「大覚寺統」の版間の差分

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{{複数の問題
 
| 出典の明記 = 2017年12月
 
| 独自研究 = 2017年12月
 
| 脚注の不足 = 2017年12月
 
| 参照方法 = 2017年12月
 
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'''大覚寺統'''(だいかくじとう)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて皇位に即いた皇室の系統で、[[持明院統]]と対立していた。名の由来は、第88代[[後嵯峨天皇]]の子である第90代[[亀山天皇]]の子孫である、亀山天皇の子である[[後宇多天皇]]が京都の外れの[[嵯峨野|嵯峨]]にあった[[大覚寺]]の再興に尽力したこと、及び、[[出家]]後は大覚寺に住んで[[院政]]を行ったことによる。
 
  
== 概要 ==
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'''大覚寺統'''(だいかくじとう)
=== 両統迭立まで ===
 
正嘉2年([[1258年]])、後嵯峨上皇は[[後深草天皇]](当時16歳)の同母弟恒仁親王(後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王(後の[[伏見天皇]]、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王(後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。
 
  
その後、後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このため、後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は[[鎌倉幕府]]に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇の正妻であり後深草上皇と亀山天皇の生母でもある大宮院に後嵯峨上皇の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇を次の治天に指名した。その結果、亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)に皇太子の世仁親王(当時8歳)に譲位した。
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鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位の継承権と所領の相続をめぐって争った2つの皇統の一つ。亀山,後宇多天皇の流れで,後深草,伏見天皇の[[持明院統]]と対抗。後宇多天皇が上皇となってから京都の北西郊の大覚寺に住んだのでこの名がある。鎌倉幕府は両統を交互に皇位につけるようはからったが,大覚寺統の後醍醐天皇の建武中興が失敗し,足利尊氏が持明院統の皇族をいただいて京都に君臨してからは,大覚寺統は[[南朝]]として大和の吉野山にこもった。元中9=明徳3 (1392) 年両統の合体後,南朝方のものは,合体条件が履行されていないとして再びこの皇統の皇族を奉じてしばしば乱を起したが,その都度,室町幕府により鎮定された。
 
 
しかし、幕府が後深草上皇の不満を受けて、建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子に指名し、将来後深草上皇が次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草と亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承([[両統迭立]])し、院政を行うよう裁定された。
 
 
 
=== 両統迭立後 ===
 
[[後二条天皇]]の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)[[邦良親王]]が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である[[後醍醐天皇|尊治親王]]に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。
 
 
 
これに後宇多法皇や[[皇太子]]邦良親王が反発すると後醍醐天皇は[[院政]]を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の[[康仁親王]]を持明院統の[[光厳天皇]]の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、[[元弘]]3年([[1333年]])に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって[[木寺宮|木寺宮家]](後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。
 
 
 
[[建武の新政]]により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。[[吉野]]に逃れた大覚寺統の[[天皇]]([[南朝 (日本)|南朝]])と、[[足利尊氏]]に擁立された[[持明院統]]の天皇([[北朝 (日本)|北朝]])の対立時代=南北朝時代となる(以後の詳細は'''[[南朝 (日本)|南朝]]'''の項目を併せて参照のこと)。
 
 
 
[[観応の擾乱]]の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した('''正平の一統''')が、半年で崩壊する。後に[[足利義満]]の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の[[後亀山天皇]]が三種の神器を持明院統の[[後小松天皇]]に引き渡し、南北朝の分裂は終わった([[明徳の和約|南北朝合一]])。
 
 
 
しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を[[15世紀]]半ばまで続けた([[後南朝]])。
 
 
 
== 大覚寺統の天皇 ==
 
* [[亀山天皇]](90代)
 
* [[後宇多天皇]](91代)
 
* [[後二条天皇]](94代)
 
* [[後醍醐天皇]](96代、南朝初代)
 
* [[後村上天皇]](97代、南朝2代)
 
* [[長慶天皇]](98代、南朝3代)
 
* [[後亀山天皇]](99代、南朝4代)
 
 
 
=== 系図 ===
 
{{皇室鎌倉後期|next=1}}
 
{{皇室南北朝}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
==参考文献==
 
{{参照方法|date=2017年12月|section=1}}
 
* 森 茂暁『南朝全史 <small>大覚寺統から後南朝へ</small>』([[講談社]]選書メチエ、2004年) ISBN 4-06-258334-8
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[文保の和談]]
 
* [[吉野朝廷]]
 
* [[明徳の和約]]
 
* [[常盤井宮家]]
 
* [[木寺宮家]]
 
* [[住吉行宮]]
 
* [[八条院領]]
 
  
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{{DEFAULTSORT:たいかくしとう}}
 
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[[Category:皇位]]
 
[[Category:皇位]]
 
[[Category:近畿地方の歴史]]
 
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大覚寺統(だいかくじとう)

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位の継承権と所領の相続をめぐって争った2つの皇統の一つ。亀山,後宇多天皇の流れで,後深草,伏見天皇の持明院統と対抗。後宇多天皇が上皇となってから京都の北西郊の大覚寺に住んだのでこの名がある。鎌倉幕府は両統を交互に皇位につけるようはからったが,大覚寺統の後醍醐天皇の建武中興が失敗し,足利尊氏が持明院統の皇族をいただいて京都に君臨してからは,大覚寺統は南朝として大和の吉野山にこもった。元中9=明徳3 (1392) 年両統の合体後,南朝方のものは,合体条件が履行されていないとして再びこの皇統の皇族を奉じてしばしば乱を起したが,その都度,室町幕府により鎮定された。



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