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'''嶋田 青峰'''(しまだ せいほう、[[1882年]][[3月8日]] - [[1944年]][[5月31日]])は、[[日本]]の[[俳人]]・[[翻訳家]]・[[新聞記者]]・[[教員]]。[[三重県]][[答志郡]]<ref group="注">青峰の生誕した当時の郡名。答志郡(とうしぐん)は後に[[英虞郡]](あごぐん)と合併し、[[志摩郡 (三重県)|志摩郡]]となったため、「志摩郡」出身と表記する文献がある。</ref>[[的矢村]](現在の三重県[[志摩市]][[磯部町的矢]])出身。本名は賢平。[[姓]]の「しまだ」は「'''嶋'''田」と書くのが正式であるが、一般に「'''島'''田」の表記も用いられる<ref name="shs0">村山(1985):100ページ</ref>。俳号の青峰は、故郷の[[山]]・[[青峰山]](あおのみねさん、標高336[[メートル|m]])に由来する<ref name="f8">細井(1996):48ページ</ref>。
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'''嶋田 青峰'''(しまだ せいほう、[[1882年]][[3月8日]] - [[1944年]][[5月31日]]
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[[日本]]の[[俳人]]・[[翻訳家]]・[[新聞記者]]・[[教員]]。[[三重県]][[答志郡]]<ref group="注">青峰の生誕した当時の郡名。答志郡(とうしぐん)は後に[[英虞郡]](あごぐん)と合併し、[[志摩郡 (三重県)|志摩郡]]となったため、「志摩郡」出身と表記する文献がある。</ref>[[的矢村]](現在の三重県[[志摩市]][[磯部町的矢]])出身。本名は賢平。[[姓]]の「しまだ」は「'''嶋'''田」と書くのが正式であるが、一般に「'''島'''田」の表記も用いられる<ref name="shs0">村山(1985):100ページ</ref>。俳号の青峰は、故郷の[[山]]・[[青峰山]](あおのみねさん、標高336[[メートル|m]])に由来する<ref name="f8">細井(1996):48ページ</ref>。
  
 
[[大正|大正時代]]末期に[[俳句]][[雑誌]]『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』において、池内たけし・[[篠原温亭]]・[[鈴木花蓑]]らと並び、活躍した<ref>三好・山本・吉田 編(1987):257 - 258ページ</ref>が、晩年は[[新興俳句弾圧事件]]の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している<ref name="shs4">村山(1985):284ページ</ref>。
 
[[大正|大正時代]]末期に[[俳句]][[雑誌]]『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』において、池内たけし・[[篠原温亭]]・[[鈴木花蓑]]らと並び、活躍した<ref>三好・山本・吉田 編(1987):257 - 258ページ</ref>が、晩年は[[新興俳句弾圧事件]]の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している<ref name="shs4">村山(1985):284ページ</ref>。
  
== 来歴 ==
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=== 生誕から学生時代 ===
 
1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる<ref name="tb">美味し国の料理旅館 橘"[http://www.tatibana.com/pg55.html 伊勢志摩 的矢かき スペイン村-伊勢神宮/風待ち港]"(2011年7月24日閲覧。)</ref>。地元の[[志摩市立的矢小学校|的矢尋常小学校]]を卒業後、学を成そうと[[上京]]、旧制日本中学校(現在の[[日本学園中学校・高等学校]])を出て<ref name="iks">磯部郷土史刊行会 編(1963):270ページ</ref>[[1899年]](明治32年)に[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]][[予科]]に入学、卒業後は[[早稲田大学]][[哲学]]科に進むが、後に英文科に転じる<ref name="f8" />。途中、[[病気]]療養のため帰郷することもあった<ref name="tb" />が、[[1903年]](明治36年)に早稲田大学英文科を卒業する<ref>{{Cite|和書|title=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083557/178 會員名簿]|publisher=早稻田大學校友會|year=1928|page=286}}</ref>。
 
 
 
=== 教師から新聞記者へ ===
 
早稲田大学を卒業後、広島県立広島高等女学校(現在の[[広島県立広島皆実高等学校]])で[[英語]]教師となるが、[[1904年]](明治37年)に茨城県立竜ヶ崎中学校(現在の[[茨城県立竜ヶ崎第一高等学校]])で教鞭を執り、[[1907年]](昭和40年)に[[母校]]・早稲田大学に[[清|清国]][[留学生]]部[[講師 (教育)|講師]]として戻った<ref name="f8" />。しかし同部の規模縮小により、翌[[1908年]](明治41年)4月に職を辞することになった<ref name="f8" />。失職した青峰は、当時新聞記者をしていた土肥春曙の名で仕事をしていたが、その春曙が[[国民新聞]]の吉野左衛門に青峰を紹介し、入社を頼んだ<ref name="f9">細井(1996):49ページ</ref>。左衛門はちょうど記者を一人求めていたところだと言って青峰の採用を決め、当時[[小説]]や文芸作品を掲載する「国民文学」欄の創設準備中で、その主宰者に内定していた[[高浜虚子]]に会いに行くように言った<ref name="f9" />。
 
 
 
こうして青峰は1908年(明治41年)9月20日に国民新聞社に入社、[[10月1日]]から始まった「国民文学」の編集部員として虚子の部下となった<ref>細井(1996):49 - 50ページ</ref>。この国民新聞社には、後に俳句雑誌『土上』を主宰する篠原温亭が社会部編集主任として在籍していた<ref>細井(1996):50ページ</ref>。左衛門と温亭も俳人であり、国民新聞社は「俳人内閣」の様相を呈していたが、[[1910年]](昭和43年)9月に虚子は俳句雑誌『ホトトギス』の仕事に専念するために退職、左衛門と温亭は俳句界から離れていき、国民文学部は青峰一人となった<ref>細井(1996):50 - 52ページ</ref>。こうして青峰は虚子の後を継ぎ、国民文学部長として一人で文芸欄を担当し、虚子に頼まれ『ホトトギス』に[[文章]]を寄稿することで虚子を支えるようになった<ref>細井(1996):52 - 53ページ</ref>。
 
 
 
そしてある日、青峰が虚子宅を訪ねると暇な時に手伝ってほしいと頼まれ、新聞社の仕事の傍ら『ホトトギス』の編集を手伝うこととなった<ref>細井(1996):54ページ</ref>。ただ、青峰自身は手伝い始めた初期は、まだ俳句に関して門外漢だったと述べている<ref>細井(1996):53ページ</ref>。[[1913年]](大正2年)、8月号の『ホトトギス』に虚子は
 
{{Cquote|第十五巻以後、私は独力でホトトギスを経営すると[[口癖]]のやうに申しましたが、併しその間に在つて常に私を補翼してくだすつた貴下のあることは忘れることの出来ない事であります。貴下は今の世に珍らしいほど隠れたる努力を惜しまない人であります。(中略)併しその青峰といふ名は、新たに留守の門に打ちつけられた生々しい[[表札]]ではなくて已に私の表札と共に同じやうに古び色づいている―殊に過去二年間の悪闘の[[風雨]]に同じやうに黒ずんでをる―表札であることを私は愛読者諸君に諒会していただきたいのであります。}}
 
と書いて青峰を読者に紹介、青峰に編集一切を任せる旨を表明した(同文中の「貴下」が青峰を指している)<ref name="a0">秋元(1966):130ページ</ref>。「過去二年間の悪闘」とは、虚子自身の病との闘いと新傾向俳句との闘いを意味しており、『ホトトギス』史上苦しい時期に青峰は編集を任されたことになる<ref>秋元(1966):130 - 131ページ</ref>。この頃青峰は、国民新聞社の文芸欄の担当もしており、[[夜]]や[[日曜日]]に出勤して『ホトトギス』の仕事をすることが少なくなかった<ref>秋元(1966):131 - 132ページ</ref>。虚子から編集一切を任されるようになってからは、「消息」欄・「発行所句会記録」・「吟行記」・随筆等の穴埋め的な文章を多数書いている<ref>細井(1996):58 - 61ページ</ref>。青峰らしい企画を『ホトトギス』で取り行うこともあり、[[1917年]](大正6年)の新年号では[[与謝野晶子]]や[[平福百穂]]らによる「専門家に非ざる人の俳句談」を載せた<ref name="a3">秋元(1966):133ページ</ref>。
 
 
 
俳句に関しては[[1914年]](大正3年)の『ホトトギス』5月号に
 
{{Cquote|行春や 鐘建立の 事すみて}}
 
が掲載されて以降、翌[[1915年]](大正4年)の『ホトトギス』12月号まで断続的に1、2句程度載っている<ref>細井(1996):62 - 63ページ</ref>。
 
 
 
1914年(大正3年)[[12月11日]]、高浜虚子は『ホトトギス』12月号の誌上で、読者に種々の便宜を図ることと、運営資金とするため、[[原稿用紙]]や俳諧[[絵はがき]]等の販売、俳句や[[絵画]]の依頼を斡旋する「俳諧堂」を設立することを広告した<ref>村山(1986):55 - 56ページ</ref>。この広告を出した翌[[12月12日|12日]]には注文が入り、俳諧堂は期待以上の繁盛となった<ref>村山(1986):57ページ</ref>。当時のホトトギス社は[[市谷船河原町]]に発行所を構え、虚子は留守番係として下山霜山を雇い、自身は[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[鎌倉町]](現在の神奈川県[[鎌倉市]])から発行所に通う生活をしていた<ref>村山(1986):56ページ</ref>。俳諧堂の経営は青峰と霜山が担当した<ref>村山(1986):56 - 57ページ</ref>。翌[[1915年]](大正4年)[[4月18日]]、青峰は再上京してホトトギス社を訪れた[[原石鼎]]の応対をしている<ref name="ths8">村山(1986):58ページ</ref>。石鼎は4年前にホトトギス社への入社を懇願するも断られ、[[奈良県]]吉野で次兄の[[医業]]の手伝いの傍ら『ホトトギス』の雑詠に投稿して名を挙げ、今般再び雇ってもらおうとホトトギス社を訪れたのであった<ref>村山(1986):58 - 61ページ</ref>。
 
 
 
[[1920年]](大正9年)、青峰は『ホトトギス』の編集の仕事を下りる<ref>秋元(1966):134ページ</ref>。退職について『ホトトギス』大正9年2月号上には、虚子名義で「一身上の都合」と触れられているのみである<ref>細井(1996):47ページ</ref>。細井啓司は、1920年(大正9年)[[1月22日]]に国民新聞で虚子の有力な支持者であった吉野左衛門が死去していることと、直前の[[1919年]](大正8年)の『ホトトギス』12月号の消息欄に退社を連想させるような記述を青峰がしていないことから、国民新聞社の虚子支持者の穴埋めのために青峰がホトトギス社を退いたのではないか、と推論している<ref>細井(1996):65 - 66ページ</ref>。
 
 
 
=== 『土上』と新興俳句 ===
 
[[1922年]](大正11年)1月、虚子の影響で俳句が盛んであった国民新聞社の句会である「国民吟社」の[[機関誌]]として『土上』が創刊される<ref name="shs0" />。『土上』は[[篠原温亭]]が主宰し、青峰は協力する形で参加していた<ref name="shs0" />が、[[1926年]](大正15年)10月に温亭が逝去すると、青峰自らが『土上』を継承した<ref>村山(1986):286ページ</ref>。
 
 
 
『土上』は当初、「温厚な生活感情の句」を特徴としていたが<ref name="jlhd">三好・山本・吉田 編(1987):558ページ</ref>、青峰が若い人の新しい意見として、プロレタリア俳句やそれに関する[[論文]]を掲載したため<ref name="shs1">村山(1985):101ページ</ref>、[[昭和]]に入ると新興俳句運動の流れを受け[[社会主義]][[リアリズム]]の色彩を帯びるようになっていった<ref name="jlhd" />。[[1930年]](昭和5年)7月、『土上』にABCなる者の「プロレタリア俳句の理解」という[[文章]]が掲載され、俳壇では奇異の感を持たれることとなった<ref>村山(1985):99 - 100ページ</ref>。ABCは秋元地平線、東京三と俳号を変えてきた[[秋元不死男]]であった<ref name="shs1" />。「プロレタリア俳句の理解」は[[読売新聞]]文芸部長の[[千葉亀雄]]により評価され、同紙の文芸欄で紹介された<ref name="shs3">村山(1985):103ページ</ref>。これを喜んだ青峰は地平線にもっと書くよう勧め、地平線は執筆意欲を高めた<ref>村山(1985):103 - 104ページ</ref>。なお、地平線が『土上』に投稿するようになったきっかけを作ったのは、[[会社]]の同僚であった青峰の弟・[[嶋田的浦]]だった<ref name="shs3" />。
 
 
 
『土上』は新興俳句運動の中心となり、青峰はその援助者と目された<ref>三好・山本・吉田 編(1987):556 - 557ページ</ref>。こうした新興俳句の動きに理解を示した背景に<ref name="m0">三谷(1966):130ページ</ref>、[[1933年]](昭和8年)から[[1941年]](昭和16年)まで早稲田大学[[文学部]]で[[講師 (教育)|講師]]として教壇に立った<ref name="iks" /><ref name="mjld" />ことが影響している<ref name="m0" />。青峰は「俳諧研究」の[[講義]]を担当し、俳句[[サークル]]の「早稲田吟社」・[[早稲田大学高等師範部]]の「二月堂俳句会」の指導も行った<ref name="y8">嶋田(1966):148ページ</ref>。こうして若い人との接触が多く、豊富な理解力があったことが、『土上』で新興俳句の二大勢力となった古家榧夫と東京三を支えたと考えられる<ref name="m0" />。この頃、息子の[[嶋田洋一 (俳人)|洋一]]が早稲田大学に進学<ref name="y8" />、『早稲田俳句』を立ち上げ中心人物として活躍した<ref name="m0" />。
 
 
 
虚子の門弟らは青峰のこの行動を「''恩ある虚子に弓を引いた''」と考え、[[水原秋桜子]]は自身の主宰する雑誌『馬酔木』において「''天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません''」と10歳年上の青峰に忠告を発した<ref name="ym">夢幻亭"[http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_2e59.html 『密告』…5嶋田青峰:夢幻と湧源]"2007年11月10日.(2011年7月13日閲覧。)</ref>。そして[[1930年]](昭和5年)に、青峰は『ホトトギス』同人から除名された<ref name="shs62">村山(1985):262ページ</ref>。
 
 
 
=== 弾圧事件と晩年 ===
 
[[1940年]](昭和15年)は[[紀元二千六百年]]の記念の年であった<ref>村山(1985):224ページ</ref>。その陰で[[日中戦争]]の意義を問うた[[衆議院議員]]の[[斎藤隆夫]]が除名処分に遭ったり<ref group="注">詳細は[[反軍演説]]を参照</ref>、[[古代]]史研究の権威・[[津田左右吉]]の[[東京帝国大学]]講師就任が[[右翼団体]]の圧力で取りやめになるなど各界で穏やかならぬ動きがあった<ref name="shs25">村山(1985):225ページ</ref>。その動きは俳句界にも忍び寄り、[[2月15日]](『特高月報』上では[[2月14日]]<ref>村山(1985):230ページ</ref>)に[[京都府警察部]]は『京大俳句』の幹部8人を一斉に[[逮捕]]した<ref name="shs25" />。これが、[[新興俳句弾圧事件]]の第一次逮捕である「京大俳句事件」である<ref name="shs25" />。
 
 
 
当時この事件は[[新聞]]で報道されず、俳句雑誌にも掲載されなかったため、[[情報]]が正確に伝わらず、俳句界を噂話が駆け巡った<ref>村山(1985):226 - 234ページ</ref>。[[関西]]での事件であったが、東京にも波及するのではないかという不安や、東京は大丈夫だろうという楽観視が在京の俳人の間で広がった<ref>村山(1985):235ページ</ref>。この頃青峰は『土上』にて「東亜新秩序建設の新体制に即応する俳句報国」という当世の時流に乗った文章を発表し、伊東月草が「日本俳句作家協会」の結成を呼び掛けると、『俳句研究』誌上で賛同の意を表明した<ref name="shs62" />。そうした立場の転換ともいえる行動に出た背景には、身に迫る危険を感じ、早稲田大学講師・[[国文学]]者としての立場・地位を守りたい、という気持ちがあったからだとされる<ref name="shs62">村山(1985):262ページ</ref>。しかし時すでに遅く、[[1941年]](昭和16年)[[2月5日]]、第四次検挙により、弟子の東京三・古家榧夫を含む12人とともに逮捕された<ref>村山(1985):267 - 268ページ</ref>。「『土上』に進歩的思想あり」とされ、[[治安維持法]]で検挙されたのである<ref name="mjld">久松・吉田 編(1974):367ページ</ref>。
 
 
 
[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[特別高等警察]]と早稲田警察署([[牛込警察署]]の前身)の[[刑事]]3人が逮捕のため[[牛込区]][[若松町 (新宿区)|若松町]](現在の[[新宿区]]若松町)の自宅にやってきた時、青峰は[[風邪]]で寝込んでいた<ref name="shs83">村山(1985):283ページ</ref>。[[病気]]かつ老いた身の青峰を刑事は容赦なく連行し、それが病をこじらせることとなった<ref name="shs83" />。留置場生活から約半月、[[肺結核]]が再発、午前四時に喀血するも何らの手当はなく<ref name="ho">[[法政大学大原社会問題研究所]]"[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html 法政大学大原社研_戦時中の俳句・短歌運動〔日本労働年鑑 特集版 第五編 言論統制と文化運動〕]"2000年2月22日(2000年2月22
 
日閲覧。)</ref>、昼過ぎになってようやく東京女子医学専門学校(現在の[[東京女子医科大学]])から[[医師]]が呼ばれ、「相当の重患」と診断を受け、夕方に[[寝台車 (自動車)|寝台車]]で帰宅を許された<ref name="shs83" />。この時、這うことさえできないほどの体となっていた<ref name="shs83" />。
 
 
 
この検挙事件を虚子の門弟らは「''秋桜子の警告を無視し、新興俳句派の若造たちにおだてあげられていい気になっていた[[天罰]]だ''」と囁いたという<ref name="ym" />。そして主宰者の青峰と主要作家の検挙により、『土上』は廃刊に追い込まれた<ref name="jlhd" />。
 
 
 
青峰逮捕の背後には、息子の洋一が編集を担当し、当時150万部を発行する日本最大の雑誌『[[家の光協会|家の光]]』の俳句欄の選者の座を[[小野蕪子]]が青峰から奪うために暗躍した、という見解がある<ref name="ym" />。洋一は父の逮捕後、秋桜子と[[富安風生]]に選者を要請するも断られ、風生の推薦した蕪子が選者となった<ref name="ym" />。
 
 
 
釈放後、自宅での療養に入るも、戦時中で十分な[[医薬品]]・[[栄養]]・[[燃料]]を得られなかったばかりでなく、門下生からは連座を恐れて[[絶縁]]を申し入れられ、見舞いの客もほとんどないという不遇の生活が続いた<ref>村山(1985):283 - 284ページ</ref>。結局、病状が好転することなく、釈放から3年が経過した1944年(昭和19年)[[5月31日]]に62歳で亡くなった<ref name="shs4">村山(1985):284ページ</ref>。亡くなるまで一度も立つことができなかった<ref name="ho" />。「青峰忌」は夏の[[季語]]となった。
 
 
 
青峰死去の報を受け、弟子の東京三(秋元不死男)は[[葬儀]]に馳せ参じたが、その席に俳句の関係者はほとんどなく、近所の住民を除けば、[[加藤武雄]]・[[本間久雄]]・日高只一らが[[焼香]]した程度で弔問者も少なく葬儀は閑散としていた<ref name="shs4" />。
 
 
 
師であった虚子は葬儀に参列しなかったが、お悔やみ状と[[香典]]を送った<ref name="shs4" />。遺族の中からは、『ホトトギス』同人から青峰の名が削除されたことを根に持ち、受け取りを拒否すべきだという意見もあったという<ref name="shs4" />。
 
 
 
== 人物 ==
 
* 平明で視覚的作風を特徴としていた<ref>三好・山本・吉田 編(1987):559ページ</ref>。[[自然]]や[[人物]]を客観的に詠んだ句に郷土・的矢を詠んだものが多く、的矢への懐旧が窺える<ref name="tb" />。
 
* [[写生]]や[[花鳥諷詠]]を特徴とする『ホトトギス』の出ではあるが、それだけを良しとはせず、[[自由主義]]的な[[思想]]の持ち主であった<ref name="shs0" />。
 
* 大正時代には虚子から最も信頼され、[[友人]]・知人・[[弟子]]にも恵まれたが、新興俳句に味方したと見なされてからは、苦境に立たされた<ref name="shs83" />。三谷昭は、青峰の温厚な人柄と抱擁力で『土上』が地盤を築いていた、と書いている<ref name="m0" />。また、本間久雄は「温藉な人だった」と[[岡保生]]に語った<ref name="o9">岡(1994):89ページ</ref>。温藉(おんしゃ)とは「柔らかにして穏やかなること」という意味である<ref name="o9" />。
 
* 若い頃に肺結核を患ったことがあり、体は元々強くなかった<ref name="shs83" />。病の身で連行されたことが致命傷となった<ref name="shs4" />。
 
 
 
== 親族 ==
 
青峰は嶋田家の三男である。父・峰吉は[[船問屋]]を主業とし、[[造船所]]も営んでいた。加えて[[田畑]]を所有し[[農作業]]もしていたが、力仕事は不得意で、田んぼの中に突っ立っていることもあった<ref name="a3" />。[[1914年]](大正3年)5月に峰吉が亡くなった時に、虚子は弔電で「兄弟の 喪にこもり寝る [[蚊帳]]一つ」という句を送った<ref>秋元(1966):132 - 133ページ</ref>。
 
 
 
兄の愁風、弟の[[嶋田的浦|的浦]]、息子の[[嶋田洋一 (俳人)|洋一]]も俳人である。
 
 
 
== 主な句 ==
 
* わが影や 冬の夜道を 面伏せて
 
* 頬冠りが 淋しかり人 田植にも - 父の死に際して郷里・的矢に帰省した時に、田植え作業を見て亡き父の姿を思い起こし詠んだ句<ref name="a3" />。『ホトトギス』に掲載<ref name="a3" />。
 
* たゞ[[アリ|蟻]]の 為すまゝに[[チョウ|蝶]]の 衰へる
 
* 朝寒の この道を行く つとめ哉
 
* 市に暮るゝ [[師走]]の人の 眉太し
 
* 而して 蕃茄の酸味 口にあり
 
* [[トマト]]一鉢に 露台([[バルコニー]])の色を 集めけり
 
 
 
== 句碑 ==
 
* 句碑公園 - [[新潟県]][[十日町市]]小出にある公園。青峰ほか約20基の[[句碑]]が並ぶ<ref>十日町市観光協会"[http://www.tokamachishikankou.jp/modules/gnavi/index.php?lid=309&cid=86 句碑公園 - 十日町市観光協会]"(2011年7月7日閲覧。)</ref>。
 
* 「日輪は 筏にそそぎ 牡蠣育つ」の碑 - 三重県志摩市磯部町的矢の的矢村神社の高台にある<ref name="iksj">[[伊勢志摩きらり千選]]実行グループ"[http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_data.phpQkirari_cd=00711.html 伊勢志摩きらり千選/嶋田青峰の句碑・的浦の句碑]"(2011年7月24日閲覧。)</ref>。[[的矢かき]]の[[養殖]][[風景]]を詠んだ句である<ref name="iksj" />。
 
* 「秋晴れや 海のほとりに かえりけり」の碑 - 三重県志摩市磯部町的矢にあり、青峰の生家の近隣に建つ<ref name="tb" />。
 
 
 
== 著書 ==
 
<!--この著書一覧は、国立国会図書館の蔵書検索システム「NDL-OPAC」の検索結果を利用しています。-->
 
* 『青峯集』[[春陽堂]]、1925
 
* 『静夜俳話』[[春秋社]]、1925
 
* 『俳句読本』富士書房、1930
 
* 『俳句評釈選集 第1巻』非凡閣、1934
 
* 『自句自釈 海光』交蘭社、1935
 
* 『子規・紅葉・緑雨』言海書房、1935
 
* 『俳句の作り方』[[新潮社]]、1936
 
=== 編書 ===
 
* 『明治大正随筆選集 7』正岡子規著、[[人文社]]、1924
 
* 『一茶選集』春秋社、1925
 
* 『温亭句集』篠原英喜著、土上発行所、1927
 
* 『芭蕉俳句紀行全集』緑蔭社、1927
 
* 『土上俳句集』青峰選輯、土上発行所、1935
 
* 『現代俳句選集』新潮社、1937
 
* 『俳句文学全集. 第10巻』[[第一書房]]、1938
 
* 『地平線  第二土上句集』土上発行所、1939
 
=== 訳書 ===
 
* 『絆』ストリンドベルヒ著、アカギ叢書、1914
 
* 『マキシム・ゴオリキイ』ハンス・オストワルド著、アカギ叢書、1914
 
* 『トルストイ叢書 第12』[[レフ・トルストイ]]著、新潮社、1918
 
=== 寄稿等 ===
 
* 『世界短篇小説大系 独逸篇』「犠牲」(ウエデキント著、青峰訳)、近代社、1926
 
* 『日本文学講座 第5巻』「写生文研究」新潮社、1927
 
* 『綜合ヂャーナリズム講座 第5巻』「中間読物としての短歌と俳句」内外社、1930
 
* 『俳句作法講座 第1巻』「子規の名句」改造社、1935
 
* 『俳句作法講座 第3巻』「作法概説」改造社、1935
 
== 脚注 ==
 
;注釈
 
{{Reflist|group="注"}}
 
;出典
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 秋元不死男(1966)"嶋田青峰のこと"俳句(角川書店).15(7):130-134.
 
* 磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506ページ
 
* 岡保生(1994)"文学みをつくし 安乗・的矢"學苑([[昭和女子大学]]).'''650''':88-89.
 
* 嶋田洋一(1966)"「早稲田俳句」まかり通る"俳句(角川書店).'''15'''(10):147-153
 
* [[久松潜一]]・[[吉田精一]] 編『近代日本文学辞典』[[東京堂出版]]、昭和49年6月10日増訂17版発行、328pp.
 
* 細井啓司(1996)"『ホトトギス』と嶋田青峰"俳句文学館紀要([[社団法人]]俳人協会).'''9''':47-66.
 
* 三谷 昭(1966):"新興俳句運動の俳諧とその傾向"俳句(角川書店).15(10):127-133.
 
* [[三好行雄]]・[[山本健吉]]・吉田精一 編『日本文学史辞典 近現代編』[[角川書店]]、昭和62年2月15日、647pp. ISBN 4-04-063200-1
 
* [[村山古郷]]『大正俳壇史』角川書店、昭和61年1月30日、302pp. ISBN 4-04-884054-1
 
* 村山古郷『昭和俳壇史』角川書店、昭和60年10月25日、308pp. ISBN 4-04-884066-5
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[俳人の一覧]]
 
* [[三重県出身の人物一覧]]
 
* [[早稲田大学の人物一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%9D%92%E5%B3%B0 島田青峰とは] - [[コトバンク]]
 
* [http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/s/si014/si014p01.htm 早稲田と文学(島田青峰)]  - [[早稲田大学]]
 
 
 
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嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日

日本俳人翻訳家新聞記者教員三重県答志郡[注 1]的矢村(現在の三重県志摩市磯部町的矢)出身。本名は賢平。の「しまだ」は「田」と書くのが正式であるが、一般に「田」の表記も用いられる[1]。俳号の青峰は、故郷の青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する[2]

大正時代末期に俳句雑誌ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭鈴木花蓑らと並び、活躍した[3]が、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している[4]



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  1. 青峰の生誕した当時の郡名。答志郡(とうしぐん)は後に英虞郡(あごぐん)と合併し、志摩郡となったため、「志摩郡」出身と表記する文献がある。
  1. 村山(1985):100ページ
  2. 細井(1996):48ページ
  3. 三好・山本・吉田 編(1987):257 - 258ページ
  4. 村山(1985):284ページ