山口二矢

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テンプレート:Infobox 犯罪者 山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 - 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本右翼活動家民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件実行犯である。

1960年(昭和35年)10月政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎小刀で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。

略歴

生涯前半

二矢は1943年(昭和18年)、後の陸上自衛隊山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれた。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって彼の名前を二矢と名付けた。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。大衆作家村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたる。

幼年時代から新聞ニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判し、早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは父親の勤務地の関係で、札幌で生活した。1958年(昭和33年)玉川学園高等部に進んだが、父親の晋平の転勤が発令されたため、札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。

民族主義運動

1959年(昭和34年)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。山梨県北巨摩郡小淵沢町(現・北杜市)で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、彼の紹介で大東文化大学聴講生となった。

山口は赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙された。1959年(昭和34年)12月保護観察4年の処分を受けた。

1960年(昭和35年)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。

左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました。 — 山口の供述

1960年(昭和35年)6月17日右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。

7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。

10月4日自宅アコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そうと決心した」という。二矢は明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した。

10月12日、彼は自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区日比谷公会堂に向かって歩いていった。

浅沼稲次郎の暗殺事件

1960年(昭和35年)10月12日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[1]であったが、事件の重大さから名前が公表されている。

浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。

汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。

彼は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。

一方自衛隊は、父の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職した。

自決

山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[2]、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した(若松孝二監督の映画、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の冒頭に、このシーンが再現されている)。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」も残している[3]

右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。また沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えていた。

死後

毎年彼が死亡した11月2日右翼団体追慕祭(山口二矢烈士墓前祭)を開催している。党総本部の祭壇には、山口のデスマスクが祀られている[3]

影響

山口二矢が所属していた大東文化大学では、この事件が起きた後、世間の批判を恐れ「《大東文化大学は新聞紙上に社会党委員長浅沼稲次郎氏刺殺の山口二矢は本大学、学生委員と自称しておりますが、同人は本大学の学生ではありませんので、ここに通告いたします》と「急告」を出した」り、二矢の在籍を否定したりした(出典文藝春秋第 56 巻、第 3~5号、1978年)。一方、玉川学園小原國芳は事件後も二矢を自分の大切な生徒とみなし、少しも変わらぬ態度で接した(出典:沢木耕太郎「テロルの決算(P.302)」文春文庫、1978)より)

家族・親族

関連作品

小説

  • 大江健三郎セヴンティーン文學界1961年1月号(新潮文庫『性的人間』所収)
  • 大江健三郎『政治少年死す―セヴンティーン第二部』文學界1961年2月号(『大江健三郎全小説 3』講談社、2018年7月、所収)[4]

演じた俳優

脚注

  1. 少年法では家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者の実名報道を禁止しているだけで逮捕者や指名手配者の実名報道を禁止していない。山口は逮捕はされたが家裁審判に付されたり公訴提起されたりしていないため、厳密に言えば少年法の実名報道禁止規定には抵触していない。
  2. 一部で「血書」とされているが誤りである。
  3. 3.0 3.1 山口二矢烈士墓参 - 大日本愛国党(2015年11月2日付)2017年11月1日 (水) 閲覧。
  4. 発表直後に抗議を受けて『文學界』1961年3月号に謝罪広告が掲載される事態となり、公式には2018年の『大江健三郎全小説 3』まで一度も単行本に再録されたことがなかった。なお、非公式には『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社)などに再録されたことがある。

参考文献

関連項目

外部リンク