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{{Otheruses|尾張国|[[瀬戸内市]](旧[[邑久町]])の大字|邑久町尾張|日本各地の町名|尾張町}}
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{{基礎情報 令制国
 
{{基礎情報 令制国
 
|国名    = 尾張国
 
|国名    = 尾張国
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|一宮    = [[真清田神社]](愛知県[[一宮市]])
 
|一宮    = [[真清田神社]](愛知県[[一宮市]])
 
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'''尾張国'''(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。
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'''尾張国'''(おわりのくに/をはりのくに)
 
 
== 「尾張」の名称と由来 ==
 
[[File:Tsushima Tennō-matsuri.jpg|thumb|200px|[[六十余州名所図会]]「[[津島神社|津嶋]][[尾張津島天王祭|天王祭り]]」]]
 
7世紀後半の[[木簡]]では尾張国と'''尾治国'''の二つの表記が見られる<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、19頁。</ref>。平安時代に作られた『[[先代旧事本紀]]』天孫本紀の[[尾張氏]]の系譜にも「尾治」とある。大宝4年([[704年]])に[[国印]]が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。
 
 
 
『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、
 
『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。
 
 
 
また「尾張」の発音が「''終わり''」と重なる点からもわかるように、[[ヤマト王権]]の勢力圏の「端・東端」と見なされていた。この「尾張」に類する地名には「[[熊野]]」があるが、こちらも発音が「''隈の''」(奥まった所)に通じている。
 
 
 
なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は[[東山道]]に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある<ref>田中卓「尾張国はもと東山道か」『田中卓著作集6』(国書刊行会、1986年/原論文:1980年)</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代から平安時代まで ===
 
[[File:Torii of Masumida-jinja 201612.jpg|thumb|150px|left|[[一宮市]]]]
 
[[File:Kounomiya1.JPG|thumb|200px|[[稲沢市]]]]
 
[[3世紀]]前後に[[邪馬台国]]と匹敵する一大勢力国であったとされる[[狗奴国]]のあった場所として、[[愛知県]][[一宮市]]の萩原遺跡群をはじめとして伊勢湾岸一帯までを中心とした濃尾平野からS字甕が大量に発掘されていることからこの尾張地方が所在地として有力視されている。
 
 
 
[[7世紀]]に[[朝廷]]によって[[律令制]]が敷かれると[[尾張国造]]の領域が[[令制国]]の尾張国の範囲となり、[[防人]]の通行路にもなった。7世紀中葉には、国と[[評]]による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は[[8世紀]]の初頭に地域を[[国郡里制|国・郡・里]]の3段階に区分し、『[[延喜式]]』民部式によると尾張は、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]・[[中嶋郡]]・[[葉栗郡]]・[[丹羽郡]]・[[春部郡]](かすがべぐん)・[[山田郡 (尾張国)|山田郡]]・[[愛知郡 (愛知県)|愛智郡]]・[[知多郡]]の八郡であった。
 
 
 
易林本の『[[節用集]]』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた。
 
 
 
=== 南北朝時代から室町時代まで ===
 
[[File:清洲城 - panoramio (12).jpg|thumb|left|150px|[[清須市]]]]
 
[[室町時代]]初期には美濃国の守護であった[[土岐氏]]などが守護を務めていたが、1400年頃,[[斯波義重]](義教)が尾張守護に着任する。斯波義重の父[[斯波義将]]は越前(福井県)・越中(富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られる。その後、尾張(愛知県)、遠江(静岡県)の守護となる。越前時代からの被官である[[甲斐氏]]・[[織田氏]]・二宮氏らが尾張に送りこまれ,荘園・公領に給人として配置された。
 
 
 
以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護で三[[管領]]の[[斯波氏]]の領国となった。
 
 
 
なお、1391年には知多郡が、1395年には海東郡の分郡守護に一色氏が任じられているが、これは当時の守護であった土岐氏を牽制する措置であったとされている。だが、海東郡は1430年に[[一色義貫]]が[[足利義教]]と対立して没収され、知多郡も[[応仁の乱]]で[[一色義直]]が西軍に着いた際に幕府に没収されている<ref>河村昭一「一色氏の分国・分郡における守護・〈郡主〉在職期間」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。</ref>。
 
 
 
=== 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期まで ===
 
[[File:Komakiyama.JPG|thumb|left|150px|[[小牧市]]]]
 
[[File:Inuyama Castle and Kiso River.JPG|thumb|200px|[[犬山市]]]]
 
[[斯波氏]]の[[守護代]][[織田氏]]が実力を持つも、[[応仁の乱]]の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家」と西軍についた「伊勢守家」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。斯波氏は両者を巧みに操縦していたがやがて実力を失う。また駿府の[[今川氏親]]が東尾張に侵攻した名残りで[[那古野城]]は今川家の保有となる。「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし[[織田信秀]]の代で躍進。信秀は[[那古野城]]を[[今川氏豊]]から奪い取るなど功績を挙げる。信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、[[織田信長]]が家督を継ぐ。信長は[[斯波氏]]を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。[[伊勢長島]]を占拠していた[[一向宗]]を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。また[[1560年]](永禄3年)[[6月12日]]、信長討伐を目的として尾張に侵攻した[[今川義元]]を[[桶狭間の戦い]]にて破る。これ以後、尾張国はその全域を[[織田氏|織田弾正忠家]]が二代に渡って支配する。
 
 
 
[[1582年]]([[天正]]10年)、[[本能寺の変]]が発生し信長・信忠親子は揃って敗死。[[山崎の戦い]]で[[明智光秀]]を倒した[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と、織田家重臣の[[柴田勝家]]が世に言う[[清洲会議]]で対立。信長の後継者として信長の三男・[[織田信孝|神戸信孝]]を推す勝家と信忠の嫡子[[織田秀信|三法師]]を推す秀吉の対決は最終的に「織田家新当主に三法師、後見役に信孝」という形で落着した。しかし、まもなく清洲会議の決定を反故にした秀吉らは信長の次男・[[織田信雄|北畠信雄]]を主君として擁立。これに異を唱えた信孝と柴田勝家を[[賤ヶ岳の戦い]]で倒した。
 
 
 
ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、[[三河国]]の[[徳川家康]]と同盟を結び、[[1584年]]([[天正]]12年)、[[小牧・長久手の戦い]]を引き起こす。権力掌握のため多方面に軍を展開する秀吉はこの戦いに苦戦。[[池田恒興]]、[[森長可]]が戦死する事態に陥るが様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功、大義名分を喪った家康も撤兵する。
 
 
 
豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。信雄は[[長島城]]を本拠としていたが[[1586年]][[1月18日]]([[天正]]13年)の[[天正地震]]により長島城が倒壊したことで[[清洲城]]を大規模改修して本拠とする。その後、信雄は[[後北条氏]]滅亡後の関東への転封を拒んだため、[[1590年]]([[天正]]18年)秀吉の逆鱗に触れて改易された。信雄改易により、尾張国は[[福島正則]](24万石)ら豊臣家の武将により分割支配された。
 
 
 
[[1600年]]([[慶長]]5年)、[[関ヶ原の戦い]]が発生。挙兵した[[石田三成]]の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は[[清洲城]]を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され[[安芸国|安芸]][[広島市|広島]]に転封となる。そして、関ヶ原の戦功により[[徳川家康]]の四男[[松平忠吉]]が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする[[清洲藩]]が成立した。しかし忠吉は[[1607年]]([[慶長]]12年)に28歳で死去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐[[甲府藩]]主の[[徳川義直]]が転封して清洲藩を継承した。
 
 
 
[[1586年]]([[天正]]14年)の[[木曽川]]の「天正の大洪水」により、[[美濃国]]との境に流れていた[[木曽川]]が[[葉栗郡]]内のほぼ中央を流れるようになった。この為、豊臣秀吉の命により、[[1589年]](天正17年)に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を[[羽栗郡]]に改称した。同時に[[中島郡]]・[[海西郡]]も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。
 
 
 
尾張国は織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、[[柴田勝家]]、[[丹羽長秀]]、[[前田利家]]、[[池田輝政]]、[[山内一豊]]、[[加藤清正]]、福島正則、[[蜂須賀正勝]]、[[佐久間信盛]]、[[佐久間盛政]]、[[佐々成政]]、[[堀尾吉晴]]、[[浅野長政]]などが有名。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
[[File:Arimatsushibori.JPG|thumb|150px|left|[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]]]
 
[[File:Kamagaki no Komichi ac (3).jpg|thumb|200px|[[瀬戸市]]]]
 
[[徳川義直]]の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。[[1609年]]、大御所家康の意向により廃城となっていた[[那古野城]]址に新城として[[名古屋城]]の築城が決定となる。これにあたって全国の諸侯が動員された。([[天下普請]])天守台石垣については[[加藤清正]]が普請助役となった。<ref>これを記念して名古屋城前に加藤清正像が置かれている。一度も城主になったことのない人物が銅像として設置されている珍しい例。</ref>築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された([[清洲越し]])。こうして長らく尾張支配の象徴だった[[清洲城]]は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で[[1586年]][[1月18日]](天正13年)に発生した[[天正地震]]で深刻な[[液状化現象]]が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も[[清洲藩]]から[[尾張藩]]と改められた。家格も[[徳川御三家]]の筆頭という格別な位置に置かれ、その[[城下町]]たる名古屋は日本で十指に入る一大都会となった。
 
 
 
尾張藩は[[陶磁器]]を独占産業として位置付けたため、その名残で、[[瀬戸市|瀬戸]]は陶磁器の街になっている。
 
 
 
現在に到る文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる[[岡崎]]から職人を招いて[[八丁味噌]]を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、[[味噌煮込みうどん]]、[[味噌カツ]]、[[味噌おでん]]といった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋で[[きしめん]]として人々に愛され、現代に到っている。
 
 
 
尾張藩の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩である。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。ところが相次ぐ天災により赤字体質となっていく。
 
 
 
=== 幕末から明治維新、現在まで ===
 
[[File:Mitsubishi Heavy Industries Oe Factory Tokei-dai 20150517.JPG|thumb|150px|left|[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]]]]
 
[[File:Nagoya after the 1945 air raid.JPG|thumb|200px|[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]]]
 
[[File:Handaakarenga.JPG|thumb|150px|left|[[半田市]]]]
 
[[File:モリコロパーク1.JPG|thumb|200px|[[長久手市]]]]
 
10代藩主[[徳川斉朝]]から13代藩主[[徳川慶臧]]まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。そうした中[[1849年]]([[嘉永]]2年)、支藩・[[高須藩]]から14代藩主[[徳川慶恕]](改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、[[尊皇攘夷]]を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]らと共に独断で[[日米通商修好条約]]を締結した大老[[井伊直弼]]の専横に抗議したため、[[1858年]]([[安政]]5年)の[[安政の大獄]]にて隠居謹慎を命じられ、実弟の[[徳川茂徳]]に藩主の座を譲る。井伊が[[桜田門外の変]]で横死すると慶勝は14代将軍・[[徳川家茂]]の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子[[徳川義宜]]が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。[[公武合体派]]の重鎮となった慶勝は[[一橋家]]当主・[[徳川慶喜]]、前[[福井藩]]主・[[松平慶永]](春嶽)、前[[土佐藩]]主・[[山内豊信]](容堂)、前伊予[[宇和島藩]]主・[[伊達宗城]]、[[会津藩]]主・[[松平容保]]<ref>茂徳と同様に慶勝の実弟。高須四兄弟の一人。</ref>、[[薩摩藩]]主・[[島津久光]]ら[[雄藩]]連合から成る[[参預会議]]の一員に選ばれるも辞退。第一次[[長州征伐]]では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・[[西郷吉之助]])を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。しかし、続く第二次[[長州征伐]]には反対の立場をとり、弟の茂徳にも総督就任を辞退させた。
 
 
 
[[1867年]][[11月9日]]([[慶応]]3年[[10月14日]])、[[大政奉還]]が成ると慶勝は新政府[[議定]]に任命され、徳川15代将軍・徳川慶喜への辞官納地通告役を命じられる。[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍が敗戦後は新政府の一員として[[大阪城]]を受領。この後、藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの報告で藩に戻り、佐幕派を弾圧した。([[青松葉事件]])[[1871年]]([[明治]]3年)、初代名古屋藩知事となるが翌年の[[廃藩置県]]で免職となる。[[1875年]]([[明治]]8年)に義宜病死により[[尾張徳川家]]を慶勝が再継承し第17代当主となった。こうして御三家筆頭ながら最高権力者の[[徳川慶勝]]が初期から明治新政府に参加したことで尾張国は[[戊辰戦争]]の惨禍に遭うこともなかった。
 
 
 
[[明治維新]]で[[中央集権]]国家が形成されると、[[名古屋市]]は[[明治政府]]による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。
 
 
 
なお[[名古屋城]]は慶勝の提案で破却および[[金鯱]]の献上が申請された。しかし[[1879年]]([[明治]]12年)12月、[[山縣有朋]]が名古屋城と[[姫路城]]の城郭の保存を決定。[[1893年]](明治26年)、[[本丸]]は[[陸軍省]]から[[宮内省]]に移管され名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は[[1930年]]([[昭和]]5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に[[1872年]]([[明治]]5年)[[東京鎮台]]第三分営が置かれた。[[1873年]]([[明治]]6年)には[[名古屋鎮台]]となり、[[1888年]]([[明治]]21年)に第三師団に改組され、[[太平洋戦争]]敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の[[名古屋大空襲]]で[[焼夷弾]]の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により[[1959年]]([[昭和]]34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では概ね全域が'''[[名古屋藩]]'''領であった。[[熱田神宮]]領、加藤図書助<ref>幼少時の[[徳川家康]]を預かった[[熱田区|圧田]]の名家([[加藤氏|東加藤家]])。</ref>知行なども存在した。(765,235石余)
 
** [[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]](124,200石余)、[[春日井郡]](151,652石余)、[[丹羽郡]](73,204石余)、[[葉栗郡]](19,070石余)、[[中島郡 (愛知県)|中島郡]](124,229石余)、[[海東郡]](127,615石余)、[[海西郡 (愛知県)|海西郡]](44,587石余)、[[知多郡]](100,675石余)
 
* [[慶応]]4年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1868年]][[2月17日]]) - [[御附家老|附家老]][[成瀬氏]]領が'''[[犬山藩]]'''、同[[竹腰氏]]領が[[美濃国|美濃]]'''[[今尾藩]]'''としてそれぞれ立藩。領地は各郡に散在したが、[[知多郡]]・[[海西郡 (愛知県)|海西郡]]には今尾藩領はなかった。
 
* 明治4年
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[名古屋県]]'''、'''[[犬山県]]'''、'''[[今尾県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''名古屋県'''の管轄となる。
 
* 明治5年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]](1872年[[5月8日]]) - '''[[愛知県]]'''の管轄となる。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
{{座標一覧}}
 
=== 国府 ===
 
[[File:Owari-kokuga-ato sekihi.JPG|thumb|200px|right|尾張国衙址碑([[稲沢市]]松下)<br />{{Small|尾張国衙推定地。}}]]
 
[[国府]]は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。
 
* [[稲沢市]]松下・国府宮
 
*: 松下・国府宮とも「国衙」という小字があり(現在は松下n丁目、国府宮n丁目)、近辺に所在が推定されている。数度の発掘調査が行われているが、木簡や銅印などは出土しているものの遺構は発見されていない。推定国府域は三宅川の自然堤防の上に位置し、ほぼ真北の方位をとる。現在は松下公民館付近において「尾張国衙址」碑が建てられているほか({{ウィキ座標|35|15|17.26|N|136|47|59.81|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=尾張国衙址碑(尾張国府推定地)}})、[[総社]]の[[尾張大国霊神社]]が所在する。
 
* 稲沢市下津町
 
*: 「東国府」「西国府」の小字があり、近辺に所在が推定されている。発掘調査は行われていない。
 
 
 
現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない<ref name="一宮制 国府">『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 113-114。</ref>。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある<ref name="一宮制 国府"/>。
 
 
 
なお『[[節用集]]』易林本では海部郡に「府」と記載されている。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
[[File:Owari-kokubunji-ato tou.JPG|thumb|200px|right|[[尾張国分寺|尾張国分寺跡]](稲沢市矢合町)]]
 
* [[尾張国分寺|尾張国分寺跡]] (稲沢市矢合町椎ノ木、{{ウィキ座標|35|14|0.04|N|136|46|25.01|E|region:JP-23_type:landmark|display=inline|位置|name=尾張国分寺跡}})
 
*: 国の史跡。推定寺域は東西約200メートル・南北約300メートル以上で、金堂・講堂・塔の遺構が確認されている。『[[日本紀略]]』[[元慶]]8年([[884年]])条によると、尾張の本金光明寺に火災があったため、愛知郡定額寺の願興寺(現・[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]の尾張元興寺跡か)を国分寺としたとされる。この尾張元興寺は10世紀には衰退して廃寺に至ることから、その後に国分尼寺が僧寺に転用されたという説もある。
 
*: 以後、中世期の変遷は不詳。現在は創建時の遺構北方において、明治に「円興寺」から改称した[[尾張国分寺|鈴置山国分寺]](稲沢市矢合町、{{ウィキ座標|35|14|27.88|N|136|46|28.83|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=鈴置山国分寺(尾張国分寺後継寺院)}})が法燈を伝承する。
 
 
 
* 尾張国分尼寺跡
 
*: 稲沢市法花寺町と推定されている。発掘調査は行われておらず不詳。同地の法華寺({{ウィキ座標|35|14|42.16|N|136|45|57.47|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=法華寺(尾張国分尼寺後継寺院)}})がその名残とする説がある(詳細は「[[尾張国分寺跡#尾張国分尼寺]]」参照)。
 
 
 
そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺([[一宮市]]千秋町)、尾張元興寺遺跡([[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[正木 (名古屋市)|正木町]])、東畑廃寺([[稲沢市]]稲島町)、[[大山廃寺跡]]([[小牧市]]野口町)が知られる。
 
 
 
=== 神社 ===
 
'''[[延喜式内社]]'''
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社8座8社・小社113座113社の計121座121社が記載されている(「[[尾張国の式内社一覧]]」参照)。大社8社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
 
* [[中島郡 (愛知県)|中島郡]] 大神神社
 
** 比定社:[[大神神社 (一宮市)|大神神社]] (一宮市花池、{{ウィキ座標|35|17|28.94|N|136|47|36.44|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=名神大社:大神神社}})
 
* 中島郡 太神社
 
** 比定社:[[大神社 (一宮市)|大神社]] (一宮市大和町於保、{{ウィキ座標|35|16|19.20|N|136|47|52.37|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=名神大社:大神社}})
 
* 中島郡 真墨田神社
 
** 比定社:[[真清田神社]] (一宮市真清田)
 
* [[丹羽郡]] 大県神社
 
** 比定社:[[大県神社]] (犬山市宮山)
 
* [[愛知郡 (愛知県)|愛智郡]] 熱田神社
 
** 比定社:[[熱田神宮]] (名古屋市熱田区神宮)
 
* 愛智郡 日割御子神社
 
** 比定社:[[熱田神宮#摂社|日割御子神社]] (名古屋市熱田区神宮、{{ウィキ座標|35|07|21.94|N|136|54|33.78|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=名神大社:日割御子神社}}) - 熱田神宮摂社。
 
* 愛智郡 孫若御子神社
 
** 比定社:[[熱田神宮#摂社|孫若御子神社]] (名古屋市熱田区神宮、{{ウィキ座標|35|07|23.98|N|136|54|33.63|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=名神大社:孫若御子神社}}) - 熱田神宮摂社。
 
* 愛智郡 高座結御子神社
 
** 比定社:[[高座結御子神社]] (名古屋市熱田区高蔵町、{{ウィキ座標|35|08|07.47|N|136|54|16.03|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=名神大社:高座結御子神社}}) - 熱田神宮摂社。
 
 
 
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
 
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 102-113。</ref>。
 
* 総社:[[尾張大国霊神社]] (稲沢市国府宮、{{ウィキ座標|35|15|22.25|N|136|48|18.79|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=尾張国総社:尾張大国霊神社}})
 
* 一宮:[[真清田神社]] (一宮市真清田、{{ウィキ座標|35|18|27.20|N|136|48|7.51|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=尾張国一宮、名神大社:真清田神社}}) - 初見は[[1165年]]の史料。『[[十六夜日記]]』に「一宮といふやしろ」と記されている。
 
* 二宮:[[大県神社]] (犬山市宮山、{{ウィキ座標|35|19|49.13|N|136|58|01.29|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=尾張国二宮、名神大社:大県神社}}) - 初見は[[1143年]]の史料。一宮もこの頃定まったとされる。
 
* 三宮:[[熱田神宮]] (名古屋市熱田区神宮、{{ウィキ座標|35|07|38.59|N|136|54|31.22|E|region:JP-23_type:landmark|位置|name=尾張国三宮、名神大社:熱田神宮}}) - 古代からの大社であるが、一宮にはならなかったとされる。その理由には諸説がある<ref>当初、[[伊勢国]]における[[伊勢神宮]]と同様に別格で一宮とされなかったが、一宮・二宮が定められた後に三宮として追加されたという説、単に国府から遠かったためとする説、真清田神社の積極的な運動によって一宮になったとする説、一宮制度導入時に国司と熱田神宮が対立していた説など。</ref>。
 
 
 
=== 守護所 ===
 
[[鎌倉時代]]の[[守護所]]の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。
 
 
 
いつ頃からは定かでないが、[[室町時代]]には下津(稲沢市)にあった。
 
 
 
== 地域 ==
 
鎌倉時代は、『[[海道記]]』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、[[弥富市]]や[[津島市]]は、尾張国と見なされておらず、[[あま市]][[甚目寺 (あま市の地名)|甚目寺]]([[萱津]])辺りから尾張国であったと考えられている。
 
 
 
北隣の[[美濃国]]とは現在の[[木曽川]]の一部と[[境川 (岐阜県)|境川]]あたり、[[長良川]]の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。[[鎌倉時代]]には[[六波羅探題]]の管轄下で[[西国]]の扱いを受けていた。[[室町時代]]におきた[[承久の乱]]によると尾張国の範囲は[[尾張九瀬]]で認識され、[[前渡]]、[[印食]]、[[墨俣]]などの[[渡し]]を境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては[[美濃国]]の[[土岐氏]]が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが[[斉藤氏]]の支配下であったようだが、織田氏にとっては[[尾張川]](現在の境川)と[[墨俣川]](現在の長良川で[[羽島市]][[小熊町]]より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。
 
木曽川は、豊臣政権時代の天正14年([[1586年]])に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。
 
 
 
「天正の大洪水」によって[[葉栗郡]]と[[中島郡]]、[[海西郡]]が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は[[美濃国]]に編入された。[[古事類苑]]によると[[豊臣秀吉]]の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県[[一宮市]]東'''加賀野井'''と岐阜県[[羽島市]]下中町'''加賀野井'''。愛知県一宮市浅井町'''河田'''と岐阜県[[各務原市]]川島町'''河田'''。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町'''三ツ法寺'''と岐阜県羽島市正木町'''光法寺'''。)
 
現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の[[稲沢市]]祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。
 
 
 
[[江戸時代]]では尾張国と[[美濃国]]の多くの地域は、[[尾張藩]]が中心となり細かく分割されて管理された。
 
 
 
=== 郡 ===
 
*[[知多郡]]…「ちたぐん」と読む。元は「'''智多郡'''」と書いた。
 
*[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]…「あいちぐん」と読む。元は「'''愛智郡'''」と書いた。
 
*[[春日井郡]]…「かすがいぐん」と読む。元は「'''春部郡'''(かすかべぐん)」と表記。現在の春日井市や[[西春日井郡]]など。
 
*[[丹羽郡]]…「にわぐん」と読む。
 
*[[葉栗郡]]…「はぐりぐん」と読む。現在の一宮市北部、江南市北部。
 
*[[中島郡 (愛知県)|中島郡]]…「なかしまぐん」と読む。現在の一宮市南部、稲沢市。
 
*[[海東郡]]…「かいとうぐん」と読む。もと[[海部郡 (愛知県)|海部郡]](あまぐん)。大正期に海西郡と統合。
 
*[[海西郡 (愛知県)|海西郡]]…「かいせいぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海東郡と統合。
 
*[[山田郡 (尾張国)|山田郡]]…「やまだぐん」と読む。戦国期に春日井郡と愛知郡に分割編入され消滅。
 
 
 
『[[古事類苑]]』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。
 
 
 
*中嶋郡…美和、神戸、拜師、小塞、三宅、茜部、石作、日野、川埼
 
*葉栗郡…葉栗、河沼、大毛、村國、若栗
 
*海部郡…新屋、中島、津積、志摩、伊福、島田、海部、日置、三刀、物忌、三宅、八田
 
*丹羽郡…五鬘、稻木、上春、丹羽、穗積、大桑、下沼、上沼、前刀、小弓、小野、小口
 
*愛智郡…中村、千竈、日部、太毛、物部、熱田、作良、成海、驛家、神戸
 
*春部郡…池田、柏井、安食、山村、高苑、餘戸
 
*知多郡…番賀、贄代、富具、但馬、英比
 
*山田郡…船木、主惠、石作、志誤、山口、加世、兩村、餘戸、驛家、神戸
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
{| class="wikitable"
 
|+ 尾張国の藩の一覧
 
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
 
|-
 
! [[清洲藩]]
 
| [[清洲城]]
 
|
 
*[[松平忠吉]](62万石、1600年 - 1607年) : 無嗣断絶
 
|-
 
! [[尾張藩]]
 
| 清洲城<br>1607年 - 1612年<br>[[名古屋城]]<br>1612年 - 1871年
 
|
 
*[[尾張徳川家]](47万2344石→56万3206石→61万9500石、1607年 - 1871年)
 
|-
 
! [[犬山藩]]<br>尾張藩附家老
 
| [[犬山城]]
 
|
 
*[[小笠原吉次]](1600年 - 1607年)
 
*[[平岩親吉]](11万3000石、1607年 - 1611年)
 
*[[成瀬氏|成瀬家]](3万石→3万5000石、1617年 - 1871年)
 
|-
 
! [[緒川藩]]
 
| [[緒川城]]
 
|
 
*[[水野分長]](9820石、1601年 - 1606年) : 三河[[新城藩]]1万石に移封
 
|}
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
{{節スタブ}}
 
==== 尾張守 ====
 
*[[藤原真川]](従五位下):[[延暦]]25年([[806年]])任官
 
*[[多入鹿]](従五位下):[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])任官
 
*[[平群真常]](従五位上):大同3年([[808年]])任官
 
*[[秋篠安人]](従四位上):大同5年([[810年]])任官
 
*[[紀田上]](従四位下):大同5年(810年)任官
 
*[[安倍犬養]](従五位下):[[弘仁]]元年(810年)任官
 
*[[三原弟平 (奈良・平安時代)|三原弟平]](従五位上):弘仁4年([[812年]])任官
 
*[[滋野家訳]](従五位下):弘仁6年([[814年]])任官
 
*[[伴氏上]](従五位下):[[天長]]2年([[825年]])任官
 
*[[路年継]](従四位下):天長3年([[826年]])任官
 
*[[藤原助]](従四位下):[[承和 (日本)|承和]]4年([[837年]])任官
 
*[[橘氏人]](従四位上):承和8年([[841年]])任官
 
*[[源弘]](従四位下):承和12年([[845年]])任官
 
*[[源定]](従三位):承和15年([[848年]])任官
 
*[[滋野貞主]](従四位下):[[嘉祥]]2年([[849年]])任官
 
*[[源定]](従三位):嘉祥3年([[850年]])任官
 
*[[南淵年名]](従五位下):嘉祥3年(850年)任官
 
*[[滋野貞主]](従四位下):嘉祥3年(850年)任官
 
*[[橘数岑]](従五位下):嘉祥3年(850年)任官
 
*[[源定]](従三位):嘉祥4年([[851年]])任官
 
**[[豊階安人]](従五位上):[[仁寿]]4年([[854年]])任官(権守)
 
*[[藤原宗善]](従五位上):[[斉衡]]2年([[855年]])任官
 
*[[飯高永雄]](従五位下):[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])任官
 
**[[藤原常永]](従五位上):天安2年(858年)任官(権守)
 
*[[安倍房上]](従五位下):[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])任官
 
*[[吉備全継]](従五位下):貞観9年([[867年]])任官
 
**[[家原氏主]](従五位上):貞観10年([[868年]])任官(権守)
 
*[[南淵興世]](従五位下):貞観13年([[871年]])任官
 
*[[藤原村椙]](従五位下):貞観16年([[874年]])任官
 
**[[藤原高藤]](従五位上):[[元慶]]3年([[879年]])任官(権守)
 
*[[藤原高藤]](従五位上):元慶5年([[881年]])任官
 
*[[清原常岑]](従五位下):元慶8年([[884年]])任官
 
*[[源有]](従四位下):[[仁和]]3年([[887年]])任官
 
**[[藤原定方]](従五位下):[[寛平]]8年([[896年]])任官(権守)
 
**[[平伊望]](従五位下):[[昌泰]]3年([[900年]])任官(権守)
 
*[[橘秘樹]]:[[延長 (元号)|延長]]9年([[931年]])任官
 
*[[藤原共理]]:[[天慶]]2年([[939年]])任官
 
*[[源宗海]]:天慶2年(939年)任官
 
*[[藤原興方]](従五位下):天慶6年([[942年]])任官
 
*[[藤原為輔]](従五位下):[[天暦]]9年([[955年]])任官
 
*[[藤原文正]]:[[天徳 (日本)|天徳]]3年([[959年]])任官
 
*[[藤原守平]](従五位上):[[応和]]3年([[963年]])任官
 
*[[橘桓平]](従五位上):[[康保]]4年([[967年]])任官
 
**[[源忠清]](正四位上):[[天禄]]2年([[971年]])任官(権守)
 
*[[藤原永頼]]:[[天延]]2年([[975年]])任官
 
**[[菅原文時]](正四位下):[[天元 (日本)|天元]]3年([[980年]])任官(権守)
 
**[[菅原公任]](従四位上):[[永観]]2年([[984年]])任官(権守)
 
*[[藤原元命]]:[[寛和]]2年([[986年]])任官
 
**[[藤原道綱]](従三位):[[永延]]2年([[988年]])任官(権守)
 
*[[藤原文信]]:永延3年([[989年]])
 
**[[大江匡衡]](従五位上):[[正暦]]3年([[992年]])任官(権守)
 
*[[藤原里兼]](正四位下):[[長徳]]2年([[996年]])任官
 
*[[藤原知光]]:長徳3年([[997年]])任官
 
*[[大江匡衡]](従四位下):[[長保]]3年([[1001年]])任官
 
**[[藤原正光]](正四位下):長保5年([[1003年]])任官(権守)
 
**[[藤原実成]](従四位下):長保6年([[1004年]])任官(権守)
 
*[[藤原中清]]:[[寛弘]]2年([[1005年]])任官
 
*[[大江匡衡]](従四位下):寛弘6年([[1009年]])任官
 
*[[藤原知光]]:寛弘7年([[1010年]])任官
 
*[[橘経国]]:[[長和]]4年([[1015年]])任官
 
**[[藤原良経]]:[[寛仁]]2年([[1018年]])任官(権守)
 
*[[藤原惟貞]]:寛仁3年([[1019年]])任官
 
*[[源則理]]:[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])任官
 
*[[平惟忠]]:[[長元]]2年([[1029年]])任官
 
*[[源実基]]:長元8年([[1035年]])任官
 
*[[藤原範永]]:長元10年([[1037年]])任官
 
*[[橘俊綱]]:[[長久]]3年([[1042年]])任官
 
*[[藤原公基]](従五位上):[[寛徳]]2年([[1045年]])任官
 
*[[藤原時房]]:[[康平]]3年([[1060年]])任官
 
*[[平定家]]:[[治暦]]元年([[1065年]])任官
 
**[[源李宗]]:治暦4年([[1068年]])任官(権守)
 
*[[藤原憲房]]:治暦5年([[1069年]])任官
 
**[[賀茂道平]]:[[延久]]2年([[1070年]])任官(権守)
 
*[[藤原惟経]]:延久5年([[1073年]])任官
 
*[[平忠盛]](正四位下):[[天養]]元年([[1144年]])任官
 
*[[平頼盛]](従四位上):[[保元]]3年([[1158年]])任官
 
*[[平重衡]](従五位下):[[応保]]3年([[1163年]])任官
 
*[[平保盛]](従五位下):[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])任官
 
*[[坊門忠清]](従五位下):[[正治]]元年([[1199年]])任官
 
*[[名越時章]]:[[寛元]]3年([[1245年]])任官
 
*[[足利家氏]]:[[文永]]2年([[1265年]])任官
 
*[[名越高家]]
 
*[[斯波高経]]:[[元弘]]3年([[1333年]])任官
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
*1195年 - ? : [[小野成綱]]
 
*? - 1221年 : [[小野盛綱]]
 
*1240年 - ? : [[中条家平]]
 
*1252年 - ? : [[中条頼平]]
 
*1290年 - ? : [[中条景長]]
 
*1314年 - ? : 北条氏一門(名越氏?)
 
*? - 1333年 : [[北条宗教]]
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
*1336年 - 1338年 : [[中条秀長]]
 
*1339年 - 1340年 : [[高師泰]]
 
*1351年 - 1387年 : [[土岐頼康]]
 
*1388年 - 1391年 : [[土岐満貞]]
 
*1391年 - ? : [[一色詮範]]
 
*1392年 - ? : [[畠山深秋]]
 
*1393年 - 1398年 : [[今川仲秋]]
 
*1398年 : [[今川氏兼]]
 
*1398年 - ? : [[畠山基国]]
 
*1400年 - 1418年 : [[斯波義重]]
 
*1424年 - 1433年 : [[斯波義淳]]
 
*1433年 - 1436年 : [[斯波義郷]]
 
*1436年 - 1452年 : [[斯波義健]]
 
*1452年 - 1460年 : [[斯波義敏]]
 
*1460年 - 1461年 : [[斯波義寛]]
 
*1461年 - 1466年 : [[斯波義廉]]
 
*1466年 : 斯波義敏
 
*1466年 - 1468年 : 斯波義廉
 
*1468年 - 1499年 : 斯波義寛
 
*1511年 - 1517年 : [[斯波義達]]
 
*1536年 - 1554年 : [[斯波義統]]
 
*1554年 - 1556年 : [[斯波義銀]]
 
 
 
=== 戦国時代 ===
 
*戦国大名
 
**[[斯波氏]](尾張守護)
 
**[[織田氏]](尾張守護代)
 
*織田政権の大名
 
**[[池田恒興]]([[犬山城]]):1万貫。1570年 - 1580年(摂津に移封)
 
*豊臣政権の大名
 
**[[織田信雄]]([[清洲城]]):尾張・伊勢・伊賀110万石、1582年 - 1590年(改易)
 
**[[豊臣秀次]](清洲城):尾張・伊勢100万石、1590年 - 1595年(切腹・改易)
 
**[[福島正則]](清洲城):尾張国内24万石、1595年 - 1600年(安芸[[広島藩]]49万8,200石に移封)
 
**[[一柳直盛]]([[黒田城 (尾張国)|黒田城]]):3万5千石、1595年 - 1600年(伊勢[[神戸藩]]5万石に移封)
 
**[[石川貞清]](犬山城):1万2千石、1595年 - 1600年(改易)
 
 
 
=== 武家官位としての尾張守 ===
 
==== 江戸時代以前 ====
 
*[[斯波氏]]武衛家(尾張足利氏)
 
**[[足利家氏]](斯波家氏):斯波氏初代。鎌倉時代中期の武将
 
**[[斯波宗家]]:2代当主。鎌倉時代中期の武将。
 
**[[斯波宗氏]]:3代当主。鎌倉時代中期から後期にかけての武将
 
**[[斯波高経]]:4代当主。室町幕府の越前・若狭・越中守護
 
**[[斯波義淳]]:7代当主。室町幕府[[管領]]、越前・尾張・遠江守護
 
*室町幕府守護[[畠山氏]](尾州家)
 
**[[畠山満家]]:本宗家10代当主。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護
 
**[[畠山持富]]:本宗家11代・尾州家初代当主。室町幕府管領、紀伊・河内・越中守護
 
**[[畠山政長]]:本宗家14代・尾州家3代当主。室町幕府管領管領、紀伊・河内・越中・山城守護
 
**[[畠山尚順]]:本宗家16代・尾州家4代当主。紀伊・河内・越中守護
 
**[[畠山稙長]]:本宗家17代・尾州家5代当主。紀伊・河内・越中守護
 
**[[畠山政国]]:本宗家19代・尾州家7代当主。紀伊・河内守護。
 
**[[畠山高政]]:本宗家21代・尾州家9代当主。紀伊・河内守護
 
*周防国・長門国の守護・戦国大名大内氏譜代重臣陶氏
 
**[[陶弘護]]:8代当主。室町時代の武将。周防・筑前守護代
 
**[[陶興房]]:9代当主。戦国時代の武将。周防守護代
 
**[[陶晴賢]](陶隆房):10代当主。戦国時代の武将。周防守護代。主家を実質的に滅ぼす
 
*その他
 
**[[高師泰]]:南北朝時代の武将。[[高師直]]の兄(または弟)
 
**[[新発田長敦]]:戦国時代の武将。[[上杉謙信]]の七手組大将の一人
 
**[[織田信長]]:美濃攻略後、尾張守を自称(それ以前は上総介)
 
**[[松田憲秀]]:[[後北条氏|小田原北条氏]]家老。[[小田原征伐]]の際に、豊臣方に内応を試みた
 
 
 
==== 江戸時代 ====
 
江戸時代には尾張守を称した例は無い。理由としては、尾張守を称した陶晴賢([[大内氏]]家臣)や松田憲秀([[後北条氏]]家臣)が主家を滅ぼしたため忌避されたという説、御三家筆頭である尾張徳川家に遠慮をしたという説、読みが「終わり」と同じで縁起が悪いとの説、などがある。
 
 
 
== 尾張国の合戦 ==
 
*[[1181年]]:[[墨俣川の戦い]]、 [[平家]]軍([[平重衡]]) × [[源行家]]
 
*[[1554年]]:[[村木砦の戦い]]、[[織田信長]]・[[水野信元]] × [[今川義元]]
 
*[[1556年]]:[[稲生の戦い]]、織田信長 × [[織田信行]]
 
*[[1558年]]:[[石ヶ瀬川の戦い]]、[[徳川家康|松平元康]] × 水野信元
 
*1558年:[[浮野の戦い]]、織田信長 × [[織田信賢]]
 
*[[1560年]]:[[桶狭間の戦い]]、織田信長 × 今川義元
 
*[[1584年]]:[[小牧・長久手の戦い]]、[[徳川家康]]・[[織田信雄]] × [[羽柴秀吉]]
 
**1584年:[[岩崎城の戦い]]、[[丹羽氏重]] × [[池田恒興]]
 
 
 
== 現代の尾張地方 ==
 
{| class="infobox bordered"
 
| colspan="2" style="text-align: center; background-color: #f40;"|'''尾張地方'''のデータ
 
|-
 
| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|国
 
| [[日本]]
 
|-
 
| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|地方
 
| [[中部地方]]、[[東海地方]]
 
|-
 
| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|面積
 
| style="text-align: right;"|'''1,686.53'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]
 
|-
 
| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|[[推計人口]]
 
| style="text-align: right;"|'''{{formatnum:{{ #expr: {{自治体人口/愛知県|名古屋市}} + {{自治体人口/愛知県|愛西市}} + {{自治体人口/愛知県|一宮市}} + {{自治体人口/愛知県|稲沢市}} + {{自治体人口/愛知県|犬山市}} + {{自治体人口/愛知県|岩倉市}} + {{自治体人口/愛知県|大府市}} + {{自治体人口/愛知県|尾張旭市}} + {{自治体人口/愛知県|春日井市}} + {{自治体人口/愛知県|北名古屋市}} + {{自治体人口/愛知県|清須市}} + {{自治体人口/愛知県|江南市}} + {{自治体人口/愛知県|小牧市}} + {{自治体人口/愛知県|瀬戸市}} + {{自治体人口/愛知県|知多市}} + {{自治体人口/愛知県|津島市}} + {{自治体人口/愛知県|東海市}} + {{自治体人口/愛知県|常滑市}} + {{自治体人口/愛知県|豊明市}} + {{自治体人口/愛知県|日進市}} + {{自治体人口/愛知県|半田市}} + {{自治体人口/愛知県|弥富市}} + {{自治体人口/愛知県|あま市}} + {{自治体人口/愛知県|東郷町}} + {{自治体人口/愛知県|長久手市}} + {{自治体人口/愛知県|大治町}} + {{自治体人口/愛知県|蟹江町}} + {{自治体人口/愛知県|飛島村}} + {{自治体人口/愛知県|豊山町}} + {{自治体人口/愛知県|大口町}} + {{自治体人口/愛知県|扶桑町}} + {{自治体人口/愛知県|阿久比町}} + {{自治体人口/愛知県|武豊町}} + {{自治体人口/愛知県|東浦町}} + {{自治体人口/愛知県|南知多町}} + {{自治体人口/愛知県|美浜町}} round 0}}}}'''人<br />({{自治体人口/愛知県|date}})
 
|-
 
| colspan="2" style="font-size: smaller;"|※尾張国(愛知県西部)全域。
 
|}
 
[[File:Nagoya TV Tower from Oasis 21 s2.JPG|thumb|200px|[[名古屋市]]([[政令指定都市]])]]
 
[[File:尾張一宮駅 - panoramio (4).jpg|thumb|200px|[[一宮市]]([[特例市|施行時特例市]])]]
 
[[File:Culture Forum Kasugai rooftop terrace ac (2).jpg|thumb|200px|[[春日井市]](施行時特例市)]]
 
[[File:CLACITY HANDA.jpg|thumb|200px|[[半田市]]([[計量特定市]])]]
 
===自治体===
 
;政令指定都市
 
*[[名古屋市]]
 
;特例市
 
*[[一宮市]](木曽川東岸の一部除く)
 
*[[春日井市]]
 
;計量特定市
 
*[[半田市]]
 
;その他
 
[[瀬戸市]]、[[尾張旭市]]、[[日進市]]、[[豊明市]]、[[大府市]]、[[東海市]]、[[知多市]]、[[常滑市]]、[[小牧市]]、[[犬山市]]、[[江南市]]、[[岩倉市]]、[[稲沢市]](加賀野井地区の一部を除く)、[[津島市]]、[[愛西市]]、[[弥富市]](鍋田川流域の一部除く)、[[あま市]]、[[北名古屋市]]、[[清須市]]、[[長久手市]]、[[東郷町]]、[[東浦町]]、[[阿久比町]]、[[武豊町]]、[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]、[[南知多町]]、[[大口町]]、[[扶桑町]]、[[豊山町]]、[[飛島村]]、[[大治町]]、[[蟹江町]]
 
 
 
===呼称===
 
現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。
 
*尾張国と同じ範囲とする場合。
 
*尾張国の範囲から、[[名古屋市]](県庁所在地)を除く場合。
 
:数的規模などの面から、名古屋市を分けて記述したり、組織編成したりする場合に「'''名古屋・尾張'''''(名古屋を除く)''」などと区分する。
 
*尾張国の範囲から、名古屋市と[[知多半島]]を除く場合。
 
:地域性や文化などの面から、「'''名古屋・尾張・知多'''」と区分する。
 
:この場合に置いて尾張国を細分化した場合、地域区分は必ずしも一定していないが、区分表記に当たっては、尾張の頭に方角を付けるほか、「尾東」「尾西」「尾北」という表記もある。また、知多半島を「南尾張」とする表記も見られるが、「尾南」という表記は見られない。
 
*尾張国の範囲から、知多半島のみを除く場合。
 
:気象注意報・警報の地域区分や知多地域の案内などに見られる。この場合、「'''尾張・知多(愛知県西部・知多)'''」と区分する。
 
 
 
===地形===
 
*[[川]]:[[木曽川]]、[[長良川]]、[[揖斐川]]
 
*[[半島]]:[[知多半島]]
 
*[[平野]]:[[濃尾平野]]
 
*[[湾]]:[[伊勢湾]]
 
 
 
===交通===
 
現在では、名古屋から東海地方、近畿地方([[大阪市]]など)、関東地方([[東京都]]など)や北陸地方([[富山市]]など)への道路や鉄道の路線が分岐している。
 
====空港====
 
*[[中部国際空港]](セントレア)
 
*[[名古屋飛行場]](県営名古屋空港)
 
 
 
====鉄道====
 
{{col|
 
*[[東海道新幹線]]
 
*[[東海道本線]]
 
*[[関西本線]]
 
*[[名鉄小牧線]]
 
*[[名鉄瀬戸線]]
 
*[[名鉄豊田線]]
 
|
 
*[[中央本線]]
 
*[[武豊線]]
 
*[[近鉄名古屋線]]
 
*[[名鉄広見線]]
 
*[[名鉄津島線]]
 
*[[名鉄尾西線]]
 
|
 
*[[名鉄名古屋本線]]
 
*[[名鉄犬山線]]
 
*[[名鉄常滑線]]
 
*[[名鉄河和線]]
 
*[[名鉄知多新線]]
 
*[[名鉄空港線]]
 
}}
 
 
 
====道路====
 
;[[有料道路]]
 
*[[東名高速道路]]
 
*[[名神高速道路]]
 
*[[中央自動車道]]
 
*[[名古屋高速道路]]
 
*[[名古屋第二環状自動車道]]
 
*[[東名阪自動車道]]
 
*[[東海北陸自動車道]]
 
*[[伊勢湾岸自動車道]]
 
*[[知多半島道路]]
 
*[[南知多道路]]
 
*[[知多半島横断道路]]
 
*[[名古屋瀬戸道路]]
 
 
 
;[[国道]]
 
{{col|
 
*[[国道1号]]
 
*[[国道19号]]
 
*[[国道22号]]
 
*[[国道23号]]
 
*[[国道41号]]
 
|
 
*[[国道153号]]
 
*[[国道154号]]
 
*[[国道155号]]
 
*[[国道247号]]
 
*[[国道248号]]
 
|
 
*[[国道302号]]
 
*[[国道363号]]
 
*[[国道366号]]
 
}}
 
 
 
====港====
 
*[[名古屋港]]
 
==== 市外局番 ====
 
*052(名古屋MA)
 
*0561(瀬戸MA)
 
*0562(尾張横須賀MA)
 
*0567(津島MA)
 
*0568(春日井MA)
 
*0569(半田MA)
 
*0586(一宮MA)
 
*0587(一宮MA)
 
==== 自動車ナンバープレート ====
 
*名古屋ナンバー
 
*尾張小牧ナンバー
 
*一宮ナンバー(ご当地ナンバー:一宮市)
 
*春日井ナンバー(ご当地ナンバー:春日井市)
 
 
 
==参考==
 
[[通話表#和文通話表|和文通話表]]で、「[[を]]」を送る際に「'''尾張のヲ'''」という。
 
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
 
 
==関連項目==
 
{{Commonscat|Owari Province}}
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[濃尾平野]]
 
* [[尾三]]
 
* [[尾張神社]]
 
* [[紀伊型戦艦|尾張]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[八八艦隊計画]]で計画した未成[[戦艦]]。
 
  
==外部リンク==
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現在の愛知県西半部。[[東海道]]の一国。上国。もと吾湯市 (あゆち) 県主,尾張国造が支配。国府,国分寺ともに稲沢市。『延喜式』に愛智 (あいち) ,知多 (ちた) ,春部 (かすがへ) ,山田 (やまた) ,丹羽 (には) ,葉栗 (はくり) ,中島 (なかしま) ,海部 (あまへ) の8郡がみえ,『和名抄』には郷 70,田 6820町余。ただし『拾芥抄』では1万 1930町余。「記紀」神話の日本武尊の伝説にみえる[[熱田神宮]]は古来,大社として聞え,源頼朝の母が大宮司家の娘であったため,鎌倉時代初期には権勢を誇った。鎌倉時代の守護には小野氏,中条氏に続き正和~元弘年間 (1312~34) は北条氏の一族名越氏が任じられた。南北朝時代には高師泰が支配,室町時代には斯波氏が守護となったが,斯波義将は足利義満に仕えて管領となり,都にいることが多く,家臣[[織田氏]]を守護代とした。応仁の乱後,斯波氏の勢力が弱まるや織田氏は勢力を伸ばして尾張国を押え,信長は三河,美濃を攻略し,永禄3 (1560) 年には駿河の今川義元を愛知郡の[[桶狭間の戦い]]に破り,さらに近江に進出して京都に入って天下を掌握した。江戸時代には徳川家康の4男忠吉が入国したが,没後慶長 12 (1607) 年,9男の義直が封じられ,尾張徳川家で[[御三家]]の一つとして 53万 9500石,のち 61万 9500石を領して幕末にいたった。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県には名古屋県と犬山県,同年 11月には合併して名古屋県となり,同5年愛知県となる。
* [http://www.kyougoku-do.com/map%20imeage/kokugunzenzu/l/109-owari.jpg 尾張国国郡図]
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2018/10/18/ (木) 16:34時点における最新版


尾張国(おわりのくに/をはりのくに)

現在の愛知県西半部。東海道の一国。上国。もと吾湯市 (あゆち) 県主,尾張国造が支配。国府,国分寺ともに稲沢市。『延喜式』に愛智 (あいち) ,知多 (ちた) ,春部 (かすがへ) ,山田 (やまた) ,丹羽 (には) ,葉栗 (はくり) ,中島 (なかしま) ,海部 (あまへ) の8郡がみえ,『和名抄』には郷 70,田 6820町余。ただし『拾芥抄』では1万 1930町余。「記紀」神話の日本武尊の伝説にみえる熱田神宮は古来,大社として聞え,源頼朝の母が大宮司家の娘であったため,鎌倉時代初期には権勢を誇った。鎌倉時代の守護には小野氏,中条氏に続き正和~元弘年間 (1312~34) は北条氏の一族名越氏が任じられた。南北朝時代には高師泰が支配,室町時代には斯波氏が守護となったが,斯波義将は足利義満に仕えて管領となり,都にいることが多く,家臣織田氏を守護代とした。応仁の乱後,斯波氏の勢力が弱まるや織田氏は勢力を伸ばして尾張国を押え,信長は三河,美濃を攻略し,永禄3 (1560) 年には駿河の今川義元を愛知郡の桶狭間の戦いに破り,さらに近江に進出して京都に入って天下を掌握した。江戸時代には徳川家康の4男忠吉が入国したが,没後慶長 12 (1607) 年,9男の義直が封じられ,尾張徳川家で御三家の一つとして 53万 9500石,のち 61万 9500石を領して幕末にいたった。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県には名古屋県と犬山県,同年 11月には合併して名古屋県となり,同5年愛知県となる。




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