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[[画像:DaidairiPlan.png|right|thumb|220px|平安京大内裏(平安宮)]]
 
[[画像:DaidairiPlan.png|right|thumb|220px|平安京大内裏(平安宮)]]
  
'''大内裏'''(だいだいり)とは、[[平安京]]の宮城である。別名'''平安宮'''。
+
'''大内裏'''(だいだいり)
== 概要 ==
 
{{要出典|=[[12世紀]]以降、宮城内の[[天皇]]在所である[[内裏]]を「大内裏」と表記することがあった|date=2013年4月}}が、[[14世紀]]になると宮城全体を「大内裏」と称するようになり、この用例が一般化した。[[平安京]]の北辺中央に位置する。
 
  
政変や失火のためたびたび焼失し、平安末期頃から再建されておらず、1227年([[安貞]]元年)にはついに大内裏のほとんどを焼失する火災が発生し、跡地は内野(うちの)と呼ばれる荒れ地になってしまった。内野は[[室町時代]]に[[北野天満宮|北野社]]が占拠しその農地となった後、[[聚楽第]]が建てられ、その破却の後は聚楽村と呼ばれた農村となり、現代では京都市街地の一部となっている。
+
[[平安京]]の宮城。別名'''平安宮'''。
  
== 構造 ==
+
[[内裏]] (皇居) を中心として諸官省を配置した。唐の制にならい,すでに皇極天皇の飛鳥宮に大内裏があったと推定され,平城京,平安京で完備した。規模は,平城宮で四方8町 (約 698m) ,平安宮で東西8町,南北 10町 (約 736m) 。平安大内裏は四囲に垣をめぐらし,東西面におのおの4門,南北面におのおの3門設けた。南面の正門が[[朱雀 (すざく) 門]]である。その内部には,正殿である[[大極殿]]を含む[[八省院]]や[[豊楽 (ぶらく) 院]],皇居である内裏,太政,神祇の2官,八省以下の諸官省があった。安貞1 (1227) 年炎上後は再興されず,建武の頃 (1330年代) ,後醍醐天皇が再興を企てたが,実現されなかった。内野 (京都市上京区の西郊の地) と呼ばれた野原が大内裏跡である。
東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、天皇の居住する内裏が設置されている区域であった。
 
 
 
大内裏の周囲は[[築地塀|築地]]の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」または「外の重(とのえ)」という。
 
 
 
== 門 ==
 
門は最も外側に「宮城門(きゅうじょうもん)」が位置し、内裏外郭の門を「宮門(きゅうもん)」、内郭の門を「閤門(こうもん)」という。
 
 
 
宮城十二門は次の通り。
 
{| class="wikitable"  style="background:#ffffff;white-space:nowrap;font-size:100%" align="left"
 
|+宮城十二門の一覧(陽明門から時計回り)<ref>『国史大辞典』(吉川弘文館)「宮城十二門諸史料異同一覧」表に基いて記載。</ref>
 
!rowspan=2|画像
 
!rowspan=2 colspan=2|位置
 
!rowspan=2|[[弘仁式]]
 
!rowspan=2|[[貞観式]]
 
!rowspan=2|[[延喜式]]
 
!colspan=2|読みの転訛
 
!rowspan=2|造進氏族
 
!rowspan=2|通称
 
|-
 
!貞観式
 
!延喜式
 
|-
 
|rowspan=12|{{Image label begin|image=DaidairiPlan.png|width=200|float=right}}
 
{{Image label|x=0.18 |y=0.13 |scale=200|text=[[安嘉門]]}}
 
{{Image label|x=0.43 |y=0.13 |scale=200|text=[[偉鑒門]]}}
 
{{Image label|x=0.68 |y=0.13 |scale=200|text=[[達智門]]}}
 
{{Image label|x=0.10 |y=0.40 |scale=200|text=[[上西門]]}}
 
{{Image label|x=0.10 |y=0.60 |scale=200|text=[[殷富門]]}}
 
{{Image label|x=0.10 |y=0.80 |scale=200|text=[[藻壁門]]}}
 
{{Image label|x=0.10 |y=1.00 |scale=200|text=[[談天門]]}}
 
{{Image label|x=0.75 |y=0.40 |scale=200|text=[[上東門]]}}
 
{{Image label|x=0.75 |y=0.60 |scale=200|text=[[陽明門]]}}
 
{{Image label|x=0.75 |y=0.80 |scale=200|text=[[待賢門]]}}
 
{{Image label|x=0.75 |y=1.00 |scale=200|text=[[郁芳門]]}}
 
{{Image label|x=0.18 |y=1.30 |scale=200|text=[[皇嘉門]]}}
 
{{Image label|x=0.43 |y=1.30 |scale=200|text=[[朱雀門]]}}
 
{{Image label|x=0.68 |y=1.30 |scale=200|text=[[美福門]]}}
 
{{Image label end}}
 
|rowspan=3|東面
 
|北
 
|県犬養門
 
|山門
 
|[[陽明門]]
 
|やま||やうめい
 
|山氏
 
|兵衛御門
 
|-
 
|中
 
|山門
 
|建部門
 
|[[待賢門]]
 
|たけるべ||たいけん
 
|[[建部氏]]
 
|中御門
 
|-
 
|南
 
|達部門
 
|的門
 
|[[郁芳門]]
 
|いくは||いくはう
 
|的氏
 
|大炊御門
 
|-
 
|rowspan=3|南面
 
|東
 
|壬生門
 
|壬生門
 
|[[美福門]]
 
|みぶ||びふく
 
|壬生氏
 
|壬生御門
 
|-
 
|中
 
|大伴門
 
|大伴門
 
|[[朱雀門]]
 
|おおとも{{smaller|(大伴氏の名はすぐ北の[[応天門]]に残る)}}||すざく
 
|[[大伴氏]]
 
|大伴門
 
|-
 
|西
 
|若犬養門
 
|若犬養門
 
|[[皇嘉門]]
 
|わかいぬかい||くわうか
 
|若犬甘氏
 
|雅楽寮門
 
|-
 
|rowspan=3|西面
 
|南
 
|玉手門
 
|玉手門
 
|[[談天門]]
 
|たまて||だんてん
 
|玉手氏
 
|馬寮の門
 
|-
 
|中
 
|佐伯門
 
|佐伯門
 
|[[藻壁門]]
 
|さえき||さうへき
 
|[[佐伯氏]]
 
|西中御門
 
|-
 
|北
 
|伊福部門
 
|伊福部門
 
|[[殷富門]]
 
|いふくべ||いんぷ
 
|伊福部氏
 
|西近衛門
 
|-
 
|rowspan=3|北面
 
|西
 
|海犬養門
 
|海犬養門
 
|[[安嘉門]]
 
|あまいぬかい||あんか
 
|海犬甘氏
 
|兵庫寮御門
 
|-
 
|中
 
|猪使門
 
|猪使門
 
|[[偉鑒門]]
 
|いかい||いかん
 
|猪養氏
 
|あかずの門
 
|-
 
|東
 
|丹治比門
 
|丹比門
 
|[[達智門]]
 
|たぢひ||たっち
 
|[[多治比氏|丹治比氏]]
 
|多天井門
 
|}{{-}}
 
宮城門には、以上の十二門に加えて東面では陽明門のさらに北に[[上東門]](じょうとうもん)、西面では殷富門のさらに北に[[上西門]](じょうさいもん)があった。上東門と上西門は大蔵通用門として「屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」=「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、姓氏の[[土御門家]]や[[藤原氏]]邸宅[[土御門殿]]はこの地名に由来している。上東門と上西門を除く12門が「宮城十二門」と総称される。
 
 
 
== 大内裏の主な施設 ==
 
*[[朝堂院]]:大内裏の正庁。政務や儀式の際に官吏が着座する場。
 
**[[大極殿]]:朝堂院の正殿。天皇が政務や国家的儀式を行う場。
 
*[[豊楽院]]:朝堂院の西にあり、節会の宴や外国使節歓待などが行われた。
 
*[[近衛府|左近衛府・右近衛府]]
 
*[[内裏]]:天皇の居住の場。平城京では[[朝堂院]]の真北に位置していたが、平安京では東北に位置する。天皇の御所である[[紫宸殿]]や後宮がある。
 
**[[紫宸殿]]:内裏の正殿。平安中期以降は大極殿に変わり、儀式、公務、謁見の間として使われた。
 
**[[清涼殿]]:天皇の住居
 
**[[後涼殿]]
 
**[[仁寿殿]]:[[相撲]]観戦、元服の儀式など天皇の私的な行事に使われる。
 
**[[蔵人所]]詰所
 
**[[春興殿]]:[[小姓]]の詰所。
 
**[[東宮御所|東宮]]
 
**[[後宮]]
 
***[[常寧殿]]:[[皇后]]の住居
 
***[[弘徽殿]]
 
***[[承香殿]]
 
***[[飛香舎]]
 
***[[昭陽舎]]
 
*[[宴の松原]]:内裏の西に位置する空閑地で、もとは内裏の建て替え用地だったと言われる。
 
*[[太政官|太政官府]]
 
*[[神祇官|神祇官府]]
 
*八省庁:[[中務省|中務]]、[[式部省|式部]]、[[治部省|治部]]、[[民部省|民部]]、[[兵部省|兵部]]、[[刑部省|刑部]]、[[大蔵省|大蔵]]、[[宮内省|宮内]]の各省。
 
*[[令外官|令外官府]]
 
 
 
== のちの施設との関係 ==
 
幕末まで天皇が住んだ[[京都御所]]は、[[1331年]]に[[光厳天皇]]が[[里内裏]]だった[[土御門東洞院殿]]を皇居として定めたものである。現存の建物は[[1855年]]に建造された建物と[[太平洋戦争]]後に復元された建物が混在している。
 
 
 
[[1895年]]([[明治]]28年)には[[平安神宮]]が建立され、内部に[[大極殿]]、[[応天門]]など大内裏[[朝堂院]]の施設が縮尺復元された。
 
 
 
<gallery>
 
File:Heian-jingu, Outen-mon-3.jpg|応天門(平安神宮)
 
File:Heian-jingu, Gehaiden-3.jpg|大極殿(平安神宮)
 
ファイル:Plan of Daidairi.jpg|皇城大内裏地図。[[寛延]]3年([[1750年|1750]])。[[森幸安]]書写。
 
</gallery>
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}  
 
{{Reflist}}  
  
== 関連項目 ==
+
{{coord|35.021492|135.742559|format=DMS|display=title|region:JP-26_type:landmark}}
{{Commonscat|Heian Palace}}
+
 
{{Wiktionary|大内裏}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
*[[宮城]]
 
*[[信西]](平安末期に大内裏を再建した)
 
*[[裏松光世]](江戸後期に大内裏の考証を行った)
 
*[[御所]]・[[大御所]]
 
*[[公方]]
 
  
{{Japanese-history-stub}}
 
{{coord|35.021492|135.742559|format=DMS|display=title|region:JP-26_type:landmark}}
 
 
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[[Category:平安宮|*]]
 
[[Category:平安宮|*]]

2018/10/5/ (金) 11:04時点における最新版

平安京大内裏の位置
平安京大内裏(平安宮)

大内裏(だいだいり)

平安京の宮城。別名平安宮

内裏 (皇居) を中心として諸官省を配置した。唐の制にならい,すでに皇極天皇の飛鳥宮に大内裏があったと推定され,平城京,平安京で完備した。規模は,平城宮で四方8町 (約 698m) ,平安宮で東西8町,南北 10町 (約 736m) 。平安大内裏は四囲に垣をめぐらし,東西面におのおの4門,南北面におのおの3門設けた。南面の正門が朱雀 (すざく) 門である。その内部には,正殿である大極殿を含む八省院豊楽 (ぶらく) 院,皇居である内裏,太政,神祇の2官,八省以下の諸官省があった。安貞1 (1227) 年炎上後は再興されず,建武の頃 (1330年代) ,後醍醐天皇が再興を企てたが,実現されなかった。内野 (京都市上京区の西郊の地) と呼ばれた野原が大内裏跡である。

脚注

座標: 東経135度44分33秒北緯35.021492度 東経135.742559度35.021492; 135.742559



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