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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 宇喜多秀家
 
| 画像 = Ukita-Hideie-2.jpg
 
| 画像サイズ = 240px
 
| 画像説明 = 宇喜多秀家像([[岡山城]]蔵)
 
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
 
| 生誕 = [[元亀]]3年([[1572年]])
 
| 死没 = [[明暦]]元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1655年]][[12月17日]])
 
| 改名 = 家氏(初名)→ 秀家 → 成元(号)
 
| 別名 = 家氏、羽柴秀家、豊臣秀家<br/>[[仮名 (通称)|通称]]:八郎、備前宰相、号:成元、休復/久福
 
| 諡号 =
 
| 戒名 = 尊光院殿秀月久福大居士
 
| 墓所 = [[東京都]][[八丈町]][[大賀郷]]の稲場墓地<br />丹船山薬王樹院[[東光寺 (東京都板橋区)|東光寺]](東京都[[板橋区]][[板橋 (板橋区)|板橋二丁目]])<br /> 宝池山功徳院[[大蓮寺]]([[石川県]][[金沢市]]野町)
 
| 官位 = [[従三位]]・[[侍従]]、[[参議]]、[[近衛府|左近衛権中将]]<br>[[中納言|権中納言]]
 
| 主君 = [[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]
 
| 氏族 = [[宇喜多氏]]([[羽柴氏]]、[[豊臣氏]])
 
| 父母 = 父:[[宇喜多直家]]、母:[[円融院]]<br />猶父:''豊臣秀吉''
 
| 兄弟 = [[三浦桃寿丸]](異父兄)、'''秀家'''、[[宇喜多基家|基家]]{{refnest|group="注釈"|[[宇喜多春家]]の実子で宇喜多直家の養子<ref name="百家系図「浮田系図」">『[[百家系図]]』巻29所収「浮田系図」、『[[百家系図稿]]』巻17所収「宇喜多系図」。</ref>。}}、[[容光院]] [[#系譜|ほか]]
 
| 妻  = 正室:'''[[豪姫]]'''
 
| 子  = '''[[宇喜多秀高|秀高]]'''、[[宇喜多秀継|秀継]]、貞姫、富利姫 [[#系譜|ほか]]
 
}}
 
'''宇喜多 秀家'''(うきた ひでいえ)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]、[[大名]]。[[豊臣政権]]下(の末期)の[[五大老]]の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。[[仮名 (通称)|通称]]は'''備前宰相'''。父・直家の代に[[下克上]]で戦国大名となった[[宇喜多氏]]の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで[[岡山城]]主として[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]・[[備中国|備中]]半国・[[播磨国|播磨]]3郡の57万4,000石を領していた。
 
  
== 生涯 ==
+
'''宇喜多 秀家'''(うきた ひでいえ)
=== 家督相続 ===
 
[[元亀]]3年([[1572年]])、備前国[[岡山城]]([[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]])主の[[宇喜多直家]]の次男として生まれた。通称は'''八郎'''を称した。
 
  
[[天正]]9年([[1581年]])に父・直家が病死。天正10年([[1582年]])、当時宇喜多氏が従属していた[[織田信長]]により本領を安堵され、家督を継いだ。
+
戦国時代後期の武将。直家の子で初め家氏。秀吉に召されて武将となり,四国,九州,小田原攻めに軍功を立て,[[文禄・慶長の役]]には朝鮮で活躍した。秀吉の五大老制の採用では,その1人にあげられ信任は厚かった ([[五大老]] ) 。しかし,慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため,薩摩に逃れ,島津氏のもとに隠れていたが,島津忠恒の命乞いによって死を免れ,駿河久能に放たれ,同 11年4月には八丈島に流された。島にあること約 50年,配所で没した。
  
=== 織田信長時代 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
直家の死後、宇喜多軍は信長の命令によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉([[豊臣秀吉]])の遠征軍に組み込まれ、秀吉による[[高松城 (備中国)|備中高松城]]攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の[[宇喜多忠家]]が代理として軍を率いている。また、[[戸川秀安]]や[[長船貞親]]、[[岡利勝]](この3人は宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。
 
 
 
[[6月2日]]、秀家11歳の時[[本能寺の変]]が起こって信長が死去する。このため、秀吉と[[毛利輝元]]は和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって[[備中国|備中]]東部から[[美作国|美作]]・備前を領有する大名になり、毛利家の監視役を務めることとなった。
 
 
 
=== 豊臣秀吉時代 ===
 
[[image:Okayamajou74.JPG|thumb|岡山城の石垣で、宇喜多秀家が改修した当時が残る部分。]]元服した際、豊臣秀吉より「'''秀'''」の字を与えられ、'''秀家'''と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその[[猶子]]となり、[[天正]]16年([[1588年]])以前に秀吉の養女([[前田利家]]の娘)の[[豪姫]]を正室とする<ref>[[岩沢愿彦]]『前田利家(新装版)』(吉川弘文館、1988年)335頁</ref><ref>[[大西泰正]]「豪姫のこと」(『岡山地方史研究』122号、2010年)</ref>。このため、[[外様]]ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。
 
 
 
天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]では[[大坂城]]を守備し、[[雑賀衆]]の侵攻を撃退した。天正13年([[1585年]])、3月に[[紀州征伐]]に参加したのち、[[四国平定|四国攻め]]では讃岐へ上陸し後に阿波戦線に加わった。天正14年(1586年)の[[九州征伐]]にも[[豊臣秀長]]の元、[[毛利輝元]]や[[宮部継潤]]、[[藤堂高虎]]とともに日向戦線に参加した。天正15年([[1587年]])、秀吉から、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられる。<ref>村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『日本近世武家政権論』</ref>。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]にも参加して[[豊臣政権]]を支えた。
 
 
 
[[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]には大将として出陣し、[[李氏朝鮮]]の都・[[漢城]]に入って[[京畿道]]の平定に当たる。翌文禄2年([[1593年]])1月、[[李如松]]率いる[[明]]軍が迫ると、[[碧蹄館の戦い]]で[[小早川隆景]]らと共にこれを破り、6月には[[晋州城攻略]]を果たした。これらの功により、文禄3年([[1594年]])5月20日[[参議]]から[[従三位]][[権中納言]]に昇叙した(7月20日辞任)<ref>『公卿補任』</ref>。
 
 
 
[[慶長]]2年([[1597年]])からの[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]では[[毛利秀元]]と共に監軍として再渡海し、左軍を率いて[[南原城攻略]]を果たし、さらに進んで[[全羅道]]、[[忠清道]]を席捲すると、南岸に戻って[[順天倭城]]の築城にあたるなど活躍する。慶長3年([[1598年]])、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。
 
[[File:岡山城復元天主.jpg|thumb|岡山城復元天主]]
 
 
 
=== 宇喜多騒動 ===
 
秀吉没後の慶長4年([[1599年]])、重臣だった[[戸川達安]]・[[岡越前守|岡貞綱]]らが、秀家の側近の[[中村次郎兵衛]]の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる'''宇喜多騒動'''が発生した。秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と対立していた従兄弟の宇喜多詮家(後に[[坂崎直盛]]に改名)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。騒動の調停は最初、[[越前国|越前]][[敦賀城]]主の[[大谷吉継]]と[[徳川家康]]の家臣である[[榊原康政]]が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰ることとなる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなった結果、家康が裁断し、内乱は回避された。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となり、[[花房正成]]も宇喜多家を出奔した。この騒動で戸川・岡・花房ら(代替わりはしていたが)直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。なお、上記の三名はこの後家康の家臣となっている。
 
 
 
宇喜多騒動の原因は、秀吉が没して世情が不安定な中、宇喜多家の執政であった重臣[[長船綱直]]や豪姫に付いて前田家からやって来た宇喜多家家臣としては新参者ながら秀家に重用された奉行人中村次郎兵衛らの専横に対する他の重臣達の不満といった家臣団の政治的内紛に加え、秀家の素行に問題があったことや<ref group="注釈">秀吉譲りの豪奢を好み、そのツケを領民への苛斂誅求で補おうとした。[[鷹狩]]を好み鷹を100羽飼っており、その世話のための家臣を300名抱えたとされる。また、鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させた。</ref>、さらに宇喜多家では[[日蓮宗]]徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫が[[キリシタン]]であったことから家臣団に対してキリシタンへ改宗するよう命令するに至ったためともいわれる。しかし、離反した従兄弟の坂崎直盛は敬虔な[[キリシタン]]であり、宇喜多家中で[[キリスト教]]入信を斡旋し、重臣の[[明石全登]]などを入信させたのは直盛本人である。これにより、キリスト教徒と日蓮宗徒との軋轢というのは考えにくく、また長船綱直は宇喜多家[[譜代]]の家臣であり、譜代家臣と[[前田家]]からの御付組との対立との構図も外れており、背景の詳細はよく分かっていない。
 
 
 
=== 関ヶ原の戦い ===
 
[[File:Site of Ukita Hideie's Position.jpg|thumb|関ヶ原の戦いの宇喜多秀家陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]]
 
[[File:Kobayakawa Hideaki Battle Standard; Ukita Hideie (1573-1655) Banner.jpg|thumb|宇喜多秀家の旗印]]
 
 
 
秀吉没後、後を追うように[[豊臣秀頼]]の後見役だった[[前田利家]]が慶長4年([[1599年]])に死去すると、[[豊臣氏|豊臣家]]内で武断派の[[加藤清正]]・[[福島正則]]らと、文治派の[[石田三成]]・[[小西行長]]らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老随一の実力者徳川家康が、豊臣政権下における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]とともに三成を救出した。
 
 
 
慶長5年([[1600年]])、家康が[[会津征伐]]のため出兵している機を見計らい、石田三成と毛利輝元は打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。[[伏見城の戦い]]では総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて[[伊勢国]][[長島城]]を攻撃した後、[[美濃国]][[大垣城]]に入城し西軍本隊と合流した。[[関ヶ原の戦い]]においても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である[[小早川秀秋]]の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
 
 
 
=== 流人 ===
 
[[File:Ukita Hideie's grave in Hachijojima 01.jpg|thumb|八丈島の宇喜多秀家の墓(東京都指定文化財)]]
 
関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって[[改易]]されたが、秀家は[[伊吹山]]中に逃げ込んだ。そこで[[落ち武者狩り]]の[[矢野五右衛門]]に遭遇するが、哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿った(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)。その後は京の太秦に潜伏するも、[[京都所司代]]の[[奥平信昌]]に発見されるが逃走に成功<ref>同じく京に潜伏していた[[安国寺恵瓊]]は奥平信昌に捕縛されている。</ref>。変装して同じ西軍側であった[[島津義弘]]などを頼って[[薩摩国]]に落ち延び、牛根郷(現在の[[鹿児島県]][[垂水市]])に匿われた。後世の編である『[[常山紀談]]』では薩摩に遁れ剃髪して、'''成元'''さらに'''休復'''と号したとしている。このとき、秀家が島津氏に兵を借り、[[琉球]]を支配しようとしたという伝説が残っている。しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年([[1603年]])に[[島津忠恒]](義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人[[本郷義則]]は、薩摩の[[日置流]][[弓術]]師範の祖、[[東郷重尚]]の最初の弓術の師匠となる。
 
 
 
島津忠恒、並びに縁戚の[[前田利長]]の懇願{{Efn|前田利長は宇喜多秀家に助命に関わったとする同時代史料は見つからず、母である芳春院が秀家のために動いていたとする指摘もある<ref>大西泰正「織豊期前田氏権力の形成と展開」(大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-207-0))P41</ref>。}}により死罪は免れ、[[駿河国]][[久能山]]へ幽閉される{{Refnest|group="注釈"|場所を現在の[[袋井市]]久能としている<ref>渡邉大門『宇喜多直家・秀家』(ミネルヴァ書房、2011年)p.280</ref>。}}。慶長11年([[1606年]])4月、同地での公式史上初の[[流人]]として[[八丈島]]へ配流となった<ref group="注釈">それ以前には、[[平安時代]]に[[伊豆大島]]へ流罪となった[[源為朝]]が渡来し、八丈小島で[[自害]]した伝説が残っている。</ref>。
 
 
 
八丈島では苗字を浮田、号を'''久福'''と改め、妻の実家である[[前田氏|加賀前田氏]]・宇喜多旧臣であった[[花房正成]]らの援助を受けて<ref>「花房文書」「越登賀三洲志」</ref>(初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許された)50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも伝えられる。また、八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は [[宗福寺 (東京都八丈町)]] の住職も兼ねている。この寺院は宇喜多卿の菩提寺である。
 
 
 
また、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に秀家の刑が解かれ、[[前田利常]]から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから[[大名]]へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まった、とも伝わる。
 
 
 
八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」<ref>『[[明良洪範]]』</ref>や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして家族への土産にした説もあり<ref>「浮田秀家記」「兵家茶話」</ref>)などの逸話が伝わっている。また、秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと考えられている<ref>「八丈島流人銘々伝」</ref>。
 
 
 
[[明暦]]元年(1655年)11月20日、死去。[[享年]]84。このとき既に[[江戸幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家綱]]の治世であった。墓は[[東京都]][[八丈町]][[大賀郷]]の稲場墓地、前田家所縁の東京都[[板橋区]]板橋の[[丹船山薬王樹院東光寺]]、同じく[[石川県]][[金沢市]]野町の宝池山功徳院[[大蓮寺 (金沢市)|大蓮寺]]などにある。法名は尊光院殿秀月久福大居士。正室・豪姫の法名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。
 
 
 
大名の宇喜多家は滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、後に分家(浮田を称す)が3家興った。[[明治]]以後、宇喜多一族は赦免となり、元・加賀藩主前田氏の庇護の下で東京(本土)の前田家の土地に移住したが、そのうち何名かは数年後に八丈島に戻った。この島に戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西(=[[備前国]])を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。
 
 
 
== 人物 ==
 
[[ファイル:Ukita Hideie.jpg|thumb|180px|宇喜多秀家像]]
 
* 関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没し後々の時代まで生きながらえていた人物である。
 
* 秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の[[関白]]にしようとしていた。同時に、明の関白は[[豊臣秀次]]、九州には[[豊臣秀勝]]をと述べている<ref>大野信長「宇喜多秀家」『戦国武心伝』歴史群像</ref>。
 
* 朝鮮出兵で悪化した財政を再建するため、領民に重税をしこうとして重臣の反発を招き、御家騒動に繋がったとされている。
 
* [[板橋区立美術館]]には、古くから秀家が描いたと伝えられる「鷹図」([http://www.itabashiartmuseum.jp/art-2013/collection-list/art01images/a01-u001.jpg 画像]、[[法鑑禅師]]賛)が所蔵されている。しかし、秀家が絵を良くしたという史料は残っていない。鷹は武人画家がしばしば手掛けた画題であり、画中のS字型に屈曲した枝は李朝絵画によく見られる描法であることから、秀家が朝鮮出兵した史実と重ねられていると考えられる<ref>板橋区立美術館編集・発行 『板橋区立美術館所蔵 狩野派以外全図録』2013年2月、p.7,158。</ref>。
 
* 秀家が西軍決起の発案者であるとの説がある。石田三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日、秀家が[[豊国神社|豊国社]]で出陣式を早くも行っていることをその根拠とする。なお、この出陣式に[[高台院]](ねね)は側近の東殿局([[大谷吉継]]の母)を代理として出席させており、ともに戦勝祈願を行っている。これにより、高台院が東軍支持だったという俗説には、主に[[白川亨]]により疑問が提示されている。
 
 
 
== 系譜 ==
 
{{col-begin}}
 
{{col-2}}
 
; 父母
 
* 父:[[宇喜多直家]]
 
* 母:[[円融院]]([[鷹取氏]])
 
* 養父:[[豊臣秀吉]]
 
; 兄弟・姉妹
 
* [[三浦桃寿丸]](異父兄)
 
* [[宇喜多基家]]([[宇喜多春家]]の実子で宇喜多直家の養子となる)<ref name="百家系図「浮田系図」"/>
 
* 女子([[江原親次]]室)
 
* 女子([[浦上宗辰]]室)
 
* 女子([[松田元賢]]室)
 
* 容光院([[吉川広家]]室)
 
* 女子([[後藤勝基]]室)
 
* 女子([[斎村政広]]室)
 
* 女子([[明石全登]]室)
 
* 女子([[赤松広秀|赤松左兵衛佐広秀]]室)<ref name="百家系図「浮田系図」"/>
 
* 女子([[松田元堅|松田(杉田?)左近将監元堅(元賢?)]]室)<ref name="百家系図「浮田系図」"/>
 
* 女子([[伊賀久隆|伊賀左衛門久隆]]室)<ref name="百家系図「浮田系図」"/>
 
{{col-2}}
 
; 妻妾
 
* 正室:[[豪姫]]([[豊臣秀吉]]の養女、[[前田利家]]の娘)
 
* 側室:不明
 
;子女
 
:* [[宇喜多秀高]]
 
:* [[宇喜多秀継]]
 
:* 貞姫、理松院([[前田利長]]養女、[[山崎長郷]]室→[[富田重家]]室)あるいは([[前田修理]]室<ref name="百家系図「浮田系図」"/>)
 
:* おなぐの方([[伏見宮貞清親王]]室)
 
:* おふり(先勝院)(川口長太郎室→[[善福寺 (金沢市)|善福寺]]住職宣勝室)<ref>大桑斉『おふり様と豪姬: 宇喜多秀家の隠された息女と内室豪姫』(真宗大谷派善福寺、2011年)</ref>
 
:* [[宇喜多秀規]]<ref>『[[系図纂要]]』第十四冊、宇喜多。『百家系図』巻29所収「浮田系図」、『百家系図稿』巻17所収「宇喜多系図」</ref><ref name="宇喜多秀家年譜">『宇喜多秀家年譜』(大蓮寺所蔵)。</ref>(越中富山の浮田家)
 
:* [[宇喜多秀行]]<ref name="宇喜多秀家年譜"/>
 
:* [[宇喜多太兵衛]]<sup>[異説]</sup><ref>[[磯田道史]] 古今をちこち 「隠された「宇喜多」姓」 『読売新聞』2013年8月28日 。</ref>(栗田太兵衛)
 
:;養子
 
:* 女子([[宇喜多忠家]]の娘、[[富田信高]]室)
 
{{col-end}}
 
 
 
== 関連作品 ==
 
;書籍
 
* [[森本繁]]『傷ついた備前烏 備前宰相秀家の母』([[山陽新聞社]]、1988年)
 
* [[高山友禅]]『戦国の宇喜多一族』(山陽新聞社、1992年) ※著者は宇喜多同族会事務局長。
 
* [[野村敏雄]]『宇喜多秀家 秀吉が夢を託した男』(PHP文庫、1996年)
 
* [[津本陽]]『宇喜多秀家 備前物語』([[文藝春秋]]、1997年) ※『備前軍記』を元にした小説
 
* [[縞田七重]]『宇喜多秀家の松』([[論創社]]、2014年) 
 
;その他
 
* [[渡邊大門]]『宇喜多直家・秀家父子の虚像と実像』DVD([[ジャパンライム]]、2012年)JAN 4562301590315
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
; 単行本
 
* [[立石定夫]]『戦国宇喜多一族』([[新人物往来社]]、1988年、絶版)ISBN 978-4-404-01511-2
 
* [[浮田丈男]]『封じ込められた宇喜多秀家とその一族』([[文芸社]]、2001年)
 
* [[光成準治]]『関ヶ原前夜 <small>西軍大名たちの戦い</small>』([[NHK出版]]、2009年)ISBN 978-4140911389
 
* 大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』([[岩田書院]]、2010年)ISBN 978-4-872-94612-3
 
* [[市川俊介]]『岡山戦国物語』([[吉備人出版]]、2010年)ISBN 978-4860692643
 
* [[渡邊大門]]『宇喜多直家・秀家 <small>西国進発の魁とならん</small>』([[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選]]〉、2011年)ISBN 978-4-623-05927-0
 
* 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』(岩田書院、2011年)ISBN 978-4-872-94698-7
 
; 論文
 
* [[しらが康義]]「戦国豊臣期大名宇喜多氏の成立と展開」(『岡山県史研究』第6号、1984年)
 
* [[寺尾克成]]「宇喜多秀家篇」(『歴史読本 特集 豊臣五大老と関ケ原合戦』通号720号、2000年)
 
* [[大西泰正]]「秀家死後の宇喜多氏」(『日本歴史』第727号、2008年)
 
* 大西泰正「宇喜多秀家論」(『史敏』2009春号、2009年)
 
* [[森脇崇文]]「豊臣期大名権力の変革過程―備前宇喜多氏の事例から―」(大阪歴史学会発行『ヒストリア』第225号、2011年)
 
;史料
 
* 土肥経平『備前軍記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成』第参輯所収、絶版) ※[[軍記物]]
 
* 『宇喜多戦記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成』第参輯所収、絶版) ※軍記物
 
* [[柴田一 (歴史学者)|柴田一]]『新釈備前軍記』(山陽新聞社、1996年) ※『備前軍記』の現代語訳
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Ukita Hideie}}
 
* [[太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦い]]
 
* [[大蓮寺 (金沢市)]]
 
* [[浮田和民]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.city.okayama.jp/museum/rekidai/ukita/hideie.htm 歴代岡山城主] 岡山市デジタルミュージアム
 
* [http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=102 南天満山・宇喜多秀家陣跡] 関ケ原観光Web
 
* [http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita.htm 宇喜多秀家の墓(八丈島)] 岡山市東京事務所
 
* [http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/ukita/ukita.htm 宇喜多直家・秀家(おかやま人物往来)] - [[岡山県立図書館]]
 
 
 
{{宇喜多氏歴代当主|第6代|1582年-1655年}}
 
{{豊臣政権}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:うきた ひていえ}}
 
{{DEFAULTSORT:うきた ひていえ}}
 
[[Category:宇喜多氏|ひていえ]]
 
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2019/6/11/ (火) 09:27時点における最新版

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)

戦国時代後期の武将。直家の子で初め家氏。秀吉に召されて武将となり,四国,九州,小田原攻めに軍功を立て,文禄・慶長の役には朝鮮で活躍した。秀吉の五大老制の採用では,その1人にあげられ信任は厚かった (五大老 ) 。しかし,慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため,薩摩に逃れ,島津氏のもとに隠れていたが,島津忠恒の命乞いによって死を免れ,駿河久能に放たれ,同 11年4月には八丈島に流された。島にあること約 50年,配所で没した。



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