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[[File:Chevalier Auguste de Henikstein - Kislar Agassi. Grand eunuque du G. Seineur. Bakadgi Sűlűslű. Astahi. Cuisinier du G. Seigneur.jpg|thumb|250px|イスラム諸国の宦官]]
 
'''宦官'''(かんがん)とは、[[去勢]]を施された[[官吏]]である。去勢技術は[[家畜]]に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。
 
  
== 東アジア(日本以外)の宦官 ==
+
'''宦官'''(かんがん)
[[古代]][[中国]]に始まり、[[朝鮮]]や[[ベトナム]]等、おもに中国の勢力圏の[[東アジア]]に広まった。但し、[[日本]]は宦官文化に関しては東アジアの中では独特であるので下記のように別項を立てる。
 
  
=== 仕事 ===
+
去勢された男子で宮廷に仕える者をいう。この風習は古くから西アジア諸国に存在し,イランの[[ササン朝]][[ビザンチン帝国]]を経て[[ウマイヤ朝]]に受継がれ,19世紀末まで継続した。タバーシー,ハーディムと呼ばれた彼らはイスラム諸王朝の[[ハレム]]を監督し,支配者 (スルタン) や高官の個人的雑務を果した。 17世紀以後,オスマン朝ではしばしば政治の実権を握る者も現れた。中国においてもすでに周代からみられ,閹人 (えんじん) ,寺人,中官,大監などと呼ばれ,清末まで継続した。古代には主として宮刑 ([[五刑]] ) に処された罪人をこれにあてたが,隋代に宮刑を廃止してからは,異民族の捕虜や外国の進貢者のほか,多くの民間の自宮者をもって補充した。その職務はおおむね宮廷の卑しい雑用にすぎなかったが,天子の近くにあって次第に政治上の実権を握る者が現れ,後漢,唐,明の時期の宦官の横暴は著しかった。中国の宦官制度は朝鮮,安南などにも波及したが,日本には移入されなかった。
* [[料理]][[清掃]]などの雑用(これが大部分であった<ref>三田村(1963)</ref>。)
 
* [[財産]][[神器]]の管理
 
* 身辺の護衛
 
* 継嗣の確認
 
* [[皇子]]の学問や行儀作法教育
 
* 不穏な[[官僚]]の摘発
 
* [[皇帝]]と[[宰相]]の連絡
 
 
 
=== 供給源 ===
 
# 異民族の[[捕虜]]・異国からの供物
 
# 志願者(自宮者)
 
# [[宮刑]]を受けた者
 
 
 
=== 中国 ===
 
{{Hidden|※注意 股間を晒している宦官の写真あり。<br/>写真を表示する場合は右端の「表示」をクリック。|[[Image:Chinese-eunuch.jpg|thumb|完全去勢された股間を晒している中国の宦官。19世紀末にフランス人医師J.-J. Matignonにより撮影され、1898年に発表された。]]}}
 
 
 
「宦」は「宀」と「臣」とに従う[[会意文字]]で、その原義は「[[神]]に仕える[[奴隷]]」であったが、時代が下るに連れて王の宮廟に仕える者を宦官と呼ぶようになった。当初、宦官は去勢された者('''閹人''')とは限らなかったが、[[後漢]]以降、宦官が閹人専用の官職になったため<ref>[[s:zh:後漢書/卷78|『後漢書』宦者列伝]]「中興之初、宦官悉用閹人、不復雑調他士。」</ref>、両者が区別されずに使われるようになった。別名を、'''黄門・太監・帳内'''、'''三保・三宝'''、'''火者・官者・宦者'''、'''閹人・資人・寺人・舎人・浄人・仙人'''などといい、その他にも甚だ多い。
 
 
 
刑罰として去勢([[宮刑]]・腐刑)されたり、異民族の[[捕虜]]や献上奴隷が去勢された後、[[皇帝]]や[[後宮]]に仕えるようになったのが宦官の始まりである。しかし、[[皇帝]]やその寵妃等の側近として重用され、権勢を誇る者も出て来るようになると、自主的に去勢して宦官を志願する事例も出てくるようになった。このように自ら宦官となる行為を[[自宮]]あるいは浄身と呼ぶ。宦官になればある程度の立身は約束されたといってよいものの、現在のような医療技術がある訳もなく、去勢した後の傷口から[[細菌]]が入って三割が死ぬことから命がけであったともいわれている。
 
 
 
中国諸王朝において[[官僚]]は特権階級であったが、[[貴族]](没落貴族も含む)ではない庶民階級の者が文武問わず正規の官僚として高位へ登る道は、[[隋]]以降に導入された極端に競争の激しい[[科挙]]([[進士]]採用試験)を除くと事実上ないに等しく、自宮者は後を絶たなかったという。自宮宦官の例として、[[土木の変]]を引き起こした[[王振]]、皇帝を凌ぐほどの権勢を誇った[[魏忠賢]]等が知られている。
 
 
 
[[五代十国]]のひとつ[[南漢]]国は、特に宦官を重用したことで知られ、科挙の成績優秀者は、まず[[性器切断]]してから登用したほどであった。最後の皇帝[[劉鋹]](在位[[958年]] - [[971年]])の時代には、総人口100万人に対し宦官が2万人もおり、この国の男性25人に1人は[[完全去勢]]していたことになる。
 
 
 
統一王朝の場合でも、宦官は普通は多くても数千人ほどで、おもに後宮に配置された。しかし、[[明]]代には爆発的に増え、約10万人に膨れ上がった。
 
「皇明実録」によると、[[1612年]](明の天啓元年)に政府が、宦官の補欠3000人を募集したところ、応募者が2万人に達したため、急遽募集人数を4500人に増やしたという記録が残されている。
 
 
 
庶民階級にとって、宦官となることは、富と権力を得る手段であったものの、宦官の社会は[[ヒエラルキー]]に基づく[[階級社会]]であり、その頂点に位置する、国家を動かすほど大きな権力を持った宦官となるものは当然ごく一握りにすぎず、大多数の宦官は下の地位のままで一生を終えた。そして、下級宦官は、日々の生活において、上級宦官の不満のはけ口となり、いじめられることは日常茶飯事であった。そして、下級宦官は高齢になって激務に耐えられなくなったりすると、使い物にならないとみなされ、解雇された。そして、その多くは[[乞食]]としての生活を強いられ、餓死することを余儀なくされた。このような境遇に陥らないためにはひたすら上の階級に出世するしかなく、下級宦官は上級宦官に対して、媚びへつらい、機嫌を伺うことに力を尽くした。そのため、宦官の出世欲・権力欲はどんどんエスカレートしていった。
 
 
 
その結果として、宦官の影響で国政が乱れた例も多く、その弊害が最も顕著であったのは[[後漢]](東漢)・[[唐]](中期から後期)・[[明]]と言われ、[[秦]]を滅亡させるきっかけを作った[[趙高]]も宦官であった。宦官によって国政が乱れることは指摘されてきたが、歴代中国王朝はこれを廃止することはできなかった。中国における皇帝は、絶対的な存在であった反面、自分の地位が簒奪されることを常に恐れた。そのため、皇帝は、外戚は勿論のこと、兄弟や皇太子・皇子を含めた自分の家族や、有能な家臣でさえも完全に信用することができなかった(もし宦官ではない、普通の人間に権力を託すと、個人に留まらずその一族の権力となり、帝位を簒奪される危険が伴う)。このように孤独な立場に置かれた皇帝から見れば、権力を維持するための存在として、去勢されたために子孫を残すことができず、権力を世襲することができない宦官は必要不可欠な存在であった。後漢末の群雄の一人である[[曹操]]ですら、宦官の弊害は宦官制度そのものに問題があるのではなく、皇帝が宦官に依存しすぎるから引き起こるのである、と発言している。
 
 
 
また、宮廷内における、一般社会と違った、特別な制度や行事、習慣、用語、禁忌、礼儀作法、規則などを維持していく専門職として、宦官に依存する面が多かったことも、宦官制度の維持につながった。
 
 
 
後漢では豪族の力が甚だ強く、それに対抗するために皇帝が手足として使った存在が宦官であった。そのために後漢末は大いに乱れ、豪族[[袁紹]]は[[霊帝 (漢)|霊帝]]死後宮中にいる宦官の処刑を命じ、宦官の特長(去勢の影響で男性ホルモンが分泌されず女性的な体型であり、髭が生えていなかった)から髭を生やしていなかった者まで殺害され、宦官も合わせて2000人に達した。唐においても[[藩鎮]]勢力に対抗するためと考えられる。明代においては皇帝権が極めて強く、それに比して無能・怠惰な皇帝が存在した場合に宦官が表に出るようになったと考えられる。[[清]]代には宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の[[八旗]](上三旗)の旗人の中で家政を担当するボーイ({{lang-mnc|ᠪᠣᠣᠢ}} 転写:booi、漢語:包衣)が管轄する[[内務府]]が掌り、その管轄下に置かれた宦官の仕事は后妃の世話に限定されるようになったため、宦官が国政に口を出す余地はほとんど無くなっていた。
 
 
 
なお、切り取られた[[性器]]は「宝」と称され大切に保管され、本人の死亡後一緒に[[棺]]に納められた。死後、性器と一緒に埋葬されなければ[[ロバ]]に生まれ変わるといわれた。また昇進に際しては宦官であることを証明するための「検宝」と称される作業があったため、「宝」を失くした場合、他の宦官の物を盗むに至った事例もあったようである。また、自宮の際には手術代の代わりに性器を質に入れるものもいた。
 
 
 
時期や方法にもよるが去勢されても性欲は残る。そのため宦官と[[女官]]との不義がたびたび起こり、大量の[[張型]]が押収されるということがたびたびあった。宦官の性行為では多量の汗をかき、相手や物に噛み付くなどして性欲を発散させたという記録が残っている。ちなみに現在では、[[直腸]]から[[前立腺]]を刺激することで[[射精]]に近い快感を得る方法が知られている。張型を自分自身に使用していた可能性もある。
 
 
 
中国では、[[1911年]]の[[辛亥革命]]により[[清]]王朝は滅亡したが、最後の皇帝である[[愛新覚羅溥儀|宣統帝溥儀]]は[[1912年]]の退位後も[[清室優待条件]]により[[紫禁城]]に居住し続け、太監(宦官)もこの条件によって新規採用者の募集を停止したのみであった。その後、[[1923年]]に溥儀は、家庭教師であったイギリス人[[レジナルド・ジョンストン]]などの影響を受け、宦官の腐敗への不満から宦官の多くを追放しようと試み、宦官を100人程度にまで減らした。しかし、溥儀の食事の準備ができなくなるなど逆に宮廷の運営が滞ってしまい、結局、1ヶ月足らずで宦官の追放を撤回することを余儀なくされた。その翌年、[[1924年]]の[[馮玉祥]]のクーデターで宣統帝とともに宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなった。このとき追放されたのは、宦官2000人と女官200人と伝えられる。
 
 
 
==== 著名な中国の宦官 ====
 
* [[豎刁]] - [[春秋時代|春秋]]時代の人。[[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]]の家臣で、自ら後宮の管理を願い出て去勢した。自宮宦官の始めと伝えられる。桓公死後に斉の政治を乱した。
 
* [[趙高]] - [[秦]]。[[李斯]]と共に[[始皇帝]]の死を秘して、二世皇帝[[胡亥]]を擁立した。宦官の概念を悪化させた元凶とされる。
 
* [[司馬遷]] - 前漢時代の歴史家、『[[史記]]』の著者。[[武帝 (漢)|武帝]]を怒らせて[[宮刑]]に処される。
 
* [[蔡倫]] - 後漢。[[紙]]の発明者。
 
* [[曹騰]] - 後漢。順帝の宦官改革によって爵位相続、養子([[曹嵩]])などを得る。自身は慎み深かったが、その子孫(孫の[[曹操]]、曾孫の[[曹丕]])は後漢王朝に終止符を打つ事になる。
 
* [[十常侍]] - 後漢。[[霊帝 (漢)|霊帝]]に仕えて[[中常侍]]の官にあった宦官集団のこと。「十」という数字が記されているが、[[正史]]によれば実際には12名いたという。
 
* [[黄皓]] - [[蜀]]。[[劉禅]]に仕え、蜀の実権を握り自分勝手に人事を変え、蜀の滅亡の元凶となる。
 
* [[高力士]] - 唐。[[玄宗 (唐)|玄宗]]に仕え、皇帝に代わって雑事を取り仕切った。
 
* [[李豬児]] - 唐。[[契丹]]の出身者で[[安禄山]]に仕えた。安禄山自身の手で去勢されたエピソードで有名。
 
* [[童貫]] - [[北宋]]末。皇帝[[徽宗]]の寵愛を受け、軍の指揮官として[[方臘の乱]]を鎮圧した。
 
* [[鄭和]] - [[明]]。南海大航海を行った。
 
* [[劉瑾]] - 明。[[正徳帝]]期の初めに政治を専断した。自ら帝位につこうと謀反を企てたために[[凌遅刑]]で処刑された。
 
* [[魏忠賢]] - 明。[[天啓帝]]に代わって政務を壟断し、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇った。
 
* [[王承恩]] - 明。[[崇禎帝]]に仕えた。明の滅亡時、最期まで皇帝に忠実に従い、その死に殉じた。
 
* [[董海川]] - 清。皇族の武術教師。[[八卦掌]]の創始者。
 
* [[李蓮英]] - 清。[[西太后]]に重用された。
 
 
 
例外的な存在として、[[ロウアイ|嫪毐]]のように実際は宦官ではなかったが、宦官と偽って後宮に入った例も存在する。
 
 
 
=== 朝鮮 ===
 
[[朝鮮]]も中国に倣い、自国の官僚機構に宦官制度を導入していた。
 
 
 
現存する朝鮮最古の歴史書「[[三国史記]]」の巻10「新羅本紀」には、[[新羅]]の第42代「[[興徳王]](ホンドクワン-こうとくおう)」(生年不詳 - [[826年]]即位 - [[836年]]没)が、王妃の章和夫人が即位後2ヶ月で死去してからは、後妃を迎えず、後宮の侍女も近づけず、宦官に身の回りの世話をさせたとの記述があり、9世紀にはすでに宦官制度があったことが分かる。
 
 
 
[[高麗]]([[918年]] - [[1392年]])や[[朝鮮王朝]]([[1392年]] - [[1910年]])にも宦官([[内侍府|内侍]](ネシ))制度が存在した。医療技術が及ばず陰茎を切断すると死亡率が高まってしまうため、睾丸摘出のみで宦官とされた。また、自国の官僚として使用しただけではなく、自国民を宦官にして歴代の中国王朝に貢進していたことでも知られる。[[元 (王朝)|元]]の[[トゴン・テムル|順帝]]([[1320年]] - [[1370年]])時代に後宮に権勢を振るった[[朴不花]]([[:ko:박불화]])は、高麗から貢進された宦官であり、また[[1403年]]([[明]]の永樂元年)には、「明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質利発な火者(宦官の別称)35名を選抜して貢進した」という記録が、朝鮮側の記録に残されている。
 
 
 
高麗の[[毅宗 (高麗王)|毅宗]]が寵愛する宦官の専横を許したのが毅宗の廃位と[[武臣政権]]成立の一因となった。
 
 
 
朝鮮王朝においては[[内侍府]]が置かれた。[[1894年]]の[[甲午改革]]で宦官制度は廃止された。
 
 
 
現在の[[大韓民国|韓国]]・[[ソウル特別市|ソウル市]][[鍾路区]]にある孝子洞(ヒョジャドン/{{Lang|Ko|효자동}})は、かつて退職した宦官が住んでいたとされ、「火者洞(ファジャドン/{{Lang|Ko|화자동}})」と呼ばれていたという。
 
 
 
== 西アジア・地中海地域の宦官 ==
 
=== 古代オリエント ===
 
[[シュメール]]以来、宦官は文明の重要な要素とみられていた。シュメール語には宦官を意味する言葉が8つもあった。[[アッシリア]]、[[アケメネス朝]]ペルシャ帝国といったシュメール文明を引き継ぐ[[オリエント]]諸国でも宦官は用いられた。また
 
戦争捕虜になった敵兵の陰茎を切断して本国に連行し、奴隷とする習慣があった。中国同様刑罰として去勢される者も多かった。役割としては中国同様、官僚と、[[後宮]]に仕える者が多かった。また、宦官であるかないかにかかわらず、奴隷身分であっても権力や財産をつかむことはありえた。
 
 
 
尚、[[古代エジプト]]で宦官が見られたというのは俗説である。発見されている高位の神官や役人のミイラの中には性器の存在しないものもあるが、宦官を用いた文書記録はなく、割礼の壁画などを誤って解釈したと思われる。(性器は水分が多くミイラ化の過程やその後の保存状態によって失われやすい部位であるため目視で発見出来ないこともある。)
 
エジプトで宦官が使用された記録が登場するのは、[[プトレマイオス朝]]になってからのことである。
 
 
 
=== 古代ギリシア・ローマ〜東ローマ ===
 
宦官は、オリエントの影響を受けた[[古代ギリシア]]や[[ローマ帝国]]、及びそれを継いだ[[東ローマ帝国]]でも用いられた。オリエントやギリシア・ローマでも宦官は宮廷内部の雑用係中心であったが、ローマ帝国後期以降に皇帝権力が強まると高級[[官僚]]の世襲を防ぐ為に宦官を高級官僚に用いることが多くなった。
 
 
 
[[キリスト教]]化した東ローマ帝国では官僚として重く用いられ、軍隊の司令官やキリスト教[[東方正教会]]統率者の[[コンスタンティノポリス総主教]]にまで宦官が多数任命された。例えば[[ユスティニアヌス1世]]の時代に対[[東ゴート王国|東ゴート]]戦争を指揮した[[ナルセス]]、[[フォティオス]]と総主教位を争った[[イグナティオス]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}、[[ニケフォロス2世フォカス]]の治世から[[バシレイオス2世]]の治世初期に権勢を振るった[[バシレイオス・ノソス]]などは宦官であった。ちなみにイグナティオスとバシレイオス・ノソスはそれぞれ[[ミカエル1世ランガベー]]、[[ロマノス1世レカペノス]]の息子であり、失脚した皇帝の子孫から、皇帝を狙って反乱を起こす者が出ないように去勢された者が居たことを示している。
 
 
 
中国のように宦官が皇帝の寵愛を背景に実権を握った例は多いが、国家の正規の官職に宦官が多数任命された国家は東ローマ帝国だけであろう。このように東ローマ帝国は宦官を重用したため、中国同様、自主的に去勢して宦官を志願したり、親が[[子供]]の出世のために子供を去勢してしまう事例が出て来た。またキリスト教の普及に伴って、自ら欲望を絶つ目的で去勢する者も現れた。その流行は凄まじく、民間での去勢を禁止する勅令が幾度も出されるほどであった。
 
 
 
11世紀末-12世紀に入って、軍事貴族出身の[[コムネノス王朝]]が成立すると、11世紀まで文官官僚として軍事貴族と対立していた宦官の勢力は弱まっていった。その後、12世紀末以降帝国が衰退していくに連れ、宦官の供給源となる属州が失われ、帝国の財政力も低下していったため、要員を雇うことができず宦官は激減していった。
 
 
 
=== イスラム諸国の宦官 ===
 
[[ファイル:Ottoman eunuch, 1912.jpg|thumb|オスマン帝国のスルタン、[[アブデュルハミト2世]]に仕えた宦官の長。]]
 
[[ファイル:HaremPool.jpg|thumb|[[ハレム]]での宦官]]
 
 
 
一夫多妻制であった[[イスラーム]]諸国ではオリエントの伝統を受け継いで宦官が用いられた。特に[[オスマン帝国]]では宦官は後宮([[ハレム]])を取り仕切り、陰の実力者として振舞い、政治の実権を握ることもしばしばあった。
 
 
 
イスラム諸国の特色としては、[[クルアーン|コーラン]]に記載されている[[教義]]上の[[去勢]]禁止規定を回避するために、イスラム教徒以外の男性(多くは少年)を去勢して宦官とするのが原則であったため、外国人である[[黒人]]や[[白人]]の宦官が多く採用されていた。彼らの多くは、戦争で[[捕虜]]となるか、[[奴隷]]として売られてきて、宦官にされたものである。[[ガージャール朝]]の創始者[[アーガー・モハンマド・シャー]]も幼年期に捕虜として去勢されていたが、後に脱走を果たして勢力の再結成に成功し、宦官として王朝を開いた一つの例である。当然ながら彼に子供はおらず、死後は甥である[[ファトフ・アリー・シャー]]が帝位を継いだ。
 
 
 
イスラム諸国の宦官の去勢の方法は、[[男性器]]全てを除去する[[完全去勢]]と、[[陰茎]]のみ、または両方の[[睾丸]]のみを切除する不完全去勢の2種類があり、去勢奴隷として売られる場合は前者の方が、高価で取引された。なお、イスラーム世界においてもしばしば[[男色]]が行われており、宦官が君主ら主人の男色相手をつとめる場合も少なくなかった。
 
 
 
== その他の地域の宦官 ==
 
=== アフリカ ===
 
アフリカでは宦官兵士(去勢兵士)の例がある。例えば、モシ族では古くは陰茎のみを切り取った宦官兵から成る軍隊をもっていた。
 
 
 
=== 日本 ===
 
[[日本]]では去勢者がいなかったわけではないが、制度として確立した「宦官制度」は記録に残る限りでは存在しなかったとされる。
 
 
 
[[弥生時代]]から[[古墳時代]]にかけて一時的に宦官制度はありえた可能性も指摘されており、その場合、古墳時代末期に廃止されたのではないかという説もあるが、現在のところ確かな証拠はなく、仮説の域を出ていない。また、中世には[[刑罰]]や宗教的動機で去勢した例は多いものの、制度としての宦官制度というものはまったく見られない。近世になっても、[[江戸時代]]の古[[川柳]]に「奥家老'''らせつ'''したのを鼻にかけ」というものがある。また「案山子かな女中預かる'''らせつ'''人」という古川柳も残っている。「'''らせつ'''」とは漢字で「[[羅切]]」と書き、「[[陰茎]][[切断]]」の俗語であることから、大奥詰めの役人が女官たちを取り仕切る宦官に近い存在になりえたことはわかる。ただし、これは個人的な忠義の表現であって、制度としての宦官制度ではない。
 
 
 
=== ヨーロッパ ===
 
[[カストラート]]という近代以前のヨーロッパに普及した去勢された男性歌手が存在する。
 
 
 
== 世界の著名な宦官 ==
 
詳細は「[[世界の宦官一覧]]」を参照
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 三田村泰助著『宦官――側近政治の構造』[[中央公論新社]][中公新書]、ISBN 4-12-100007-2。中公文庫BIBLIO、ISBN 4-12-204186-4。
 
* 寺尾善雄『宦官物語』(河出文庫)
 
* 尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1999年、ISBN 978-4-486-01431-7。
 
* 井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年(第6章「宦官 皇帝の奴隷」)
 
* [http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull02/02_09wad.pdf 早稲田大学 地中海研究所紀要第2号より 和田廣『宦官-資格不要の職業』](PDF)
 
 
 
== 宦官が主要な役を演ずる日本近現代の作品 ==
 
=== 文学 ===
 
* 『[[蒼穹の昴]]』 - [[浅田次郎]]の小説。主人公は仕官と出世を望んで自分の手で[[性器切断]](自宮)し、[[清]]朝末期における熾烈な権力闘争の渦中に飛び込む。
 
* 『[[五代将軍]]』 - [[南條範夫]]の小説集。短編「[[男色大鑑]]」で、登場人物の重左衛門が庭木に全裸で縛られて「[[羅切]](完全去勢)」され、[[佐渡金山]]に送られる。
 
* 『[[テンペスト (池上永一)|テンペスト]]』 - [[池上永一]]の作品。主人公は女性でありながら性別を偽り、宦官と称して[[琉球王国]]の役人となって活躍していく。
 
* 『[[劉邦の宦官]]』 - [[黒澤はゆま]]の小説。金髪碧眼の美少年、小青胡は貧しさから宦官となり、項羽を倒して四年後の黎明期の漢王朝に仕えることになる。
 
 
 
=== コミック ===
 
* 『[[天は赤い河のほとり]]』 - [[篠原千絵]]の漫画。主人公のユーリを狙うナキア皇妃に献身的に仕える宦官の神官、ウルヒ・シャルマ。皇妃の野望のために暗躍する。北方の国の王族出身だが国を滅ぼされ、奴隷としてヒッタイトに売られて来た。
 
* 『[[黒竜の城]]』全2巻 - 原作:[[田中芳樹]]、画:[[梶原崇]]の漫画。主人公「イシハ」は当時の中国(明)の東北辺境の地を統一する上級機関「奴児干都指揮使」の長。君主「燕王」と諸将との連絡役を申し出るため自ら宦官となり高位を得た。
 
* 『天空の玉座』 - [[青木朋]]の漫画。中国・徳王朝の時代、皇太后に対する復讐と親政を行おうと[[クーデター|政変]]を計画していた皇帝・病已に協力する主人公・珊瑚(姫鳳仙)の兄で皇太后側についた姫蓬莱やその宦官修行を共にした故国・大理国を徳王朝に滅ぼされた捕虜の待遇から軍人として出世を目指す李崑崙(アヘイ)等の宦官が皇太后の支配を支えている。処刑されたが、主人公と親しかったり病已の兄のような存在だった宦官・佐明などのように皇太后に敵対する宦官もいる。
 
 
 
=== アニメ ===
 
* 『[[コードギアス 反逆のルルーシュ|コードギアス 反逆のルルーシュR2]]』 - 21世紀に至っても形式上「天子」を頂く「中華連邦」の実権を握る官僚集団として登場。ただし、登場するのはシリーズ第2作目であるこの『R2』のみで、1作目では平凡な近代的政治家が同国の首脳になっている。
 
 
 
=== 映画 ===
 
* 『[[武士道残酷物語]]』- 南條範夫の小説『[[被虐の系譜]]』の映画化。主人公の1人である飯倉久太郎が[[殿]]に「羅切」を命じられるシーンがある。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[世界の宦官一覧]]
 
* [[性器切断]]
 
* [[宮刑]]
 
* [[自宮]]
 
* [[完全去勢]]
 
* [[羅切]]
 
* [[スコプツィ]]
 
* [[キュベレ]]
 
* [[カストラート]]
 
* [[小姓]]
 
* [[後宮小説]]
 
* [[類宦官]]
 
* [[身体改造]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Eunuchs|宦官}}
 
* [http://findarticles.com/p/articles/mi_m2005/is_2_38/ai_n9487441 The Perfect Servant: Eunuchs and the Social Construction of Gender in Byzantium]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}
 
* [http://www.well.com/user/aquarius/pharaonique.htm Eunuchs in Pharaonic Egypt]
 
* [http://acc6.its.brooklyn.cuny.edu/~phalsall/texts/eunuchs1.html Hidden Power: The Palace Eunuchs of Imperial China ]
 
* [http://www.well.com/user/aquarius "Born Eunuchs" Home Page and Library]
 
* [http://www.christiangay.com/he_loves/Jesus.htm "What Did Jesus Say" Matthew 19:11-12]
 
  
 +
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[[Category:東アジア史]]
 
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[[Category:去勢]]
 
[[Category:去勢]]
 
[[Category:宦官|*]]
 
[[Category:宦官|*]]
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宦官(かんがん)

去勢された男子で宮廷に仕える者をいう。この風習は古くから西アジア諸国に存在し,イランのササン朝ビザンチン帝国を経てウマイヤ朝に受継がれ,19世紀末まで継続した。タバーシー,ハーディムと呼ばれた彼らはイスラム諸王朝のハレムを監督し,支配者 (スルタン) や高官の個人的雑務を果した。 17世紀以後,オスマン朝ではしばしば政治の実権を握る者も現れた。中国においてもすでに周代からみられ,閹人 (えんじん) ,寺人,中官,大監などと呼ばれ,清末まで継続した。古代には主として宮刑 (五刑 ) に処された罪人をこれにあてたが,隋代に宮刑を廃止してからは,異民族の捕虜や外国の進貢者のほか,多くの民間の自宮者をもって補充した。その職務はおおむね宮廷の卑しい雑用にすぎなかったが,天子の近くにあって次第に政治上の実権を握る者が現れ,後漢,唐,明の時期の宦官の横暴は著しかった。中国の宦官制度は朝鮮,安南などにも波及したが,日本には移入されなかった。



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