大島渚

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大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)は、日本映画監督タレント俳優

生涯

生い立ち

1932年昭和7年)3月31日岡山県玉野市で生まれた[注 1]。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身[1]。父親は農林省水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニエビの研究をしていた。「渚」という名前もそこから付けられた[2]。6歳の時、農林省の水産試験場の場長をしていた父が死去し[注 2]、母の実家のある京都市に移住した。その後、旧制京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学したが、学制改革とその後の学校再編に伴い、京都市立洛陽高等学校(後の京都市立洛陽工業高等学校。現在は移転の上京都市立伏見工業高等学校と統合し京都市立京都工学院高等学校)に移った。

1950年京都大学法学部に進学。同窓には推理作家和久峻三、建築学者の上田篤俳優辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合米田豊昭委員長とともに京大天皇事件1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという[3]。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。

「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手

京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所大庭秀雄野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』で映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった[4]。しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという[注 3]

創造社設立

1960年(昭和35年)10月日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧』を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。この間、1961年秋に信州上山田温泉で按摩を呼んでも来ないことに業を煮やし、宿の女中を殴打するスキャンダルを起こす[5]。この事件により松竹ヌーベルバーグ運動は終焉を迎えた[5]

1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。

1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年[注 4]、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。

世界での映画製作

1976年(昭和50年)、阿部定事件1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた[6]第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノを思わせる過激な性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作はシカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では現在でも完全な状態での視聴は不可能となっている。また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板。

その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と類似する題材を扱った。同作は第32回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞。1983年(昭和58年)にはビートたけし坂本龍一デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった[注 5]。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール撮影監督ラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。

1990年代には早川雪洲ルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役にはアントニオ・バンデラスを起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後はBBCの依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)や『日本映画の百年』(1995年)といったテレビドキュメンタリーを製作した。

1980年代後半からは『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生き甲斐であると語った。事実、最後の30年間は他社出資による2本の映画を監督したのみであり、病身もあって自己資金で映画をプロデュースするような活動は停止していた。その他にも1980年(昭和54年)には日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年平成8年)まで歴任した。

『御法度』と闘病

1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港脳出血に見舞われた。[7]その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に『御法度』を完成させた。同作ではビートたけし崔洋一という二人の映画監督俳優として出演し、大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われている。同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞した。また、1999年12月15日には同作の撮影現場を映したテレビドキュメンタリー『1999 大島渚 映画と生きる』がNHK-BS2にて放映された。

2000年、紫綬褒章を受章。2001年(平成13年)6月にはフランス政府よりフランス芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2006年(平成18年)、映画の著作権問題を問う『映画監督って何だ!』に出演した。また、同年2月26日には同品の披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がった。公の場に姿を現すのは4年8ヶ月ぶりであった。2008年(平成20年)7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』や同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で言語症右半身麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。

死去

2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去[8]。80歳没。戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。

訃報を受けて坂本龍一岩井俊二松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した[9]。大島と同世代の映画監督であり、同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り[10]田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語った[11]。『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを「夢のようだった」と語った[12]。また、大島と親交のあった映画監督の帯盛迪彦は大島の訃報にショックを受けて体調が悪化し、同年1月18日敗血症で亡くなった[13]

作風

作品の特徴

1960年代から1970年代前半にかけて発表された作品は安保闘争を描いた『日本の夜と霧』(1960年)や死刑制度を扱った『絞死刑』(1968年)、冠婚葬祭を通じて戦後民主主義を総括した『儀式』(1971年)など、その高い社会性や政治性が特徴と言われており、大島は権力機構に侮蔑される人間の屈辱感を描き出し、自身も権力に闘争的に対峙する姿勢を貫いた。

1970年代後半からは検閲への抵抗と日本映画史に前例のない作品の製作としてハードコアポルノへと傾倒し、『愛のコリーダ』(1976年)や『愛の亡霊』(1978年)を日仏合作で発表した。また、1980年代以降は『戦場のメリークリスマス』(1983年)や製作中止となった『ハリウッド・ゼン』など国際的合作を製作した。大島はこれらの海外資本での製作理由を「日本には刺激がないから」と述べた[14]

また、役者を本業としない人物や素人に近い新人俳優を多く起用した。その代表例には『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけし坂本龍一、『愛のコリーダ』の松田暎子が挙げられる。『無理心中日本の夏』(1967年)ではフーテン族だった桜井啓子を抜擢し、その他にも『日本春歌考』(1967年)では荒木一郎、『新宿泥棒日記』(1967年)では横尾忠則、『帰ってきたヨッパライ』(1968年)ではザ・フォーク・クルセダーズ、『夏の妹』(1972年)では新人の栗田ひろみを起用した。1950年代後半から人気ファッションモデルとして活動していた芳村真理に女優への転向を促したのも大島であった。

影響

大島に影響を受けた映画監督テオ・アンゲロプロスベルナルド・ベルトルッチアレクサンドル・ソクーロフマーティン・スコセッシペドロ・アルモドバルチェン・カイコーなど世界中に存在する。『戦場のメリークリスマス』に出演し、後に映画監督となった北野武も大島の影響を公言している[12]

また、ジャン=リュック・ゴダールは『ゴダールの映画史』(1998年)において溝口健二小津安二郎勅使河原宏とともに大島を取り上げた。また、ゴダールは本当の意味でのヌーヴェルヴァーグの最初の作品は『青春残酷物語』(1960年)であるとしている[15]

人物

性格・思想

韓国の文化人との対談において相手に対し「ばかやろう」と発言し、問題となったことがある。

1990年10月23日、結婚30周年パーティーを開いた際、大島は壇上で祝辞を述べる予定だった野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、何時間も待たされる内に酩酊していた野坂に、祝辞を読み終えた直後に左頬を殴られた[16]。口を切り、眼鏡が吹っ飛んだ大島は持っていたマイクで野坂の頭を2発殴り返して応戦した[16][17]。後に2人は互いに反省文を書いて送り合った。この乱闘騒ぎについて、妻の小山は「お互いの存在を認め、これまで以上に交流が深まった」、「どちらも大酒飲みで、やりたいことを貫いて生き抜いた。スケールの大きな男たちだった」と述懐した[18]

京都大学在学中には学生運動を経験し、安保反対と米軍撤退を主張していた。一方で既成の左翼権力主義的な行動を非難し続けた。西山事件1971年)については「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ」と述べた[19]。 

家族

妻は女優小山明子。妹の大島瑛子は女優・プロデューサーで大島プロダクションの代表を務めた。美術監督の戸田重昌は瑛子の夫で義弟に当たる[20]

長男の大島武東京工芸大学芸術学部の教授であり、専門はビジネス実務とパフォーマンス研究である。 次男の大島新は「NONFIX」「ザ・ノンフィクション」「情熱大陸」「課外授業ようこそ先輩」「わたしが子どもだったころ」「園子温という生きもの」などを手がけているドキュメンタリー作品の監督[21]

作品

監督作品

映画
テレビ

脚本作品

映画
テレビ

出演

映画

テレビ

CM

その他

著書

  • 『日本の夜と霧』 (1961年、現代思潮社) 作品集
  • 『戦後映画・破壊と創造』 (1963年、三一書房)
  • 『日本の夜と霧』 (1966年、現代思潮社) 作品集、増補版
  • 『魔と残酷の発想』 (1966年、芳賀書店)
  • 『絞死刑』 (1968年、至誠堂) 作品集
  • 『解体と噴出』 (1970年、芳賀書店) 評論集
  • 『青春 : 闇を犯しつづける葬儀人に一切の権力を!』 (1970年、大光社)
  • 『わが日本精神改造計画 : 異郷からの発作的レポート』 (1972年、産報)
  • 『青春について』 (1975年、読売新聞社)
  • 『体験的戦後映像論』 (1975年、朝日新聞社)
  • 『同時代作家の発見』 (1978年、三一書房)
  • 『愛の亡霊』 (1978年、三一書房)
  • 『日曜の午後の悲しみ』 PHP研究所 (1979年)
  • 『愛のコリーダ』 (1979年、三一書房)
  • 『女はみずうみ男は舟』 (1980年、PHP研究所)
  • 『マイ・コレクション』 (1981年、PHP研究所)
  • 『戦場のメリークリスマス』 (1983年、思索社)
  • 『理屈はいいこういう人間が愚かなんだ』 (1993年、青春出版社)
  • 『大島渚 1960』 (1993年、青土社)
  • 『自分も恋も大切に : 女の愛と仕事の相談事典』 (1993年、マゼラン出版)
  • 『女たち、もっと素敵に』 (1994年、三笠書房)
  • 『戦後50年映画100年』 (1995年、風媒社)
  • 『私が怒るわけ』 (1997年、東京新聞出版局)
  • 『ぼくの流儀』 (1999年、淡交社 )
  • 『脳出血で倒れて「新しい自分」と出会う』 (2000年、青春出版社)
  • 『癒されゆく日々』 (2000年、日本放送出版協会)
  • 『大島渚 1960』 (2001年、「人間の記録」日本図書センター)
  • 『大島渚 1968』 (2004年、青土社) ISBN 9784791761357
  • 『大島渚著作集 1巻』 (2009年、現代思潮新社) ISBN 9784329004598
  • 『大島渚著作集 2巻』 (2009年、現代思潮新社) ISBN 9784329004604
  • 『大島渚著作集 3巻』 (2009年、現代思潮新社) ISBN 9784329004611
  • 『大島渚著作集 4巻』 (2009年、現代思潮新社) ISBN 9784329004628
  • 『わが封殺せしリリシズム』 (2011年、清流出版) ISBN 9784860293581

編著

翻訳書

  • ジョン・グレイ著『愛が深まる本』 (2001年、三笠書房) ISBN 4837970176
  • ジョン・グレイ著『ベスト・パートナーになるために』 (2001年、三笠書房) ISBN 4837971768
  • ジョン・グレイ著『ベストフレンドベストカップル』 (2002年、三笠書房) ISBN 4837972365
  • ジョン・グレイ著『ジョン・グレイ博士の「大切にされる女(わたし)」になれる本』 (2004年、三笠書房) ISBN 4837973833

対談

受賞・ノミネート

勲章

関連項目

脚注

注釈

  1. 大島の著書『日曜の午後の悲しみ』(1979年、113頁)や『大島渚著作集 ー第一巻わが怒り、わが悲しみ』(2008年、8頁)では「母が病身でお産が危ぶまれ、大事をとって、母の兄がインターンをしていた京大病院で生まれた」と書いている。また、『大島渚 1960』(2001年、8頁)では「一歳の時、兵庫県明石近くの二見というところに、いちばん最初にいた。(中略)そのあと、広島県の大長、岡山県笠岡のはずれと、海辺の田舎を転々とするわけですが、(中略)笠岡で父親が亡くなって、母の実家の京都に住むようになった」と書いている。
  2. 大島の著書『日曜の午後の悲しみ』(1979年、104、113頁)や『大島渚著作集 ー第一巻わが怒り、わが悲しみ』(2008年、8頁)に記述があり、『大島渚著作集』では「父親は一介の農林省の官吏で死んだ」と記述している。
  3. 1995年に大島が製作したBBCのテレビドキュメンタリー『日本映画の百年』の中で「私は松竹ヌーヴェルヴァーグという呼び名が大嫌いだった」と語っている。
  4. 白土三平の原作の原画を写真に撮影し、それを映画フィルムで連続して撮影したもの。いわゆるアニメではない。
  5. パルム・ドールは今村昌平監督の『楢山節考』が受賞した。
  6. 1968年(昭和43年)雑誌「映画芸術」1月号に『羽田事件と暴力の構造を追究する』のタイトルで掲載されたもの。『源泉の感情』(河出書房新社、1970年)に所収。

出典

  1. 『あの日あの時母の顔―私の母語り』 小学館 1996年 140、141頁
  2. 大島監督と広島 - 天風録”. 中国新聞 (2013年1月17日). 2013年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013閲覧.
  3. 『猪木正道著作集』・月報
  4. 勝田友己によるインタビュー、山田洋次「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
  5. 5.0 5.1 内外タイムス文化部編『ゴシップ10年史』(三一新書、1964年)p.147-148
  6. “【オピニオン】日本映画界が失った「異端児」―大島渚氏”. THE WALL STREET JOURNAL 日本版. (2013年1月22日). http://jp.wsj.com/articles/SB10001424127887324439704578257102878133058 . 2015閲覧. 
  7. 大島渚を支えた妻・明子、別人格でも大好きだった名匠の晩年を語る
  8. 大島渚さん死去 日刊スポーツ 2013年1月15日閲覧
  9. 大島渚監督が死去……坂本龍一、岩井俊二監督ら各界から追悼コメント続々 RBB TODAY 2013年1月16日閲覧
  10. 篠田正浩監督「戦友という気持ちに変わりはない。彼は戦う人だった」 スポーツニッポン 2013年1月15日閲覧
  11. “田原総一朗さん「僕らの世代の代表選手、残念でならない」”. スポーツニッポン. (2013年1月15日). オリジナル2016年7月14日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160714152612/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/01/15/kiji/K20130115004989650.html . 2013閲覧. 
  12. 12.0 12.1 たけし、大島渚監督との出会いは「夢のようだった」 通夜で感謝の言葉尽きず”. Oricon. . 7 November 2014閲覧.
  13. 2013年1月26日中日新聞31面(社会欄)より。
  14. 霧の中の風景Blu-ray紀伊国屋書店2012年)収録の解説リーフレット内のテオ・アンゲロプロスのインタビューより。
  15. ジャン=リュック・ゴダール「インタビュー〈2〉」”. MODULE (2002年10月23日). 2013年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013閲覧.
  16. 16.0 16.1 “【復刻】大島渚監督「祝う会」で野坂昭如氏と乱闘 【1990年10月24日付紙面から】”. 日刊スポーツ. (2015年12月10日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1577451.html . 2015閲覧. 
  17. Speech Youtube
  18. “【野坂昭如さん死去】パーティーで殴り合い…大島渚さんの妻・小山明子が語る“夫と野坂さん””. 産経ニュース (産経新聞). (2015年12月11日). オリジナル2016年3月4日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304091255/http://www.sankei.com/life/news/151211/lif1512110012-n1.html . 2015閲覧. 
  19. 1972年4月14日付、毎日新聞朝刊2面
  20. 大島瑛子さん死去(映画製作者、映画監督大島渚氏の妹) - asahi.com(2011年6月21日閲覧)
  21. 大島渚監督次男・新氏メガホン!園子温に密着したドキュメンタリー作、5月14日公開。”. 映画.com (2016年2月16日). . 2016閲覧.

外部リンク

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