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{{複数の問題
 
| 正確性 = 2018年10月
 
| 出典の明記 = 2018年10月
 
| 独自研究 = 2018年10月
 
}}
 
{{基礎情報 中国君主
 
|名      =大帝 孫権
 
|代数    =初代
 
|呼称    =皇帝
 
|画像    =[[画像:Sun Quan Tang.jpg|240px]]
 
|説明    =呉大帝([[閻立本]]筆、[[ボストン美術館]]蔵)
 
|王朝    =呉
 
|在位期間 =[[229年]]5月23日-[[252年]]5月21日
 
|都城    =[[鄂城区|武昌]](229年)、[[建業]](229年後)
 
|諱      =孫権
 
|字      =仲謀
 
|諡号    =大皇帝
 
|廟号    =太祖
 
|生年    =[[光和]]5年(182年)
 
|没年    =[[神鳳 (呉)|神鳳]]元年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]<br />([[252年]][[5月21日]])<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[諸葛恪]]伝</ref>
 
|父      =[[孫堅]](次男)
 
|母      =[[呉夫人]]
 
|皇后    =[[潘淑|潘皇后]]
 
|陵墓    =蒋陵
 
|年号    =[[黄武]]([[222年]] - [[229年]])<br/>[[黄龍 (呉)|黄龍]]([[229年]] - [[231年]])<br/>[[嘉禾]]([[232年]] - [[238年]])<br/>[[赤烏]]([[238年]] - [[251年]])<br/>[[太元 (呉)|太元]]([[251年]] - [[252年]])<br/>[[神鳳 (呉)|神鳳]]([[252年]])
 
|注釈    =
 
}}
 
'''孫 権'''<ref>繁体字の表記:孫權、簡体字の表記:孙权、ピン音:Sūn Quán。</ref>(そん けん)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の初代[[皇帝]]。[[字]]は'''仲謀'''<ref>ピン音:Zhòngmóu。</ref>。
 
  
== 生涯 ==
+
'''孫 権'''<ref>繁体字の表記:孫權、簡体字の表記:孙权、ピン音:Sūn Quán。</ref>(そん けん)
=== 家系について ===
 
[[清]]代の『[[四庫全書]]』の記載によると、先祖は[[春秋時代]]の[[兵法家]]・[[孫武]]に遡るとされ、さらに[[浙江省]][[杭州市|杭州]]の[[富陽区]]南部に龍門古鎮という村があり、現在は観光地になっている。この村では9割の人の姓が「孫」で、孫権の末裔と自称している。この村の族譜では、革命家の[[客家]]の[[孫文]]も該当するというが、実際には孫権の祖父を初めとしてどのような家柄の生まれであったのか真偽の程は不明である<ref>『[[呉書]]』孫破慮討逆伝による。また、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[劉宋|宋代]]に記された『異苑』によると、孫権の祖父は「瓜売り」をしていた[[孫鍾]]という人物だという。同じく南朝宋の文献される『幽明録』(現在は散逸)にも孫鍾の名が記載されている。さらに、[[東晋]]の[[裴啓]]の『裴子語林』にも孫鍾の事項が記されている。</ref>
 
  
=== 幼年・少年期 ===
+
中国,[[三国時代]]の[[呉]]の第1代皇帝 (在位 222~252) 。字は仲謀,諡は大皇帝。呉郡富春 (浙江省富陽県) の人。[[孫堅]]の子。建安5 (200) 年兄孫策の急死により跡を継いだ。孫権は土着豪族および北から南下した名士の支持を得て,巧みな政治的外交的手腕をふるい,ついに江南支配を達成した。劉備と連合して曹操の南下を食止めた[[赤壁の戦い]]はその間に起ったものである。 222年呉王となり,建元して黄武といったが,まだ魏の封策を受けていた。黄竜1 (229) 年には皇帝の位について独立し,建業を首都とした。
[[182年]]([[光和]]5年)、父の孫堅が[[下邳]]の県丞であった時、五男三女の第四子(次男)として生まれた。
 
 
 
[[184年]](光和7年)、[[太平道]]の[[張角]]によって勃発した宗教的な反乱である[[黄巾の乱]]の鎮圧のため、父は漢王朝の[[中郎将]]であった[[朱儁]]の下で参戦、孫権と母の呉氏や兄弟たちを[[九江郡]][[寿春]]に残した。[[189年]]([[中平]]6年)、兄の[[孫策]]に連れられ[[廬江]][[舒城県|舒]]の[[周瑜]]屋敷に移住した。[[191年]]([[初平]]2年)、父が[[黄祖]]の部下に射殺された([[襄陽の戦い]])。葬式が終わった後、一時的に[[広陵郡]][[江都区|江都]]に移り住み、呉夫人はそのまま遺児を扶養した。
 
 
 
[[193年]](初平4年)、孫策は[[袁術]]の旗下に入った際、[[呂範]]を遣わして家族を曲阿に住む[[呉景]]の元へ送り届けた。翌年、孫策は袁術の為に廬江を攻めた。[[揚州 (古代)|揚州]]の[[刺史]][[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]は袁術と孫策を恐れて対立の構えを取って、呉景が[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]]を追われた。この時、孫策の家族はことごとく劉繇の地盤に在ったため、[[朱治]]は人を曲阿に使わして呉氏および孫権と弟たちを引き連れて脱出し、これを保護した(呉書朱治伝注『江表伝』)。母と共に[[和県|歴陽]]や後の阜陵に移住した。
 
 
 
[[195年]]([[興平]]2年)、孫策が[[江東]]で挙兵する。劉繇軍を破った後、孫策は曲阿に入って、部将の陳宝を阜陵に派遣して一族を迎えた。その後の征戦で、孫権は常に兄に随従した。この頃孫権は士人と交流をするようになり、その名が知られるとその名望は父や兄に等しくなった。孫権は計略や謀議があるたびに参画し、孫策は彼を非常な逸材として自身でも及ばないと考えた。
 
 
 
[[196年]]([[建安 (漢)|建安]]元年)、陽羨[[県長]]に任じられ、奉義校尉も代行した。
 
 
 
[[199年]](建安4年)、孫策の廬江[[太守]][[劉勲]]の征伐に従った。劉勲を破ると、進んで沙羨([[武漢市]][[江夏区]]西郊)に黄祖を討った([[孫策の江東平定]])。[[徐州]][[広陵郡]]を攻めたが、広陵太守の[[陳登]]に大敗した<ref>『三国志』[[陳矯]]伝</ref>。
 
 
 
[[200年]](建安5年)初、孫氏は[[曹操]]と同盟を結んでいた。孫権と弟の[[孫翊]]が司空である曹操に招聘された(実際は人質として)が応じなかった。
 
 
 
=== 政権を担う ===
 
父の孫堅、兄の孫策を相次いで亡くし、200年春、19歳で軍閥の後継者となる。[[張昭]]に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・[[程普]]・呂範らをまとめあげると共に、積極的な人材登用を行う。この際に周瑜から「主君は賢者に親しみ士人を尊重され、奇才を認め異能を取り上げておられます。先哲によって天命を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興り、最終的に帝業の基を築き上げられます」と予言され、そして[[魯粛]]を薦められた。魯粛は「北方の騒乱に乗じて黄祖・[[劉表]]を攻めて[[荊州]]を制圧し、長江を北岸として割拠してから、自ら帝王を名乗るべきです」と提案した。その後も[[陸遜]]・[[諸葛瑾]]・[[歩隲|歩騭]]・[[顧雍]]・[[是儀]]・[[厳畯]]・[[呂岱]]・[[徐盛]]・[[朱桓]]・[[駱統]]らを登用した。同年、廬江太守の[[李術]]が離反し、孫権は[[徐琨]]・[[孫河]]を率いて皖城に李術を討ち、その部曲三万人を得る。
 
 
 
[[203年]](建安8年)、父の仇である黄祖を討伐する。黄祖軍は敗れて奔走した。しかしこの時、揚州の非漢民族である[[山越]]の反乱が活発になった。孫権は[[豫章郡|豫章]]に戻り、呂範に命じてに[[鄱陽郡|鄱陽]]を平定させ、程普に楽安を討たせる。[[建安県 (福建省)|建安]]・[[漢興]]・南平の不服従民が再び背き、[[賀斉]]に命じて鎮圧させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下[[甘寧]]を受け入れる。それ以外に、孫翊や孫河が[[キ覧|媯覧]]に殺されたり、従兄弟の[[孫コウ|孫暠]]が反乱を企てたり[[孫輔]]が曹操と内通したりしたが、解決した。腹心の[[顧徽]]を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査した。
 
 
 
[[206年]](建安11年)、孫権は周瑜・[[孫瑜]]・[[凌統]]を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐する。一万余の捕虜を得、勝利を収めた。
 
 
 
[[208年]](建安13年)、黄祖を討ち取り[[江夏]]郡の南部を得た。
 
 
 
この年の年末、曹操が大軍を率いて南下すると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、[[劉琮]]はなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟<ref>一緒に狩猟をするというのは、戦って雌雄を決するという裏の意味。</ref>をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった<ref>江表伝</ref>。豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、降伏派(張昭・[[秦松]]等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見、周瑜の説得により開戦を決断した<ref>『周瑜伝』、『後漢紀』、『建康実録』</ref>。孫権は剣を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(机)を斬りつけて、「お前たちの中に、これ以上降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思え」と言った<ref>江表伝</ref>。かくして孫権は[[劉備]]と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の[[赤壁の戦い]]で、[[黄蓋]]の火攻めにより曹操の水軍を大いに破った。[[江南]]の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。赤壁の戦いの前後に、孫権は[[合肥]]を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。
 
 
 
=== 荊州・交州の争奪 ===
 
戦後、劉備は劉表の長子の[[劉琦]]を上表して荊州刺史に立て、荊州南部の[[武陵郡|武陵]]・[[長沙郡|長沙]]・[[桂陽郡|桂陽]]・[[零陵郡|零陵]]の四郡を併合した。また、孫権は劉備とともに[[南郡 (中国)|南郡]]を攻め取り、劉備の上奏で[[徐州]]牧・行[[車騎将軍]]に就任した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。孫権は[[孫夫人|妹]]を劉備の継室として嫁がせ、劉備は[[鎮江市|京口]]に赴いて孫権と面会し、個人的な友誼を結ぶ。赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与え、劉備は[[南郡]]・[[武陵郡|武陵]]・[[長沙郡|長沙]]・[[桂陽郡|桂陽]]・[[零陵郡|零陵]]の荊州南部の五郡を領有することとなった。
 
 
 
[[210年]](建安15年)、[[交州]]刺史の歩騭を派遣して[[士燮 (交阯太守)|士燮]]を服属させ、[[呉巨]]を謀殺し、交州の[[南海郡|南海]]・[[鬱林郡|鬱林]]・[[交阯]]・[[日南郡|日南]]・[[珠崖郡|珠崖]]・[[儋耳郡|儋耳]]・[[蒼梧郡|蒼梧]]・[[九真郡|九真]]・[[合浦郡|合浦]]の九郡を得た。
 
 
 
[[212年]](建安17年)、曹操が来侵しようとしていると聞き、呂蒙は濡須口に濡須塢を築き上げた。翌年にかけて曹操は40万の軍勢を率いて濡須を攻撃し、孫権は自ら出陣して曹操に取り囲まれた、これを撃退した([[濡須口の戦い]])。
 
 
 
[[214年]](建安19年)5月、[[呂蒙]]・甘寧を率いて曹操領の皖城を攻撃し、廬江太守の[[朱光]]と数万人の男女を捕らえた。
 
 
 
[[215年]](建安20年)、曹操が江西に侵攻し、戦果なく引き揚げた<ref>「武帝紀」、「献帝春秋」</ref>。後に劉備が[[益州]]刺史の[[劉璋]]を攻めて益州を領有すると、孫権は荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は[[涼州]]を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。孫権は3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙らの軍勢を派遣して長沙・桂陽・零陵を奪還した。業を煮やした劉備も大軍を送り込み全面戦争に発展しそうになったが、曹操が[[漢中郡|漢中]]に侵攻したので、劉備は長沙・桂陽を返還して孫権と和解し、表向きの同盟関係が回復した。
 
 
 
同年、合肥城を攻め、孫権は攻撃時には陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って指揮を執るなど勇猛果敢であったが、それが過ぎて軽率である場合もあり、命を落としかけたことも一度かあった。
 
 
 
[[216年]](建安21年)、曹操が濡須を攻撃したため、山越も曹操に呼応して挙兵したが、[[賀斉]]と陸遜に命じて平定させた。[[217年]](建安22年)、[[蒋欽]]と呂蒙を総司令官に任命して防がせた(濡須口の戦い)。曹操は濡須塢を攻め落れず<ref>『資治通鑑』『三国志集解』『読史方輿紀要』</ref>、逆に孫権の部将らが曹操軍を撃破し<ref>「呂蒙伝」、「周泰伝」、「徐盛伝」、『資治通鑑』、『冊府元亀』</ref>、また疫病が流行したため曹操軍は成果なく引き揚げた<ref>「司馬朗伝」、「曹植伝」</ref>。戦い後に孫権は謀略によって[[徐詳]]を派遣して漢王朝に偽の臣従を申し入れた<ref>『建康実録』</ref>。この年、孫権は呂蒙の意見を採用して劉備軍を警戒する準備をしている。
 
 
 
劉備が益州と荊州の半分を支配して勢力を拡大する中、[[219年]](建安24年)、荊州の守備を任されていた[[関羽]]は軍を率いて北上した。孫権は呂蒙・陸遜を率いて関羽を討伐する。呂蒙は先鋒としてに南郡・零陵・武陵の3郡を奪わせ、退路を失った関羽を捕らえて処刑した([[樊城の戦い]])。そして曹操に帝位を勧めた。この手紙を見た曹操は「この小僧め。跪いてみせながら、私を囲炉裏の炭の上に据えようというのか」と言った。<ref>『晋書』</ref>
 
 
 
=== 三国鼎立 ===
 
[[ファイル:Sanguo map.jpg|thumb|right|呉の地図]]
 
荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ[[曹丕]]に接近した。[[後漢]]の[[献帝 (漢)|献帝]]から[[禅譲]]を受けて[[魏 (三国)|魏]]を建国した曹丕の皇帝位を承認し、諸侯の礼をとって呉王に封ぜられた。また、[[陳化]]・[[馮熙 (呉)|馮熙]]・[[沈珩]]・[[趙咨]]らを使者として派遣し、魏との安定した関係を築いた。
 
 
 
北方の安全を確保した孫権は、[[222年]]([[黄初]]3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備率いる[[蜀|蜀漢]]軍を[[夷陵の戦い]]で打ち破り、荊州の領有を確実にした。孫権は劉備から和解の手紙をもらいました<ref>「呉主伝」、「鄭泉伝」、「陸遜伝」、『呉録』、『資治通鑑』</ref>、中に劉備が前のことに関して深く反省し謝りました。孫権はこれに同意し、だから、使者の[[鄭泉]]に劉備への返事を頼みました。劉備はこれに[[宗イ|宗瑋]]・[[費禕]]らを何度も派遣して答礼させた。これによって、三国の領域が確定した。蜀漢を破り和睦したため、魏と同盟する必要のなくなった孫権は、臣従していた魏から離反し、[[黄武]]という独自の[[元号]]を使い始めた。この年が呉の建国の年とされる。失意の劉備が死去すると、諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けば異心を抱くだろうと憂慮していたので、[[鄧芝]]を派遣して孫権との友好関係を整えさせた。こうして[[223年]](黄武2年)、蜀漢と再び同盟した。以後、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、諸葛亮の[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]など蜀漢の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。このように、孫権は巧みな外交によって勢力を維持・拡大した。
 
 
 
222年から223年にかけて、[[濡須口の戦い#第三次戦役・三方面攻撃(222年-223年)|呉は3方向から魏に攻められ]]激戦したが、呉軍が[[曹仁]]·[[曹休]]·張遼を破り、曹真らは朱然軍を攻め敗れず、また疫病が流行したため、魏軍は総退却した。
 
 
 
[[224年]](黄武3年)、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。
 
 
 
[[226年]](黄武5年)、孫権は呂岱を派遣して[[士徽]]の反乱を鎮圧し、交州の支配を強化した。同年、孫権・[[孫奐]]・[[鮮于丹]]は[[江夏郡|江夏]]を攻め、諸葛瑾は[[襄陽郡 (中国)|襄陽]]を攻めた。孫奐・鮮于丹は高城を落としたが、諸葛瑾は[[司馬懿]]らに敗れ、孫権らは撤退した。
 
 
 
[[228年]](黄武7年)、[[周魴]]は偽りの降伏を魏に申し出て、魏の[[曹休]]を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・[[全琮]]を率いて曹休と戦い大勝した([[石亭の戦い]])。
 
 
 
[[229年]]、群臣一同が孫権に帝位に即くことを進言し、孫権は[[皇帝]]に即位した。呉の初代皇帝(太祖大皇帝)となるとともに、元号を[[黄龍 (呉)|黄龍]]と改めた。なお、蜀は呉との同盟関係を維持することに決め、[[陳震]]を祝賀の使者として呉に赴かせた。武昌において孫権と会盟し、天下を分配することを誓約し合った。その後、建業に遷都する。
 
 
 
[[230年]](黄龍2年)、[[衛温]]・[[諸葛直]]に兵1万を与え、夷州と亶州の探索を行わせた。夷州から数千人を連行するがこの探索は失敗に終わり、孫権は衛温・諸葛直を処刑した。
 
 
 
[[233年]]([[嘉禾]]2年)3月、顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、[[公孫淵]]の内通を信じて[[張弥]]・[[許晏]]・[[賀達]]らに[[九錫]]の礼物と策命書と兵1万を持たせ派遣した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、[[薛綜]]らの諫止により思いとどまった。
 
 
 
[[234年]]([[嘉禾]]3年)、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、[[満寵]]に苦戦し、[[曹叡]]の親征軍が来ると聞くと撤退した。この年から3年間、[[諸葛恪]]・[[陳表]]・[[顧承]]らを派遣して山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人を徴兵した。
 
 
 
[[236年]](嘉禾5年)に[[五銖銭]]500枚、[[238年]](嘉禾7年)に五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
佞臣とされる[[呂壱]]を重用していたが、[[238年]](赤烏元年)に悪事が露見して処刑されている。
 
 
 
[[239年]](赤烏2年)、公孫淵は魏に対して挙兵し、孫権に援軍を求める。呉の人々は皆その使者を斬ろうとしたが、ひとり[[羊衜 (呉)|羊衜]]だけは援軍を送り、魏を攻撃するよう提案した。孫権はこれを聞き入れ、援軍として[[羊衜 (呉)|羊衜]]・[[孫怡]]・[[鄭冑]]を派遣し、魏の張持・高慮を破る。公孫淵は魏に討たれたが、魏の人を捕虜として帰国した([[遼隧の戦い]])。
 
 
 
[[241年]](赤烏4年)、朱然や諸葛瑾に命じて大軍で魏を攻めたが、大きな戦果は得られなかった([[芍陂の役]])。同年、皇太子であった長男の[[孫登]]が33歳で病没すると、翌年3男の[[孫和]]を太子に立てた。しかし、当時寵愛していた4男の[[孫覇]]を孫和と同等の処遇としたため、立太子を期待する孫覇派と、廃太子を防ごうとする孫和派との対立を招いた。後継者を巡る家臣たちの対立は泥沼化。孫権は2人の不和を案じて人の出入りを禁止し、学問に励むよう訓戒をしたが、対立は止まなかった。
 
 
 
[[243年]](赤烏6年)、諸葛恪は魏を攻め、六安で[[謝順]]を破った。
 
 
 
[[244年]](赤烏7年)、歩騭・朱然らは、蜀は魏と通じて呉を攻めようとしていると言上したが、孫権は取り合わなかった。
 
 
 
[[247年]](赤烏10年)、孫権は諸葛壱に命じ魏の[[諸葛誕]]を誘き寄せようと謀り、自身も軍を率いて出陣した。諸葛誕らは撤退した。
 
 
 
後継者を巡る息子たちの争いに嫌気が差した孫権は、末子の[[孫亮]]を寵愛するようになり、[[250年]](赤烏13年)に両者を排して彼を太子に立てた。この10年に渡る対立は、家臣団の間に大きな亀裂を生んだほか、多くの家臣が処刑・自害・追放に追い込まれ、呉という政権の求心力を著しく低下させた([[二宮事件]])。のちに孫権は、死の床で孫和の無実を悟り、彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた長女の[[孫魯班|全公主]]の讒言により思いとどまっている。
 
 
 
[[251年]]([[太元 (呉)|太元]]元年)、長江が氾濫し城門まで水に浸かる被害が出て、孫権が視察した際、[[呂拠]]は大船をつなぎとめて被害が出るのを防ぐために尽力した。孫権はこれを喜び、呂拠を盪寇将軍とした。11月、風疾で重体になると、諸葛恪に政務の処理を一任した。諸法令への意見について、孫権はそのつど聴許した。百姓は大喜びした<ref>『三国志』諸葛恪伝引『呉書』</ref>。
 
 
 
[[252年]]([[神鳳 ()|神鳳]]元年)4月25日、危篤になると、諸葛恪・[[孫弘]]・[[孫峻]]・[[滕胤]]・[[呂拠]]らに後事を託した。
 
 
 
翌日、孫権は崩御し孫亮が皇帝となった。
 
 
 
=== 陵墓 ===
 
同年7月、蒋陵に葬られた。陵墓は、南京([[建業]])東の[[梅花山]]にある。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 風貌===
 
高貴な人相、あごが張って、口が大きく、瞳にはキラキラとした光があった(『江表伝』)<ref>中華民国の學者黎東方『細説三国』では、「あごが張って、口が大きく」は四方を安定させ、「瞳にはキラキラとした光があった」は活気を体現している。象徴を意味すると言われている</ref>。漢の劉琬が16歳の孫権を見て、「形貌奇偉」であったと人に語ったという。野史には、[[司馬懿]]・[[桓温]]と格好が似ていると言われる<ref>『世説新語容止』</ref>。
 
 
 
後世の文人によって傑出した若君として描かれている。[[南宋]]の詞人[[辛棄疾]]の『南郷子・登京口北固亭有懐』には「天下英雄誰敵手 曹劉 生子当如孫仲謀」と歌われている。 [[唐]]の「歴代帝王図巻」では、手には[[払子|麈尾]]を持ち、その指導力が高く評価された。
 
 
 
小説『[[三国志演義]]』では、「碧眼紫髯 堂堂一表」と堂々とした風采の持ち主として描写されている<ref>『三国志演義』四十三回</ref>。「'''碧眼児'''」(青瞳の童)と呼ばれる。
 
 
 
=== 性格 ===
 
度量が広く朗らかで、優しいだけでなく決断力があり、侠気を好み士を養う(『江表伝』)。
 
 
 
言動がおどけていて、無茶苦茶な冗談を飛ばしてからかう(『襄陽記』)。
 
 
 
曹丕と[[鍾繇]]は「嫵媚」<ref>嫵媚とは、(女性・草花などが)美しくかわいい、なまめかしい、あでやかであるの意。</ref>という形容を使い孫権の柔軟な物腰を評している(『魏略』)。
 
 
 
質素倹約を好んだ。即位後、建業に新たな宮殿を建てたりせず、今までの将軍府を使い続けていたが、やがて老朽化が進んだ。そこで、築28年ほどの武昌宮を解体して資材にして修繕した。また後宮の女性も、糸つむぎの仕事をする女官なども含めて百名に足らない程度しか置かなかった。
 
 
 
=== 趣味 ===
 
狩りが好きで、日が暮れるまで没頭するのが常だった。北宋の詩人[[蘇軾]]の『江城子・密州出獵』には「親射虎 看孫郎」と歌われている。
 
 
 
[[張遼]]の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという(『献帝春秋』)。
 
 
 
また書を好み、隷書・草書・行書が巧みで<ref>『[[書史会要]]』に「大帝孫氏 諱權 字仲謀 堅之子 善行草隸」という。</ref>、唐の張懐瓘の『書估』では、「奇材見拔 絶世難求」と評されている。
 
 
 
== 評価 ==
 
[[ファイル:Sun_Quan.jpg|thumb|right|孫権]]
 
[[ファイル:Sun Quan statue.jpg|right|thumb|孫権の石像]]
 
呉への使者を務めた[[趙咨]]が魏の曹丕に尋ねられた際、「聡明・仁智・雄略」と評している。
 
 
 
[[賈ク|賈詡]]は「孫権は虚実を識り、陸遜が兵勢を見ており、険阻に拠って要衝を守り、江湖に舟を浮かべ、皆にわかに謀るのは困難です。用兵の常道は、先ず勝った後に戦い、敵を量って将を論じるもので、それゆえ事を挙げても遺策は無いのです。臣がひそかに群臣を料るに、劉備や孫権に対応できるものはおりません」と評している。
 
 
 
正史『三国志』撰者の[[陳寿]]は、「孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ綿密に計略を練るなど、 越王[[勾践]]と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した人物であった。さればこそ江南の地を自らの物とし、三国鼎立をなす呉国の基礎を作り上げることができたのである」と功績を称えるも「その性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行い、晩年に至ってそれが愈々募った」と評し、「その結果、讒言が正しい人々の行いを断ち切り、後継者(孫和・孫覇)も廃され殺されることになった。子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは言い難い。その後は代が衰微し遂には国が滅びることになるのだが、その遠因が彼の行いに無かったとは言い切れない」と、彼の晩年の振る舞いを批判している。
 
 
 
『異同雑語』の著者の[[孫盛]]は、「孫権が士を養うさまを見ると、心を傾けて思いを尽くすことで、その死力を求めたのである」と評した。
 
 
 
陸遜の孫[[陸機]]は『弁亡論』で、「太祖(孫権)は徳を以て成し、聡明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの権力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公(陸遜)の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豊かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯粛は一度会っただけで自らを託し、士燮は險を冒して臣下となることを望んだのである。張公(張昭)の德を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯粛の功績に帰し、悪言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。こういう訳で忠臣達は競って其の謀を尽くし、志士は皆尽力することができたし、大計は遠略にして、固より区々たるに飽きぬものであった。だから百官は幾らかまとまってはいたが、庶務については未だ手が回らなかった」と評した。また誄文を著しその死を悼んでいる<ref>『[[宋書]]·卷十九·志第九』より</ref>。
 
 
 
== 逸話 ==
 
濡須口の戦いの際、孫権は自ら軽船に乗って曹操の軍営に入った。諸将らが迎撃しようとしたところ、曹操が「これはきっと孫権が自ら我が部隊を見ようとしたものだ」とし、軍中は厳戒し、弓をみだりに撃たせなかった。孫権は行くこと五・六里で回頭し、鼓吹して帰還した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つならまさに孫仲謀のようなのがいい」(生子當如孫仲謀)と周囲に語ったという。孫権が曹操への札簡で説くには 「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし。」別の紙で言うには、「足下が死なねば私は安んずることができぬ。」曹操が諸将に語るには「孫権は私を欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した (『呉曆』)。
 
 
 
孫権は呉王に封建されると酒宴を開いて自ら酒を注いで回ったが、[[虞翻]]は酔い潰れた演技でやり過ごし、孫権が去るとすぐに居住まいを元の如く正した。孫権は大いに怒り、かつて曹操が[[孔融]]を処刑した例を引き合いに虞翻を斬ろうとしたが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。孫権は「以後は酒宴の場で自分が下した命は無効とする」と触れを下した(『虞翻伝』)。
 
 
 
孫権は鄭泉を郎中に任じ、かつて言うには「卿は衆人の中で面と諫めることを好むが、礼と敬意を失することがある。逆鱗を畏れることがあるのか?」「臣は君が明であれば臣は直だと聞きます。今、朝廷は上下とも無諱の時に遭っております。まことに洪恩を恃んでおり、龍鱗などは畏れておりません」鄭泉に宴会に侍り、孫権は怖れさせようと連れ出させて有司に付し、治罪を促した。鄭泉はこのときしばしば顧みた。孫権は呼び還して笑って曰った「あら、卿は龍鱗を畏れぬと言ったが、どうして出される時に顧みたのだ?」「まことに恩寵が篤く、死の憂いが無いと知っていたのですが、出閤の際に威霊に感応して顧みずにはおられなかったのです」。
 
 
 
武昌で「長安」なる巨大戦艦の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたのだが、羅州まで向かう途中で風が激しく吹き、長江が大いに荒れた。万一を危惧した側近達は船長に樊口に向かうように命じたが、大いにはしゃいでいた孫権はそのまま羅州まで向かえと命令を出した。 見かねた側近の[[谷利]]が船長に刃を突きつけ「樊口へ向かえ。さもなくば斬る」と脅したため、結局樊口に停泊した。君命を無視された孫権は谷利に「利ちゃん、何故そんなに水を怖がるのだね」とぼやいたところ、谷利に「もし船が転覆したならば、国家の事業をどうされるのでございますか。ですので谷利は、あえて死をかけてお止めしたのでございます」と諭されている。
 
 
 
陸遜が曹休を破った際、孫権は大宴を開いた。酒に酔った孫権は陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。その時着ていた白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱いで下賜した(『呉書』『太平要覧』)。
 
 
 
[[西晋|晋]]の『古今注』によると、六振りの宝剣と三振りの宝刀を所持していたという。剣は「[[白虹]]」「[[紫電]]」「辟邪」「流星」「青冥」「百里」、刀は「百錬」「青犢」「漏影」という。それに彼が持つ神鋒弩、射程は三里(1.5キロ)、三頭の馬を貫くことができる <ref>『藝文類聚』に引く『會稽典録』</ref>。
 
 
 
孫権が呉王になると、方士の介象に隠形の術を学び、姿を隠したまま殿門を出入りして見たところ、誰も孫権に気がつかなかったという(『神仙伝』)。
 
 
 
== 年譜 ==
 
* [[196年]]([[建安 (漢)|建安]]元年) - 15歳のとき、[[朱治]]によって[[郷挙里選|孝廉]]に推挙される。[[厳象]]によって[[茂才]]に推挙される。
 
* [[200年]](建安5年) - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、[[江東]]一帯の主となる。曹操の上表により[[会稽]][[太守]]・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉(現在の[[蘇州市|蘇州]])に本拠を構える。
 
* [[208年]](建安13年) - 父の仇である黄祖を討ち取る。本拠地を京口に移し、曹操に大軍で攻められ家臣には降伏を奨められるも劉備と同盟し、赤壁の戦いに勝利する。
 
* [[209年]](建安14年) - [[孫夫人|妹]]を劉備に嫁がせる。
 
* [[210年]](建安15年) - 歩騭を交州刺史とし、士燮を服属させた。
 
* [[212年]](建安17年) - 本拠地を秣陵に移し、[[建業]]と改名。[[石頭城]]を改装。妹は呉に帰ってきた。
 
* [[215年]](建安20年) - 劉備から長沙・桂陽を割譲(返還)される。曹操領の最前線合肥を攻めるが、逆に曹操軍の[[張遼]]に捕捉寸前にまで追い詰められる([[合肥の戦い]])。
 
* [[216年]](建安21年) - [[濡須口の戦い]] 前年の合肥の戦いの勝利に乗じて曹操が侵攻してくるも、これを食い止める。
 
* [[219年]](建安24年) - 劉備と手を切って曹操と同盟を組み、関羽を討ち取って悲願であった荊州の奪取に成功。曹操の上表により[[驃騎将軍]]・荊州刺史に任じられ、南昌侯に封じられる。
 
* [[220年]](建安25年/延康元年/黄初元年) - 春正月、曹操が逝去。曹丕が代わって丞相・魏王となり、三月に延康と改元する。冬、曹丕が皇帝を名乗り、年号を黄初と改める。
 
* [[221年]]([[黄初]]2年) - 四月、劉備が蜀において帝を称する。 本拠地を鄂に移し、[[鄂城区|武昌]]と改称する。十一月、魏の朝廷から策命を下され呉王に封じられる。劉備が軍を率いて攻め寄せ、武陵の異民族たちを蜀につくよう誘いかける。孫権は陸遜を総指揮官に命じ、朱然や潘璋らを指揮して進出を防ぎ止めさせる。[[孫登]]を王太子に立てる。
 
* [[222年]]([[黄武]]元年) - 正月から閏六月の間に劉備を夷陵の戦いで破る。九月、呉は3方向から魏の侵攻を受ける。改元を行い「[[黄武]]」の元号を立てて、魏から独立する(実質的な呉の建国年)。十一月、大風により溺死する者が数千名にのぼる。[[曹休]]が[[臧覇]]に命じ徐陵を襲撃させる。[[全琮]]と[[徐盛]]はこれを追撃して魏の部将[[尹礼]]を斬る。 十二月、[[鄭泉]]を使者に立てて白帝にいる劉備を聘問(へいもん)し、友好関係を回復するも依然として魏の文帝とも往来があり、次の歳になってからその交わりは絶たれる。
 
* [[223年]](黄武2年) - 三月、魏の軍がすべて撤退する。四月、群臣たちが孫権に帝位に即くようにと勧進する。劉備が白帝で逝去し、[[馮熙]]を公式の使者として弔問を行わせる。十一月、蜀の使者[[鄧芝]]と面会し、呉蜀同盟を結び魏との同盟を破棄する。
 
* [[224年]](黄武3年) - 夏、[[張温]]を公式の使者として蜀に送る。
 
* [[228年]](黄武7年) - 呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出し、呉の陸遜らは曹休と戦い勝利する([[石亭の戦い]])。
 
* [[229年]]([[黄龍 ()|黄龍]]元年) - 皇帝に即位。建業に遷都する。
 
* [[230年]](黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州([[台湾]]、[[沖縄諸島|沖縄]]、もしくは[[日本]]という説が存在)の探索を行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。
 
* [[233年]]([[嘉禾]]2年) - [[公孫淵]]に[[九錫]]を賜り、燕王に封じる。しかし使者の張弥と許晏を殺され、その首は魏に送られた。
 
* [[237年]](嘉禾6年) - 諸葛恪らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
 
* [[247年]] ([[赤烏]]10年) 武昌宮からの建材を用いて太初宮を改修した。
 
* [[250年]](赤烏13年) - 二宮事件(孫和派と孫覇派の家督争い)を決着させる。
 
* [[252年]]([[神鳳 (呉)|神鳳]]元年) - 71歳で崩御。蒋陵(現在の[[紫金山]]南麓。孫陵崗・梅花山とも呼ばれ、墓標や石像が残る)に葬られる。
 
 
 
== 家系図 ==
 
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{{familytree|border=1 | AAA |v| BBB |v| CCC |-| DDD |v| EEE | AAA=[[孫鍾]]? |BBB=[[孫羌]] |CCC=[[孫賁]] |DDD=[[孫鄰]] |EEE=[[孫震 (孫呉)|孫震]]}}
 
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{{familytree|border=1 | | | |!| | | |`| FFF | | | | |`| GGG | FFF=[[孫輔]] |GGG=[[孫キン|孫歆]]}}
 
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{{familytree|border=1 | | | |)| HHH |v| III |-| JJJ |-| KKK | HHH=[[孫堅]] |III=[[孫策]] |JJJ=[[孫紹]] |KKK=[[孫奉]]}}
 
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== 続柄 ==
 
=== 父母 ===
 
; 父
 
* [[孫堅]]
 
; 母
 
* [[呉夫人]]
 
 
 
=== 兄弟姉妹 ===
 
*[[孫策]]
 
*姉(弘咨妻)
 
*姉(陳某妻、娘が潘濬の次子の潘祕に嫁ぐ)
 
*[[孫翊]]
 
*[[孫匡]]
 
*[[孫朗]]
 
*[[孫夫人]]
 
 
 
=== 后妃 ===
 
* [[謝夫人|謝妃]]、[[徐夫人|徐妃]](即位前の正室)
 
* 皇后 [[潘淑]]
 
* 夫人[[歩練師]]、[[大懿皇后|琅邪王夫人]]、[[敬懐皇后|南陽王夫人]]、[[袁夫人]]、[[趙達#趙夫人|趙夫人]]
 
* 謝姫、仲姫
 
 
 
=== 子 ===
 
; 男子
 
* 宣太子 [[孫登]](子高)
 
* 建昌侯 [[孫慮]](子智)
 
* 南陽王 [[孫和]](子孝)- 母は王夫人
 
* 魯王 [[孫覇]](子威)- 母は謝姫
 
* 斉王 [[孫奮]](子揚)- 母は仲姫
 
* 景帝 [[孫休]](子烈)- 母は王夫人
 
* 廃帝 [[孫亮]](子明)- 母は潘皇后
 
 
 
; 女子
 
* 全公主 [[孫魯班]](大虎)- 母は歩夫人
 
* 次女([[劉纂]]に降嫁し、早世)
 
* 朱公主 [[孫魯育]](小虎)- 母は歩夫人
 
そのほか、[[滕胤]]に嫁いだ娘がいる。養女と考えられている<ref>滕胤に嫁ぐ際に公主と呼ばれている、後文には孫奐の娘である孫壱の妹が確認されている(『三国志』滕胤伝)</ref>。
 
 
 
; 養子
 
*[[凌統#没年について|凌烈]]
 
*凌封
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[陳寿]]、[[裴松之]]注『正史 [[三国志 (歴史書)|三国志]]』、[[井波律子]]・[[今鷹真]]・[[小南一郎]] 訳・解説([[ちくま学芸文庫]]全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。
 
* 王敏 編『中国歴代王朝秘史事典』、[[河出書房新社]]、1999年、ISBN 4-309-22339-7。
 
* [[金文京]]『中国の歴史04 三国志の世界』、[[講談社]]、2005年、ISBN 4-06-274054-0。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[玄武湖]] - 南京市の北東にある湖。孫権が水軍の訓練を行った場所として有名。
 
* [[明孝陵]] - 孫権墓の近くにある[[明]]の太祖洪武帝[[朱元璋]]の陵墓。孫権墓を避けるため参道が曲がったと言われる。
 
* [[石頭城 (南京)|石頭城]] - 212年(建安16年)に孫権により築城され、南京では数少ない三国志関連の遺跡である。別称を鬼顔城とも称す。
 
* [[黄鶴楼]]- 223年、孫権によって軍事目的の物見櫓として建築されたが。中国の『江南三大名楼』のひとつである。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{Commons&cat-inline}}
 
 
 
{{先代次代|[[魏 (三国)|魏]]の[[諸侯王|呉王]]|221年 - 222年|―|―}}
 
{{呉の皇帝||初代:229年 - 252年}}
 
{{三国志立伝人物}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
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{{DEFAULTSORT:そん けん}}
 
[[Category:孫権|*]]
 
[[Category:孫権|*]]

2019/4/28/ (日) 18:54時点における最新版

孫 権[1](そん けん)

中国,三国時代の第1代皇帝 (在位 222~252) 。字は仲謀,諡は大皇帝。呉郡富春 (浙江省富陽県) の人。孫堅の子。建安5 (200) 年兄孫策の急死により跡を継いだ。孫権は土着豪族および北から南下した名士の支持を得て,巧みな政治的外交的手腕をふるい,ついに江南支配を達成した。劉備と連合して曹操の南下を食止めた赤壁の戦いはその間に起ったものである。 222年呉王となり,建元して黄武といったが,まだ魏の封策を受けていた。黄竜1 (229) 年には皇帝の位について独立し,建業を首都とした。



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  1. 繁体字の表記:孫權、簡体字の表記:孙权、ピン音:Sūn Quán。