土岐頼芸

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土岐頼芸
時代 戦国時代
生誕 文亀2年(1502年
死没 天正10年12月4日1582年12月28日
幕府 室町幕府 守護大名
氏族 土岐氏

土岐 頼芸(とき よりあき/ - よりなり/ - よりのり/ - よりよし)は、戦国時代美濃国守護大名土岐政房の次男。

土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。

生涯

文亀2年(1502年)に土岐政房の子として生まれる。この当時の美濃の国内情勢は重臣の斎藤家は守護代・斎藤利国の戦死により衰退し、代わってその庶流長井家が台頭するなど斎藤家中は不安定であった。

斎藤家だけではなく守護土岐家も暗雲が漂っていた。父・政房には長男の頼武がいたが、政房は次男の頼芸を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになり、政房によって頼芸は小守護代長井長弘長井新左衛門尉斎藤道三の父)らに擁立され、兄の頼武も守護代斎藤利良の支持を受けたことにより、両者は対立して家督争いが起こり、永正14年(1517年)、合戦となった。

この戦いで頼芸側は敗れたが、前守護代・斎藤彦四郎の助力も得て、翌永正15年(1518年)、再び合戦となり、頼芸側が勝利し頼武を越前国に追放し、頼武方の勢力を一掃した。しかし、永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を得た頼武側が美濃に侵攻し、頼芸側は圧倒され頼武側が勝利し、頼武が美濃守護に就くことになったことで決着がついたと思われた。

しかし、頼芸は政権奪取を企て、大永5年(1525年)に再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。享禄3年(1530年)には兄を再び越前国に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。その後、後ろ盾であった斎藤長弘、長井新左衛門尉らが相次いで死去したため、新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持をはかったとされる。

天文4年(1535年)6月、父の17回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言したため、兄の跡を継いだ甥・頼純と対立し、朝倉氏、六角氏らが頼純側に加担したことにより戦火は美濃全土へ広がった。同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が長良川大洪水で流され、稲葉山の麓に移る。同年6月22日、第12代将軍足利義晴の執奏により、修理大夫に任官。翌天文5年(1536年)、勅許により美濃守に遷任して正式に守護の座に就いた。

同じ頃、頼芸は六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦したことによって争乱はほとんど治まり、天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こったため、これ以降道三との仲が険悪となり、次第に対立する。

天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放された(この時点で追放されたのは頼次であり、頼芸は道三の傀儡として守護の座に留まっていたという説もある)。

頼芸は尾張国の織田信秀の支援を得て、越前国で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸国に寄寓し、この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総国土岐為頼を頼り[1][2][3]、後に甲斐国武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。

この間に大勢力となっていた織田信秀の子の織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見された。頼芸の旧臣でもあり当時織田麾下であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、半年後に死去したといわれている。享年81。

逸話

  • 文化人としても知られ、幾つもの書画を書き残している。特にの絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。また同じく鷹の絵を得意とした一族の画家の土岐冨景、土岐洞文と同一人物と推定される。頼芸の孫で頼次の子の土岐頼高も同じく鷹の絵を得意とし、後に豊臣秀吉に仕え、ついで徳川義直御伽衆になっている。
  • 道三の子で、後に稲葉山城主となる斎藤義龍の生母・深芳野は頼芸の愛妾で、享禄元年(1528年)に頼芸から道三に下賜されている。翌享禄2年(1529年)に義龍が生まれている出生時期や、道三と義龍が義絶していることから、義龍を頼芸の実子とする説もあるが、江戸時代の創作であるともいわれている。
  • 名前の呼称は従来、諸説あり明確ではなかったが、頼忠の菩提寺である禅蔵寺の過去帳に芸(ノリ)のルビが記載されていることが平成20年(2008年)に明らかとなっている[4]

脚注

注釈

出典

  1. 佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」、『龍ヶ崎市史研究』9号、1996年
  2. 『夷隅町史 資料集』、2002年
  3. 滝川恒昭執筆文『夷隅町史 通史編』、2004年、183-184頁
  4. 頼芸は「よりのり」? ルビ記した過去帳発見

参考文献

  • 『夷隅町史 資料集』、2002年
  • 『夷隅町史 通史編』、2004年
参考論文
  • 佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」、『龍ヶ崎市史研究』9号、1996年

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