうかわさきスポーツマネジメント)を設立。1997年にJリーグ準会員となり[1]、名称が公募によって川崎フロンターレと決定された。

1997年 - 1998年 (JFL)

1997年

ファイル:Todoroki Athletics Stadium.jpg
川崎フロンターレ試合風景 (2006年11月26日)

前年の旧JFL10位からJリーグ昇格条件の2位以内を目指すため、富士通サッカー部がJSL1部に昇格した時の主将だった小浜誠二が事実上の責任者となる常務に就任。富士通からの豊富な資金力を利用して、監督を富士通社員の城福浩からプロ契約の斉藤和夫へと交代し[2]、選手では名古屋中西哲生平塚ベッチーニョ横浜F桂秀樹清水向島建横浜M小泉淳嗣等を獲得。富士通川崎時代のレギュラーだった伊藤彰小松崎保源平貴久などの富士通社員選手は控えに回し、元Jリーガーを重用した布陣で1年でのJリーグ昇格を目指した。この他、ブラジルのグレミオとの業務提携も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。

フロンターレは優勝争いに加わり、前半戦終了の第15節終了時点では昇格圏内の2位に付けていた[3]。後半戦には平塚から野口幸司V川崎から長谷部茂利を追加補強したが、同9月の第20-22節に上位の直接対決となったコンサドーレ札幌東京ガス本田技研に3連敗して昇格圏外となる3位に後退した後に斉藤が監督を辞任。最終成績は札幌・東京ガスに次ぐ3位となり、勝ち点1差でJリーグ昇格を逃した。シーズン後には野口や長谷部は元の所属チームに戻り、小泉も退団した。

1998年

前シーズン終盤の監督不在を解消するため、グレミオからあっせんされたベット監督が就任。鹿島から鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産したヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団したツゥットなどのブラジル人FWが活躍した。前年は桐光学園高校からの新入団直後にグレミオにサッカー留学していた佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも川元正英久野智昭がレギュラーを獲得して、チームの総合力向上に成功した。最終節のソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、準優勝となった。しかし、J1参入決定戦1回戦福岡戦でVゴール負けを喫し、Jリーグ ディビジョン2 (J2) への参入が決まった。

1999年 (J2)

ベット体制2年目。元日本代表の岩本輝雄を獲得して同時に主将に据えた。リーグ戦は開幕3連敗でスタートし、第5節のヴァンフォーレ甲府戦に勝利した後、ベットを監督から解任。Jリーグカップ(ナビスコ杯)1回戦のG大阪[4] を挟み、第6節、4月18日の札幌戦から松本育夫に監督が交代した[5]。久々のクラブチーム監督となった松本に対して反発した岩本はやがてチーム構想から外されたが[6]、岩本に代わって主将に就任した中西の起用やから途中加入したDF森川拓巳などが守備を安定させ、攻撃面ではブラジル人のティンガが活躍した。松本就任後のチームは順調に勝ち点を伸ばし、7月30日・第19節の大宮戦に勝利して首位に立ち、11月5日鳥栖戦(等々力)に勝利し、J1昇格条件のJ2の2位以内が確定。11月8日にJ2優勝も決めた[7]

前年のJ1参入戦に続くこの年の戦いは中西が自身のホームページで日記として書き続け、シーズン終了後に『魂の叫び J2聖戦記』として出版された[8]、これは後に中西がマスメディアで活躍する素地となった。また、この年の開幕戦にチーム初のマスコットとしてふろん太を発表[9]。5月には練習場が東京都稲城市の富士通南多摩工場敷地内の「富士通南多摩グラウンド」[10] から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させた。

2000年 (J1)

松本が監督を退いて社長となり、後任としてヘッドコーチのゼッカが監督に就任。初のJ1挑戦に備えて積極的な補強を進め、特に鹿島からは同シーズンの主将に指名された奥野僚右鈴木隆行マジーニョ鬼木達(再移籍)などを相次いで獲得。他にもパラグアイ代表MFアルバレンガ、元日本代表FW森山泰行等が加入したが、これらの選手と従来の選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜の対立も表面化し、富士通出身の杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。外国人を入れ替える方針によりFC東京レンタル移籍させたFWツゥットが大活躍し、FC東京がJ1で躍進した事も新体制への批判に拍車をかけた。

チーム成績は低迷し、V川崎とリーグ戦で初対戦[11] となった4月22日・1stステージ第8節の「川崎ダービー」にも敗れ、5月3日・第10節の磐田戦では藤田俊哉ペナルティーキックだけで3得点のハットトリックを許す空前絶後の記録を許して1 - 5と大敗した後にゼッカを解任し、ヘッドコーチの今井敏明が後任の監督に就任。5月27日・第15節(最終節)のC大阪戦(長居)ではシーズン後に同年のJリーグ優秀新人賞を獲得した我那覇和樹の得点に続いて浦田尚希が延長Vゴールを決め、2 - 1で勝利してC大阪の優勝を阻止した[12] が、1stステージは16チーム中15位で終え、2ndステージでも苦戦が続いた。8月19日・第10節の市原戦に敗れてJ1残留の可能性が低くなると、その後のナビスコ杯準々決勝でV川崎に勝利してベスト4に進んだ後にクラブはシーズン2度目の監督交代に踏み切り、育成部から移動させた小林寛を監督とした。この時期までに外国人選手は全員入れ替わり、出番が減った鈴木隆行も鹿島に戻るなど、チームは開幕前から大きく様変わりしていた。新体制で臨んだナビスコ杯準決勝では京都を下して決勝に進出したが、決勝では鹿島に敗れてタイトルを逃し、リーグ戦でも11月18日・第13節(日立柏)の柏戦を戦う前に残留争いの対象チームが勝利を飾ったためJ2降格が決定した。

シーズン後には再びチーム改革が行われ、シーズン終了まで指揮を執った小林監督の他、杉本ゼネラルアドバイザー・松本社長・小浜副社長のクラブ首脳陣、奥野僚右主将、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを退団した。

2001年 - 2004年 (J2)

2001年

再びJ2でのシーズンとなったこの年は堀井美晴が監督、サンパウロFCの元監督で現役時代に名古屋でもプレーしたピッタをコーチに迎え、前年にサンパウロFCから札幌へレンタル移籍していたブラジル人FWエメルソンを完全移籍により獲得した。エメルソンはハイペースでゴールを重ねたが、チーム自体は守備戦術の整備が進まずに低迷し[13]、7月14日の第20節・甲府戦に引き分けた時点で8位となっていた。この後、堀井監督は解任、大分を解任されたばかりの石崎信弘を新監督に迎えた。クラブは長期的視点に立ったチーム整備に方針を転換し、新人DFの伊藤宏樹は出場停止の最終節を除く43試合に出場した。一方、ピッタコーチとエメルソンは揃って浦和へ移籍した。結果としてシーズンは7位に終わったが、最終節の山形戦(山形県陸)では浦上壮史の好セーブ連発と我那覇和樹の延長Vゴールにより1 - 0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した[14]。続く第81回天皇杯では戦力外通告を受けた阿部良則や伊藤彰などの選手が活躍してベスト4の成績を収めた[15]

なお、クラブ体制自体も前年までの混乱から一新され、富士通サッカー部のマネージャーや日本サッカーリーグの運営委員、富士通本社の部長などを務めてきた[16]武田信平が前年12月から社長に、強化本部長(GM)に元富士通サッカー部監督の福家三男、強化部長に同サッカー部の元選手である庄子春男が就任し、福家と庄子が強化責任者となった。運営面では地域社会との関係強化が図られ、運営会社の商号が「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社川崎フロンターレ」へ変更され、川崎市や他企業、およびサポーター持株会などからの資本を受け入れた。また、クラブによる従来のファンクラブと、川崎市が組織していた川崎市民後援会が統合された。同シーズンからV川崎が東京都調布市東京スタジアム(現:味の素スタジアム)へ本拠地を移転したため、等々力でのJリーグ公式戦はフロンターレ主催試合のみ行われる事になった。

2002年

石崎体制2年目。ベンチーニョマルキーニョや途中加入のマーロンアレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤には神戸からレンタル移籍した茂原岳人が加わった。さらに、DF岡山一成を獲得し守備力を強化。石崎のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、4位に終わった。第82回天皇杯はベスト8に入った。

新加入の岡山はファンサービスに熱心で、試合後にバックスタンドの前でサポーターからメガホンを借り、ビールケースの上に乗って観客に対する「マイクパフォーマンス」を度々行った。これは「岡山劇場」と呼ばれ、クラブ・チームとファン・サポーターの一体化に大きく貢献し、岡山の退団後もクラブの伝統として他選手や来賓・ゲストなどに引き継がれた[17]

2003年

石崎体制3年目。ブラジルのSEパルメイラスから獲得したFWジュニーニョ我那覇和樹とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したDFアウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。また、大宮からFWバルデスを獲得したが[18]、年齢の影響やケガにより3得点に止まりシーズン途中に退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した大分から石崎監督と一緒のJ1昇格を実現するために移籍したMF山根巌、テスト生から採用された新人ながら開幕の広島戦でデビューし、主に交代要員として全試合でベンチ入りしたMF中村憲剛などが加わった。しかし、リーグ最多の88得点、リーグ最少の7敗ながらリーグ最多タイの13引き分けと「勝ちきれない」試合が多く、最終的には2位と勝ち点1差の3位に終わり、J1昇格に失敗した。シーズン終了後に石崎が監督を辞任した。第83回天皇杯ではベスト16に進出し、2回戦の国見高校戦(等々力)の後には選手やサポーターによる石崎監督の胴上げが行われた。

2004年

チームスローガン:「Mind-1 勝点1への執念―こころ1つにJ1へ。

鹿島でコーチを務めていた関塚隆が監督に就任。また、鹿島からDF相馬直樹新潟から2年連続でJ2リーグ得点王のマルクスを補強した。リーグ戦では開幕直後から首位を独走し、9月26日・第36節の水戸戦(笠松)でマルクスの2ゴールにより2 - 1で勝利してJ2の2位以内によるJ1昇格が「内定」[19]、続く10月2日・第37節の横浜FC戦(等々力)にも勝利して5年ぶり2度目のJ2優勝が確定。シーズン最終成績も勝ち点105、得点104と、昇格後に設定した「ダブル・トリプル」の目標を達成した。また、ジュニーニョは37得点を挙げてJ2得点王を獲得した。第84回天皇杯ではベスト16に入った。なお、この年のスローガン「Mind-1」は、2011年からの東日本大震災復興支援活動で再び利用される事になった。

2005年 - (J1)

2005年

チームスローガン:「FRONTALE FORTISSIMO -強く激しく!!-

関塚体制2年目。J1昇格を機に、地域密着に更に力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。

現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録した。また、川崎市出身のDF箕輪義信が日本代表に選出された。シーズン成績は8位となり、最低条件の「J1残留」を果たした。天皇杯は2年ぶりにベスト8へ進出した。

2006年

チームスローガン:「Challenge the Future

関塚体制3年目。アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退。一方で左サイドに新外国人マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇和樹のハットトリックなどにより6 - 0、第2節の京都戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7 - 2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切り、2006 FIFAワールドカップ前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中にマルクスが東京Vに移籍した一方、MFマギヌンを獲得した。

W杯終了後に日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和G大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。ジュニーニョ、我那覇、中村、谷口博之の4選手がリーグ戦で2桁得点を挙げ、チーム合計84得点(リーグ1位)となった。中村と谷口はJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点の我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。

前年の天皇杯で優勝し、既にAFCチャンピオンズリーグ (ACL) 出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定によりAFCチャンピオンズリーグ2007への出場権を獲得した。

2007年

ファイル:Nabisco Final 2007 Kawasaki.JPG
ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー
チームスローガン:「One for Goal, Goal for One

関塚体制4年目。シーズン前最初の練習試合で新加入のフランシスマールが左膝靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1開幕戦(等々力)で鹿島を下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水に勝利、4月21日に埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和のホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。

4月23日、我那覇和樹が試合後に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグのドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の大分戦から復帰したが、以後は精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年にスポーツ仲裁裁判所で審理される事になったが、仲裁の結果は我那覇にドーピングの事実が認められないとされ、かつ、Jリーグ側に仲裁費用の負担を求める異例の裁定となった。

名古屋から獲得したGK川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の鄭大世は12得点と飛躍、22得点のジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝き、リーグ2位の計66得点を挙げた一方、失点はリーグ11位の48失点に上り、前年を下回る5位でシーズンを終了した。

AFCチャンピオンズリーグ2007は、グループリーグF組を1位で通過したが、準々決勝でセパハンにPK戦で敗退した。

また、9月23日のJ1第26節・戦(柏)で、セパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0 - 4と大敗した。Jリーグ専務理事(当時)の犬飼基昭[20] は「ベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為であってサポーターへの裏切り行為だ」と怒りを顕わにしたが、川崎側は当該試合の前にJリーグ事務局へ予めベストメンバー規定に抵触していない旨を事前確認していた。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し[21]、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。

ナビスコ杯は決勝でG大阪に敗れて準優勝。天皇杯はベスト4で鹿島に敗れた。

AFCアジアカップ2007中村憲剛およびGK川島が日本代表に選出。中村は決勝まで5試合連続で先発起用された。また、代表候補合宿には森勇介黒津勝も初招集された(正式メンバー登録はならず)。FW鄭大世北朝鮮代表に初選出され、東アジアサッカー選手権2008予選大会で3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。

2008年

チームスローガン:「With 12 (supporters)

関塚体制5年目。MFマギヌンが名古屋へ移籍。一方で東京Vへ期限付き移籍していた吉原慎也フッキらがチームに復帰し、千葉より山岸智を獲得した。また、青山学院大学からMF田坂祐介駒澤大学からMF菊地光将早稲田大学からDF横山知伸、下部組織よりトップチームへ昇格のDF吉田勇樹(後にU-19日本代表に選出)らが加入。

開幕戦の東京V戦で試合終盤に追いつかれドローに終わると、続く神戸戦に1-4で大敗。更に神戸戦での起用法を不満としたフッキが4月2日に退団、東京Vへ完全移籍した。その後は安定感を欠いた戦いを強いられ、フッキによる一連の騒動による心労、かねてから罹患していた持病の不整脈の悪化もあり、関塚が検査入院のため離脱。入院こそ免れたものの、ドクターストップがかかり、同月24日に監督を辞任。ヘッドコーチの高畠勉が監督に昇格した。

一方、5月27日には我那覇和樹が、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) にJリーグが科した処分(ドーピング禁止規定違反)の取り消しを求めた問題で、スポーツ仲裁裁判所は我那覇の訴えを認める裁定を下した(ただし、Jリーグ側は誤訳を盾に我那覇本人、及び当時のチームドクターへの正式な謝罪は未だ行われていない)。

6月21日には箕輪義信札幌へ期限付きで放出し、7月8日にはサントスFCのMFヴィトール・ジュニオールを期限付移籍で獲得。7月29日にはFW都倉賢草津に期限付きで放出するも、8月5日にはサントスのFWレナチーニョを期限付き移籍で獲得した。

8月に川崎フロンターレ後援会の会員数が初の2万人を突破。また、この頃から等々力陸上競技場の老朽化及び混雑に対し、競技場の全面改修を求める請願書の提出の一環として、シーズン終盤に10万筆目標の署名活動を行った(最終的に15万4020筆を集め、2月18日に川崎市へ提出)。

シーズン成績は、首位争いに加わり、リーグ最終節まで優勝の可能性を残し、2006年以来の準優勝でシーズンを終え、AFCチャンピオンズリーグ2009の出場権を獲得した。

2009年

2009年シーズン基本フォーメーション
チームスローガン:「ONE STEP

体調が回復した関塚が再び監督に就任、前年途中から指揮を執った高畠は再びヘッドコーチに就任した。

我那覇と箕輪がそれぞれ神戸札幌に完全移籍し、原田拓熊本へ、大橋正博Kリーグ江原へ、レンタル移籍だった都倉賢草津)、西山貴永仙台)が完全移籍するなど7選手が退団。また、FC東京にレンタル移籍していた佐原秀樹のレンタル期間が1年延長された。

主な補強はC大阪へ期限付き移籍していた相澤貴志の復帰、新戦力として、特別指定選手として2004年2005年に所属していた清水矢島卓郎を完全移籍で獲得(事実上の古巣復帰)、レンタル移籍だったヴィトール・ジュニオールを完全移籍で獲得、ジュニーニョも契約期間延長するなど攻撃陣を中心に選手を獲得した(なお、前年に東京Vのレンタル移籍から復帰した吉原慎也が磐田へ再度レンタル移籍)。

ナビスコカップは決勝まで進んだが、2000年、2007年に続き、準優勝に終わった。この決勝戦後の表彰式において、協会名誉総裁の高円宮妃久子はじめ協会幹部やスポンサー関係者の前で、川崎の一部選手が「首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為」、「握手を拒む行為」、「壁に寄り掛かかんだり、しゃがみ込む行為」、「ガムを噛みながらの表彰式参加」といった行動[22] をとったことが問題となった[23]。これを受けて、クラブ側の川崎は謝罪[22]、準優勝賞金5000万円の自主返還、社長ら役員3人の減俸、森勇介の最低1試合の出場停止などの処分を発表した[24]。しかしJリーグ側は賞金返還を受け付けず、代わりにホームタウン活動への使用を提案。サッカーボールや図書、少年サッカーチームへのビブスなどの物品の他、残額は全て川崎市への寄付とされた[25]

リーグ戦では終盤に首位に立つが第32節に大分に敗戦、鹿島に再度首位を明け渡した。優勝は最終節までもつれ込み、「川崎が勝ち、なおかつ鹿島が引き分け以下でなければ川崎の優勝はない」という状況で、12月5日の最終節でに3 - 2で勝利したが、鹿島が浦和に勝ったため鹿島の優勝が決まり、川崎は2年連続で優勝を逃した。天皇杯でも仙台に敗れた。関塚がこのシーズン限りで監督を辞任した。

12月26日に『公益のため多額の私財を寄附した』功に対して、日本政府より褒状を受けた[26]

2010年

チームスローガン:「+α -Plus ALFA-

後任監督にヘッドコーチの高畠勉が就任。コーチ陣ではフィジカルコーチの里内猛がクラブを離れたが、U-18で指導に当たっていたクラブOBの鬼木達がトップチームコーチに就任。

横浜FMから小宮山尊信が完全移籍、スタッド・レンヌから9年ぶりのJリーグ復帰となる稲本潤一を獲得。佐原秀樹FC東京への期限付き移籍から2年ぶりに復帰した。一方、村上和弘が大宮へ移籍。吉原慎也が退団(のちに加入)、山岸智や、養父雄仁久木野聡杉浦恭平などがそれぞれ期限付き移籍した。

2010年のACLは、開幕がJリーグ開幕前の2月下旬にずれ込んだのに対応できなかったのと、アウェー全敗がたたって予選敗退。

2010 FIFAワールドカップ日本代表川島永嗣稲本潤一中村憲剛の3人が選出され、川島は日本の全4試合にフル出場し、ベスト16進出に貢献した。また稲本が終盤での出場で2試合、中村が1試合出場した。北朝鮮代表には鄭大世が選出された。

W杯終了後の7月、川島がベルギー1部リールセSKへ、鄭がドイツ2部VfLボーフムへ移籍。また、先発メンバーから外されたレナチーニョが高畠の采配に不満を訴え、練習ボイコットからブラジルへ無断帰国し、8月末にポルトガル1部ポルティモネンセへ期限付き移籍した。

中断期までは鹿島名古屋を射程圏内に入れていたが、川島の穴を相澤貴志が埋めた一方、鄭の穴を埋めるには至らず、中断期間以降はこれまでの攻撃力に陰りが見えた上、守備でも脆さが露呈するなど先制しても逃げ切れない試合が目立つようになった。その後、次第に上位争いから脱落し5位でシーズンを終了、ACLの出場権も逃した。高畠はシーズン終了後に監督を退任した。

2011年

チームスローガン:「挑 -いどむ-

町田元監督の相馬直樹が監督に就任。DF森勇介東京V稲本潤一の加入などで出場機会を減らした谷口博之がユース時代に所属した横浜FM植草裕樹がレンタル移籍先の山形木村祐志北九州へそれぞれ移籍した。

一方で横浜FMから山瀬功治田中裕介、東京Vから柴崎晃誠を獲得。U-21代表で活躍した實藤友紀をはじめとした6人の新人選手が加入した。

また、強化本部長の福家が退任し、庄子が強化本部長に就任した。

リーグ前半戦、勝ち切れない試合が続く中、第11-18節まで8戦負けなしで一時は3位まで浮上した。しかし、中盤戦(夏場の連戦)以降失速し、7月23日(第6節)の新潟戦から9月11日(第25節)の神戸戦までリーグ8連敗を喫した[27]。9月17日(第26節)の山形戦に勝利して、連敗を「8」で止めた[28] が、連敗脱出後も残留争いに加わり、J1残留は果たしたが、J1復帰以降最低の11位に終わった。

なお、同年3月11日に発生した東日本大震災に対する復興支援活動として、フロンターレは「Mind-1」キャンペーンとしての支援活動を開始し、津波で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市などへの物資提供などを開始し、翌年以降も継続した(地域密着の項目を参照)。

2012年

チームスローガン:「一体感

相馬体制2年目。川崎のエースストライカーとして活躍してきたジュニーニョが鹿島へ完全移籍したほか、通算11年在籍していた相澤貴志[29]町田に、横山知伸C大阪に、菊地光将大宮に、久木野聡栃木SCに完全移籍、棗佑喜が栃木SCに、薗田淳が町田にレンタル移籍、松本拓也がレンタル移籍期間満了につき湘南に復帰、昨シーズン甲府にレンタル移籍していた養父雄仁熊本へ完全移籍、吉田勇樹が現役を引退し、スクール・普及コーチに就任した。

補強は、湘南から西部洋平、C大阪から小松塁、京都から森下俊を完全移籍で、コリチーバFCからレナトジェシグレミオからレネ・サントスをレンタル移籍で獲得、2年間愛媛にレンタル移籍していた杉浦恭平が復帰した。

開幕2連勝と順調なスタートを切ったが、その後は公式戦5戦勝ちなしと低迷。その後3月31日の浦和戦、4月8日のFC東京戦で数的有利でありながら勝てないなど攻撃面での行き詰まりを見せたことや、開幕前後から選手との関係が疎遠になっていた事[30] などを理由に4月11日に相馬を解任した。その後、後任監督決定までの3試合(ナビスコ杯の1試合を含む)をコーチの望月達也が監督代行としての指揮を経て、同月23日、筑波大監督の風間八宏が監督に就任した。中盤こそ故障者が多発したことや決定力不足により苦戦した時期もあったが、11月7日の浦和戦で4対2で勝利した試合から、シーズン終了まで3勝1分と負け無しでシーズンを終える。最終的には前年を上回る8位でフィニッシュした。なお、7月1日に風間監督の長男である風間宏希風間宏矢が入団し、Jリーグ史上初めて同時に父が監督、息子が選手として所属する「親子鷹」が実現した[31]

レナトがシーズン終盤になってチームにフィットして大車輪の活躍を見せたり、大島僚太楠神順平などの成長があったなど攻撃面では収穫があったが、天皇杯4回戦の大宮戦で前半だけで3点をリードしながらも後半だけで4失点して敗退するなど、守備面で課題を残すシーズンとなった。また本拠の等々力が大型改築に入った。

2013年

チームスローガン:「Wing -勝利に向かって進み続ける-

風間体制2年目。12シーズン在籍してきた黒津勝横浜FCへ移籍。前年に主力として活躍した山瀬功治が京都、楠神順平がC大阪、小松塁が大分に、昨シーズン途中から古巣の東京Vに期限付き移籍していた柴崎晃誠徳島へそれぞれ完全移籍。同じくシーズン途中から栃木SCへ期限付き移籍していた田中雄大鳥取に、杉浦恭平神戸へ、安藤駿介が湘南へ、森下俊が横浜FCへ期限付き移籍した。

補強では横浜FMから森谷賢太郎、札幌から山本真希G大阪から中澤聡太、神戸から大久保嘉人、東京Vから新井章太を、新外国人としてパトリックを獲得。棗佑喜と薗田淳が期限付き移籍から復帰した。更には風間の強い要望でトレーニングコーチとして西本直が入閣した(しかし、5月に一身上の都合で退団)。

2005年以来となるアウェイでの開幕戦となった柏戦は3-1で敗戦、その後の大分戦は大久保のゴールのみに留まって1-1の引き分けになるなど、6節を終えて勝ち無し(3敗3分)で第3節までは降格圏に低迷する。しかし7節の仙台戦で4-2でリーグ戦初勝利を挙げると、8節の東京戦で敗れた以降はコンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断まで5月は5試合負け無しで8位と持ち直した。

ナビスコカップでは、2010年以来3シーズンぶりに決勝トーナメント進出を果たした。しかも「ACL出場チーム以外のJ1チームでグループリーグ→グループリーグ上位+ACL出場チームで決勝トーナメント」というレギュレーションになった2005年以降では、初めて自力で決勝トーナメントに進出[32] した。しかし決勝トーナメントで準々決勝の仙台こそ危なげなく勝ち進んだものの、準決勝の浦和戦ではホーム・等々力での2失点が祟り、2戦合計3-3(アウェーゴール数だけなら0-2)で敗退した。

リーグ戦前半戦終了時には首位広島と勝点差8の7位だったが、後半戦に入り8月9月と9試合連続で連勝が出来ない状態が続き、順位も6位と10位の間を推移する。しかし、第27節名古屋戦から最終節までの8試合を3連勝4連勝各1回の7勝1敗。しかも8試合の中で唯一敗れた鹿島戦こそ4失点だったもののそれ以外の7試合を1失点以内に抑え、最終節にはホーム・等々力で横浜FMとの神奈川ダービーを制し、3位に浮上[33]。スコアレスドローも含めての無失点試合は僅か6と2005年の再昇格以降2番目に少ない数字だったが、その失点数を上回る程の得点力(リーグ2位の65得点)を武器にAFCチャンピオンズリーグ2014出場権を獲得した。

天皇杯では高知大学東京V山形と格下相手ながら順調に勝ち進み、4年ぶりにベスト8に入る。初のJ1勢との対決となった鳥栖に延長戦の末敗れた。

2014年

2014年シーズン基本フォーメーション
チームスローガン:「OURS

風間体制3年目。J2時代の2001年からチームを支えてきた伊藤宏樹が現役を引退、風間宏矢大分矢島卓郎が横浜FM、棗佑喜松本風間宏希北九州へ、薗田淳が札幌、鳥取へ期限付き移籍していた田中雄大水戸へ完全移籍、高木駿が千葉へ期限付き移籍、アラン・ピニェイロロブソンが期限付き移籍期間満了、谷尾昂也(鳥取)杉浦恭平(神戸)が期限付き移籍先に完全移籍、昨年横浜FCに期限付き移籍していた森下俊磐田に期限付き移籍した。

補強は、大分から森島康仁、横浜FCから武岡優斗を完全移籍で、栃木からパウリーニョ大宮から金久保順を期限付き移籍で獲得、安藤駿介が期限付き移籍から復帰、昨年途中に特別指定選手として登録された筑波大学のMF谷口彰悟阪南大学のMF可児壮隆が入団した。

2014年のACLでは、最初のアウェー2戦(蔚山現代ホランイウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC)こそ落としたものの、Jリーグの日程を調整したり[34]、ホームで負けなかったのに加え、広州恒大の3冠を阻止した中国FAカップ王者・貴州人和にアウェーで勝った事がものを言い、2009年以来5年ぶり3回目の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメントでは前年のファイナリストであるFCソウルと対戦。等々力での第1戦で2-3で敗れた事で、第2戦こそ2-1で勝利しトータルスコア4-4だったものの、アウェーゴール数で下回り(川崎の2に対しFCソウルは3)ベスト16で姿を消した。天皇杯は3回戦で愛媛FCに敗れ、ACL出場に伴い決勝トーナメント準々決勝からの出場となったナビスコカップはC大阪にこそ2戦合計5-4で勝ちあがったものの、小林を代表招集で失った準決勝のG大阪に2戦合計4-5で敗れ、準々決勝からの不安材料だった守備の脆さが露呈された形で2年連続準決勝敗退となった。リーグ戦では15節から26節までは僅か2敗とACL出場権争いの4位以内はキープできていたが、終盤は不安定だった。当時首位だった浦和や鳥栖を破ったかと思えば、鬼門であるデンカビッグスワンスタジアムで2012年以外勝ちの無い新潟にあっさり負けたり、J1残留争いを演じる甲府と清水とのゲームに先制しながらも2試合続けて逆転負けする有様。おまけに主将の中村が左足関節骨棘障害で離脱したのが祟り、中村が先発から外れた最後の6試合で1分け3敗と急失速し、得点王を2年連続で獲得した大久保の頑張りも報われず、ACL出場圏も逃し6位に終わった。

2015年

チームスローガン:「ATTRACTIVE

風間体制4年目。田中裕介オーストラリアウエスタン・シドニーへ、稲本潤一が札幌へ、杉山力裕清水へ完全移籍、福森晃斗が札幌へ、可児壮隆湘南へ、森島康仁が磐田へ、中澤聡太C大阪へ期限付き移籍、パウリーニョジェシ金久保順が期限付き移籍期間満了につき退団した。また高木駿森下俊の期限付き移籍期間が延長した。

補強は、仙台から角田誠、大宮から橋本晃司、松本から船山貴之、C大阪から杉本健勇徳島から松井謙弥を完全移籍で、アメリカFCからエウシーニョを期限付き移籍で獲得。ユースから板倉滉三好康児が昇格し、昨年途中に特別指定選手として登録された筑波大学車屋紳太郎、同じく筑波大学の中野嘉大が入団した。 4月25日のJ1リーグ1st7節ヴァンフォーレ甲府戦において2000年J1リーグ初参入から11シーズン余りで、ホーム等々力陸上競技場でのJ1リーグ戦通算100勝目を達成。

2000年から社長を務めていた武田信平が会長に就任。後任の社長には藁科義弘が就任した。

6月には、2007年から6シーズン在籍し、ドイツ・ブンデスリーガ2部VfLボーフムに所属していた田坂祐介が3年ぶりに復帰した。

1stステージ開幕戦、アウェイ横浜FM戦は3-1で勝利した。ホーム開幕神戸戦は引き分け第3節の山形戦で敗戦を喫するものの4月に入り、2勝1分1敗と調子を取り戻した。9節のFC東京戦では大久保嘉人がJ1の通算得点で横浜FCの三浦知良と肩を並べた。14節にはアウェイ清水戦で2-5と大敗を喫したが1stステージ終盤に3連勝を飾り1stステージは5位で終えた。

7月にはホーム等々力に香川真司擁するドイツブンデスリーガの強豪ドルトムントを迎えての親善試合を行ったが、試合は香川の得点を含む6 - 0で敗戦、ドイツの強豪を相手に一点も取れずに大敗した。

ナビスコカップでは予選リーグ6節までに2勝1敗2分で終え予選リーグ最終節仙台戦に予選突破の望みを繋いだが仙台に引き分けナビスコカップは予選リーグ敗退となった。

2ndステージに入り開幕戦はFC東京に勝利したものの開幕戦直後に攻撃の主力レナトが中国・広州富力へ電撃移籍し、その後6節の山形戦で引き分けると3連敗を喫し4試合で2得点と失速した。9月に入り4連勝で16得点を重ね、CS出場への可能性を残したが14節で広島に敗れCS出場の可能性が消滅した。リーグ終盤戦に再び失速し1分2敗したものの最終節は仙台相手に勝利を収め、リーグ戦は2ndステージ7位、年間順位は6位で終えた。また大久保がシーズン23得点を挙げ史上初となる3年連続J1単独得点王に輝き、通算156得点となり中山雅史の通算得点記録157得点まであと1点に迫ったが惜しくも今シーズンの達成はならなかった。

天皇杯では2回戦で中国リーグ所属の松江シティFC[35]に、3回戦でJ2の京都にそれぞれ勝利、4回戦では前年チャンピオンのG大阪と対戦、唯一残されたタイトルだったが0-2と完敗し天皇杯は4回戦で姿を消すこととなった。

また、等々力陸上競技場のメインスタンド改修工事も完成し、3月のJ1開幕から供用された。これに合わせてチームは新スタンドのグラフィックや断面図をデザインした特別ユニフォームを試合で着用した[36]

2016年

チームスローガン:「CHALLENGE THE FUTURE

風間体制5年目。西部洋平が清水、船山貴之山本真希が千葉、杉本健勇がC大阪、山越享太郎が栃木、實藤友紀福岡松井謙弥が大宮へ完全移籍、湘南に期限付き移籍していた可児壮隆、千葉に期限付き移籍していた安柄俊金沢へ期限付き移籍、角田誠(清水)、中澤聡太(C大阪)、森島康仁森下俊(磐田)はそれぞれ期限付き移籍先へ完全移籍、福森晃斗は札幌への期限付き移籍期間が延長、アルトゥール・マイアが期限付き移籍期間満了により退団した。

補強は、北九州から大塚翔平、千葉から森本貴幸、柏から狩野健太、京都から原川力、札幌から昨シーズンFC東京に期限付き移籍していた奈良竜樹という大島と共に参戦したAFC U-23選手権2016を制したU-23サッカー日本代表コンビに加え、水原三星ブルーウィングスから鄭成龍(チョン・ソンリョン)アヴァイFCからエドゥアルド・ネットを完全移籍で獲得、高木駿が期限付き移籍先から復帰、順天堂大学から長谷川竜也が入団した。また、昨シーズンまで背番号16をつけていた大島僚太が今シーズンから背番号10をつけることとなり、クラブで初めて日本人選手が10番を付ける事になった。この他、シーズン中に柏からエドゥアルドを期限付き移籍で獲得した。

1stステージ開幕戦で昨年のリーグ王者広島に勝利すると、ここから7節まで5勝2分と良い出だしを切った、8節は浦和との上位直接対決に敗れたものの、ここから更に5勝2分と好調を維持し1stステージ残り2試合で首位に立ち自力優勝の可能性を残し2位鹿島と勝ち点1差で迎えた16節アウェイでの福岡戦、中村憲剛を怪我で欠く厳しい状況。試合は前半15分までに金森健志一人に2点を奪われ、最下位福岡相手に2点を追う厳しい展開に、その後2点を返し試合は2-2の引き分けに終わったが鹿島が勝利した為2位となり自力優勝の可能性は消滅した、最終節は大宮に2-0で勝利したものの1stステージ優勝は僅かに届かずステージ順位2位で終えた。

気を取り直して挑んだ2ndステージは小林が好調をキープし、開幕節となるユアテックスタジアム仙台での仙台戦から味の素スタジアムで行われたFC東京との多摩川クラシコまで全てゴールを挙げて、迎えたShonan BMW スタジアム平塚で行われた湘南との神奈川ダービーで2-0とリードして迎えた後半15分、橋本のコーナーキックに頭で合わせ、それまで並び、自身も師匠と敬うジュニーニョのクラブ記録を更新する6試合連続ゴールを挙げた。またその神奈川ダービーも3-2で競り勝ち、クラブ史上新記録となる15戦無敗も記録、最終的には8月13日にベストアメニティスタジアムで行われた鳥栖戦で敗れ、8試合連続ゴールのかかった小林もノーゴールに終わるが無敗を16に伸ばした。

9月25日の横浜FM戦はアディショナルタイムで小林が決勝点を決め劇的勝利。年間勝ち点では13節まで首位を守るものの、終盤戦は不安定な成績となり、勝ち点年間1位の可能性を残していた最終戦のG大阪戦でも逆転負けし[37]、浦和に次ぐ年間2位でクラブ史上初のJリーグチャンピオンシップ出場となった。チャンピオンシップ準決勝はホーム開催となったが、金崎夢生の一発に沈み鹿島に0-1で敗れ、決勝進出とはならず、総合順位としては年間3位[38]でシーズンを終える事となった。一方、天皇杯では順調に勝ち進み、準決勝では大宮を下して翌2017年シーズンのACL本戦出場権獲得を果たした[39]。2017年1月1日に行われた天皇杯決勝(クラブ史上初の元日決戦)では、鹿島に先制されるもののその後小林のゴールで追いついて同点とし、延長戦へと持ち込んだものの、この試合を最後に鹿島を退団するファブリシオの一発に沈み1-2で準優勝。2000年のナビスコカップ(今のルヴァンカップ)に続いてまたも初タイトルを鹿島に阻まれる事になった。

なお、J1終盤戦が続いていた10月14日に風間監督の契約満了に伴う退任、11月7日に鬼木達コーチの来季新監督就任と、Jリーグクラブでは異例となる早期での翌シーズン体制発表が行なわれていた[40]

2017年

2017年シーズン基本フォーメーション
チームスローガン:Paint it Blue

前年の発表通り、風間前監督[41]に代わり鬼木達新監督が指揮を執った。大久保嘉人がFC東京、高木駿大分、金沢へ期限付き移籍していた安柄俊熊本に移籍。原川力が鳥栖、中野嘉大が仙台に期限付き移籍、福森晃斗が期限付き移籍先の札幌へ完全移籍した。

補強は大宮から家長昭博、G大阪から阿部浩之新潟から舞行龍ジェームズを完全移籍で獲得、エドゥアルド・ネットエドゥアルドが完全移籍に移行、ユースから田中碧桐光学園高校からタビナス・ジェファーソン愛知学院大学から知念慶が入団した。

3シーズンぶりの出場となったACLは水原三星ブルーウィングス、2度のACL制覇を誇る広州恒大香港イースタンSCと同組に。ホームでの初戦は小林のゴールで先制するも、オウンゴールでドロー決着。鬼木新体制は1-1で発進することとなった。次節のイースタンSC戦ではPKを献上した奈良が退場するなどして苦しめられるが、板倉のプロ初ゴールによりかろうじて引き分けに持ち込んでいる。ACLに関しては、このあともアウェイ、ホームの2連戦となった広州恒大戦が連続ドローと結果が出ず、グループステージ4戦連続引き分けという珍しい戦績となった。後がない状態で迎えた敵地でのACL第5節水原三星戦は奈良のゴールを守り切り1-0で勝利。自力でのグループステージ突破の可能性が復活すると、最終戦のホームでのイースタンSC戦を4-0で快勝しグループステージを首位で通過した。決勝トーナメント1回戦はムアントン・ユナイテッドとの対戦となる。アウェイでの第1戦はタイ特有の蒸し暑さに苦しみ先制点を奪われるものの、中村、小林という新旧キャプテンのゴールで逆転するとセンターフォワードに固定されてブレイクした阿部が追加点を奪い3-1で逆転勝ち。第2戦も小林、長谷川、エドゥアルド・ネット、ハイネルのゴールで4-1と連勝し、3回目の準々決勝進出を果たす。準々決勝では浦和との日本決戦。等々力での第1戦は小林の2ゴールとエウシーニョのACL初ゴールで3-1と快勝。圧倒的有利な状況で迎えた埼玉スタジアムでの第2戦もエウシーニョの先制点が決まり、2戦合計4-1と圧倒的に有利な状況に持ち込む。ところが興梠慎三に同点ゴールを許すと、その興梠に対する車屋のチャレンジが危険なプレーとして認定され一発退場に。試合はここから暗転した。ズラタンラファエル・シルバと立て続けにゴールを奪われ2戦合計4-4と同点に追いつかれると、更に後半41分に高木俊幸にループシュートを沈められ2戦合計で逆転を許した。試合はそのまま1−4で敗戦となり、2006年11月11日のJリーグ・多摩川クラシコ(味の素スタジアム)を彷彿とさせるまさかの大逆転負け。試合時間は残すところ6分+アディショナルタイムだったが、初の準決勝進出を逃す結果となった。

ルヴァンカップではACL出場に伴って決勝トーナメントからの出場となる。初戦のFC東京には2戦合計7-1と大勝して3年ぶりに準決勝に進出する。 準決勝の相手はクラブ史上初のベスト4に勝ち進んだ仙台だった。ユアスタでの第1戦では前半は0-3と大量リードをゆるすも、後半アディショナルタイムにルーキーの知念が貴重なプロ初ゴールを奪うなど2-3としてアウェイゴールをホームに持ち帰った。勝利が最低条件となる等々力での第2戦では三好が今シーズン初ゴールを決めたが、後半に奈良が退場し一時は2戦合計4-4となる苦しい展開となるもACLの敗退の反省を生かして逃げ切りを図り、途中出場の長谷川の追加点で試合を決定づけた。苦しみながらも若手の活躍もあり、結局2戦合計5-4とし、前身のヤマザキナビスコカップを含めて8年ぶり4度目の決勝進出を果たした。 決勝戦は2017年シーズンに限っていえば、リーグ戦では1勝1敗のイーブンの成績ながらも鳥栖時代から通算成績で3勝5敗と相性の良くない尹晶煥監督率いるC大阪だった。 試合は奈良を出場停止で欠く最終ラインに開始1分でミスが発生。エドゥアルドがクリアを焦って空振りしこれを杉本に決められて先制を奪われる。2015年シーズンにプレーしながら1年で放出した杉本の手痛いしっぺ返し弾が重くのしかかった。シュート数で言えば6本だったC大阪の倍近い11本を放つが、最後まで得点を挙げられず。逆に同点ゴールを狙う後半アディショナルタイムにカウンターを受け、ソウザに決定的な追加点を奪われた。川崎は0−2で敗れ2000年、2007年、2009年に続きまたしても決勝で無得点のまま敗戦し、準優勝となった。[42]

2017年のJ1は、チームの得点源だった大久保がFC東京に移籍した事により、その大久保の穴埋めが懸念されていたが、チームキャプテンの小林が大久保に代わり、チームの得点源として活躍。開幕戦のアウェー・大宮戦に2-0で勝利する。前半戦こそはエドゥアルドが右肩関節反復性脱臼で手術を行い4か月ほど離脱したり、エウシーニョが2月に脛骨骨折、舞行龍ジェームスが右膝外側半月板損傷で離脱し、その後国内の公式戦をほぼ全休する等野戦病院と化すほどの故障者が続出して最低順位9位になる等、一時は苦しい展開があったものの、シーズン通じて連敗がなかった。また、課題だった守備もシーズンが進むにつれ改善された。怪我人が戻り序盤は故障で出遅れた一人である家長がフィットしだしたJ1第19節での敗戦以降は、リーグ戦では15試合負けなかった。また連勝は最長でも3止まりだったものの、チャンスをものにして大量得点を奪っての完封勝ちの多さでカバーした。 J1第21節終了時点では、首位だった鹿島との勝ち点の差は最大7点差だったが鹿島が勝ちきれない試合が多くなるにつれ、鹿島との勝ち点の差はどんどん小さくなっていった。第29節のホーム等々力での仙台戦では、チームは退場者を出しながらも後半37分以降の5分間で3得点を決め、0-2のビハインドからの逆転勝利を飾り、第32節のホーム等々力でのG大阪戦ではシュートを25本近く放つもゴールを奪えずにいたが、後半37分にコーナーキックからエウシーニョが25本目のシュートで点をとり、1-0で勝ち点3を取り切り勝負強さを発揮したシーズンでもあった。第33節では、ACLで歴史的逆転負けを喫したアウェーでの浦和戦(11月29日)に1-0で勝利し、鹿島がホームでの柏戦(11月26日)では引き分けに終わった為、首位・鹿島との勝ち点の差が2に縮まった。

そして迎えたJ1最終節ではホーム等々力での大宮戦では開始早々前半1分に阿部が先制点を記録、さらに小林がハットトリックを決め最後は長谷川が締めのゴールを挙げ川崎が5-0と大勝した。一方の鹿島はアウェー・磐田と対戦し、0-0のスコアレスドローに終わった。この結果、川崎は鹿島とは勝ち点72で並んだものの、得失点差では鹿島の+22を上回る+39だったため、順位が逆転、1999年のJ2発足初年度に所属していたクラブとして史上初のJ1リーグ優勝[43]と磐田、柏に続き1993年のJリーグ開幕時に所属していたクラブ以外で3クラブ目のJ1リーグ優勝、クラブ創設21年目にして初めての主要タイトル獲得を達成した。リーグ優勝が得失点差で決まった(優勝と2位の勝ち点が等しかった)のはJリーグ史上初である[44]。また得失点差の+39はチーム史上最多、総失点32はチーム史上最少[45]、年間4敗はリーグ史上最少であった。シーズン中一度も首位に立つことなく最終節で首位になり逆転優勝を果たした。これは07年シーズンの鹿島以来10年ぶり2回目のことであった。

個人では、鬼木達監督が優勝監督賞を受賞したほか[46]、最終節前は杉本に2ゴール差をつけられながらハットトリックを達成し23得点を記録し得点ランキングトップに立った小林が、Jリーグ史上6人目となる最優秀選手賞と得点王とのダブル受賞を達成した[47]。また小林に加え、エウシーニョ、車屋、中村がベストイレブンに[48]、さらにこの4人に加え、谷口、阿部、大島の7選手が優秀選手賞に[49]それぞれ選出された。

2018年

チームスローガン:GO Sensational !

鬼木体制2年目。狩野健太大塚翔平が契約満了、中村に次いで2番目に長く在籍した井川が香港のイースタンSC、森本貴幸福岡JFL今治へ期限付き移籍していた可児壮隆鳥取へ完全移籍、板倉滉が仙台、三好康児が札幌に期限付き移籍、中野嘉大(仙台)、原川が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、ハイネルが期限付き移籍期間満了で退団した。

補強はFC東京から2シーズンぶりに加入する大久保をはじめ、鹿島[50]から赤﨑秀平山形から鈴木雄斗、いずれも神奈川ダービーのライバルで湘南から下田北斗、横浜FMから齋藤学を完全移籍で獲得。ポープ・ウィリアムが完全移籍に移行し、阪南大学から脇坂泰斗流通経済大学から守田英正が入団した。

初出場したFUJI XEROX SUPER CUPでは、昨年のYBCルヴァンカップ決勝でも戦ったC大阪と対戦。山口蛍清武弘嗣の生え抜き2人に決められ2点を先行され、1点を返すも昨年のACL準々決勝第2戦で決勝点(2戦合計4-5とするゴール)を決められた高木に今年も決められて、小林、1年で復帰した大久保という新旧得点王のゴールも実らず2-3で敗れ準優勝。2009年のFUJI XEROX SUPER CUPから続くJリーグ王者の連勝を9で止めてしまったばかりか、1994年と1995年に優勝したヴェルディが1997年に敗れたのも含めて神奈川県にあるクラブの連敗を6としてしまった[51]

リーグ戦では、代表活動による中断明け最初の上位決戦に当たる第5節の広島戦で初黒星を喫したが、昨年の第20節のFC東京戦から今年の第4節の名古屋戦までクラブ新記録となる19試合連続無敗となった。だがその反面、優勝を争った鹿島と共に2年連続で出場したAFCチャンピオンズリーグ2018では、ヒュンダイ・A・リーグ2位だったメルボルン・ビクトリー中国スーパーリーグ2位の上海上港韓国FAカップ優勝の蔚山現代と同組。FUJI XEROXからの悪い流れを断ち切れず、車屋が出場停止だった初戦の上海上港戦はその左サイドから攻められた結果、エウケソンのゴールに沈み、続く敵地の蔚山現代戦ではポゼッションこそ優位に立つものの、中村を欠いてか自慢のパスワークを封じられ自陣でショートカウンターを喰らって2失点を喫し連敗。第3戦のメルボルン戦はエウシーニョのゴールでこの大会初めて先制点を挙げるも、8分後車屋のオウンゴールで追いつかれ前半を折り返すと、10分見事なパスワークから小林のラストパスに登里が合わせ勝ち越し。その後決定機を作り出そうとするも追加点を奪えないでいるとロスタイムに奈良がPKを献上しドロー。勝ちゲームを引き分けにしてしまうと続く敵地でもロスタイムにゴールを奪われて勝ちどころか引き分けに持っていく事すら出来ずに自力での決勝トーナメント進出が潰え、上海体育場での上海上港戦の試合前にグループステージ敗退が決定。その後も上海上港戦は先制点を奪われて知念のゴールで引き分けに持っていくのがやっと。最終戦の蔚山現代戦は怪我からの復帰を果たした武岡や舞行龍ジェームス、新戦力の鈴木と下田と斎藤を先発させ、その鈴木、既存戦力の長谷川のゴールで2点リードで前半を折り返すも、後半は一転して蔚山現代にペースを奪われ、後半10分も持たずに2失点とリードを吐いてしまいそのままタイムオーバー。2013年の広島、2016年のG大阪に続いて日本サッカー史上3チーム目のACLグループステージ勝利なしで敗退する不名誉な記録を残した。

ACLの敗退後、最後までJリーグの優勝を争った鹿島、敵地での鳥栖、神戸と連勝したものの、準々決勝までACLの優勝を争った浦和には興梠に2点を奪われ、多摩川クラシコのFC東京に当時リーグ2位の9失点と堅守は健在ながらそのうちの4点と4割を占めるセットプレーの弱さを太田宏介に突かれ、橋本拳人森重真人に奪われ当時5年連続で多摩川クラシコでゴールを挙げた大久保も含めてノーゴール。6年ぶりに等々力でFC東京に敗れ、鬼木体制初の連敗を喫した。

成績

タイトル・表彰

国内タイトル

表彰

最優秀選手(MVP)
ベストイレブン
得点王
  • 2007年:ジュニーニョ
  • 2013年:大久保嘉人
  • 2014年:大久保嘉人
  • 2015年:大久保嘉人
  • 2017年:小林悠
フェアプレー個人賞
優勝監督賞
Jリーグカップ

その他

ユニフォーム

テンプレート:ユニフォームの色2

チームカラー

  •      サックスブルー[1]    ブラック[1]

ユニフォームデザイン

  • 2004年から右袖に「KAWASAKI」の文字が書かれたワッペン、選手やスタッフ用には「市の花」であるツツジ刺繍が付けられている。
  • 2011年のユニホーム右脇部には川崎市高津区出身の岡本太郎デザインによる「挑」の文字が付けられていた。
  • 2014年の1stユニフォームは川崎市の市制90周年を記念して川崎市の全7区のシンボルマークをモチーフとした市松模様となっている。また、背番号の下にふろん太のシルエットが隠れている。ただし、ACL仕様の1stユニフォームは2ndユニフォームの色違いである。
  • 2016年の1stユニフォームは「原点回帰」をコンセプトに20周年記念として創立当時のストライプ柄を採用[52]。ただしサプライヤーはペナルティではなくプーマである。
  • 2016年はクラブとしては初となるカップ戦限定デザインユニフォームを採用(1stユニフォームのみ)。2009-2010シーズンのデザインの復刻版となっている[52]。こちらもサプライヤーはアシックスではなくプーマである。
  • AFCチャンピオンズリーグについては規定によりスポンサーは1社に限られているため、FUJITSUの胸ロゴのみ[53] 表記され、左袖に大会のロゴ、背番号上には選手名(アルファベット表記)を入れている。


テンプレート:Football kit box テンプレート:Football kit box

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
富士通 FUJITSU 1997年 - 2013年 - 2017年の2ndユニフォームは「arrows」表記
(2015年までは旧ロゴの「ARROWS」表記、ACLでは1st、2nd共に「FUJITSU」表記)
鎖骨 富士通ビー・エス・シー 富士通
ビー・エス・シー
2018年4月 -[54]
背中上部 SMBC日興証券 SMBC日興証券 2011年4月 - 2005年 - 2007年途中は商品名のピーカブー
(2007年途中 - 2011年3月は「日興コーディアル証券」表記)
背中下部 富士通エフサス 富士通エフサス 2018年 - 1998年 - 2004年は背中上部(「Fsas」表記)
富士通
マーケティング
富士通
マーケティング
2011年 -
パンツ PFU PFU 2003年 - 2005年
2009年 -

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォーム

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 鎖骨 背中上部 背中下部 パンツ サプライヤー
1997 FUJITSU 解禁前 NIFTY 解禁前 富士通ゼネラル - PENALTY
1998 Fsas FUJITSU GENERAL
1999 富士通ゼネラル asics
2000
2001
2002
2003 PFU
2004 NOEL
2005 ピーカブー
2006 ふくしまの米
2007 ピーカブー /
日興コーディアル証券
2008 日興コーディアル証券
2009 富士通ゼネラル
エアコン
PFU
2010
2011 日興コーディアル証券 /
SMBC日興証券
富士通
マーケティング
PUMA
2012 SMBC日興証券
2013 FUJITSU (1st)
ARROWS (2nd)
2014 FUJITSU (Jリーグ仕様1st・ACL用)
ARROWS (Jリーグ仕様2nd)
2015 FUJITSU (1st)
ARROWS (2nd)
2016 FUJITSU (1st・カップ戦)
arrows (2nd)
@nifty
2017 FUJITSU (Jリーグ仕様1st・ACL用)
arrows (Jリーグ仕様2nd)
2018 FUJITSU -/
富士通
ビー・エス・シー
富士通エフサス
  • この他、1997 - 98年は旧JFL、1999年以降はJリーグのロゴが右袖に付く。
  • 1998年 - 2004年の背中スポンサー、富士通エフサス (Fsas) の会社名は「富士通サポートアンドサービス」。
  • ノエル (NOEL) は、2005年途中にCIの変更によりロゴが変更されたが、2005年シーズンは旧ロゴのままで、2006年シーズンより新ロゴに変更された。
  • 2007年9月30日の金融商品取引法施行に伴い、日興コーディアル証券(当時)はユニフォームでの掲示名を商品名の「ピーカブー」から自社名に変更。ちなみに、このマスコットはホームゲームでたびたび登場し、川崎のマスコットであるふろん太とは大の仲良しである。なおピーカブーは2014年5月末まで応援マスコットとして活動した後、同年6月にキャラの使用権利が日興からクラブへ「完全移籍」することになったため頭の部分を青色にした上で公募で「カブレラ」と改名された。
  • 2013年 - 2017年の2ndユニフォーム胸スポンサーのARROWSは富士通のスマートフォンタブレット端末のブランド名。ただし、2014年及び2017年のACL仕様の2ndユニフォームはロゴが赤色のFUJITSUとなっている。
  • ARROWSのロゴは2015年途中に従来の大文字から小文字のarrowsに変更されたが、2015年シーズンは旧ロゴのまま、2016年より変更された。

スポンサー

アカデミー

  • 川崎フロンターレU-18
  • 川崎フロンターレU-15
  • 川崎フロンターレU-13
  • 川崎フロンターレU-12
  • 川崎フロンターレU-10

新聞などによるチーム略称の表記

ファイル:AZZURRO NERO.JPG
川崎フロンターレオフィシャルショップAZZURRO NERO (アズーロ・ネロ)
  • 2000年まで[55] は川崎市に本拠地を置くJリーグチームがヴェルディ川崎(V川崎)を含め2つあったので、区別の意味合いで川崎Fと表示していた。
  • 2001年以後、ヴェルディが東京都にホームタウンを移してからも、Jリーグ公式サイトやJ's GOALでは川崎Fと表記されているが、川崎と記載されるケースもある(ウィキペディア日本語版も後者で表記)。なお、スポーツ新聞では日刊スポーツとスポーツニッポンは川崎Fと表記しているが他は川崎表記である。
  • 本拠地等々力陸上競技場アウェーゴール裏2階席上部に2014年まであった電光スコアボード(スタジアム改装に伴い2015年以降は大型ビジョン化)のチーム表記は2010年までは川崎Fと表記されていたが2011年からは川崎と表記されていた。

運営会社

  • 1997年 - 2001年: 富士通川崎スポーツマネージメント株式会社
  • 2002年 - 現 在: 株式会社川崎フロンターレ

地域密着

富士通サッカー部1996年にプロ化を推進するにあたり、Jリーグの理念に沿った地域社会との共生を目指すことをテーマに掲げた。地元川崎市の各行政区でのサッカースクール(学校巡回スクール含む)の実施といったサッカーに関わることだけでなく、地域の市民・区民まつりへの参加、市内各商店街等の行事への選手らの派遣(お年始など)、また地元商店街加盟店舗などの協賛によるマン・オブ・ザ・マッチの表彰制度「あんたが大賞」、週末のホームゲームでのサイン会等を積極的に行うように務めた。特に、クリスマスシーズンに行われる入院児への訪問活動「青いサンタクロースは毎年恒例の奉仕活動として定着している。

一方、ホームタウンである川崎市も2004年9月に「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定。フロンターレはこの創設メンバーとして認定を受け、これに基づく活動を推進していくことになった。また、その中で、川崎市は他の地元企業・団体、またサポーター持株会と共に、運営会社(当時の富士通川崎スポーツマネジメント)の株式の一部を取得した。現在は富士電機富士通グループ各社のほか、川崎市に本社や事業所を持つ企業・公益法人など36の団体が出資している。特に富士通系のスポーツクラブではフロンターレのほか、女子バスケット「レッドウェーブ」アメリカンフットボール「フロンティアーズ」もこのパートナーに参加しているが、男子バレーボール「川崎レッドスピリッツ」は、富士通系で唯一まだこのパートナーに加盟していない。2016年からは男子バスケットボールのジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)でとどろきアリーナをホームとする「東芝川崎ブレイブサンダース」とのコラボレーション企画を発表し、ホームゲーム同日開催時のチケット割引サービスなどを実施している[56]

2006年はクラブ創立10周年に当たり、川崎市商店街連合会を通じ、市内の全商店街の街灯にチームの応援タペストリー(ふろん太のデザイン)を配布。2006年1月の時点では、タペストリー掲示を了解したのが加盟全139団体(商店街以外を含む)中68団体と紹介されている。両者の良好な関係はその後も続き、2014年には同連合会に加盟する市内全域の11地区の商店街連合会[57] 全てと市連合会の青年部が「あんたが大賞」として、フロンターレの主催試合で最も印象に残る活躍をした同チームの選手 (MIP) に各地区の名産品などの商品を贈り[58]、持株会の理事長には川崎市商店街連合会の相談役(元会長)である和田義盛が就任している[59]

また広報担当者のインタビュー記事には、後援会員の75%が等々力陸上競技場と富士通本店・川崎工場のある中原区、クラブ事務所のある高津区、そして市が整備しフロンターレが指定管理者となって2006年4月に開業した「フロンタウン・さぎぬま」(フットサル場)のある宮前区の3区在住者で占められるとあり、クラブ方針としても特にこの3区での営業活動を先行して重視するとしている。

川崎競馬場2006年11月2日JBCマイル競走の前座として「祝10周年・フロンターレ特別」が行われた[60]

またトップチームの麻生練習場がある麻生区では2009年に「麻生アシストクラブ」が発足した。「しんゆり・芸術のまちづくりフォーラム」内に事務所が置かれ、商店街や各種団体などが構成する同クラブを川崎市役所(麻生区役所)やフロンターレが後援する形を取って、同区内での広報・支援活動を展開する事になった[61]。同クラブでは小田急電鉄の協力も受け、麻生練習場の最寄り駅である小田急多摩線栗平駅のホーム脇陸橋に告知看板を出すなどの活動をしている[62]

スポーツ交流パートナー事業以外の異競技交流では大相撲春日山部屋が川崎市川崎区にある[63] という縁で、フロンターレのファン感謝デーに春日山部屋の力士をゲスト出演として招き、フロンターレの主催試合では春日山部屋の所属力士が同部屋のちゃんこを販売する屋台が競技場外の広場に毎回出店されている。また、毎年1度は同部屋の力士が等々力陸上競技場を訪れ、相撲にちなんだイベントを行う「イッツァスモウワールド」[64] を実施している。2014年は開催が途切れたが、2015年4月29日のJ1・1stステージ第8節、柏レイソル戦では2年ぶりに開催され、同部屋力士によるアトラクション、特製ちゃんこなどの飲食販売、等々力陸上競技場での枡席の設置、選手入場前の呼出による両チーム名の読み上げなどが行われた。なお、この時の開催は日本相撲協会も後援し、本場所(五月場所)のチケット販売、特製焼き鳥の販売、マスコット「ひよの山」の来場[65]、始球式では人気の高い振分親方(現役時代は高見盛精彦)の参加などで協力した[66]。一方、2009年からは毎年1回、両国国技館での本場所でフロンターレが告知してサポーターが集まる春日山部屋応援ツアーが実施され、同部屋所属の春日王克昌などの応援に駆けつけ(2010年9月13日 NHK総合テレビジョンBizスポ」より)、2011年も九月場所(秋場所)9日目の9月19日に実施された[67]。春日王は大相撲八百長問題によって2011年4月に引退したが、同年の「イッツ・ア・スモウワールド」開催日となった5月3日のジュビロ磐田戦では春日王が試合前にグラウンドに登場して引退報告と今までの支援への感謝を述べ、5月28日に行われた春日王の断髪式には武田社長が参加した[68]

プロボクサー新田渉世が川崎市多摩区に開いている川崎新田ボクシングジムとも協力関係にあり、2011年8月16日にとどろきアリーナで行われた同ジム主催の興行ではふろん太が登場し、「日本マスコット級タイトル決定戦(非公認)」として一平くん愛媛FC応援マスコット)と対戦して勝利した後、メインイベントだった黒田雅之の日本ライトフライ級タイトルマッチでのラウンドボーイを務めた[69]

2009年からは地元密着のための事業の一つとして、小学6年生用のオリジナル算数ドリルを作成し市内の小学校に配布している[70]。これはプレミアリーグアーセナルがロンドン市と共同で毎年製作している外国語学習教材にヒントを得たもので[71]、初年度は市内の1校のみに配布されたが、2010年は前年のナビスコ杯準優勝の賞金を原資に市内の全小学校及び特別支援学校に配布先を拡大[72]。2011年からは川崎市からも補助金が出るようになった[73]。このドリルを題材とした小学生と選手の交流授業「算数ドリル・ゲストティーチャー」も行われている他[72]、2011年には東日本大震災で被害を受けた岩手県陸前高田市の小学校にも同ドリルが寄付された[74]

これらの活動を広くまとめた書籍として、2011年6月17日にフロンターレプロモーション部部長の天野春果が『僕がバナナを売って算数ドリルを作るワケ』を小学館から出版し、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」などでも紹介された[75]。天野は2016年11月2日に同社から2冊目の著書『スタジアムの宙にしあわせの歌が響く街』を出版してマスメディア各社から取り上げられ、2017年2月からは2020年東京五輪パラリンピック組織委員会へ出向した[76]

2016年3月現在、Jリーグが実施しているスタジアム観戦者調査において、2010年シーズンから5年連続で地域貢献度1位の評価を得ている。

毎試合、先発メンバー発表後にサポーターが市民の歌『好きです かわさき 愛の街』の1番を歌うことが慣例となっている。

ロスタイム終盤にチームがリードしている時は『アバンテ川崎』(もとはTRF8枚目のシングルであるCRAZY GONNA CRAZYのサビを取ったもの)を歌う事になっている。

応援番組

後援会

1997年のクラブ発足当初から存在していたファンクラブと、1999年に川崎市が設立した市民後援会が合流し、2001年から現在の川崎フロンターレ後援会の形となった。愛称は「ブルーフレンズ[77]」。後援会長は事実上川崎市長の充て職で、初代は高橋清、その後は長く阿部孝夫が務めた後、2013年11月からは福田紀彦が就任している。毎年7月1日の市制記念日[78] 付近で行われる「市制記念試合」では、後援会長を兼任する市長が試合前に挨拶をするのが恒例となっている。

後援会員には個人・ファミリー(同一住所の2-4名)・ジュニア(小中学生)[79] の3種別があり、特典として、「ホームAゾーン招待チケット」[80]、「会員限定イベント参加権」、「シーズンチケット購入権」、会報誌「デルフィーノ」送付等がある。また、富士通が後援会員限定で自社パソコン「FMV」の特別価格商品やフロンターレ限定モデルを販売する事がある[81]。2015年には招待チケットの配布枚数が1会員あたり2枚から1枚へと減少し、代わりに多様な席種での割引サービスが受けられる「えらべるクーポン」制度が導入された。 後援会員の数は年々増加し、J1復帰の2005年には12,406人だったのが、2008年には20,189人と初めて2万人台となり、2011年には24,588人に達した。その後は減少傾向にあったが、2014年には27,051人で、初めて2万5千人を超えた。2018年は優勝効果もあり4万人を超えた。

年度 後援会員数
2005年 12,406
2006年 12,681
2007年 16,686
2008年 20,189
2009年 21,522
2010年 24,004
2011年 24,588
2012年 23,778
2013年 23,187
2014年 27,051

後援会のページでは、前年度での会員内訳が詳細に発表されている。その年代と性別は、以下の通りである。

年代 後援会員数 百分比
0-9歳 3,480 13%
10-19歳 4,835 18%
20-29歳 2,693 10%
30-39歳 4,826 18%
40-49歳 6,464 24%
50-59歳 3,004 11%
60歳以上 1,645 6%
年齢不明 104 0%
性別 後援会員数 百分比
男性 17,358 65%
女性 9,140 34%
性別不明 373 1%

また、地域別では川崎市在住者が18,062人で全体の67%を占め、川崎市民(1,460,171人)全体に対しては1.24%、81人に一人と紹介されている。川崎市内の7区別では等々力陸上競技場のある中原区が6,383人で、会員数と区民全体(244,120人)に対する会員数比(2.61%、38人に一人)の双方で最高となっている。一方、最も南にある川崎区(1,224人、0.56%、180人に一人)は会員数と区民人口比の双方で最も低く、次いで市北部の多摩区と麻生区で区民人口比が1%を下回っている。川崎市外の会員数では横浜市が2,175人で最も多く、次いで中原区に隣接する東京都大田区世田谷区などとなっている[82]

コラボレーション・パロディー

コラボレーション

  • 2009年、TVアニメ『天体戦士サンレッド(作:くぼたまことヤングガンガン連載)』とコラボ。
    • 中村、井川、谷口の3選手、武田社長、マスコットキャラクター・ふろん太とその家族との共演アニメ(全4話)が制作され、『ファイト!川崎フロンターレ』内で放送された [3]。『サンレッド』のDVD2〜5巻に映像特典として収録されている。また、そのコラボレーション企画の一環として、タレントの髭男爵の2人(山田ルイ53世、ひぐち君)が開幕戦の始球式に登場した(両者とも、同作のアニメに声優として出演)。
  • 2009年山形戦にて、新たにスポンサーになったDoleより、アウェー応援サポーターを含む来場者全員にバナナ1房をプレゼント。
  • 2010年、ファン感謝デーにおいてピラメキーノとコラボ。スタジアムにピラメキパンダが登場し選手と一緒にピラメキたいそうを踊ったほかレギュラー[83] が聞いた質問に選手が答えた。
  • 2012年6月30日、フォーミュラ・ニッポンとコラボ、等々力の陸上トラックをフォーミュラカーが走った[85]。これが縁となり、同年11月に富士スピードウェイで開催されたJAFグランプリでは、フォーミュラ・ニッポン予選での最高速度上位3名を『フォーミュラ・ニッポン 川崎フロンターレ賞』として表彰した。
  • 2016年、漫画『宇宙兄弟』(作:小山宙哉、週刊モーニング連載)及びJAXA(宇宙航空研究開発機構)とコラボ[86]。毎年恒例の算数ドリルも宇宙兄弟及びJAXAとのコラボレーション仕様として製作される。

パロディー

  • 2007年のホームゲーム開催時(等々力陸上競技場)に様々なパロディーやコラボレーションを実施。
    • エースをねらえ!4月15日清水戦。Jリーグ加盟以来勝利を挙げていなかった清水を相手に「エース」ならぬ「エス(パルス)をねらえ!」と題して初勝利を目指そうという企画を行った。この時はアニメの「エースをねらえ!」で岡ひろみ役を演じた高坂真琴が「このゲームは絶対に負けられない!! 打倒オレンジ、ついに完結よ!!」といったフレーズの宣伝を行った。
    • 川崎麻世(タレント)/6月30日神戸戦で、川崎市のスポンサードマッチ(7月1日の市制施行記念日に合わせた記念試合)を実施。その試合で川崎麻世が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をハーフタイムショーとして熱唱。
    • 朝日放送テレビパネルクイズアタック258月25日ガンバ大阪戦の試合において、同番組とのコラボレーション「アタック25日」を開催。博多華丸児玉清の物まねで「フロンターレ!! 大事なアタックチャーンス!!」とPRした他、同番組の特徴である回答者のカラーの入れ替わり(ガンバの青からフロンターレの水色)のパフォーマンスをバックスタンドのフロンターレ応戦席で行った。
    • あいのり5月11日のAFCチャンピオンズリーグ・アレマ・マラン(インドネシア)戦で、同大会初出場・初の決勝ラウンド進出決定の時にサポーターがそれをパロディー化した「はつのり」のTシャツを着用し祝福。
    • プロジェクトX〜挑戦者たち〜9月に行われるアウェーでの鹿島9月1日)、9月22日)の試合を、ホームタウンの頭文字が全て「K」(川崎=Kawasaki、鹿島=Kashima、柏=Kashiwa)で始まるということ、更に「決戦の9月」という意味合いも込めて、大応援団を川崎から繰り出そうという**「プロジェクトK(打倒!! 鹿島&柏)」なる試みを行った。なお、2006年のホーム鹿島戦ではスキージャンプ競技の極限点になぞらえた「K点越え」キャンペーンを実行した。

また、こういったコラボレーションで、スポンサーの一つであるとんかつ和幸協賛の下、パロディー弁当が発売された。

  • 清水戦/「カツのよ!!フロンターレ弁当」(オレンジデザート入りのとんかつ弁当)
  • 神戸戦/「マヨわずカツ弁当」(とんかつにタルタルマヨネーズソースが添付されている)
  • G大阪戦/「アカッツ!! チャンス!!弁当」(当日発売されたカツ弁当の半数に幸運をもたらすといわれる「ラッキーメンチカツ」が挿入されている)

※このパロディー弁当が発売されると必ずチームは勝利を挙げている(2008年8月25日現在)。

なお、上記の川崎市制記念試合では川崎市により市民が集団招待されているが、2004年(市制施行70周年)から2006年までは当時川崎市内在住で、「YOUNG MAN」を日本語カバーでヒットさせた西城秀樹が毎年招聘され、ハーフタイムショーに出演するのが常だった。2008年からは川崎麻世に代わって西城が再び出演するようになった。西城は2003年に脳梗塞を発症しており、2011年には同病を再発し、川崎市外への転出も行った。2012年以降の市制記念試合にも引き続いて出演していたが、2018年5月16日に西城が死去したため、死去前年の2017年が最後の出演となった。

アウェイゲーム観戦ツアー

川崎フロンターレはサポーターのアウェイゲーム観戦ツアーに、他チームとは一風変わった企画を行うことが多い。特にJ2時代も含めて新潟との東北電力ビッグスワンスタジアムにおいて行われた試合において勝利がなく(2012年に初めて勝利した)、新潟戦を対象としたアウェイゲームでは大々的な企画を実施している。

  • 2007年10月28日のFC東京ホームゲームの多摩川クラシコで、多摩川の「丸子の渡し」を約70年ぶりに復活させて船で東京へ乗り込むアウェイツアーを実施[87]
  • 2009年4月12日の対清水エスパルス戦は、「何もしない」プロモーションを実施した。これはJ参入以降清水にアウェーで勝利したことがなく、それを打破するために2006年から3年続けて大々的なアウェーツアーをしたものの勝利できないことから、あえて「何もしない」こととした。なお、当日の試合は敗れ、清水戦アウェー未勝利は2011年まで続いた[88]
  • 2009年5月24日のアウェイの多摩川クラシコで、試合前日の23日の夜に横浜から伊豆大島フェリーで行き、試合当日の24日に大島空港から飛行機で味の素スタジアムの隣にある調布飛行場へ行くという「多摩川クラシコエアーツアー」を実施[89]
  • 2009年7月11日のアルビレックス新潟ホームゲームのアウェイツアーではそれまで新潟に10連敗していたため、「新潟戦11連敗阻止キャンペーン『11回目のプロポーズ』」と題し、全員そろいの川崎のチームカラーパジャマを着て貸切列車で移動するというツアーを実施。帰りの貸切夜行列車では、新潟まで来たふろん太らが見送っていた[90]
  • 2009年10月7日の鹿島アントラーズとの16分間の再試合では、1,000円のバスツアーを実施。平日にもかかわらず応募が集まり、最終的にバス25台の規模となった。なお、この際には鹿島サポーターと思われる客は排除するという徹底ぶりだった[91]

決算

川崎フロンターレの決算は、つぎのとおり。

損益

年度 収入 広告料 入場料 配分 その他 費用 事業費 人件費 管理費 利益 純利益
2005 1913 1262 277 231 143 1816 1533 N.A. 283 97 39
2006 2780 1630 391 368 391 2765 2319 1535 446 15 2
2007 3105 1683 524 385 513 3096 2600 1639 496 9 24
2008 3320 1857 484 354 625 3250 2721 1743 529 70 9
2009 3604 1829 626 393 756 3543 3029 1951 514 61 6
2010 3540 1856 603 298 783 3493 2831 1743 662 47 7

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 200520062007200820092010

金額の単位: 百万円

人件費は事業費に含まれる。

年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 販売 利益 純利益
2011 3275 1738 554 213 157 613 3212 1587 165 239 95 0 1126 63 42
2012 3073 1373 558 214 158 770 3005 1428 179 235 73 0 1090 68 33
2013 3214 1702 540 218 164 590 3170 1557 174 262 75 0 1102 44 21
2014 3359 1794 571 228 171 595 3288 1546 185 269 74 0 1214 71 44
2015 4077 1569 777 197 179 1355 3977 1685 190 430 50 0 1622 100 61

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 20112012201320142015

金額の単位: 百万円

年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 物販 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 物販 販売 利益 純利益
2016 4254 1809 907 222 168 476 672 3923 1643 195 279 44 0 378 1384 331 217

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016

金額の単位: 百万円

テンプレート:Graph:Chart

資産

年度 総資産 総負債 純資産 資本金
2005 786 296 489 349
2006 996 504 491 349
2007 1104 588 515 349
2008 1075 549 525 349
2009 1097 566 531 349
2010 1039 501 538 349
2011 962 381 581 349
2012 988 374 614 349
2013 1241 607 635 349
2014 1195 516 679 349
2015 2278 1539 739 349
2016 1958 1001 957 349

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 200520062007200820092010201120122013201420152016

金額の単位: 百万円

テンプレート:Graph:Chart

脚注

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 クラブガイド:川崎フロンターレ”. 日本プロサッカーリーグ. . 2014閲覧.
  2. 城福は監督続投を希望したが容れられず、社業専念となった。1998年、FC東京設立準備室に招かれた城福は富士通を退社してプロ指導者へ転身、2008年-2010年途中にはFC東京のトップチーム監督に就任してフロンターレと「多摩川クラシコ」で対戦した。
  3. ただし、この第15節では開幕戦から14連敗中だった水戸ホーリーホックにJFL昇格後の初勝利を許していた。
  4. 2試合で1勝1敗、合計得点数の差で敗退した。
  5. 2000年3月に出版された松本の著書『尽くしてみないか、全力を-サッカーがくれた熱血意識革命』の中で、この監督就任はメキシコシティオリンピックでのチームメイト(主将)だった元富士通監督の八重樫茂生からの要請だった事を明かしている。
  6. 岩本はこのシーズン限りで退団し、その後もフロンターレへのわだかまりを口にしていたが、2006年に岩本がNHK衛星放送の『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』で旧東海道の約500kmを徒歩で歩いた際には、川崎宿(川崎市川崎区)通過時にフロンターレスタッフ・ふろん太・サポーター有志が応援のため集まった。
  7. 2位のFC東京が大宮に敗れたため。
  8. サッカーライターの金子達仁戸塚啓との共著。
  9. ふろん太の公式プロフィールでは、生年月日をこの開幕戦が行われた1999年3月14日としている。出典:フロンターレ公式サイト、選手・スタッフプロフィール内「マスコット ふろん太」
  10. 2005年に同工場が閉鎖された後は稲城市に移管され、「稲城市営南多摩スポーツ広場」に改称された。
  11. 1999年の第79回天皇杯では対戦している。
  12. 1stステージの優勝は横浜M。この試合は「長居の悲劇」と呼ばれるようになった。
  13. 最終的な失点数はリーグで7位(6番目に多い)。
  14. 正確には、0 - 0のまま延長戦に突入した時点で山形のJ1昇格失敗と仙台の逆転昇格が決定していた。石崎は1999年に「秋天の陽炎」と呼ばれる試合で大分でのJ1昇格を山形に阻まれた経験があり、奇しくも逆の構図となった。
  15. これは「リストラ選手の活躍」(参照:ノート)として話題となり、2006年に出版された『クラブ創設10周年メモリアルブック』(兼2006年イヤーブック)でもこの表現で紹介された。
  16. 川崎市立大師小学校でのPTA講演会の「後援者紹介」、2003年作成、2013年9月29日閲覧。
  17. 岡山自身もこのパフォーマンスで注目され、その後も移籍先のチームで「岡山劇場」を続けて、サポーターから根強い人気を得るようになった。
  18. バルデスは札幌時代の1997年にフロンターレとの2試合ともにVゴールを決め、札幌のJFL優勝に貢献していた。
  19. Jリーグ理事会での決定が必要なため、この表現を用いた。
  20. ACLプロジェクトチームを主宰。イランからの帰国時にUAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していた。
  21. 特に、時差の関係で川崎の敗北が決まった後も、サウジアラビアリヤドにいた川崎のスカウトは準々決勝のアル・ヒラルvsアル・ワフダ戦を観戦し、勝ち上がったアル・ワフダのデータを浦和に提供した。アル・ワフダは準決勝でセパハンに敗れたが、JリーグチームのACL優勝を目指すための美談として伝えられた。
  22. 22.0 22.1 弊クラブ所属選手の行為について (お詫び)、川崎フロンターレ公式サイト、2009年11月4日
  23. 鬼武チェアマン川崎Fに激怒、nikkansports.com、2009年11月4日
  24. 弊クラブ所属選手の行為について (対応・処分)、川崎フロンターレリリース、2009年11月5日
  25. 天野春果「僕がバナナを売って算数ドリルを作るワケ」37頁(2011年・小学館)
  26. 官報2010年(平成22年)1月8日付 第10頁 褒賞に告知されている。
  27. 【J1:第25節 川崎F vs 神戸】”. J's Goal (2011年9月12日). . 2012閲覧.
  28. 【J1:第26節 山形 vs 川崎F】”. J's Goal (2011年9月18日). . 2012閲覧.
  29. 2000年-2007年、2009年-2011年まで在籍(2008年はセレッソ大阪にレンタル移籍。)
  30. 【川崎F】相馬直樹監督との契約解除に関する庄子春男GMコメント”. BLOGOLA. . 2012閲覧.
  31. ゲキサカ記事、「J初の親子鷹誕生!!川崎Fが風間兄弟の加入を正式発表」、2012年7月1日付、2017年4月23日閲覧。
  32. 2007年2009年2010年はいずれもAFCチャンピオンズリーグ (ACL) に出場していたため、予選グループを免除されていた。
  33. 横浜FMは首位でこの試合を迎え、勝てば自力でのJ1優勝を決められたが、川崎に敗れ、さらに2位の広島が鹿島に勝ったために順位を逆転され、優勝を逃した。
  34. 第5節の名古屋戦と、第7節の柏戦はその翌週にあるACLの試合がいずれも火曜日に開催されるので、そのまま土曜開催になると中2日で臨まなければならなかった為。
  35. 松江には谷尾昂也が所属していて、この試合にフル出場し、川崎所属時には実現しなかった等々力での公式戦出場を果たした。出典:ゲキサカ「念願の等々力でプレーした松江シティFC FW谷尾「こんな形でできるとは」」、2015年9月6日付、2017年4月23日閲覧。
  36. 川崎フロンターレ、「「新メインスタンド完成記念ユニフォーム」着用と販売のお知らせ」、2015年6月22日付、2017年4月23日閲覧。
  37. 結果として、この試合に勝てば浦和を逆転して年間1位となっていた。
  38. 年間勝ち点では3位だった鹿島がチャンピオンシップで優勝し、川崎の順位が繰り下がった。
  39. 決勝で対戦する鹿島は既にJ1優勝による本戦出場権を得ていたため、仮に決勝で敗れても天皇杯優勝チームに与えられる本戦出場権が繰り上げで与えられる事になっていた。
  40. 11月上旬には大久保のFC東京移籍が公然となり、本人も来季からの移籍を認めていた。なお、公式発表は天皇杯決勝終了後の2017年1月になった。出典:スポニチアネックス、大西純一「なぜ川崎F大久保のFC東京移籍がこんなに早く決まったのか」、2016年11月23日付、2017年4月23日閲覧。
  41. 同年からJ2・名古屋の監督に就任した。
  42. なお川崎は、ヤマザキナビスコカップ時代も含めてYBCルヴァンカップ決勝進出経験のあるチームの中では、1度しか決勝進出がなく120分間でスコアレスながらPK戦での優勝となった横浜Fマリノスを除き、まだ得点を奪った事が無い。またこの試合も含めて2000年のナビスコカップを除く直近4回の決勝戦では2007年のナビスコカップ決勝と2016年の天皇杯決勝ではマギヌンとエドゥアルド・ネットが累積警告で、2009年のナビスコカップ決勝と2017年のYBCルヴァンカップ決勝では井川と奈良が準決勝第2戦で退場処分を受けて主力が出場停止で欠場している。
  43. “[http://number.bunshun.jp/articles/-/829422?page=4 川崎優勝を象徴する最後の5点目。 「甘い」と言われても貫いた攻撃姿勢。]”. Number Web (2017年12月4日). . 2017閲覧.
  44. 川崎逆転Vは史上初の得失点差決着!2チームならんだ勝ち点72”. SANSPO.COM (2017年12月3日). . 2017閲覧.
  45. 【コラム】昨季と異なる“強さ”を示した川崎…転換点となった夜、指揮官が発したある一言とは”. サッカーキング (2017年12月3日). . 2017閲覧.
  46. 川崎F鬼木監督が優勝監督賞を受賞「うれしく思う」”. 日刊スポーツ (2017年12月5日). . 2017閲覧.
  47. 【Jアウォーズ】川崎の小林悠がMVP!! 得点王とダブル受賞は史上6人目の快挙”. サッカーダイジェストWeb (2017年12月5日). . 2017閲覧.
  48. 小林悠ら川崎Fから最多4人/ベストイレブン一覧”. 日刊スポーツ (2017年12月6日). . 2017閲覧.
  49. JリーグがJ1優秀選手賞33名を発表! 鹿島から最多8名選出”. サッカーキング (2017年12月3日). . 2017閲覧.
  50. 昨シーズンはG大阪へ期限付き移籍
  51. 特にヴェルディ以外のクラブ(1994年の横浜フリューゲルス、1995年のベルマーレ平塚(今の湘南ベルマーレ)はヴェルディとの神奈川ダービーで敗れたのに加え、横浜Fマリノスに至ってはマリノス時代の1996年、Fマリノス時代の2004年、2005年、2014年と4回出場しながら1度も勝てていない。)は全て敗れ、そのヴェルディも1997年に敗れている。
  52. 52.0 52.1 お知らせ:KAWASAKI FRONTALE:2016シーズン 「1st/2nd/GK/カップ戦ユニフォーム」先行販売のお知らせ 2016年1月17日
  53. ただし、Jリーグとは違いFUJITSUの公式ロゴではなく角ゴシック体表記。これは胸ロゴの規格がJリーグより小さいという都合によるものと思われる(特に「JI」の上に「∞」があるため、ACLの規格に合わせるとロゴが小さくなり過ぎる)。ちなみに2013年出場時の仙台は、アイリスオーヤマの胸ロゴデザイン小変更(IRIS OHYAMAの文字列を2段に)で対応した。
  54. (プレスリリース), 公式サイト, (2018年3月27日), http://www.frontale.co.jp/info/2018/0327_1.html+. 2018-4-7閲覧. 
  55. 1998年まではJリーグ準会員としてJFLとナビスコ杯に参加
  56. 川崎フロンターレ、「かわさきスポーツパートナーpresents 10/22「川崎ブレイブサンダース×川崎フロンターレ」コラボ企画実施のお知らせ」、2016年10月17日付、2017年4月23日閲覧。
  57. 川崎区は4団体、幸区は2団体、他の5区は1団体が加盟。
  58. 川崎市商店街連合会公式サイト、「川崎市商店街連合会は、川崎フロンターレを応援しています!
  59. 川崎フロンターレ持株会オフィシャルサイト、「概要」、2015年5月11日閲覧。
  60. 地方競馬全国協会ニュースリリース川崎競馬場ニュースリリース
  61. 川崎市麻生区で川崎麻生アシストクラブが発足 k-press 2009年8月23日付
  62. 新ランドマーク誕生! 川崎公式サイト内「フロンターレ日記」2010年5月19日
  63. 同部屋の前師匠(20代)、春日山由晃(現役時代の四股名は春日富士晃大)は川崎市で育ち、同市立桜本中学校卒業後に角界入りしていた。なお、春日山部屋は2012年に現師匠(21代、現役時代の四股粉は濱錦竜郎熊本市出身)に引き継がれ、その後20代と21代の間には民事訴訟も起こったが、所在地は変わらず、フロンターレとの協力関係も維持されている。
  64. 東京ディズニーランドなどのディズニーパークにあるイッツ・ア・スモールワールドをもじった名称。
  65. 焼き鳥やひよの山が両国国技館以外で披露されるのは稀だとされている。
  66. フロンターレ日記、2015年5月9日付、「柏戦 イッツァ スモウワールド報告!
  67. JTBアウェイツアー「春日山部屋応援ツアー2011」参加者募集のお知らせ
  68. [1] フロンターレ日記2011年6月7日
  69. [2] フロンターレ日記2011年8月16日
  70. 「フロンターレ算数ドリル」完成のお知らせ J's GOAL、2009年4月8日
  71. 「川崎フロンターレ算数ドリル」完成 Jリーグ公式サイト・2009年4月28日
  72. 72.0 72.1 川崎F:2010算数ドリル・ゲストティーチャー(稲本潤一選手、伊藤宏樹選手)レポート J's GOAL、2010年10月7日
  73. 2011年度「川崎フロンターレ算数ドリル(上巻)」完成のお知らせ 川崎フロンターレ・2011年4月11日
  74. 「川崎フロンターレ算数ドリル」の寄付について 川崎フロンターレ・2011年4月19日
  75. 2011年11月12日放送、天野が中西哲生や中村憲剛と共に出演。
  76. 東京新聞、「名物企画仕掛け人が五輪組織委へ フロンターレ部長・天野春果さん」、2016年12月7日付、2017年4月23日閲覧。
  77. この愛称を用いて、かわさきFMで放送されるホームゲームの実況放送の名前は「BLUE FRIENDS STADIUM○○○○」(○○○○部分には西暦年が入る)ともされている。
  78. 1924年7月1日、川崎市が現在の川崎区の範囲で市制を施行。後の中原区となる中原町が川崎市に編入されたのは1933年8月1日。
  79. 2014年度では、個人会員が10,347人、ファミリー会員が12,450人、ジュニア会員が4,254人。
  80. ジュニア会員にはなく、代わりにシーズンチケットを格安で販売する。
  81. 川崎フロンターレ、「お知らせ」2013年10月2日付、「後援会員限定「Frontale×FMVコラボ企画 第10弾 川崎フロンターレ特別モデル販売キャンペーン」開催のお知らせ
  82. 東京特別区を一つの市と考えると、会員数ベスト10の地域として挙げられている品川区目黒区杉並区との5区合計で横浜市を上回る。
  83. スタジオからの中継
  84. 川崎フロンターレ名物部長が企てた、漫画『テルマエ・ロマエ』と川崎市『銭湯』とのコラボ。『一緒におフロんたーれ - Number Web(更新日: 2012年2月17日)
  85. 川崎とF・ニッポンのありえないコラボ 等々力のトラックを疾走したフォーミュラカー - スポーツナビ(更新日: 2012年7月13日)
  86. サポから天体望遠鏡を贈られた大久保「星からパワーをもらって4年連続得点王!」 | サッカーキング2016年1月17日
  87. オフィシャルニュース|多摩川クラシコ「アウェイ舟ツアー」参加者募集のお知らせ J's GOAL
  88. お知らせ:KAWASAKI FRONTALE:4/12 清水「何もしない」プロモーション実施のお知らせ:
  89. 【無事に味スタヘ到着!】多摩川クラシコ:川崎F「エアーツアー」レポート (2009年5月24日) J's GOAL
  90. 川崎フロンターレ新潟戦アウェイツアー「11回目のプロポーズ」写真レポート J's GOAL、2009年7月12日
  91. 「16分間」観戦ツアーにサポ殺到 豪雨中断の鹿島-川崎戦MSN産経 2009年9月29日

関連項目

外部リンク

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