大神神社
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧来は美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれた[1]。中世以降は三輪明神とも呼ばれる。現在は別称を三輪神社ともいう。
Contents
概要
大神神社は日本でも古い神社の一つで、神聖な信仰の場であったと考えられる[2]。
全国各地に大神神社・神神社(三輪神社、美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
祭祀
大神神社は三輪山(三諸山)を神体山としているため本殿をもたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。拝殿は江戸時代4代将軍徳川家綱によって再建された。現在の拝殿(国の重要文化財)は寛文4年(1664年)に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁とし造営されたもので、それ以前は三つ鳥居(三ツ鳥居)とそれに続く瑞垣が巡るに過ぎなかった。三ツ鳥居(三輪鳥居)は現在は拝殿奥にあり、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである[3]。
三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、麓の山ノ神祭祀遺跡などからは、古墳時代中期以降の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉などが出土した。
三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。
杉玉
例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる。これが各地の造り酒屋へと伝わった。
伊勢神宮との関係
大神神社の摂社の檜原神社(#本社周辺参照)は倭姫命が天照大神を磯堅城の神籬を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の始まりの地となっている(『日本書紀』垂仁天皇段)。
祭神
主祭神
- 大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
大物主神は蛇神であると考えられ、水神または雷神としての性格を合わせ持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。また日本の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。
配神
三輪山伝説
主祭神の大物主神に関係する伝説として、大神神社の付近にある箸墓(箸墓古墳)にかかわる伝説が知られる。以下に概略を述べる。詳細は「箸墓古墳#名の由来」を参照。
倭迹迹日百襲媛命は聡明で未来を予言することができた。崇神天皇の命により北陸道を平定しようと出発した将軍の大彦命が道中で不思議な童歌を詠う少女に出会った。大彦命はただちに引き返して天皇に報告した。これを聞いた倭迹迹日百襲媛命は武埴安彦命と吾田媛の反逆を予言した。武埴安彦命らによる反乱は大彦命・彦国葺命らによって討伐された。
その後月日は流れ、倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだという。
歴史
創建
記紀によれば、大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために、国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、「大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力する」と言った。この神が御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神であるという。この神を祀ったのが大神神社と思われる。
祭祀
崇神天皇5年から疫病が流行り民が死亡し、同6年には、百姓流離し国に叛くものがあった。天皇はこれを憂慮し、祭祀によって事態を解決しようとした。同7年2月、倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って同7年11月に物部氏の祖伊香色雄に命じ、大田田根子を茅渟県陶邑(のちの東陶器村)に探し出して祭祀主とし、大物主神を祀らせた。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑わった(『日本書紀』)。
三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある陶邑古窯址群で焼かれたとされており、このことは大田田根子が陶邑から見いだされたという伝承と一致する。
大田田根子の祖先は、皇室の外戚ともなった(媛蹈鞴五十鈴媛命などによる)先住族である。大田田根子の子孫は纒向一帯に勢力を持ち、大神神社を崇敬した。大神神社では、諸説あるが代々その族長により磐座祭祀が営まれたとされる。その子孫はのちに三輪氏(神氏(姓は君)とも)となり、さらにのちに大神氏(姓は君)・大三輪氏(姓は朝臣)となった。
古代
国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。また、『延喜式神名帳』には「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、名神大社に列している。
中世以降
中世以降、神仏習合の色濃く、三輪明神として篤く信仰された。室町時代に創作された作者不詳(一説に金春禅竹ともいう)の謡曲、「三輪」ではキリ(終りの部分)の詞章に「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事。いわくら(磐座・言はくら)や」の言葉(天岩戸の事)がある。
平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)という三つの大きな神宮寺があったが、明治時代に行われた廃仏毀釈で三寺全てが廃寺となり、大御輪寺の本尊であった十一面観音像が聖林寺に移管された。その後、昭和52年(1977年)に平等寺は曹洞宗の寺院として再興された。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の1つに数えられている。
現代
今上天皇が2回参拝(皇太子時代(昭和45年)と平成26年)されている。平成の参拝の折、美智子皇后は毎年4月に催される「鎮花祭(はなしずめのまつり)」に心引かれたという[4]。
神階
六国史における神階奉叙の記録。いずれも神名は「大神大物主神」と記される。
- 嘉祥3年(850年)10月7日、正三位 (『日本文徳天皇実録』)
- 仁寿2年(852年)12月14日、従二位 (『日本文徳天皇実録』)
- 貞観元年(859年)1月27日、従二位勲二等から従一位勲二等 (『日本三代実録』)
- 貞観元年(859年)2月、正一位勲二等 (『日本三代実録』)
摂末社
摂社
本社近く(二の鳥居の内側)
- 高宮社(位置)
- 祭神:日向御子神
- 三輪山上に鎮座する。
- 狭井神社(位置)
- 祭神:大神荒魂神
- 式内社「狭井坐大神荒魂神社五座」。病気平癒の神社。御神体である三輪山への登拝口が境内にある。但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。なお、入山中は撮影・飲食は禁止である。
- 活日神社(位置)
- 磐座神社(位置)
- 祭神:少彦名神
- 三輪山周辺に点在する辺津磐座(神が鎮まる岩)の中心である。
- 市杵島神社
- 祭神:宗像大神の一柱、市杵島姫命を祀る。
- Omiwa-jinja Ikuhi-jinja.JPG
活日神社
- Omiwa-jinja Iwakura-jinja.JPG
磐座神社
本社周辺
- 大直禰子神社(若宮社、位置)
- 檜原神社(位置)
- 神御前神社(位置)
- 祭神:倭迹迹日百襲姫命
- 神坐日向神社(位置)
- 祭神:櫛御方命・飯肩巣見命・建甕槌命
- 式内社「神坐日向神社」。
- 綱越神社(位置)
- 祭神:祓戸大神
- 式内社「綱越神社」。
- 玉列神社(位置)
- 祭神:玉列王子神・天照大御神・春日大神
- 式内社「玉列神社」。椿の木が多く、毎年3月に「椿まつり」が催される。
奈良市内
末社
- 久延彦神社 - 祭神:久延毘古命。合格祈願の神社。受験生や就活生の参拝が多く、たくさんのふくろうを模した絵馬が奉納される。
- 大行事社 - 祭神:事代主神、八尋鰐、加屋奈流美神
- 成願稲荷神社 - 祭神:保食神、宇迦御魂神(稲荷大神)、大宮売命。元は浄願寺の鎮守祠。
- 天皇社 - 祭神:御真木入日子印恵命
- 神宝社 - 祭神:家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神(熊野権現の三神)。毎年元旦未明の繞道祭十八社巡りにおいて三ツ鳥居から出た御神火が最初に捧げられる社。
ほか多数。
文化財
重要文化財(国指定)
- 摂社大直禰子神社社殿(建造物) - 内陣は奈良時代、外陣は鎌倉時代前期の造営。明治34年8月2日指定[8]。
- 拝殿(附 棟札1枚)(建造物) - 江戸時代中期、寛文4年(1664年)の造営。大正10年4月30日指定[9]。
- 三ツ鳥居(附 瑞垣)(建造物) - 明治16年(1883年)の造営。昭和28年11月14日指定[10]。
- 朱漆金銅装楯 2枚(工芸品) - 鎌倉時代、嘉元3年(1305年)の作。昭和34年12月18日指定[11]。
- 周書 巻第十九(書跡・典籍) - 中国の唐時代の作。昭和2年4月25日指定[12]。
国の史跡
- 大神神社境内 - 昭和60年3月18日指定[13]。
奈良県指定文化財
- 有形文化財[14][15]
- 大神神社 2棟(建造物) - 昭和61年3月18日指定。
- 勅使殿 1棟 - 安永8年(1779年)の造営。
- 勤番所 1棟 - 安永8年(1779年)の造営。
- 木造大黒天立像(彫刻) - 平安時代の作。昭和56年3月17日指定。
- 聖観音毛彫御正体(工芸品) - 中国の宋時代の作。昭和34年7月23日指定。
- 高杯(工芸品) - 鎌倉時代の作。昭和34年7月23日指定。
- 大神神社 2棟(建造物) - 昭和61年3月18日指定。
現地情報
所在地
交通アクセス
- 鉄道
- JR西日本万葉まほろば線(桜井線) 三輪駅下車 (拝殿まで徒歩約10分) - 列車本数は年末年始を除いて1時間2本程度。
- バス
- 桜井駅(JR・近鉄)北口バス乗り場から、二の鳥居前まで運行(土日祝の昼間時のみ・年末年始及び毎月1日を除く)
関連項目
脚注
- ↑ 倭姫命世記および延喜式神名帳の大和国の式内社一覧を参照。
- ↑ 桜井市立埋蔵文化センター「三輪山西麓の磐座を訪ねて」より
- ↑ なお、三峯神社などにも、ほぼ同型の三ツ鳥居がある。
- ↑ “両陛下、皇室ゆかりの大神神社ご参拝”. 産経新聞朝刊. (2014年11月18日)
- ↑ 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社、1981、pp.388, 433, 437
- ↑ 『国史大辞典』(吉川弘文館)「聖林寺」の項(執筆者は堀池春峰、水野敬三郎)
- ↑ 文化庁・国指定文化財等データベース 大直禰子神社社殿および大神神社公式モバイルサイト
- ↑ 大神神社摂社大直禰子神社社殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 大神神社拝殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 大神神社三ツ鳥居 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 朱漆金銅装楯 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 周書〈巻第十九/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 大神神社境内 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 桜井市内指定文化財(県指定)(桜井市ホームページ)。
- ↑ 桜井の文化財(桜井市立埋蔵文化財センター)。
参考文献
- 神社由緒書『三輪の神奈備 三輪明神』
- 中山和敬 『大神神社』 學生社、改訂新版 1999年、初版 1971年、著者(1905年 〜 1995年)は、宮司(1950年 〜 1983年)で退任後は神社本庁参与。