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'''大正'''(たいしょう)
{{日本の歴史|Kanto-daishinsai.jpg|画像説明=[[関東大震災]]}}
 
'''大正'''(たいしょう)は[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[明治]]の後、[[昭和]]の前。[[大正天皇]]の在位期間である[[1912年]]([[明治]]45年/大正元年)[[7月30日]]から[[1926年]](大正15年/[[昭和]]元年)[[12月25日]]までの期間。
 
  
== 改元 ==
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[[日本]][[元号]]の一つ。[[明治]]の後、[[昭和]]の前。
{{Wikisource|明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス}}
 
*[[1912年]](明治45年)[[7月30日]] - [[明治天皇]]が[[崩御]]して、[[皇太子]]嘉仁親王(のちの[[大正天皇]])が[[践祚]]したため、[[改元]]の詔書を公布、即日施行して、同日は大正[[元年]][[7月30日]]となった。
 
大正改元の[[詔書]]([[1912年]](明治45年)[[7月30日]])
 
{{Quotation|朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)<ref>[http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m45_1912_01.html 明治45年(1912)7月|大正と改元:日本のあゆみ]</ref>}}
 
大正改元を[[朝日新聞]]が政府発表前にスクープした。
 
{{Wikisource|昭和ト改元}}
 
*[[1926年]](大正15年)12月25日 - 大正天皇が崩御して、[[摂政#近現代|摂政宮]]裕仁親王(のちの[[昭和天皇]])が践祚したため、'''[[昭和]]'''に改元、同日は昭和[[元年]][[12月25日]]となった。皇太子裕仁親王は[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]に、病が篤くなった大正天皇の[[摂政]]に就き、以来天皇の名代としての務めを行っていた。
 
  
== 出典 ==
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[[大正天皇]]の在位期間である[[1912年]]([[明治]]45年/大正元年)[[7月30日]]から[[1926年]](大正15年/[[昭和]]元年)[[12月25日]]までの期間。
「大正」の由来は『[[易経]]』彖伝・臨卦の「'''大'''亨以'''正'''、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。
 
 
 
なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。
 
 
 
== 特徴 ==
 
[[画像:Emperor Taishō.jpg|200px|thumb|[[大正天皇]]]]
 
大正時代は[[大正天皇]]の治世を指している。[[日本の歴史]]の時代区分は通常、[[飛鳥]]・[[奈良]]・[[平安時代|平安]]・[[鎌倉]]・[[室町時代|室町]]・[[安土桃山時代|安土・桃山]]・[[江戸]]と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は[[1912年]]〜[[1926年]]の14年間)で[[日本史]]で一番短い時代区分である。
 
 
 
[[平成時代]](大正時代を超える期間の[[1989年]](平成元年)〜[[2019年]](平成31年))と[[安土桃山時代]]([[1573年]]([[天正]]元年)〜[[1603年]]([[慶長]]8年))の30年間が次に短い時代区分である。
 
 
 
[[1912年]](大正元年)は[[辛亥革命]]が終わって[[中華民国の歴史|中華民国]]が成立した年で、「[[民国紀元|民国]]N年」が「大正N年」に当たる。また[[金日成]]が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。
 
 
 
大正年間には、2度<ref>第一次は1912年(大正元年)12月から翌年にかけて第3次桂内閣打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は1924年(大正13年)1月清浦内閣打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。</ref>に及ぶ[[護憲運動]](憲政擁護運動)が起こり、明治以来の[[超然内閣]]の政治体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出することになった。それらは[[大正デモクラシー]]と呼ばれて、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]ら<ref>政党側の闘志であるこの二人は、中国に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)</ref>がその指導層となった。
 
 
 
[[大正デモクラシー]]時代は、[[1918年]](大正7年)の[[1918年米騒動|米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて[[爵位]]を持たず、[[衆議院]]に議席を持つ[[平民]]の[[原敬]](平民宰相とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣を組織した。
 
 
 
しかし、[[1921年]]に原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり教育制度の改善、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進したが[[普通選挙法]]に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]員だった[[中岡艮一]]により[[東京駅]]構内で[[暗殺]]された。([[原敬暗殺事件]])
 
 
 
この前後の時期は[[普選運動]]が活発化して、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権|婦人参政権運動]]も活発だった。
 
 
 
[[1925年]](大正14年)には、[[加藤高明]]内閣下で[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[ロシア革命]]への警戒感から[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈して、[[君主制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]<ref>デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)</ref>や[[美濃部達吉]]の明治時代の政治家の暗黙の了解だった憲法解釈を文字にして後に禍文民統制を失わせることに繋がる[[天皇機関説]]などが現れた。
 
 
 
[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]に[[皇太子]]裕仁親王が[[大正天皇]]の病状悪化によって[[摂政宮]]となった。力強かった時代の[[明治時代]]を見直す機運から[[明治天皇]]と[[昭憲皇太后]]を祀る[[明治神宮]]が建立された。
 
 
 
[[1923年]](大正12年)に[[加藤友三郎]]首相が在任中に亡くなって8日後に[[関東大震災]]が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。
 
 
 
その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。[[第一次世界大戦]]後には、[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ]]・[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中華民国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦]]との国交樹立など、一定の[[ハト派]]・国際協調的な色彩を示した。
 
 
 
大正時代は、[[藩閥]]的な超然内閣を主導していた[[江戸時代]]生まれの[[元勲]]たちが政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され[[高等教育]]機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目</ref>。
 
 
 
国外では[[第一次世界大戦]]の結果として[[ドイツ帝国|ドイツ]]や[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]、[[ロシア帝国|ロシア]]などで君主制が廃止されていき、[[共和制]]国家が多数成立しはじめた。これらは[[デモクラシー]]の勝利とされたうえ、ロシア革命で普及し始めた[[共産主義]]思想も日本の[[インテリ]]層の[[思想]]に影響を与えた。大正期の[[知識人]]は、[[改造]]・[[革新]]・[[革命]]・[[維新]]の4種類を政治運動の[[スローガン]]に掲げた。大正デモクラシーの政治運動の中で、[[資本主義]]を批判する[[社会主義]]・[[共産主義]]の影響力が強まった<ref>マンガ日本の歴史現代編石ノ森章太郎大戦とデモクラシー198頁〜199頁</ref>。
 
[[画像:Moga1.jpg|サムネイル|モガ。1923年]]
 
 
 
文化風俗面の特徴としては、[[近代都市]]の発達や経済の拡大に伴い、都市文化、[[大衆文化]]が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた<ref name=pola>『化粧文化』8号「大正モダン」ポーラ文化研究所、2015</ref>。女性の就労も増え、それまでの[[女工]]などに代わって、女子事務員や電話交換手など「[[職業婦人]]」と呼ばれる層が現れ、デパート店員、バスガール、カフェの女給、映画女優といった新しい職業も人気となり、断髪で洋装の[[モガ]](モダンガールの略。男性はモボ)が登場した<ref name=pola/>。
 
 
 
大正年間を通じて都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、[[スラム]]の形成、民衆騒擾の発生、[[労働組合]]と小作人組合が結成されて、[[労働争議]]が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。
 
 
 
== 護憲運動と政治 ==
 
[[画像:YukioOzaki TaroKatsura.jpg|thumb|250px|1913年(大正2年)2月5日、[[尾崎行雄]]の[[第3次桂内閣|桂内閣]]弾劾演説([[大正政変]])
 
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{{small|1913年(大正2年)2月5日、[[桂太郎]]首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は、桂首相を激しく糾弾した。}}]]
 
[[画像:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|250px|1920年(大正9年)、[[赤軍]]の攻撃により燃え落ちた日本領事館([[尼港事件]])
 
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{{small|ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。}}]]
 
[[1911年]]([[明治]]44年)に[[第2次西園寺内閣]]が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、[[中国]]の[[辛亥革命]]に刺激された[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は、抗日運動対策も兼ねて[[朝鮮]]に駐屯させる[[二個師団増設問題|2個師団の増設]]を強く政府に迫った。[[緊縮財政]]方針の[[西園寺公望]]がこれを拒否し、政府・与党([[立憲政友会]])と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また[[1912年]](明治45年/大正元年)[[7月30日]][[明治天皇]]が崩御して[[大正天皇]]が即位したり、[[美濃部達吉]]が『憲法講話』を刊行して、[[天皇機関説]]や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。
 
 
 
[[1912年]](大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、[[上原勇作]]陸相が単独で辞表を[[大正天皇]]に提出し、陸軍が[[軍部大臣現役武官制]]を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって[[長州]]閥と陸軍の長老である[[桂太郎]]が、就任したばかりの[[内大臣]]と[[侍従長]]を辞して[[第3次桂内閣]]を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して[[宮中]]の職から首相に転じたことが、[[藩閥]]勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)190頁</ref>。
 
 
 
[[立憲国民党]]の[[犬養毅]]と[[立憲政友会]]の[[尾崎行雄]]を先頭とする野党勢力や[[新聞]]に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった([[第一次護憲運動]])。桂は[[立憲同志会]]を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、[[1913年]](大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した([[大正政変]])。
 
 
 
桂のあとは、[[薩摩藩|薩摩]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]][[山本権兵衛]]が[[立憲政友会]]を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、[[文官任用令]]を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の[[将官]]にまで資格を拡げ、[[官僚]]・[[軍部]]に対する政党の影響力拡大に努めたが、[[1914年]](大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件([[シーメンス事件]])が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)193頁</ref>。
 
 
 
これを見た山県ら[[元老]]は、庶民の間で人気のある[[大隈重信]]を急遽後継首相に推薦し、[[第2次大隈内閣]]が成立した。大隈は[[立憲同志会]]を少数与党として出発したが、[[1915年]](大正4年)の[[第12回衆議院議員総選挙|総選挙]]で立憲同志会などの与党が[[立憲政友会]]に圧勝した。この結果、懸案の[[二個師団増設問題|2個師団増設案]]は議会を通過した。また同内閣下で[[第一次世界大戦]]が勃発しており、同盟国[[イギリス]]が[[ドイツ]]に宣戦すると、日本は[[日英同盟]]を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地[[青島市|青島]]、[[山東省]]、[[南洋諸島]]の一部を占領した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)196頁</ref>。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、[[1915年]](大正4年)に[[袁世凱]]政府に、[[加藤高明]]外相が二十一か条の要求を提出した([[対華21ヶ条要求]])。
 
 
 
続く[[寺内正毅]]内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の[[段祺瑞]]内閣に巨額の借款を与えて([[西原借款]])、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため[[日露協約#第四次日露協約|第4次日露協約]]、[[イギリス]]との覚書、[[特派大使]][[石井菊次郎]]の[[石井・ランシング協定]]を締結した。[[1917年]](大正6年)の[[ロシア革命]]を好機とみた[[寺内内閣]]は[[北満州]]・[[沿海州]]まで勢力を広げようとした([[シベリア出兵]])。
 
 
 
[[寺内正毅]]の超然内閣に対抗して[[憲政会]]が結成されると、寺内首相は[[1917年]](大正6年)に衆議院を解散、[[第13回衆議院議員総選挙|総選挙]]の結果立憲政友会が[[憲政会]]に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激な[[インフレーション]]と[[シベリア出兵]]を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、[[1918年]](大正7年)8月には[[富山県]]の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると[[1918年米騒動|米騒動]]が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)202頁</ref>。
 
 
 
政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は[[1918年]](大正7年)[[9月21日]]に退陣した。
 
[[画像:Takashi Hara posing.jpg|thumb|left|200px|[[原敬]]]]
 
民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、[[立憲政友会]]の[[原敬]]を首相に推薦し、[[1918年]](大正7年)[[9月29日]]には初の本格的な政党内閣[[原内閣]]が成立した。[[華族]]でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら、自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
 
</ref>、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、[[小選挙区制]]を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では[[1919年]](大正8年)に満州で日中両軍が衝突する[[寛城子事件]]が起きる。[[1920年]](大正9年)の[[尼港事件]]では在留邦人と駐留日本軍が[[赤軍]]と[[中国軍]]に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。[[1921年]](大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者[[中岡艮一]]に暗殺された([[原敬暗殺事件]])。
 
 
 
続いて政友会総裁となった[[高橋是清]]が首相となり、経済不況に対応して積極政策を試みたが、そのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭に[[ワシントン会議]]があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将[[加藤友三郎]]が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行った。さらに[[山梨半造]]陸軍大臣よって[[山梨軍縮]]と呼ばれる陸軍軍縮も断行して、選挙権拡大の検討に入った<ref name="平凡">『世界大百科事典』(平凡社)「大正」の項目</ref>。
 
 
 
加藤病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが、政友会の協力が得られず、[[虎の門事件]]により総辞職に追い込まれた<ref name="平凡"/>。つづいて貴族院を母体とした[[清浦奎吾]]内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]・[[政友会]]の三派は、[[第二次護憲運動]]を起こした。[[1924年]](大正13年)の[[第15回衆議院議員総選挙|総選挙]]では[[護憲三派]](憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明内閣]]が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相になるのが慣習化した([[憲政の常道]])<ref name="平凡"/>。
 
 
 
加藤内閣は[[宇垣軍縮]]と呼ばれる[[第13師団|高田陸軍師団]]・[[第15師団|豊橋陸軍師団]]・[[第17師団|岡山陸軍師団]]・[[第18師団|久留米陸軍師団]]の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の首を切る陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で[[戦車]]・[[自動車]]・[[航空機]]など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校以上の男子学校に軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした。<ref>『図説日本史通覧』253頁</ref>[[1925年]](大正14年)、[[普通選挙法]]を成立させ、納税額によらず成人男子すべてに[[選挙権]]を与える男子[[普通選挙]]が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)225頁</ref>。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように革命の発火点になる恐れも考えられたため、普選法と同時に[[治安維持法]]を成立させ、「[[国体]]の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった<ref>[[1925年]](大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「人権蹂躙・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ</ref>。また、勅令175号[[1925年]](大正14年)[[5月8日]]により、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[日本統治時代の台湾|台湾]]、[[樺太庁|樺太]]にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には[[労働農民党]]が発足した。また同年[[治安警察法]]第17条も廃止された。外交面では[[日ソ基本条約]]を結んでソ連と国交を行った<ref name="平凡"/>。
 
 
 
同年12月25日に大正天皇が崩御し、大正時代は終わり、昭和の時代へと突入した。
 
 
 
== 第一次世界大戦と景気 ==
 
[[画像:Inazo Nitobe.jpg|thumb|200px|[[新渡戸稲造]]]]
 
[[1914年]](大正3年)には[[第一次世界大戦]]が勃発した。元老の[[井上馨]]はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。
 
 
 
発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時[[恐慌]]寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の[[好景気]]となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で[[繊維]]([[紡績]]産業・[[漁網]]製造産業)などの[[軽工業]]や[[造船業]]・[[製鉄業]]など[[重工業]]が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった[[化学工業]]も最大の[[輸入]]先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に[[近代化]]が進んだ。こうした中で多数の「[[成金]]」が出現する。また、政府財政も[[日露戦争]]以来続いた財政難を克服することに成功する<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)200頁</ref>。
 
 
 
しかし、[[1918年]](大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「[[金解禁]]」)の時期を逸したために、[[日本銀行]]に大量の[[金]]が滞留して[[金本位制]]による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による[[京浜工業地帯]]の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、[[震災手形]]とその[[不良債権]]化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに[[昭和金融恐慌]]・[[世界恐慌]]を迎えることになる。
 
 
 
[[パリ講和会議]]では、[[人種差別撤廃案]]を主張し、人種差別撤廃を訴え大多数の国の支持を得たが、アメリカ、イギリス、[[オーストラリア]]などの反対によって否決された。当時[[アジア]]の中で数少ない[[独立国]]であった日本は、[[国際連盟]]に加盟し、アメリカ・イギリス・[[フランス]]・[[イタリア]]の5カ国と並ぶ世界の1等国として[[国際連盟]]の[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となる。国際連盟事務次長には[[新渡戸稲造]]が就任している。しかしドイツ植民地であった[[マーシャル諸島]](日本は[[南洋諸島]]に[[南洋庁]]を設置した)が日本に[[委任統治]]された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、[[フィリピン]]や[[ハワイ諸島]]を領有するアメリカと直接的に[[領土]]・[[領海]]の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で[[日英同盟]]が解消されるなど、[[太平洋戦争]]への伏線が芽生えることにもなった。
 
 
 
== 震災復興 ==
 
[[画像:Shimpei Gotō 2.jpg|thumb|200px|[[後藤新平]]]]
 
[[1923年]](大正12年)には[[関東大震災]]が生じた。この未曾有の大災害に[[東京]]は大きな損害を受けるが、震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。新内閣の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]([[山本内閣]]の内務相)となった[[後藤新平]]が震災復興で大規模な都市計画を構想して辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行い[[インフラストラクチャー]]が整備され、大変革を遂げた。
 
 
 
この際、江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は[[下水道]]整備や[[ラジオ]]放送が本格的に始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画された[[パリ]]や[[ロンドン]]を参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、東京は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の[[首都高速]]の建設に繋がる。
 
 
 
一方、この震災に乗じて、警視庁官房主事の[[正力松太郎]]らが、首都に暴動が生じるという[[噂|デマ]]を振り撒き、混乱した民衆による朝鮮人などの殺害事件が多数起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の[[震災手形]]の処理を遅らせて不良債権化させた結果として[[昭和金融恐慌|金融恐慌]]を招いたことは歴史の負の側面であろう。
 
 
 
== 文化 ==
 
=== 芸能文化 ===
 
日本初の[[レコード]]でヒットした[[歌謡曲]]とされる[[松井須磨子]]の「[[カチューシャの唄]]」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。実は[[ジャズ]]もこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。[[落語]]・[[講談]]・[[能]]・[[文楽]]・[[歌舞伎]]・[[新派劇]]・[[新国劇]]などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する[[新劇|新劇運動]]が盛んになり<ref>大正から昭和へ少年少女日本の歴史202頁〜207頁</ref>、[[昭和|昭和時代]]に発展する[[芸能界]]の基礎となる[[俳優]]・[[俳優|女優]]・[[歌手]]などの職業が新しく誕生して、その後の[[大衆文化]]の原型が生まれた。[[活動写真]](現在の[[映画]])や[[少女歌劇]](現在の[[宝塚歌劇団]])が登場した<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正71頁</ref>。
 
 
 
=== 都市文化 ===
 
[[画像:Ichizo Kobayashi young.jpg|thumb|200px|[[小林一三]]]]
 
[[画像:Yamamura house07n4272.jpg|thumb|left|250px|大正時代の洋風住宅([[兵庫県]][[芦屋市]]・[[旧山邑家住宅]])]]
 
[[日露戦争]]頃から、当時の経済文化の中心地であった[[大阪市|大阪]]・[[神戸市|神戸]]において都市を背景にした大衆文化が成立し([[阪神間モダニズム]])、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。
 
 
 
[[道路]]や[[交通機関]]が整備されて、[[路面電車]]や[[東京乗合自動車|青バス(東京乗合自動車)]]や[[円太郎バス]]<ref>明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の14ページ。汐文社が出版社である。</ref>などの[[乗合バス]]が市内を走行して、大正後期から〜昭和初期までの[[大大阪時代]]に[[大阪府]]では、[[東京府]]よりも先におびただしい私鉄網が完成し、なかんずく[[小林一三]]が主導した[[阪急阪神ホールディングス|阪神急行電鉄]]の巧みな経営術により、[[阪神間]]に多くの[[ベッドタウン|住宅衛星都市群]]が出現した。一方、[[日清戦争]]([[1894年]]〜[[1895年]]〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の[[貿易港]]となっていた[[神戸港]]に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は[[関東大震災]]([[1923年]]〔大正12年〕)後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「[[文化住宅]]」が一般向け住宅として流行をした。
 
 
 
[[東京府]]([[東京市]])では、関東大震災で[[火災]]による被害が甚大だった影響で[[江戸]]期から[[下町]]が[[江戸時代]]の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった[[丸の内]]、[[大手町 (千代田区)|大手町]]地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「'''副都心'''」へと成長させた。[[1918年]](大正7年)に[[専門学校]]から昇格する形で[[私立大学]]を中心に[[旧制大学]]を認可する[[大学令]]と[[高等学校令]]が公布されて[[高等教育]]機関が整備されて、[[東京大学|東京帝大]]の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「[[サラリーマン]]」が大衆の主人公となった。明治時代まで[[呉服]]屋であった[[老舗]]が次々に「'''百貨店'''」に変身を遂げ、[[銀座]]は[[デパート]]街へと変貌した。[[井戸]]やまきによるかまどの使用や[[明治時代]]の[[石油]][[ランプ (照明器具)|ランプ]]が廃れて、[[上水道]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[電気]]が普及する。[[神前結婚]]や[[大本教]]や[[霊友会]]など[[新宗教]]が盛んになる。家庭電気器具では[[扇風機]]・[[電気ストーブ]]・電気アイロン・[[電気コンロ]]が普及した<ref>集英社学習漫画日本の歴史大正時代大正デモクラシー125頁</ref>。[[ブリキ]]や[[セルロイド]]製の[[おもちゃ]]など新素材のおもちゃが登場した。
 
 
 
=== スポーツの開始 ===
 
戦中に中断されて、戦後に復活して継続されている[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]や[[甲子園球場]]で行われるようになった[[日本の高校野球|中等学校野球]]などのスポーツが開始された。[[明治神宮]]外苑に「[[明治神宮野球場|神宮外苑野球場]]」ができたのが[[1926年]](大正15年)で、その前年出発した「[[東京六大学野球]]」が愈々隆盛を極めるようなる。
 
 
 
=== マスコミの発達 ===
 
東京に拠点を置いていた『[[時事新報]]』、『[[國民新聞]]』、『[[萬朝報]]』の主要紙が関東大震災の影響で被災して凋落し、取って代って[[大阪]]に本社を置いていた『'''[[大阪朝日新聞]]'''』、『'''[[大阪毎日新聞]]'''』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『'''[[讀賣新聞]]'''』も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。
 
 
 
[[1925年]](大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋で'''ラジオ放送'''が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。
 
 
 
大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙「は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。
 
 
 
=== 自動車の登場 ===
 
震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「'''[[自動車]]'''」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「[[日本のタクシー#歴史|円タク]]」など[[タクシー]]の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、[[オースチン・モーター・カンパニー|オースチン]]や[[フォード・モーター|フォード]]等の輸入車が中心ではあるものの、上流階級や富裕層を中心に[[自家用自動車|自家用車]]の普及も始まった。
 
 
 
=== 食文化 ===
 
都市部では新たに登場した中産階級を中心に“[[洋食]]”が広まり「'''カフェ'''」「'''レストラン'''」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。[[カレーライス]]・[[豚カツ|とんかつ]]・[[コロッケ]]は'''大正の三大洋食'''と呼ばれた<ref>{{cite journal|和書|author=[[江原絢子]]・石川寛子|title=家事教科書からみた調理教育の営的研究(その2)―大正期―|date=1986|journal=家政学雑誌|publisher=日本家政学会|volume=37|issue=1|pages=67-75}}(72ページより)</ref><ref>進藤健一"どんな揚げ物にはまってますか? 思わずパクつく「背徳のグルメ」"[[朝日新聞]]2014年8月30日付朝刊、[[be (朝日新聞)|週末be]]2ページ</ref><ref>{{cite web|url=http://www.mealtime.jp/shokublog/naohashi/2016/04/post-229.html|title=変わり行く日本食 6 「洋食」物語|author=[[橋本直樹 (農学者)|橋本直樹]]|date=2016-04-14|work=大人のための食育 食育博士の辛口レクチャー|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170320115954/http://www.mealtime.jp/shokublog/naohashi/2016/04/post-229.html|archivedate=2017年3月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=https://kanko.city.kyoto.lg.jp/wakaru/gastronomy/food/basis/file09.html|title=日常のごはんも食べてみよう 洋食|publisher=京都市産業観光局観光MICE推進室|author=長友麻希子|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170320120340/https://kanko.city.kyoto.lg.jp/wakaru/gastronomy/food/basis/file09.html|archivedate=2017年3月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2013/chap-5.htm|title=第5章 近代(明治から昭和の戦前)―洋食と和食|work=2013年経済学部ゼミナール大会報告論文 日本の食文化の歴史|publisher=[[松山大学]]|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160801055523/http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2013/chap-5.htm|archivedate=2016年8月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.naniwa.ed.jp/message/2338.html|title=本校の歴史その8 大正時代と旧制中学|publisher=[[浪速高等学校・中学校]]|author=木村智彦|date=2011-05-24|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160811071016/http://naniwa.ed.jp/message/2338.html|archivedate=2016年8月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.croquette.jp/c_kentei/kentei|title=コロッケ検定|publisher=日本コロッケ協会|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160609131232/http://www.croquette.jp/c_kentei/kentei|archivedate=2016年6月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。特にコロッケは[[益田太郎冠者]]<ref>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0696.html]</ref>作詞の楽曲の'''コロッケの唄''' ([[1917年]](大正6年)に[[ヒット曲]]となり、コロッケ以外に[[オムレツ]]が大正の3大洋食と呼ばれた)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による[[米価]]高騰対策として[[原内閣|原敬内閣]]は積極的に[[パン]]の[[節米料理|代用食]]運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に[[米]]の[[飯|御飯]]と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、[[中華料理]]の[[ラーメン|中華そば]]の普及や[[日本料理|和食]]の[[復興|復権]]運動があった<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年148ページから〜151ページの大正時代の3大洋食-『明日もコロッケ』だった時代の項目</ref>。子供たちに人気があった[[ロシアパン]]が[[ロシア革命]]で日本に亡命して来た[[白系ロシア人]]によって紹介されて広まった<ref>「教科書に載っていない戦前の日本」55頁</ref>。[[1919年]](大正8年)[[7月7日]] に日本で初めての[[乳酸菌飲料]]の[[カルピス]]が発売される。人造氷が発達してコロッケ・[[フライ (料理)|フライ]]など[[惣菜|副食]]が洋風化した。[[アイスクリーム]]・パン・[[チキンライス]]・[[コーヒー]]・[[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]]・[[紅茶]]・[[サイダー]]・[[ビール]]・[[キャラメル]]・[[チョコレート]]など洋食品が普及した<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正74頁</ref>。[[喫茶店]]や[[レストラン]]が増加した。[[昭和一桁]](昭和時代の初期)にかけて、[[中華料理]](南京料理)の[[麺類]]や[[缶詰]]類など簡易食品が発達した<ref>少年少女日本の歴史大正から昭和へ224頁</ref>。
 
 
 
=== ファッション ===
 
女性の間で、洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われて洋風が普及した。女学生に制服が使用された。男子はセルの[[袴]]が良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式'''[[美容所|美容室]]'''」、「'''[[ダンスホール]]'''」が都市では珍しい存在ではなくなり、[[モダンボーイ]]・[[モダンガール]]の男女など、男性の'''洋装'''が当たり前になったのもこの時代である<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正152頁</ref>。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった<ref>大正から昭和へ少年少女日本の歴史224頁〜225頁</ref>。
 
 
 
=== 文化学術史 ===
 
[[善の研究]]で[[日本哲学]]を作り上げた[[哲学者]]の[[西田幾多郎]]など[[京都帝国大学]]の学者たちが研究していた[[京都学派]]や、[[東洋史]]では[[歴史学者]]の[[内藤湖南]]が唱えた唐宋変革論などが大正時代の学門の主流であった。<ref>『少年少女日本の歴史大正から昭和へ』156頁</ref><ref>『少年少女日本の歴史大正から昭和へ』157頁</ref>
 
 
 
文学界には、[[新現実主義]]の[[芥川龍之介]]、[[耽美派]]の[[谷崎潤一郎]]、さらに[[武者小路実篤]]・[[志賀直哉]]ら[[ヒューマニズム|人道主義]](ヒューマニズム)を理想とした[[白樺派]]が台頭した。この頃までに近代[[日本語]]が多くの文筆家らの努力で形成された。[[詩]]・[[和歌]]では[[萩原朔太郎]]が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、[[中里介山]]の『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』や『[[文藝春秋]]』の経営にも当たった[[菊池寛]]などの文芸作品が登場した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)228頁</ref>。
 
 
 
1冊1[[円 (通貨)|円]]の[[円本]]が飛ぶように売れた<ref>明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の37ページ。汐文社が出版社である</ref>。この時期の[[1921年]](大正10年)には、[[小牧近江]]らによって雑誌『[[種蒔く人]]』が創刊され、昭和初期にかけて[[プロレタリア文学]]運動に発展した。また[[1924年]](大正13年)には、演劇で[[小山内薫]]が[[築地小劇場]]を創立し、[[新劇]]を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「'''活動写真'''」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。[[柳宗悦]]が朝鮮美術を薦めて[[民芸運動]]を提唱した<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正153頁</ref>。
 
 
 
大正時代末期には[[鏑木清方]]が「展覧会芸術」などに対して、[[版画]]等のことを「[[卓上芸術]]」として提唱した。
 
 
 
== 社会問題 ==
 
=== 社会事業 ===
 
この当時、社会事業を巡る議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で[[社会局]]および[[方面委員制度]]の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。
 
 
 
=== 教化総動員運動 ===
 
また[[1919年]](大正8年)には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による[[民力涵養運動]]が開始されており、後の[[教化総動員運動]]の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。
 
 
 
=== 労働運動 ===
 
こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、[[小作争議]]の頻発や[[労働運動]]の大規模化など、[[地方改良運動]]に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。[[鈴木文治]]によって[[友愛会]]が設立されて、[[第一次世界大戦]]期間中に[[インフレ]]が進行したことによって[[米騒動]]が発生した。[[成金]]が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した[[労働争議]]に友愛会などの労働組合が深く関係した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)212頁</ref>。
 
 
 
=== 部落解放運動 ===
 
[[大正デモクラシー]]によって様々な社会運動が行われた。血の[[穢れ]]意識が強くなった[[中世]]の[[鎌倉仏教]]の時代から[[近世]]([[江戸時代]])にかけて[[武士]]・[[百姓]]・[[町人]](いわゆる[[士農工商]])以外に[[穢多]]・[[非人]]と呼ばれた[[賎民]]身分が形成された。明治以降も特定集落などに封建時代の負の遺産として差別されていた賎民の子孫が存在していた。日本が明治期に近代化されて[[四民平等]]となった後も、賎民の子孫・部落民の家系や被差別部落出身者を差別する[[家柄]][[差別]]が[[封建制度]]の負の遺産として残っていて、[[新平民]]の呼称で[[平民]]扱いされなかった国民がいた。[[明治政府]]の貧困対策の不備・身分解放政策の不備があったこと、また賎民専用の[[皮革]]産業などの貴重な[[生業]]を失い[[貧困層]]となったことや、[[村社会]]や[[家制度]]下の旧百姓身分の農民層からの偏見があったため、[[明治時代]]になっても被差別部落問題が存在した。[[明治維新]]によって[[四民平等]]となったが、近代化以後も被差別[[部落問題]]が解決されなかったために[[西光万吉]]や[[阪本清一郎]]らが中心となり[[1922年]](大正11年)に[[全国水平社]]が結成された<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)215頁</ref>。
 
 
 
=== 女性解放運動 ===
 
[[画像:Jogakusei in Taisho period.JPG|サムネイル|大正時代の女学生]]
 
女性の解放が叫ばれて、女性が勤務した職業として[[事務員]]・[[デパート]]の[[店員]]・[[バス (交通機関)|バス]][[ガール]]・[[電話交換手]]・[[ウェートレス]]・[[和文]]や[[英文]]の[[タイピスト]]・[[保育士|保母]]・[[看護婦]]・[[劇場]]の案内人・[[美容師]]など社会に進出して働く[[職業婦人]]が増加した。女性運動家が出現して<ref>『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌)118ページ〜120ページの復興する都市と女性の進出の項目</ref>、[[普通選挙]]運動の要求が男性のみであったことから、日本にも[[婦人参政権]]獲得を目的とする[[女性解放運動]]を推進する[[新婦人協会]]が設立されて、女性が地位向上を求めるようになった。また、[[高等女学校]]への進学も増えた<ref name=pola/>。
 
 
 
=== 朝鮮併合問題 ===
 
[[三・一独立運動]]によって[[日本統治時代の朝鮮]]で[[朝鮮総督府]]がこれまでの[[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)|憲兵警察制度]]による[[武断統治]]を見直し、[[内鮮一体]]と[[朝鮮半島]]の[[近代化]]を目的とする[[日本統治時代の朝鮮|文化政治]]に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の[[外地]]から[[内地]]への密航が多発して、[[在日朝鮮人]]の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。
 
 
 
== 年表 ==
 
;[[:Category:1912年の日本|1912年(大正元年)]]
 
:[[7月30日]]、[[明治天皇]]崩御、[[大正天皇|皇太子嘉仁親王]]が天皇に践祚、大正に改元される。[[明治天皇]][[大葬の礼]]。[[乃木希典]][[陸軍大将]][[夫妻]]が[[殉死]]する。[[第3次桂内閣]]成立。憲政擁護会が結成。[[火力発電]]を抜いて[[水力発電]]量が第1位になる。[[友愛会]]結成<ref>マンガ日本の歴史現代編大戦とデモクラシー。石ノ森章太郎執筆の200頁</ref>。この年は[[中華民国]]が成立した年で[[民国紀元]]の中華民国元年と同年である。
 
;[[:Category:1913年の日本|1913年(大正2年)]]
 
:[[大正政変]]([[第3次桂内閣|第三次桂太郎内閣]][[内閣総辞職|総辞職]])、[[山本権兵衛内閣]]成立。[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア州]]で[[排日土地法]]成立。宝塚唄歌隊(後の[[宝塚歌劇]])誕生。
 
;[[:Category:1914年の日本|1914年(大正3年)]]
 
:[[鹿児島県]]の[[桜島]]が大[[噴火]]して[[大隅半島]]と陸続きになる。外電により[[シーメンス事件]]発覚。大正天皇即位奉祝「[[東京大正博覧会]]」始まる。「[[カチューシャの唄]]」の流行。日本初の[[日本車|国産車]]登場。[[第一次世界大戦]]勃発。ドイツに[[宣戦布告]]。[[東京駅]]開業。[[三越]]呉服店が日本初の[[デパートメントストア]]宣言を行い、エレベーター・エスカレーター付きの近代的店舗を建築。
 
;[[:Category:1915年の日本|1915年(大正4年)]]
 
:[[日本]]が[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に[[対華21ヶ条要求|対華21ヶ条]]を要求。[[第12回衆議院議員総選挙]]で[[与党]]が圧勝<ref>[[同志会]]153議席,政友会108議席,[[中正会]]33議席、国民党27議席、[[大隈伯後援会]]12議席,無所属48議席</ref>。選挙干渉などが起きる。[[第1回全国中等学校優勝野球大会]]開催。[[大正天皇]][[即位の礼]]。[[東京証券取引所]]で空前の出来高。
 
;[[:Category:1916年の日本|1916年(大正5年)]]
 
:[[吉野作造]]が「[[中央公論]]」で「[[民本主義]]」を提案。[[夏目漱石]]死去。
 
;[[:Category:1917年の日本|1917年(大正6年)]]
 
:[[4月20日]]、[[第13回衆議院議員総選挙]](政友会165議席,憲政会121議席,国民党35議席,無所属60議席)。[[ロシア革命]]。中国での日本権益に関する米国との[[石井・ランシング協定]]締結。
 
[[画像:Kaijo building.jpg|サムネイル|東京海上ビル。日本最初期の本格的高層オフィスビル]]
 
;[[:Category:1918年の日本|1918年(大正7年)]]
 
:[[シベリア出兵]]。[[1918年米騒動]]。[[松下幸之助]]が[[二股ソケット]]を売り出す。[[鈴木三重吉]]が「[[赤い鳥]]」創刊。第1次世界大戦終結。[[武者小路実篤]]が[[宮崎県]]に「[[新しき村]]」を建設。[[大学令]]公布。[[東京海上ビル]]完成。
 
;[[:Category:1919年の日本|1919年(大正8年)]]
 
:[[パリ講和会議]]開催。[[関税自主権]]回復。[[3月1日]]に[[朝鮮半島]]で[[三・一独立運動]]。[[5月4日]]に[[中華民国]]で[[五四運動]]。[[モスクワ]]で[[コミンテルン]]創立大会。[[7月13日]]、[[寛城子事件]]。[[カルピス]]発売。選挙法改正。全国普選期成大会開催。「[[東京節]]」の流行。
 
;[[:Category:1920年の日本|1920年(大正9年)]]
 
:[[国際連盟]]設立。[[尼港事件]]。[[新婦人協会]]設立。大正天皇の第1回病状発表がされる。[[上野恩賜公園|上野公園]]で日本初の[[メーデー]]。[[5月10日]]、[[第14回衆議院議員総選挙]](政友会278議席,憲政会110議席,[[立憲国民党|国民党]]29議席、,無所属47議席)、第1回[[国勢調査]](総人口7698万8379人、内地5596万3053人)。[[明治神宮]]造営工事が施工。[[11月4日]]、尾崎行雄・犬養毅島田三郎ら、政界革新普選同盟会を結成。
 
;[[:Category:1921年の日本|1921年(大正10年)]]
 
:[[安田善次郎]]暗殺。[[原敬暗殺事件]]。[[皇太子]]裕仁親王の訪欧の実施と[[摂政]]への就任。[[羽仁もと子]]の[[自由学園]]が創立。
 
;[[:Category:1922年の日本|1922年(大正11年)]]
 
:[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]開催、([[四カ国条約]]、[[九カ国条約]]、[[ワシントン海軍軍縮条約]])。[[山県有朋]]・[[森鴎外]]死去。[[大阪市]]・[[名古屋市]]・[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]で官業[[労働者]]が[[デモ]]。[[堺利彦]]・[[山川均]]が[[日本共産党]]結成。[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]来日。
 
;[[:Category:1923年の日本|1923年(大正12年)]]
 
:[[関東大震災]]、『国民精神作興ニ関スル詔書』が発布される。「[[船頭小唄]]」の流行。[[丸の内ビルヂング]]完成。[[亀戸事件]]。[[甘粕事件]]。[[虎の門事件]]。
 
;[[:Category:1924年の日本|1924年(大正13年)]]
 
:[[排日移民法]]が[[アメリカ合衆国議会|米国連邦議会]]で成立。皇太子で摂政宮の裕仁親王が成婚。[[第15回衆議院議員総選挙]]([[護憲三派]]大勝、[[憲政会]]151議席、[[政友会]]105議席、[[革新倶楽部]]30議席、[[政友本党]]109議席、[[無所属]]69議席)、[[メートル法]]実施。[[甲子園球場]]完成。[[婦人参政権]]獲得期成同盟会が結成。第二次護憲運動。
 
;[[:Category:1925年の日本|1925年(大正14年)]]
 
:[[治安維持法]]制定。[[普通選挙法]]制定。[[日ソ基本条約]]締結。日本政府が[[ソビエト連邦]]を承認。[[ラジオ#日本初のラジオ放送|日本初のラジオ放送]]。
 
;[[:Category:1926年の日本|1926年(大正15年/昭和元年)]]
 
:[[1月30日]]第一次[[若槻礼次郎内閣]]([[憲政党]]内閣)成立。[[労働農民党]]結成。[[日本統治時代の朝鮮]]で[[6・10万歳運動]]。[[日本放送協会]]設立。[[12月25日]]、[[大正天皇]]崩御、[[昭和天皇|皇太子裕仁親王]]が天皇に践祚。[[光文事件]]。同日[[昭和]]に改元。
 
 
 
== 西暦との対照表 ==
 
{|class=wikitable
 
!大正||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年
 
|-
 
|西暦||[[1912年]]||[[1913年]]||[[1914年]]||[[1915年]]||[[1916年]]||[[1917年]]||[[1918年]]||[[1919年]]||[[1920年]]||[[1921年]]
 
|-
 
|[[干支]]||[[壬子]]||[[癸丑]]||[[甲寅]]||[[乙卯]]||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]]
 
|}
 
{|class=wikitable
 
!大正||11年||12年||13年||14年||15年
 
|-
 
|西暦||[[1922年]]||[[1923年]]||[[1924年]]||[[1925年]]||[[1926年]]
 
|-
 
|干支||[[壬戌]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]
 
|}
 
 
 
== 大正時代の評価 ==
 
*[[松尾尊兌]]の著書の大正時代史関係の書物では、子どもの「明治から大正になって何が変わったのか」の質問に対して[[成人]][[男性]]が「教育が普及していきわたり、都市に住む人が増加して、[[都市化]]で[[住民]]の[[都市問題]]が誕生して、[[和食]]や[[和服]]から[[洋食]]や[[洋服]]となり、[[政治]]に関心がある[[国民]]が増加して[[民本主義]]思想や[[社会運動]]が活発となった」としている<ref>『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌)15ページの上段の2コマ</ref>。
 
*『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』を執筆した皿木喜久が、書物の内容で紹介する[[山本夏彦]]の[[エッセー]]集では「[[大正デモクラシー]]をひと口で言うと『猫なで声』と答える」とした。[[恋愛]]が謳歌されて、[[儒教]]と断絶して、[[挨拶]]の口上が言えなくなり、[[新聞]]の[[社説]]が[[文語文]]から[[口語文]]となった。のびのびとした[[大正ロマン]]文化が花開き、[[大正自由教育運動]]などの[[教育]]や[[大正期新興美術運動]]など[[芸術]]で自由な考え方や自由を尊重する試みが行われた。大正時代は[[日本史]]上の他の[[政治制度]]より一番ましな[[民本主義]](戦後の[[民主主義]]の基礎)が誕生して、欠陥があったが戦後日本の[[政治思想]]の基本となっている。[[近代国家]]を建設する制度の[[デモクラシー]]が、[[社会主義]]思想や[[平和主義]]思想と解釈されて、[[天皇制]]([[天皇]]・[[皇室]]制度)など日本の[[伝統]]を否定する考え方と混同されたのが、大正時代であった<ref>『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は皿木喜久)216ページ10行目から〜17行目</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は[[皿木喜久]])
 
*『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は[[松尾尊兌]])
 
*『大正デモクラシー』(著者は成田龍一)
 
*『絵葉書で読み解く大正時代』(著者は[[学習院大学]]史料館)
 
*『少年少女日本の歴史大正から昭和へ』(著者は[[東京教育大学]][[名誉教授]]の[[肥後和男]])
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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*[[大正デモクラシー]]
 
*[[大正デモクラシー]]
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{{日本の元号}}
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2018/10/2/ (火) 20:19時点における版

大正(たいしょう)

日本元号の一つ。明治の後、昭和の前。

大正天皇の在位期間である1912年明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

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