山陽本線特急列車脱線事故

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大正15年9月広島豪雨災害 > 山陽本線特急列車脱線事故

テンプレート:Infobox 鉄道事故 山陽本線特急列車脱線事故(さんようほんせんとっきゅうれっしゃだっせんじこ)とは、大正時代末期の1926年山陽本線安芸中野駅 - 海田市駅間で発生した列車脱線事故である。

この事故を起こした特別急行第1列車(事故後の1929年に「富士」と命名)は、下関駅から関釜連絡船を介してアジア及びヨーロッパを連絡する国際連絡運輸の役割を担う日本最高級の列車であり、著名人も多数乗車していたため、世間に大きな衝撃を与えた。それにもまして鉄道関係者は、木造車体の脆弱性を指摘されることになり、日本で新造される客車が鋼製に切り替わる契機になった。

事故の概略

1926年9月は日本各地で風水害の被害が発生しており、広島市9月11日集中豪雨を受けた。安芸郡(現在の広島市安芸区)にある瀬野川支流の畑賀川の堤防も決壊し付近に甚大な被害を与えており、山陽本線の畑賀川橋梁と築堤にも被害が出ていた。

9月23日、前日の9時30分に東京駅を出発し下関に向かっていた下り特急第1列車は、28977号蒸気機関車(18900形、後のC51形178号機)が11両の客車(22000系28400系)を牽引していた。途中停車駅である広島県の山陽本線糸崎駅を1時46分に出発し広島駅に向かっていた。広島県安芸郡中野村(現在の広島市安芸区)にある安芸中野駅を定刻よりも3分遅れの3時28分に通過。そこから少し離れた神戸起点295.6km付近の築堤が豪雨による畑賀川決壊により溢れ出た川水によって破壊され、築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた。見回りをしていた消防団員が危険を察知し踏切番に急停車の信号の依頼をしたが間に合わず[1]、3時30分、列車がその地点にさしかかり脱線転覆した。事故が発生した5分前には現場を下り貨物列車が無事に通過しており、僅かの差で遭難することになった。

見回りをしていた消防団員の機転により消防団員が招集され救助活動が行われたが、前方に連結されていた木造客車(二等寝台車など)が大破しており、34名が死亡した。犠牲者には当時の鹿児島市長上野篤上原謙の義理の従兄)など社会的に地位が高い人物も多く含まれており、外国人2名も含まれていた。また負傷しなかった乗客の中には第二次世界大戦下の大日本帝国陸軍南方軍総司令官となった寺内寿一少将や、後に小田急電鉄名誉会長になった安藤楢六が含まれていた。

事故の犠牲者を悼む慰霊碑は、安芸中野駅そばの専念寺の境内に建立されており、仏像の台座に犠牲者の氏名が刻み込まれている。

機関車
28977
オニ
27872
オニ
27880
スロネ
28504
スロネ
28502
スロネ
28501
スロ
29006
スロ
29002
オシ
28607
オイネ
28108
スイネ
28124
ステン
28070
乗客数     14 17 20 24 20 0 8 5 0
  • 色は、脱線または破損した車両。

事故後の対策

現場付近の恒久的な対策として、従来の築堤をかさ上げするとともに、脱線箇所である神戸起点295.6km付近の築堤については、再び地盤が浸食によって崩壊することのないように、盛土構造とはせず、全長20mの橋桁が掛けられた。この橋は下に道路も水路もない構造になっているが、洪水の際に溢れ出た水の逃げ道にするための工夫である。畑賀川に掛かる鉄橋も嵩上げと中央橋脚の撤去が行われた。慰霊碑は安芸中野駅近くにある専念寺境内に建立されている。

一方で木造客車の脆弱性が犠牲者を増加させた原因と指摘されたため、鉄道省は翌1927年度の車両新造計画から木造客車の枠を抹消し、車体を鋼製としたオハ31形などに切り替えた。

関連文献

  • 佐々木冨泰・網谷りょういち『事故の鉄道史-疑問への挑戦』(日本経済評論社、1993年) ISBN 9784818806627
第7話「国際特別急行列車の遭難」に詳しい記述あり。
  • 学習院大学史料館『写真集 大正の記憶 学習院大学所蔵写真』(吉川弘文館、2011年) ISBN 9784642038041
当時発行された、事故現場の写真を使用した絵葉書を多数掲載。

脚注

  1. 大阪朝日新聞 1926年9月23日夕刊1面「転覆の原因判明す 夜来の豪雨で再び線路破壊 急停車の信号間に合はず」

外部リンク