大福密約
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大福密約(だいふくみつやく)は、自由民主党 (日本)の有力議員であった大平正芳、福田赳夫の間の密約のこと。
概説
1976年の衆議院議員総選挙で自民党が敗北し、三木武夫総理が辞意を表明した。そこで、次期総理総裁を誰にするかは、清和政策研究会(福田派)の福田赳夫か、木曜クラブ(田中派)と協力関係にある宏池会(大平派)の大平正芳に絞られた。
福田赳夫と大平正芳は品川のホテルパシフィック東京で、福田派から園田直、大平派から鈴木善幸が立会いの下、
- 大平は福田を総理総裁推挙に協力すること。
- 福田は大平を幹事長にして党務を委ねること。
- 総裁任期を3年から2年にする。
とする覚書[1]を締結した。大角両派と福田派が協力関係を結んで、福田首相・大平幹事長体制が確立し、福田内閣が発足した。総理総裁ポストに意欲を持つ大平が、福田に総理総裁ポストを譲って総裁任期を3年から2年にしたことは、福田は総裁を1期2年のみで再選せず、2年後に大平へ政権を禅譲することを了承したものと解釈された。
密約から2年後の1978年、福田は大平へ政権禅譲を拒否し、総裁選に出馬したため、大福提携が崩壊した。福田と大平は総裁選で総裁ポストを争うも、福田は大角両派に切り崩され敗北し、大平が総理総裁となった。
周山会(佐藤派)の大番頭保利茂が取りまとめ役としてセットしたもので「大蔵省の先輩である福田に大平が譲るよう」調整された。なお、この席で狂喜した福田は、「2年後には政権を福田から大平へ譲渡する」旨の一文を盛り込むことを申し出たが、大平が福田の言を信ずるのでそれには及ばないとした[2]。なお、密約から2年後の1978年に福田が大平への政権禅譲を拒否した時、保利は病床で大平に自分の力不足で申し訳ないと洩らして調整を放棄し、園田直は1979年の四十日抗争時に福田派からただ一人大平に投票した。