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{{Otheruses|<!--[[日本]]を含む多くの国における最高学府であり、日本では[[学校教育法]]第1条に定義された-->学校の一つ}}
 
[[ファイル:Laurentius de Voltolina 001.jpg|thumb|right|280px|[[ボローニャ大学]]における[[1350年代]]の[[講義]]風景を描いた[[写本]][[挿絵]]]]
 
'''大学'''(だいがく、{{lang-en-short|college}}、{{lang|en|university}})は、[[学問|学術]]研究および[[教育]]における'''[[高等教育|高等教育機関]]'''である。
 
  
[[日本]]の現在の[[学校制度#日本の学校制度|学校教育制度]]では、[[高等学校]]もしくは[[中等教育学校]]卒業者、通常の課程による12年の[[特別教育]]を修了した者、またはこれと同等以上の[[学力]]を有する者を対象に専門的な[[高等教育]]を行うものとされている。学生の教育課程と修了要件の充足に応じて[[学位]]([[短期大学士]][[学士]]、[[修士]]、[[専門職学位]]、[[博士]])の[[学位]]授与を行う(なお、学位の名称・定義も国や地域によって異なる)。
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'''大学'''(だいがく、{{lang-en-short|college}}{{lang|en|university}})
  
== 歴史 ==
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高度な専門的学術の研究および教授を主たる機能とする高等教育機関。さまざまな学問分野で学位を授与する権限をもつ。
=== 高等教育機関の歴史 ===
 
'''大学'''を単に高等教育機関と定義するならば、[[紀元前7世紀]]創設の[[タキシラ]]の[[僧院]]が最古の大学となる。タキシラ僧院では、学位に相当するものが卒業生に与えられていた。[[世界遺産]]の[[タキシラ]]遺跡がある現在の[[パキスタン]]の[[イスラマバード]]北西にあったが、[[6世紀]]に街とともに破壊された。[[インドの歴史|古代インド]]にはかつて[[学問]]の中心地として、[[タキシラ]]、[[ナーランダ]]、[[ヴィクラマシーラ]]、[[カーンチプラム]]があったとされる。
 
  
[[紀元前387年]][[古代ギリシア]][[哲学者]][[プラトン]]が作った[[アカデメイア]][[アテーナイ]])では、[[数学]]、[[哲学]]等が教えられており、[[十字軍]]以降、[[イスラム世界]]を通じて中世[[ヨーロッパ]]の大学成立に多大な影響を及ぼした。その他にもギリシアでは、[[ヒポクラテス]]の故郷[[コス島]]に[[医学]]校、[[ロドス島]]に哲学の学校があり、[[アレクサンドリア]]には[[博物館]]([[ムーセイオン]])と[[図書館]]([[アレクサンドリア図書館]])があった。
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近代の大学は中世の教会や修道院の付属学校を起源とする。大学の先駆をなすものは,9世紀にイタリアのサレルノに設立された医学校 ([[サレルノ医学校]] ) で,ヨーロッパ全土から学生が集った。世界最古の本格的な大学は 11世紀に設立された[[ボローニャ大学]]で,法学で知られた。 1150~70年には神学で有名な[[パリ大学]]が設立され,[[オックスフォード大学]]をはじめ 12世紀に発足した大学のモデルになった。当時の大学は学生と教授の組合組織で,教皇や皇帝,国王から特権を与えられ,無神論と異端を教えないかぎり自治を認められた。しかし,みずから運営資金を調達しなければならず,教授の生活を支えるために学生は授業料を支払い,教授は学生を満足させる授業を行う必要があった。学生が不満を訴えて他所へ移り,新たな大学を設立することもあった。[[ケンブリッジ大学]] (1209) は,オックスフォードから移ってきた学生によってつくられた。 13世紀以降,モンペリエ (20) ,パドバ (22) ,ローマ (1303) ,フィレンツェ (21) ,プラハ (48) ,ウィーン (65) ,ハイデルベルク (86) ,ライプチヒ (1409) ,フライブルク (57) ,テュービンゲン (77) ,ルーフェン (25) ,セントアンドルーズ (11) ,グラスゴー (51) など,ヨーロッパの主要都市に次々と大学が設立された。当時の大学では[[自由七科]] (論理,文法,修辞,幾何,算術,天文,音楽) に基づいた講義が行われた。学生は医学,法学,神学の専門学部の一つで学んだが,最終試験はきびしく落第者が多かった。
  
[[中国]]では[[前漢]]代の[[紀元前124年]]に官吏養成学校である[[太学]]が設立された。『[[漢書]]』儒林伝に「[[夏 (三代)|夏]]は校と曰い、[[殷]]に庠と曰い、[[周]]に序と曰う」とある。周代には[[辟雍]]と呼んだともいう。『[[礼記]]』王制篇には「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟雍、諸侯曰頖宮」とある。[[隋]]代以降は[[国子監]]が最高学府としての役割を担った。
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16世紀の宗教改革と続く反宗教改革は,大学にも影響を及ぼした。ドイツ諸国ではプロテスタントの大学が新設され,プロテスタントに乗取られた大学もあったが,残った大学はカトリックの頑強な擁護者と化した。 17世紀になると,カトリック,プロテスタント系いずれの大学もそれぞれの教義の擁護に傾倒して,ヨーロッパ全土に広まった新しい科学には無関心であった。そのため多くの大学は衰退したが,この間にもエディンバラ (1583) ,ライデン (75) などに新しい大学が設立された。
  
[[5世紀]]設立の[[ナーランダ大学]][[インド]][[ナーランダ]]に所在し、[[仏教]]を中心とした学問研究で有名で、仏教だけでなく天文学などの知識も教授していた。学位に相当するものの授与のほかに、今の[[大学院]]に相当するコースもあり、[[西域]][[ペルシア]]、[[アラブ世界]]からも人々が学びに来ていた。地元の熱心な仏教徒らの寄進・布施によって運営費や学生らの食費などがまかなわれ、最盛期には学生の数はおよそ1万人、教師数1000人、蔵書数500万冊にも達しており(世界最大級)、建物群は仏教を大切にした歴代の王たちによって増築が重ねられ、キャンパスの広さはおよそ10km×5kmほどにも達し、中央には大きな塔もあった。12世紀頃のイスラム教徒による破壊まで続いた。
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最初の近代的大学は[[ハレ大学]] (1694) で,合理的で客観的な知識の探究のために特定の宗教を信奉せず,ラテン語ではなく母国語のドイツ語で初めて講義が行われた。この新制度は[[ゲッティンゲン大学]] (1737) をはじめ,ドイツやアメリカの大学で採用された。 18世紀後半から 19世紀にかけて,大学は近代的な学問研究機関になり,授業科目と運営も専門化され,宗教の影響は弱まった。この傾向はベルリン大学 (1809,現[[フンボルト大学]] ) で典型的にみられ,実験室での実験が推量に取って代り,近代的な学問の自由も生れた。西半球ではサントドミンゴ (1538) とミチョアカン (40) に最初の大学が設立された。アメリカでは,[[ハーバード大学]] (1636) ,[[ウィリアム・アンド・メアリー・カレッジ]] (93) ,[[エール大学]] (1701) ,[[プリンストン大学]] (46) ,キングズ・カレッジ (54,現[[コロンビア大学]] ) などの4年制の単科大学が,大半は宗教団体によって設立されたが,やがて総合大学に発展した。フロンティアの西進に伴って,多数の大学が新設されたが,ドイツを範としたこれらの大学では,プロシアの学問の自由の理想とアメリカの教育の大衆化の伝統が結びついた。
  
[[6世紀]]には[[サーサーン朝]][[ペルシャ]]に[[グンデシャープール大学]]([[ジュンディーシャープール]])があった。
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1862年には農学と機械工学の新大学を設立するために土地を各州に供与するモリル法が制定され,[[マサチューセッツ工科大学]][[コーネル大学]]や,イリノイ,ウィスコンシン,ミネソタに州立大学が生れた。
  
日本では、[[7世紀]]の[[天智天皇]]の治世に[[官僚]]養成を目的とした「[[大学寮]]」が創設された。
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19世紀になるとイタリア,スペイン,フランスで大学の再編と宗教からの分離が行われ,ほとんどの大学を国が運営するようになった。女性の入学も 19世紀後半に認められた。授業科目も改善され,ラテン語やギリシア語,神学に代って現代の言語や文学が教えられるようになった。物理学,化学,生物学,工学,経済学,心理学,社会学なども授業科目に加えられた。
  
[[カロリング朝]]では、[[シャルルマーニュ]][[アーヘン]](現在の[[ドイツ]]の[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]の街)に scola palatina (宮廷学校)という名の学校を作った。[[アカデミー・ブレクスガタ大学]] (Brexgata University Academy) もカロリング朝指導者により、[[798年]]、今の[[フランス]]の[[ノワイヨン]]近郊に設立された。学者、統治者、聖職者、シャルルマーニュ自身などが参加して、一般市民の教育について、統治者の子どもの(次世代の統治者としての)教育、統治、侵略者からの領地の防衛、浪費を防ぐ術など議論していた。これらの活動は大学 (universitas) の下準備となった。
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19世紀末から 20世紀にかけて,イギリスとフランスは南アジアや東南アジアの植民地に大学を設立した。 20世紀なかばに植民地から独立した国々では,欧米を範として大学制度の拡充をはかった。ロシア,日本,中国でも[[モスクワ大学]] (1755) ,[[サンクトペテルブルグ大学]] (1819) ,[[東京大学]] (77) ,[[京都大学]] (97) [[北京大学]] (98) など,欧米の大学をモデルに最高学府としての大学が設立された。 20世紀に入って各国とも大学は著しい拡充をみせたが,特に 1950年代以降,学生数が急増し,これに伴って大学の新設,規模拡大がはかられ,いわゆる高等教育の大衆化が進行した。この結果,組織,管理,目的,機能などのうえで,さまざまな問題が生じ,新しい大学像の模索が進められている。
  
[[ヨーロッパ]]における中世最初の大学は、[[849年]]に[[ビザンツ帝国]][[アモリア王朝]]3代[[皇帝]][[ミカエル3世]]の[[摂政]]バルダス・マミコニアン (Bardas Mamikonian) によって建てられた[[コンスタンティノープル大学]](あるいはマグナウラ宮殿の大学)で(次代の[[マケドニア朝ルネサンス]]の先駆)、[[9世紀]]には[[サレルノ大学]]が作られた。
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[[988年]]創設の[[アル=アズハル大学]]([[966年]]設立の[[モスク]]に由来)は[[エジプト]]の[[カイロ]]に所在し、[[シャリーア|イスラーム法学]]、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]など古代ギリシアの研究が行われ、大学院に相当するコースも行われていた。
 
 
 
=== 大学 (universitas) の歴史 ===
 
大学を近代西欧語の大学({{lang-it-short|università}}、{{lang-en-short|university}}、{{lang-fr-short|université}}、{{lang-de-short|Universität}})という意味で捉えるならば、その歴史は[[12世紀]]-[[13世紀]]に始まる。もともとはラテン語の "universitas" ([[ウニベルシタス]])を起源とし、学生のギルド(組合)から始まる。世界最初の校則は、学生のギルドから教師達への規則(「学生ギルドに無断で授業を休まない」「学生ギルドに無断で都市からでない」など)として作られた。その後、教師のギルドも作られ、連合体を意味するようになる。ギルド=組合を意味する大学は、学生間で上下関係がなく、日本語の訳語としては「大学」ではなく「組合」とした方が原義に近い<ref>現在の法律概念でいうところの「[[社団]]」にあたる。社団という概念はもともとは[[ローマ教皇]]の破門を契機とする[[アハト]]を回避するための概念であった。</ref>。ウニヴェルシタスという語はもともと団体全般を指していたが、特に「教師と学生の団体」(Universitas societas magistrorum discipulorumque 大学ハ教師ト学生ノ組合ナリ)を指すようになった<ref>C・H・ハスキンス 『大学の起源』 青木靖三・三浦常司訳、八坂書房、2009年、27-28頁。</ref>。
 
 
 
中世の大学の中でも最初期の代表的なものはイタリアの[[ボローニャ大学]]とフランスの[[パリ大学]]である。ボローニャ大学は自由都市国家[[ボローニャ]]で生まれた。11世紀末以来、『[[ローマ法大全]]』を研究した[[イルネリウス]]をはじめとして多くの法学者が私塾を開いていたボローニャは、法学校のある学都として有名になり、ここに各国から集まってきた学生たちが市民や市当局に対して自分たちの権利を守るために結束して作った組合が大学の起源である。この意味での大学は自然発生的に成立したものであるため、創立年を明確に示すことはできない<ref>『大学で学ぶ西洋史 [古代・中世]』 ミネルヴァ書房、246頁。</ref>。一方、12世紀のパリにはノートルダム司教座聖堂付属学校や聖ジュヌヴィエーヴ修道院付属学校をはじめとして多くの学校があり、[[ピエール・アベラール|アベラール]]もパリでよく講義を行っていた。12世紀末までにこれらの教師たちが権力者の介入に対抗して結集したのがパリ大学の始まりである。私塾の連合体としてのパリ大学がいつ成立したかを明確にすることはできないが、1200年にフランス王の勅許を得、1231年の教皇勅書『諸学の父』によって自治団体として認められた。[[イングランド]]の[[オックスフォード大学]]とフランスの[[モンペリエ大学]]もこのように自然発生した大学である<ref>堀越宏一・甚野尚志編著 『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』 279頁。</ref><ref>ただしハスキンスは、[[オックスフォード大学]]は12世紀後半にパリ大学から枝分かれしたと述べている(『大学の起源』44頁)。</ref>。こうした初期の大学では、何らかの事情により教師と学生が集団で他の都市に移住することがあり、それによってオックスフォード大学から[[ケンブリッジ大学]]が、パリ大学から[[オルレアン大学]]が、ボローニャ大学から[[パドヴァ大学]]が生まれた。さらにローマ教皇によって[[トゥールーズ大学]]が、王権によって[[サラマンカ大学]]や[[ナポリ大学]]が設立された。14世紀に入ると神聖ローマ帝国の領邦君主らによって[[プラハ大学]]、[[ウィーン大学]]、[[ハイデルベルク大学]]が相次いで創設された。
 
 
 
中世の西ヨーロッパにおいて、大学は、[[神学部]]([[キリスト教]]聖職者の養成)、[[法学部]]([[法律家]]の養成)、[[医学部]]([[医師]]の養成)の3つの上級学部と[[リベラル・アーツ|自由学芸]]学部との4学部からなり、[[専門職]]を養成することが大きな役割であった。12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は[[修道院]]に託されていた。修道院は、もっぱら[[典礼]]と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。[[教会法]]と[[秘蹟]]の研究についての[[グレゴリウス改革]]の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための司教座聖堂学校を組織した。西方ラテン教会圏で中世末までに生まれた多くの大学は、[[カトリック教会]]の後援により、教皇や世俗君主の主導で設立された。これらの大学は、ボローニャ大学やパリ大学が「自生的大学」であるのに対して、「創られた大学」と呼ばれる。
 
 
 
学習は、教会の[[ヒエラルキー]]内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた司教座聖堂学校の容量を越えた。なお、そのうえ、司教座聖堂学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、司教座聖堂学校は[[パリ]]やボローニャのような大都市へ移転した。
 
 
 
13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ(大修道院長、大司教、枢機卿)、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、[[トマス・アクィナス]]、[[ロバート・グロステスト]]は、中世の大学の出身者であり、[[スコラ学]]はその産物といえる。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や[[新プラトン主義]]の人気の衰えと符合する。
 
 
 
中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、学生のギルドと教師のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世ヨーロッパの産物であり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接的な関係はない。
 
 
 
大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。最初にできたタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した。事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。したがって、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。
 
 
 
大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、'''[[リベラル・アーツ]]'''(=自由七科)(算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞)を研究する学芸学部 (faculty of the arts) <!--定訳がない(教養学部、文芸学部)-->に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。
 
 
 
ひとたび学士 (Bachelor of Arts) を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。
 
 
 
課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程は[[アリストテレス]]の書物あるいは[[聖書]]からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。
 
 
 
学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。
 
 
 
学生は保護を与えられた。学生に特権を与えたのは、皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ・バルバロッサ]]の{{仮リンク|勅令ハビタ|en|Authentica habita}}によってである。だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる[[身体刑]]からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、聖職者でありながらもゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった<ref name="Delort">ロベール・ドスール 『中世ヨーロッパ生活誌』 桐村泰次訳、論創社、2014年、324-325頁。</ref>。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、(学生によって始められた)暴動が多数の学生を死に至らしめた後、[[1229年]]のパリ大学でストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。学生は法律上も準聖職者として扱われ<ref>ロベール・ドスール 『中世ヨーロッパ生活誌』 桐村泰次訳、論創社、2014年、305頁。</ref><ref>今日のカトリック教会では[[助祭]]への叙階を以て聖職者となるが、当時は下級聖品に叙階された者も、広義には叙階を求めて剃髪した少年も聖職者の身分であった。大学の学生は下級聖品に叙階されたものであった (Richard Kiekhefer, ''Magic in the Middle Ages'', Cambridge University Press, p. 153)。</ref>、女性が大学に入学することは許可されなかった。12-13世紀には、大学から大学へ渡り歩いたり、ドロップアウトして浪々の身となった学生が方々で見られた<ref name="Delort"/>。かれらは教会の定職を得られない放蕩無頼の聖職者で、[[ゴリアール]]または遍歴学生 (clerici vaganti) と呼ばれる。
 
 
 
大学の研究のためのポピュラーな教科書は、[[ペトルス・ロンバルドゥス]]の『命題集』と言われる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈を書くことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。
 
 
 
ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も[[神聖ローマ帝国]]によって「[[ストゥディウム・ゲネラーレ]]」(Studium Generale)として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。
 
 
 
=== 近代以降の発展 ===
 
[[アメリカ合衆国|米国]]では[[1636年]]に[[ハーバード大学]](最初はHarvard Collegeとして)が誕生する。
 
 
 
[[イギリス]]では、[[イングランド国教会|英国国教会]]の主導の下、[[中世]]の[[ギルド]]的な大学の伝統に従った[[貴族]]による教育が大学で行なわれており、研究は民間のアカデミーで進められ、発表されていた。
 
 
 
[[フランス]]では、[[1806年]]に、[[ナポレオン・ボナパルト]]によって、かつての地方大学が専門学校へと引き下げられ、新設された帝国大学([[:fr:Université de France#L'Université impériale|L'Université impériale]])が指導監督し、国家が国民の教育にあたるというモデルが採用され、研究はやはりアカデミーで進められるものであった。
 
 
 
特に重要なのは、[[言語学|言語学者]]で[[プロイセン]]の[[政治家]]としても有名だった[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]がその骨格をつくった[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]である。ベルリン大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、[[法学]]、[[キリスト教神学|神学]]、[[医学]]といった伝統的な学問領域を軸として、[[哲学]]がこれら3つの学問のみならず、[[自然科学]]を含めたすべて学問の理論的な研究を指導するというモデルを採用した。ベルリン大学は、[[研究]]と[[教育]]の一体化を図るとの[[革命]]的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた<ref>アメリカ合衆国の[[Doctor of Philosophy|Ph.D.]]の制度がその典型である。</ref>。19世紀に至ると、[[歴史学]]、[[社会学]]、[[教育学]]、[[民俗学]]など新たな学問分野が生じ、[[数学]]、[[物理学]]、[[化学]]など既存の学問分野も急速な発展を遂げただけでなく、[[哲学]]から[[心理学]]、[[哲学史]]が分離するなどして今日の大学の基本的な諸分野が、ほぼその骨格を現すことになった。
 
 
 
[[20世紀]]になってからは、[[欧米]]以外の世界の各国でも多くの大学が誕生してくるようになる。
 
 
 
ヨーロッパでは、[[人文科学]]・[[社会科学]]・[[自然科学]]でも理論的な学問研究が、大学の主要学部とみなされた。また、[[経営学]]や[[音楽]]、[[美術]]、[[工学]]などでの[[単科大学]]はやや差別的な位置づけをされていた<ref>例えば、[[ドイツ]]では単科大学を大学をいうUniversitätよりも格下、もしくは別種のものとしてHochschule([[ホッホシューレ]])として区別していた。[[高等教育#ドイツ]]。</ref>が、徐々に大学の構成学部として認知されるようになってきた。
 
 
 
[[21世紀]]に入ると、[[情報科学]]、[[社会福祉]]、[[都市開発]]などで従来にはなかったような新しいコンセプトの学部も、世界各国のそれぞれの国内事情に対応して誕生するようになってきた。
 
 
 
== 各国の大学教育 ==
 
=== 世界 ===
 
{{Main|高等教育#世界各国の高等教育}}
 
 
 
=== 日本 ===
 
{{Main|日本の高等教育}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* C.H.ハスキンズ 青木靖三 著/三浦常司 訳 『大学の起源』(2009年、八坂書房)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Universities and colleges}}
 
* [[系属校]] - 大学の系属校について
 
* [[大学一覧]] - 記事化されている大学
 
* [[古代の大学]](Ancient university, 最古の大学群)
 
* [[短期大学]]
 
 
 
=== 大学の制度 ===
 
* [[大学の歴史]]
 
* [[大学教員]]
 
* [[大学院]] - [[大学院大学]] - [[研究科]]
 
* [[学部]] - [[学科 (学校)]] - [[課程]] - [[学群]] - [[学類]] - [[学系]] - [[専攻]]
 
* [[大学受験]] - [[大学入試センター試験]] - [[大学入試センター]] - [[大学入学資格検定]] - [[国際バカロレア資格]] - [[AO入試]]
 
* [[単科大学と総合大学]] - [[リベラル・アーツ・カレッジ]]
 
* [[学位と称号]] - [[大学評価・学位授与機構]]
 
* [[講座制と学科目制]]
 
* [[単位制]] - [[GPA]]
 
* [[教養課程]] - [[専門課程]] - [[ゼミナール]] - [[卒業論文]]
 
 
 
=== 大学スポーツ関連 ===
 
* [[国際大学スポーツ連盟]] - [[ユニバーシアード]]
 
* [[日本の大学スポーツ競技・団体一覧]]
 
 
 
個々の競技会については[[:Category:日本の大学スポーツ]]も参照。
 
 
 
=== その他 ===
 
* [[アカデミックドレス]]
 
* [[大学行政管理学会]]
 
* [[学生割引]] - [[卒業旅行]]
 
* [[Tuoカード]] - 大学の[[生活協同組合]]が学生向けに発行する[[クレジットカード|クレジット]]機能を持った大学生協の組合員証。
 
* [[進学率]]
 
* [[鬼仏表]]
 
* [[特定建築物]] - 日本の大学施設に適用される環境[[衛生]]、建築[[設備]]等の管理に関する規定
 
* [[スクールカラー]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.juaa.or.jp/index.html 財団法人 大学基準協会]
 
* [http://www.jpnprofessorsearch.com/ JPN Professor Search]
 
* [http://www.arwu.org/ arwu(上海交通大学高等教育研究所による世界大学ランキング)]
 
* [http://www.topuniversities.com/ QS TopUniversities: Incorporating the THES - QS World University Rankings(Quacquarelli Symondsによるランキング)]
 
 
 
{{学校}}
 
 
{{DEFAULTSORT:たいかく}}
 
{{DEFAULTSORT:たいかく}}
 
[[Category:大学|*]]
 
[[Category:大学|*]]
 
[[Category:教育史]]
 
[[Category:教育史]]

2018/12/30/ (日) 12:57時点における最新版

大学(だいがく、: collegeuniversity

高度な専門的学術の研究および教授を主たる機能とする高等教育機関。さまざまな学問分野で学位を授与する権限をもつ。

近代の大学は中世の教会や修道院の付属学校を起源とする。大学の先駆をなすものは,9世紀にイタリアのサレルノに設立された医学校 (サレルノ医学校 ) で,ヨーロッパ全土から学生が集った。世界最古の本格的な大学は 11世紀に設立されたボローニャ大学で,法学で知られた。 1150~70年には神学で有名なパリ大学が設立され,オックスフォード大学をはじめ 12世紀に発足した大学のモデルになった。当時の大学は学生と教授の組合組織で,教皇や皇帝,国王から特権を与えられ,無神論と異端を教えないかぎり自治を認められた。しかし,みずから運営資金を調達しなければならず,教授の生活を支えるために学生は授業料を支払い,教授は学生を満足させる授業を行う必要があった。学生が不満を訴えて他所へ移り,新たな大学を設立することもあった。ケンブリッジ大学 (1209) は,オックスフォードから移ってきた学生によってつくられた。 13世紀以降,モンペリエ (20) ,パドバ (22) ,ローマ (1303) ,フィレンツェ (21) ,プラハ (48) ,ウィーン (65) ,ハイデルベルク (86) ,ライプチヒ (1409) ,フライブルク (57) ,テュービンゲン (77) ,ルーフェン (25) ,セントアンドルーズ (11) ,グラスゴー (51) など,ヨーロッパの主要都市に次々と大学が設立された。当時の大学では自由七科 (論理,文法,修辞,幾何,算術,天文,音楽) に基づいた講義が行われた。学生は医学,法学,神学の専門学部の一つで学んだが,最終試験はきびしく落第者が多かった。

16世紀の宗教改革と続く反宗教改革は,大学にも影響を及ぼした。ドイツ諸国ではプロテスタントの大学が新設され,プロテスタントに乗取られた大学もあったが,残った大学はカトリックの頑強な擁護者と化した。 17世紀になると,カトリック,プロテスタント系いずれの大学もそれぞれの教義の擁護に傾倒して,ヨーロッパ全土に広まった新しい科学には無関心であった。そのため多くの大学は衰退したが,この間にもエディンバラ (1583) ,ライデン (75) などに新しい大学が設立された。

最初の近代的大学はハレ大学 (1694) で,合理的で客観的な知識の探究のために特定の宗教を信奉せず,ラテン語ではなく母国語のドイツ語で初めて講義が行われた。この新制度はゲッティンゲン大学 (1737) をはじめ,ドイツやアメリカの大学で採用された。 18世紀後半から 19世紀にかけて,大学は近代的な学問研究機関になり,授業科目と運営も専門化され,宗教の影響は弱まった。この傾向はベルリン大学 (1809,現フンボルト大学 ) で典型的にみられ,実験室での実験が推量に取って代り,近代的な学問の自由も生れた。西半球ではサントドミンゴ (1538) とミチョアカン (40) に最初の大学が設立された。アメリカでは,ハーバード大学 (1636) ,ウィリアム・アンド・メアリー・カレッジ (93) ,エール大学 (1701) ,プリンストン大学 (46) ,キングズ・カレッジ (54,現コロンビア大学 ) などの4年制の単科大学が,大半は宗教団体によって設立されたが,やがて総合大学に発展した。フロンティアの西進に伴って,多数の大学が新設されたが,ドイツを範としたこれらの大学では,プロシアの学問の自由の理想とアメリカの教育の大衆化の伝統が結びついた。

1862年には農学と機械工学の新大学を設立するために土地を各州に供与するモリル法が制定され,マサチューセッツ工科大学コーネル大学や,イリノイ,ウィスコンシン,ミネソタに州立大学が生れた。

19世紀になるとイタリア,スペイン,フランスで大学の再編と宗教からの分離が行われ,ほとんどの大学を国が運営するようになった。女性の入学も 19世紀後半に認められた。授業科目も改善され,ラテン語やギリシア語,神学に代って現代の言語や文学が教えられるようになった。物理学,化学,生物学,工学,経済学,心理学,社会学なども授業科目に加えられた。

19世紀末から 20世紀にかけて,イギリスとフランスは南アジアや東南アジアの植民地に大学を設立した。 20世紀なかばに植民地から独立した国々では,欧米を範として大学制度の拡充をはかった。ロシア,日本,中国でもモスクワ大学 (1755) ,サンクトペテルブルグ大学 (1819) ,東京大学 (77) ,京都大学 (97) ,北京大学 (98) など,欧米の大学をモデルに最高学府としての大学が設立された。 20世紀に入って各国とも大学は著しい拡充をみせたが,特に 1950年代以降,学生数が急増し,これに伴って大学の新設,規模拡大がはかられ,いわゆる高等教育の大衆化が進行した。この結果,組織,管理,目的,機能などのうえで,さまざまな問題が生じ,新しい大学像の模索が進められている。



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