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'''奴隷貿易'''(どれいぼうえき)は国際間の[[奴隷]]の取引を指す。
 
  
== 古代から中世の奴隷貿易 ==
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'''奴隷貿易'''(どれいぼうえき;slave trade)
{{main|{{仮リンク|古代ギリシアの奴隷|en|Slavery in ancient Greece}}}}
 
  
[[古代ギリシア]]においては、[[捕虜|戦争捕虜]]が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀から紀元前2世紀の[[マンティネイアの戦い]]までは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は[[交易港]]に運ばれて戦利品とともに売られた。スパルタの[[アゲシラオス2世]]<ref>[[プルタルコス]], Life of Agesilaus, 7:6.</ref>がその場での競売を考え出し、以後は軍隊にかわって従軍する奴隷商人が担った<ref>[[カール・ポランニー]] 『[[人間の経済]] 2 交易・貨幣および市場の出現』 [[玉野井芳郎]]・[[中野忠]]訳、岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年。 </ref>。[[古代ギリシア]]の[[都市国家]]では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特に[[スパルタ]]においては市民の数を奴隷([[ヘイロタイ]])が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。[[古代ローマ]]もこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが[[剣闘士]]となり[[コロッセウム]]で戦いを演じさせられたものもいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。
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アフリカ住民を奴隷としてアメリカに売込んだ近代ヨーロッパの貿易形態。 16世紀以来新大陸の植民地化が進むにつれて,アフリカ黒人を捕獲して植民地の労働力として売ることが始った。アフリカ西岸を基地としてポルトガル,スペインがこの貿易に乗出し,17世紀からオランダが割込んだ。続いてイギリスが王立アフリカ会社を中心に本国,アフリカ,西インドを結ぶ[[三角貿易]]を進め,1731年ユトレヒト条約で[[アシエント]]を獲得するにいたった。奴隷は北アメリカ南部にも売込まれ,アフリカから運び去られた住民は,16世紀以後 300年間で 5000万人に達するという。またこの貿易の輸送船に乗船させられる黒人の待遇は拷問に等しく,輸送される全黒人の少くとも 20%は,航海中に死亡したといわれる。
 
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{{Slavery}}
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[古代]]社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。[[アテナイ]]の奴隷は市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、[[カラカラ帝]]による[[アントニヌス勅令]]施行以前までは[[ローマ市民権]]を得ることによって自由人になる([[解放奴隷]])道が開かれていた。鉱山労働者や家庭教師など奴隷の仕事は様々であり、言ってみれば職業と就職先を自分で決定する権利が無い労働者と言ってよい存在だった。[[娼婦]]や[[剣闘士]]のような、特定の主人に仕えない自由契約の奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。
 
 
 
[[中世]]においては[[ヴァイキング]]により[[スラヴ人]]([[サカーリバ]])が、また[[アッバース朝]]以降の[[ムスリム]]によりトルコ人が多く奴隷とされた。それら奴隷とされたトルコ人は生産活動に従事するのではなく、主に[[マムルーク|奴隷兵士]]として徴用された者も多かった。また、[[マムルーク朝]]、[[奴隷王朝]]の名はマムルーク(奴隷兵士)を出自とする軍人と、その子孫に由来する。
 
 
 
中世における世界の奴隷売買の中心地と言えた[[イスラム世界]]においては、その奴隷のほとんどが[[ゲルマン人]]、スラヴ人、[[中央アジア|中央アジア人]]および[[バルカン|バルカン人]]で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラヴ人に由来する。[[西ヨーロッパ|西欧]]を例にとれば、[[ヴェルダン]]ではアラブ諸国向けの[[宦官]]の製造が町の最も活発な産業部門という時代もあった<ref>J・シュレ=カナール 『黒アフリカ史』 [[野沢協]]訳、理論社、1964年</ref>。中世のイタリア商人は[[黒海]]において奴隷貿易を行ない、スラヴ人、トルコ人、ギリシア人、[[アルメニア人]]、[[タタール人]]の奴隷が、[[アレクサンドリア]]、[[ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ]]などへ運ばれた。ジェノヴァの商人は、[[カッファ]]の後背地で奴隷狩を行なった。1317年に[[教皇]][[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]は、ジェノヴァに対して、[[異教徒]]に奴隷を供給して力を強めることがないようにと警告をした<ref>[[清水廣一郎]] 『中世イタリア商人の世界』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1993年。121頁</ref>
 
 
 
『奴隷』の代名詞が黒人(いわゆるブラック・アフリカ諸民)になったのは大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって、それまでの『奴隷』の代名詞は主にゲルマン人とスラヴ人であった。
 
 
 
== 大西洋奴隷貿易 ==
 
{{main|1=[[大西洋奴隷貿易 (奴隷貿易)|大西洋奴隷貿易]]|2=[[:en:Atlantic slave trade|Atlantic slave trade]]}}
 
 
 
=== 概要 ===
 
[[ファイル:AfricanSlavesTransport.jpg|right|thumb|260px|[[アフリカ]]に於ける奴隷狩りの様子。]]
 
[[ファイル:Slavetrade2 blownup.jpg|right|thumb|260px|[[奴隷船]]の内部構造。]]
 
[[大航海時代]]に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主に[[ヨーロッパ]](スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、デンマーク、 スウェーデン、アメリカ州を含むヨーロッパ系植民者が関わり)と[[アフリカ]]と[[アメリカ大陸]]を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドの[[プランテーション]]経営に必要な[[労働力]]となった(→[[三角貿易]])。供給源となった[[アフリカ]]が[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国を中心とした世界[[経済]]システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後[[人道]]的あるいは[[産業]]的見地からの反対を受け、[[1807年]]にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。
 
 
 
2004年3月、奴隷貿易に関与していた英国[[ロイズ保険組合]]、米国たばこメーカー大手[[R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー]]などに対して奴隷の子孫のアメリカ人が訴訟を起こした。
 
 
 
アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な[[搾取]]・[[略奪]]そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献した[[コンゴ王国]]、[[ンドンゴ王国]]、[[モノモタパ王国]]などは衰退の運命を辿った。<ref name="ahurikarekisi">岡倉登志『アフリカの歴史 侵略と抵抗の軌跡』明石書店 2001年</ref>
 
 
 
=== 歴史 ===
 
ヨーロッパ人による{{仮リンク|アフリカ人奴隷貿易|en|African slave trade}}は、[[1441年]]にポルトガル人{{仮リンク|アントン・ゴンサウヴェス|en|Antão Gonçalves}}が、[[西サハラ]]海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルの[[エンリケ航海王子]]に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全て[[ベルベル人]]で黒人ではない。また、拉致された人々も、王室で働く下僕ということで、扱いはさほど悪くなかったもようである。
 
 
 
1452年、[[ローマ教皇]][[ニコラウス5世]]はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。
 
 
 
大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形で[[ポルトガル]]との通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を[[西インド諸島]]に運び、[[カリブ海]]全域で展開しつつあった[[砂糖]]生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めて[[ヨーロッパ]]の業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)や[[アラブ人]]商人である。
 
 
 
初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の[[植民地]]化に伴う[[インディオ]]人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと(貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気だった)、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、「奴隷狩り」から「奴隷貿易」へのシフトは、中南米植民地の開発よりもずっと早い[[1450年]]代に起こっている。1450年代に入ると、[[カシェウ]]([[ポルトガル領ギニア]]、現[[ギニアビサウ]])、[[ゴレ島]]([[セネガル]])、[[クンタ・キンテ島と関連遺跡群|クンタ・キンテ島]]([[ガンビア]])、[[ウィダー]](現在の[[ベニン]]の[[ギニア湾]]に面する[[奴隷海岸]])、[[サントメ]]([[コンゴ王国|コンゴ]])などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
 
 
 
[[1480年]]代には[[エルミナ城]]([[ゴールド・コースト|黄金海岸]])が建設される。特に1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社{{仮リンク|ギニア会社|en|Company of Guinea}}が設立されるにいたった([[勅許会社]])。この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われ、中でも[[ジョン・ホーキンス]]と[[フランシス・ドレーク]]の航海は有名である。しかし、誤解も多いが、映画に見られるような白人による「奴隷狩り」はごく稀なケースである。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、{{仮リンク|ウィダー王国|en|Kingdom of Whydah}}<!--[[ワイダ]]-->、[[ダホメ王国]]<ref>カール・ポランニー 『経済と文明-ダホメの経済人類学的分析』 栗本慎一郎・端信行訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年</ref>、[[セネガンビア]]など西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は、もともと[[奴隷]]、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、[[債務奴隷]]、[[犯罪者]]などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた<ref name="ikemoto...etc">[[池本幸三]]他『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』、人文書院、1995年</ref>。16世紀には、[[ナイジェリア]]([[ラゴス]])などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
 
 
 
[[ファイル:Slave sale poster.jpg|right|thumb|260px|奴隷販売の広告(1829年)。]]
 
[[18世紀]]になると、[[イギリス]]の[[リヴァプール]]や[[フランス]]の[[ボルドー]]から積み出された[[銃器]]その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を[[西インド諸島]]に売却し、[[砂糖]]などをヨーロッパに持ち帰る[[三角貿易]]が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、[[マンチェスター]]で綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。[[バークレー銀行]]の設立資金や[[ジェームズ・ワット]]の[[蒸気機関]]の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。<ref name="ahurikarekisi"/>
 
 
 
=== 規模 ===
 
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で[[大西洋]]をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、学界では900万人-1100万人という、[[1969年]]の[[フィリップ・カーティン]]の説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は20-25%に達している)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16、17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を超えることはないと考えられている<ref name="ikemoto...etc" />。
 
 なお、奴隷狩りに伴う戦闘や移動させられる途中の落伍などで生じたであろう、奴隷がヨーロッパの特許会社の収容所に集められるまでの犠牲者の数については、考察しようとしいう試みはあるものの、正確な記録が全く無いため全くわからない。
 
 
 
=== 奴隷貿易廃止から植民地化へ ===
 
奴隷貿易に対しては、その開始と同時に[[宗教]]的および人道主義の立場から批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という[[植民地]]側の事情がかみ合った。[[19世紀]]初頭には、まず([[奴隷制|奴隷制度]]では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは[[1807年]]、世界に先駆けて{{仮リンク|アフリカ人奴隷貿易|en|African slave trade}}禁止を打ち出し([[:en:Slave Trade Act 1807]])、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、[[ラゴス]]など[[ポルトガル人]]の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p365</ref>、[[1835年]]に[[グレート・トレック]]が起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保とが結びつけて考えられる事があるが、これは誤りである。奴隷貿易の中心である[[西アフリカ]]、[[東アフリカ]]の沿岸地帯の植民地化が始まったのは、少なくともイギリスに関しては[[19世紀]]半ば以降のことであり、それは[[1880年]]に[[南アフリカ]]で起こった[[ボーア戦争]]へと繋がった。
 
 
 
その後、{{仮リンク|大西洋奴隷貿易 (奴隷貿易)|en|Atlantic slave trade|label=カリブ海地域で成立した近代奴隷制}}は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では[[1833年]]、スウェーデン属領では[[1846年]]、フランス領では[[1848年]]、オランダ領では[[1863年]]に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、[[アメリカ合衆国]]では[[南北戦争]]での連邦軍の勝利により1865年に奴隷制が全廃された。
 
 
 
== 日本人奴隷の貿易 ==
 
16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて[[列強]]となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。この時代は日本は[[室町時代|室町]]から[[安土桃山時代]]の乱世にあたり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた([[南蛮貿易]])。日本へは中国産[[硝石]]、[[生糸]]、[[絹織物]]、奴隷、[[ミイラ]]などが入り、日本からは輸出品:[[硫黄]]、[[銀]]、海産物、[[刀]]、[[漆器]]、そして[[日本人]]も奴隷として輸出されていた。
 
 
 
古来から日本の戦場では戦利品の一部として[[男]][[女]]を拉致していく「人取り」([[乱妨取り]])がしばしば行われていた。この時代に入ると、侵攻地域に居住する非戦闘員に対する拉致や、非戦闘員の拉致自体を目的とした侵攻も恒常的に行われるようになっていたと考えられている。この時代に大内氏や尼子氏と代る代る戦争をした毛利氏は、領内深くに尼子氏が侵入してきた際、居城に非戦闘員である農民や商人らを収容して尼子氏による乱妨取りに備えた。同種の記録はこの時代の各地で見られる。乱妨取りされた人々の中にはヨーロッパ商人や中国人商人によって買い取られ、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。<ref>[[藤木久志]]『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』朝日新聞社、1995年</ref>
 
 
 
九州の[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]地方ではこの時代の少し前から、人々が盛んに海外に進出し私貿易を行うようになっていた。この地域では、国外で捕虜とした人々を日本に連れ帰って、来航した外国商人に奴隷として販売する事例も見られる。[[遣明船]]にも携わった西国の大名である山口の大内氏や、貿易都市である[[堺]]を掌握し、細川氏を継承する四国の三好氏らも、捕虜とした人々を外国商人に売却していたと考えられている。九州の南端に位置する薩摩地方の港や、西の京都と呼ばれた山口や、遣明船貿易で繁栄した堺の町では、これまでの明人に加えて、ポルトガル商人の活動も早くから確認できる。
 
 
 
[[1560年代]]以降、[[イエズス会]]の宣教師たちは、[[ポルトガル]]商人による奴隷貿易が日本における[[キリスト教]]宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、[[1571年]]には当時の王[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。
 
 
 
[[1587年]]([[天正]]15年)7月24日、[[豊臣秀吉]]は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師[[ガスパール・コエリョ]]を呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じる[[バテレン追放令]]を発布した<ref>『[[異国叢書|新異国叢書]] イエズス会日本年報 下』p228-229</ref>。このとき各地に駐留していた外国人の日本人妻や混血児たちの中にも海外に追放され、奴隷となった者もいたとされる。
 
 
 
[[1596年]]([[慶長]]元年)、長崎に着任したイエズス会[[司教]][[ペドロ・マルティンス]](Don Pedro Martins)はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。<ref>[[太田淑子]]編、『日本史小百科 キリシタン』p148-149</ref>
 
 
 
やがて秀吉に変わった[[徳川家康]]によって南蛮貿易は[[朱印状]]による制限がかかり([[朱印船]]貿易)、さらに[[鎖国]]に踏み切ったことで、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することになった。日本人の海外渡航と外国人の入国も禁止され、日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。
 
 
 
しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が[[年季奉公]]人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった[[高橋是清]]も、少年時代にアメリカのホームステイ先で騙されて年季奉公の[[契約書]]にサインしてしまい、売り飛ばされた経歴をもっている。
 
 
 
== 聖書における関連部分 ==
 
セムは黄色人種の祖、ハムは黒色人種の祖、ヤペテは白色人種の祖とする、通俗的解釈が存在する。
 
 
 
<blockquote>
 
箱舟から出た[[ノア (聖書)|ノア]]の子らは[[セム]]、[[ハム (聖書)|ハム]]、[[ヤペテ]]であった。ハムは[[カナン]]の父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、
 
「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。(口語訳聖書 創世記9章18節-25節)
 
</blockquote>
 
 
 
== 参考文献・注釈 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Slave trade}}
 
* [[奴隷]]
 
* [[奴隷制]]
 
* [[年季奉公]]
 
* [[アラブ人の奴隷貿易]]
 
* [[:en:African slave trade|アフリカの奴隷貿易(英語版)]]
 
* [[大航海時代]]
 
* [[:en:Atlantic slave trade|大西洋の奴隷貿易(英語版)]]
 
* [[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史]]
 
* [[ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://kunta.nomaki.jp/ 黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=]
 
*[http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html 大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷]
 
*[http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon19.html 加賀百万石異聞・高山右近(19)]、[[北国新聞]]
 
*[http://www2q.biglobe.ne.jp/~sasahina/wfm_yk/joke/jbook01/joke003.htm 日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!]
 
  
 
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2018/10/3/ (水) 06:39時点における最新版

奴隷貿易(どれいぼうえき;slave trade)

アフリカ住民を奴隷としてアメリカに売込んだ近代ヨーロッパの貿易形態。 16世紀以来新大陸の植民地化が進むにつれて,アフリカ黒人を捕獲して植民地の労働力として売ることが始った。アフリカ西岸を基地としてポルトガル,スペインがこの貿易に乗出し,17世紀からオランダが割込んだ。続いてイギリスが王立アフリカ会社を中心に本国,アフリカ,西インドを結ぶ三角貿易を進め,1731年ユトレヒト条約でアシエントを獲得するにいたった。奴隷は北アメリカ南部にも売込まれ,アフリカから運び去られた住民は,16世紀以後 300年間で 5000万人に達するという。またこの貿易の輸送船に乗船させられる黒人の待遇は拷問に等しく,輸送される全黒人の少くとも 20%は,航海中に死亡したといわれる。



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