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{{出典の明記|date=2016年10月}}
 
{{Infobox 空港
 
| 名前 = 啓徳空港<br /> Kai Tak Airport <br />(旧・香港国際空港)
 
| 画像 = [[File:Hong Kong - Kai Tak International (HKG - VHHH) (closed) AN0062231.jpg|center|280px|啓徳空港]]<br />[[ファイル:Kaitak_japanese.svg|center|280px]]
 
| IATA = <s>HKG</s>
 
| ICAO = <s>VHHH</s>
 
| 国 = {{HKG1959}}→{{HKG}}
 
| 設置場所 = [[九龍城区]]
 
| タイプ = 民間
 
| 運営者 = 香港民航処<br />({{lang|zh-hant|香港民航處}})<br />({{lang|zh-hans|香港民航处}})
 
| 運営時間=
 
| 標高 m = 9
 
| 標高 ft = 28
 
| 緯度度 =22 |緯度分 =19 |緯度秒 = 43|N(北緯)及びS(南緯) =N
 
| 経度度 =114 |経度分 =11 |経度秒 = 39|E(東経)及びW(西経) =E
 
| 座標地域 = HK
 
| 地図名 = Hong Kong
 
| 地図ラベル = <s>'''HKG/VHHH'''</s>
 
| ウェブサイト =
 
| 方向 滑走路1 = 13/31
 
| 全長 滑走路1 m = 3,390
 
| 全幅 滑走路1 = 60
 
| ILS 滑走路1 = 13(IGS)/31
 
| 表面 滑走路1 = 舗装
 
}}
 
{{Chinese
 
|t=啟德機場
 
|s=启德机场
 
|p=Qĭdé Jīchǎng
 
|w=Ch'i<sup>3</sup> te<sup>2</sup> chi<sup>1</sup> ch'ang<sup>2</sup>
 
|j=Kai<sup>2</sup> dak<sup>1</sup> gei<sup>1</sup> coeng<sup>4</sup>
 
|e=Kai Tak Airport
 
}}
 
'''啓徳空港'''(カイタックくうこう、けいとくくうこう)は、[[香港]]・[[九龍]]の[[ヴィクトリア・ハーバー]]に面した[[九龍城区]]、九龍半島の北東端にかつて存在していた[[国際空港]]及び[[イギリス空軍]]基地である。1925年に運用開始された後、1927年3月に空港をイギリス傘下の香港植民地政府が取り上げた。新しいイギリス軍用の空港として生まれ変わらせた後に、1937年には軍民両用の空港となったものが前身である。
 
  
==概要==
+
'''啓徳空港'''(カイタックくうこう、けいとくくうこう)
香港の空の玄関、及びアジアの経由地として重要な役割を果たしていた。発着便は[[宗主国]]の[[イギリス]]の[[ロンドン]]や[[マンチェスター]]、[[1950年代]]から[[1960年代]]まで同じくイギリスの植民地であった[[クアラルンプール]]や[[シンガポール]]への直行便を除くと国際線のみであった。
 
  
正式な名称は'''香港国際空港'''({{lang|zh-hant|香港國際機場}})だったが([[#拡張|後述]])、所在地付近の[[地名]]から「啓徳空港」({{lang|zh-hant|啟德機場}})と通称された。日本語では、[[広東語]]読みとそれから音写された[[アルファベット]]表記から「カイタック」と読まれることが多かったが、日本語の音読みで「けいとく」とも読まれることもあった。
+
中国の特別行政区香港(ホンコン)の九竜(きゅうりゅう/チウロン)地区にあった国際空港。九竜都心部の北東7.5キロメートルに位置し、長さ3390メートルの滑走路とその誘導路の用地は、九竜半島と香港島との間の海峡に突き出した埋立地であった。1928年に香港政庁の軍用飛行場として整備され、1936年より民間空港兼用となった。第二次世界大戦後のジェット機時代を迎えて拡張されたが、航空機進入路の建物高度などの障害、発着機の騒音問題があり、1970年代より代替空港の建設地の調査が行われていた。1998年香港国際空港の開港に伴い廃止された。1996年の年間利用客数は2954万3000人であった。
  
1998年[[7月5日]]に閉港し、「香港国際空港」は[[ランタオ島]]沖の[[赤鱲角島]]に建設された新空港に移転した。現在は、空港跡地には[[啓徳空港#啓徳クルーズターミナル|啓徳クルーズターミナル(後述参照)]]が立地している。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 地理的環境 ==
 
啓徳空港は[[香港]]の[[九龍]]・[[九龍湾]]の西側に位置していた。周辺は険しい山々に囲まれていた。北および北東へ{{convert|10|km|abbr=on}}未満の場所に、標高{{convert|2000|ft|m|abbr=on}}に達するに丘がある。滑走路の東へ{{convert|5|km|abbr=on}}未満離れた場所に、丘がある。空港のすぐ南にはビクトリア港があり、さらに南には{{convert|2100|ft|m|abbr=on}}の丘がある[[香港島]]がある。
 
 
 
啓徳空港が閉鎖された時、滑走路は1本だけ使用されていた。(13/31、南東/北西)滑走路は、港を埋め立てて作られ、最初の建設後に数回拡張された。滑走路は、空港が閉鎖されたとき、長さ{{convert|3390|m|abbr=on}}であった。
 
 
 
滑走路の北端には、道路を挟んで6つの建物がある。滑走路の3方向はビクトリア港に囲まれていた。
 
 
 
== 沿革 ==
 
=== 地名の由来 ===
 
「啓徳」という地名の由来は、何啓({{lang|zh-hant|何啟}})と区徳({{lang|zh-hant|區德}})が経営した「啓徳営業有限公司」が、当時[[イギリス]]が植民地支配下においていた[[植民地]]であった香港の[[ヴィクトリア・ハーバー]]に面した九龍湾北岸の辺りを埋めたことから、新しくできた土地が、2人の名前であり会社名でもある「啓徳浜」({{lang|zh-hant|啟德濱}})と名づけられた。
 
 
 
=== 空港完成 ===
 
[[第一次世界大戦]]後に、[[アメリカ]]人のハリー・アボットが航空学校を設立するため、啓徳浜の一部を貸し[[滑走路]]を作ったが間もなく閉鎖された。その後改めて空港の建設が行われ、[[1925年]][[1月24日]]に運用開始した。その後1927年3月啓徳浜は香港植民地政府に徴用され、新しい[[イギリス軍]]用の空港として生まれ変わり、[[1937年]]には軍民両用の空港となった。これが「啓徳空港」である。
 
 
 
=== 民間航路の開設 ===
 
[[File:Boeing 314 Yankee Clipper 1939.jpg|thumb|right|240px|パンアメリカン航空の[[ボーイング314]](1939年)]]
 
[[File:Kwun Tong Road 1945.jpg|thumb|right|240px|ターミナルとイギリス軍基地の全景(1945年)]]
 
[[ファイル:Hk1946-kai-tak.jpg|thumb|right|240px|第二次世界大戦後間もない頃の啓徳浜(1946年)]]
 
[[File:Kai Tak Airport 1958.jpg|thumb|right|240px|英国海外航空とカンタス航空のダグラスDC-4B(1958年)]]
 
[[File:九龍城 - panoramio (1).jpg|thumb|right|240px|旅客ターミナル風景(1960年代)]]
 
[[File:Hong Kong Kai Tak Airport View1 1971.jpg|thumb|right|240px|日本航空のダグラスDC-8-61(1971年)]]
 
[[File:Kai Tak Airport Wallner-1.jpg|thumb|right|240px|旅客ターミナル風景(1989年)]]
 
[[ファイル:Kai-tak-3.jpg|thumb|right|240px|閉港を間近にひかえた啓徳空港(1998年)]]
 
[[File:Aeropuerto de Hong Kong, 2013-08-13, DD 02.JPG|thumb|right|240px|新空港のターミナル]]
 
この間、1935年に管制塔と格納庫が完成し、1936年3月24日には[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]の前身、インペリアル航空が初の民間航空便として、香港と同じくイギリスが植民地支配していた[[マレー半島]]の[[ペナン]]から初乗り入れを行った。
 
 
 
その後数年の間に、[[パンアメリカン航空]]が[[ハワイ]]、[[グアム]]、[[マニラ]]などを経由して[[サンフランシスコ]]から[[飛行艇]]で乗り入れ、その後[[エールフランス]]の前身、エア・オリエントが、[[ドボワチン D.338]]で[[パリ]]から[[バンコク]]や[[ホーチミン市|サイゴン]]などを経由して乗り入れた。
 
 
 
また、中国航空公司が[[広州]]と[[上海]]から、旧中央航空公司の前身、[[ルフトハンザ航空]]との合弁の欧亜航空公司が[[北京]]から乗り入れを開始した<ref name=ka1925>[http://www.cad.gov.hk/english/kaitak.html Kai Tak Airport 1925-1998, Civil Aviation Department, The Government of the Hong Kong Special Administrative Region]</ref>。だが[[大日本航空]]などの[[日本]]の航空会社は、[[大日本帝国陸軍]]などによる情報収集を恐れたイギリス政府により乗り入れを拒否され続けた。
 
 
 
このように東アジアの航空の拠点として繁栄したものの、1937年の[[日中戦争]]の開戦、さらに[[1939年]]9月に[[第二次世界大戦]]が開戦し宗主国のイギリスも参戦したため、ヨーロッパからの路線の多くが中断を余儀なくされた。
 
 
 
=== 大戦中 ===
 
[[1941年]][[12月8日]]の[[太平洋戦争]](大東亜戦争)開始に伴い、イギリスと開戦した大日本帝国陸軍が香港の[[イギリス軍]]を攻撃した際、空港は猛烈な爆撃を受け、空港内にあったイギリス軍の[[航空機]]や施設がほとんど破壊された。同年[[12月25日]]に香港は陥落しイギリス軍が全面降伏、日本軍が空港を含む香港一帯を占領した。
 
 
 
[[1942年]][[3月]]に日本軍は陸軍兵士や現地で雇用した労働者数千人を動員し、周辺の村々に加え、[[宋王台]]や[[九龍城砦]]の城壁などを取り壊し、そこから得た石材で[[滑走路]]の延長など設備の拡充を行った。
 
 
 
その後は、香港を占領下においた日本軍の香港広州地域の防衛拠点の一つとして使用したが、1945年に入ると[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の攻撃により空港は再び爆撃を受け、再び甚大な被害を受けた。
 
 
 
=== 戦後 ===
 
1945年8月の[[第二次世界大戦]]終結に伴う日本軍の撤退後、香港に戻ってきたイギリス軍は、取り壊された宋王台の跡地を修復せず、それだけでなく空港を修復するためにさらに取り壊しを進めた。現在空港跡地の近くにある宋王台の石碑はレプリカで、大きさは実物の3分の1に過ぎない。
 
 
 
[[1946年]]に香港一帯に上陸した[[台風]]「イングリッド」によって、再建された施設の多くが破壊されてしまったが、イギリス軍によりその後修復された。
 
 
 
またこの後[[英国海外航空]]の、ロンドンから[[カルカッタ]]や[[シンガポール]]などを経由しての定期旅客便及び貨物便の運航が再開された。なお1946年には、その後香港の[[フラッグキャリア]]となる[[キャセイパシフィック航空]]が設立され、本空港を拠点空港とした。
 
 
 
=== 拡張 ===
 
その後、[[国共内戦]]に勝利した[[中国共産党]]により[[1949年]]に中華人民共和国が設立され、その後中国共産党の支配を嫌った多くの難民が香港へ流れてきた事や、[[1950年代]]初頭にイギリスが中華人民共和国を承認し[[国交]]を樹立した事から、香港の地位が「中国大陸への窓口」として高まったことや、戦後の航空需要の増大化により[[ダグラス]][[DC-4]]や[[DC-6]]などの大型機の乗り入れが増加した。
 
 
 
[[1953年]]に英国海外航空の[[デ・ハビランド DH.106 コメット]]の乗り入れが開始されるなど、ジェット旅客機の乗り入れの増加も予想されたことから、[[1954年]]に空港拡張の基本計画が示され、[[1958年]]には2529メートルの新滑走路が完成した。この際、正式名称が'''香港国際空港'''({{lang|zh-hant|香港國際機場}}、{{lang|en|Hong Kong International Airport}})となった<ref name=ka1925/>。
 
 
 
同時期には、[[羽田国際空港]]を経由して太平洋横断路線を運航する[[日本]]のフラッグキャリアの[[日本航空]]や、パンアメリカン航空や[[ノースウェスト航空]]、またオーストラリアと日本を結ぶ[[カンタス航空]]などの乗り入れが増加した上に、相次いで独立した東南アジア諸国からの航空会社の乗り入れが相次いだために、ターミナルビルの新築が行われ[[1962年]]に供用を開始した。
 
 
 
===東南アジアのハブ空港===
 
[[1960年代]]に入ると、すでに従来のプロペラ機に替わり、デハビランド・コメット4や[[ボーイング707]]、[[ダグラス DC-8]]といったジェット機による乗り入れが主流となった。この頃には、[[バンコク]]の[[ドンムアン国際空港]]やシンガポールの[[シンガポール国際空港]]などと並ぶ、東南アジアの拠点空港の一つとなっていた。
 
 
 
さらに1960年代中盤以降は、[[ベトナム戦争]]の激化に伴い、[[南ベトナム]]に人員や物資を運ぶために[[アメリカ軍]]がチャーターしたパンアメリカン航空やノースウェスト航空、[[トランスワールド航空]]や、[[アメリカ空軍]]の大型ジェット輸送機の乗り入れが増大した。
 
 
 
[[1970年]]4月11日にはパンアメリカン航空の[[ボーイング747]]が初めて[[羽田国際空港]]経由で就航し、同年には日本航空やノースウェスト航空も続いた。その5年後の[[1975年]]には滑走路が3,390メートルに延長された<ref name=ka1925/>。その後キャセイパシフィック航空もボーイング747を導入し、[[宗主国]]の[[首都]]である[[ロンドン]]への直行便の運航も開始した。
 
 
 
===混雑===
 
このように空港の拡張は行われていたものの、[[アジア]]諸国の相次ぐ独立と経済発展を受けて、[[マレーシア航空|マレーシア・シンガポール航空]]や[[ベトナム航空]]、[[大韓航空]]などを中心に乗り入れ航空会社、便数ともに増加した。さらに[[マクドネル・ダグラス DC-10]]や[[エアバスA300]]などのワイドボディ機の相次ぐ就航により、1便当たりの乗客数も急増した。
 
 
 
またイギリスやオーストラリア、日本からの便数も増加し、それに伴い発着回数が増加するにつれて、滑走路の短さや滑走路が1本しかないこと、近隣への騒音被害、旅客数、貨物取り扱い量の増加によるターミナルの狭さ、スポットの少なさが問題となっていった。
 
 
 
=== 新空港計画 ===
 
しかしながら、これ以上の空港の拡張は隣接地の買収も難しいうえに、ヴィクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸を埋め立てする余裕もないことから、[[1970年代]]に入り新空港の必要性が叫ばれ、建設地の選定が進められた。
 
 
 
[[1984年]]に香港の中華人民共和国への移譲、返還が決まると、[[ランタオ島]]北側の[[赤リョウ角|赤鱲角(Chek Lap Kok、チェク・ラップ・コク)]]に、イギリス系の建設会社主導で[[香港国際空港|新空港]]の建設が開始された。なおその後も乗降客や貨物の取扱高は増え続け、1996年の統計は乗降客数 2,950 万人、貨物 1.56 [[トン|t]]にまで増加した。
 
 
 
なおこの頃すでにイギリス空軍の固定翼機の常駐は行われなくなっていたものの、[[ヘリコプター]]部隊が常駐していたほか、同部隊の撤収後は香港政庁のヘリコプター隊が常駐を続けていた。
 
 
 
=== 閉港 ===
 
1998年、新空港となる'''[[香港国際空港|チェクラップコク国際空港]]'''が郊外の赤鱲角に完成し、同年7月6日に開港した。この新空港開港により、啓徳空港は[[7月5日]]午後11時50分発の最終便をもって閉港となり、1925年に運用開始して以来73年間の歴史に幕が閉じられることとなった(機能全面移管)。
 
 
 
ただし、新空港の航空貨物の処理でトラブルが発生し、旅客手荷物を含む大量の貨物が滞留する事態が生じたため、貨物ターミナルだけは閉港後の半年間だけ一時的に再稼動となった。
 
 
 
なお、使用されていた地上支援機材の一部は新空港へと陸送されたほか、正式名称と啓徳空港に割り当てられていた[[国際航空運送協会|IATA]][[空港コード]]のHKGと[[国際民間航空機関|ICAO]]空港コードのVHHHは新空港に引き継がれた。
 
 
 
後述のように、閉港の15年後、同じ位置に船の波止場として「啓徳クルーズターミナル」が新たに開港されたが、ここにはかつて同空港があったことを伝えるモニュメント類が設置された啓徳滑走路公園が作られ、公園南端のビクトリア湾に面した地面に{{要出典|範囲=香港カーブを描きながら着陸していた方向である滑走路番号「13」|date=2017年9月}}が記され<ref>[https://www.tripadvisor.co.uk/Attraction_Review-g294217-d9856991-Reviews-Kai_Tak_Runway_Park-Hong_Kong.html Kai Tak Runway Park]</ref>、空港としての役割に終止符を打った際に当時の管制官が同空港に向けて発したメッセージ、“Goodbye Kai Tak, and Thank You.” が刻まれた銘板が置かれるなどしている。<ref>{{Cite web |url=http://www.cathaypacific.co.jp/hongkong/blog/nakamura/detall/post_294.html / |title=旧啓徳空港は今、海の玄関口になってます!! |author=ジェニー中村 |publisher=[[キャセイパシフィック航空]] |date=2015-04-28 |accessdate=2017-09-13 }}</ref>
 
 
 
== 閉港後 ==
 
===閉港後の変化===
 
[[ファイル:Kai Tak Airport 1.jpg|thumb|right|240px|閉港後の跡地(2007年11月)]]
 
閉港後、ターミナルビルは取り壊されずに残され、香港政庁の合同庁舎(啓徳政府大楼({{lang|zh-hant|啟德政府大樓}})、Kai Tak Government Building)として、従前の設備を利用して税関や入国管理当局の訓練所などとして利用された。空港の閉鎖後、建物が取り壊されるまでに、滑走路は[[BEYOND]]、[[張惠妹]]などの大型コンサートに数回使用された。この他、出発ターミナルだった場所に[[ゲームセンター]]や屋内[[ゴーカート]]乗り場などのアミューズメント施設も入居していたが、[[2004年]][[9月]]頃から始まった工事により取り壊された。
 
 
 
運用当時は、航空機が市街地上空を通過する都合上、周辺は空港に近づくにつれ低いビルしか建てられない、という高さ制限が設けられていた。空港が無くなった現在はその規制も撤廃された。そのため、例えば高級住宅地の九龍塘では、従来12階建て相当の高さに規制されていたが、現在ではその内の数軒が30階建て程度のマンションに建て替えられるなど、景観に変化が出始めている。また、空港に誘導するための着陸誘導灯が無くなったため、市街地でのネオンサインの点滅が解禁となった。
 
{{see also|zh:啟德發展計劃}}
 
 
 
=== 啓徳クルーズ・ターミナル ===
 
閉港から15年後の2013年6月12日、同空港跡地の一部に香港初のクルーズ船用の波止場「啓徳クルーズ・ターミナル」({{lang|zh|啟德郵輪碼頭}}, {{lang|en|Kai Tak Cruise Terminal}})が開業した<ref>[http://www.kaitakcruiseterminal.com.hk/ Kai Tak Cruise Terminal]</ref>。このターミナルは、世界最大級の客船も停泊可能である。またターミナル待合室は、オフシーズンには展示会場などとして利用できる多目的ホールとなっている。閉港から15年後、香港の「空の玄関」から「海の玄関」として再出発することとなった。
 
{{see also|zh:啟德郵輪碼頭}}
 
 
 
== 施設 ==
 
=== 旅客ターミナル ===
 
[[ファイル:Kaitak allview.jpg|thumb|right|240px|旅客ターミナル]]
 
[[File:Hong Kong Kai Tak Flight Information.jpg|thumb|right|240px|到着ゲート付近]]
 
開港後旅客便の乗り入れ数と乗り入れ機材の大型化に伴い数回に渡り増改築を繰り返し、[[1980年代]]には最終的に8つのゲートを持つ旅客ターミナルへと進化した。
 
 
 
しかし、乗り入れ便数に対して[[ボーディングブリッジ]]の数が8基と少なく、多くの便がいわゆる「沖止め」を余儀なくされ、航空機との間の[[バス (交通機関)|バス]]での移動を余儀なくされていた。
 
 
 
なお、旅客ターミナル内には数多くの[[レストラン]]やみやげ物店があり、発着エリア内には[[免税店]]や土産物店、[[航空会社]]の[[ラウンジ]]などがあった他、旅客ターミナルに直結して「リーガル・エアポート・ホテル」(現在は「リーガル・オリエンタル・ホテル」と改名)があった。
 
 
 
=== その他 ===
 
貨物ターミナルが旅客ターミナルと離れて置かれていた他、保税倉庫なども完備されていた。またイギリス空軍の基地並びに香港政庁のヘリコプター拠点、航空クラブの建物などもたてられていた。
 
 
 
なお空港内の整備エリアには、当時主にキャセイパシフィック航空の整備を行っていた「[[香港エアクラフト・エンジニアリング]](HAECO、中国語:{{lang|zh-hant|香港飛機工程}})」社の[[格納庫|ハンガー]]が置かれていた。
 
 
 
== 香港アプローチ・香港カーブ ==
 
[[ファイル:KaiTakAirport-2.jpg|thumb|right|240px|啓徳空港へ最終進入する[[ボーイング767]]]]
 
[[ファイル:Kowloon Tsai signal hill.JPG|thumb|right|240px|殆ど塗装が剥げてしまったが現在も残るチェッカーボード(写真中央、九龍仔公園より)]]
 
 
 
啓徳空港は、滑走路13への着陸進入の際大きく機体を傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して[[着陸]]する「香港アプローチ(香港カーブ)」で有名だった。
 
 
 
なお啓徳空港は、アメリカの「[[ヒストリーチャンネル]]」の番組において、「世界で最も危険な空港」第6位に選ばれている<ref>[[ヒストリー (TVチャンネル)|ヒストリーチャンネル]]「MOST EXTREME AIRPORTS」</ref>。
 
 
 
滑走路13へ着陸する際は、一旦西側に迂回し現在の香港国際空港上空あたりで約180度右旋回の後、啓徳空港の西側から東に向かって進入した。この際本来なら空港の滑走路延長上から射出されている誘導電波 [[計器着陸装置|ILS]] に従って進入するが、啓徳空港では滑走路に対し48度オフセットで設定されて射出されている誘導電波 [[計器着陸装置 #オフセットILS・IGS|IGS]] に従い一旦進入し、空港から約5マイルに設定されたミドルマーカを通過後に大きく右旋回させ、地上に見える進入路指示灯の指示に従い滑走路へ進入する「香港アプローチ」と呼ばれる方式が多用された。
 
 
 
この香港アプローチは、最終進入へ旋回する直前にILS を解除し、飛行すべき場所の目安として空港とは関係のないビルの屋上などに取り付けられた進入路指示灯を頼りにするという、[[パイロット (航空)|パイロット]]にとっては相当な技量が要求されるものだった。それゆえに「世界一着陸が難しい空港」と称されていた。
 
 
 
滑走路13への最終進入態勢である「香港カーブ」は機長の技量が問われ、香港を拠点としていた[[キャセイパシフィック航空]]の[[機長]]たちは、安全と乗り心地を考えた結果、IGSを早めにディスエンゲージし北側へわずかに進路を修正後、緩やかに右旋回をしバンク角も少なめにスムーズに着陸することを「秘伝の技」として編み出していた。
 
 
 
一方で慣れていない機長は、小刻みに変針して滑走路に降りる寸前まで機体の進路が定まらず、揺れが大きく乗り心地も悪くなりがちだった。また接地地点が遠くなり、着陸滑走する距離が短くなることもあった。さらに過密空港だったため、接地後[[航空管制官]]からすぐ誘導路へ待避指示が出ることが多かった。
 
 
 
それゆえ、着陸進入に失敗して[[着陸復行]]・[[タッチアンドゴー]]したり、[[オーバーラン|着陸過走]]して滑走路先の海に突っ込んだり、尻もち着陸をしたり、ジェットエンジンを滑走路に接触させたりするトラブルが閉港に至るまで数多く生じた。ただし手前のビルや住宅へ突入した事故は皆無であった。
 
 
 
なお、旋回直前までの進入路で最も高い障害物である空港北西部の小さな丘は、紅白で塗られた「チェッカーボード」が置かれ、啓徳空港のランドマークのひとつでもあった。
 
 
 
== 主な事故 ==
 
[[ファイル:Kaitakfire1931.jpg|240px|thumb|1931年に起きた格納庫の火災]]
 
香港アプローチ・カーブ、さらに退避エリアが狭いためもあり、滑走路をオーバーランして[[海]]中に突入したり、着陸時にしりもちを起こすなどの小さな事故は多かったものの、パイロットが緊張するためか、着陸に失敗し市街地に突っ込むような事故は皆無であった。
 
 
 
また当時は、着陸誘導灯と誤認しないために、香港内の全ての[[ネオンサイン]]は点滅させてはいけない決まりになっていた(着陸誘導灯は、空港とは無関係の一般のビルの屋上に設置されていた)。
 
 
 
* [[1946年]][[9月25日]]:香港発[[ベトナム]]のサイゴン(現[[ホーチミン市]])行きの[[イギリス空軍]]ダグラス[[C-47 (航空機)|C-47]]輸送機が離陸後、九龍塘に墜落。19人死亡。
 
 
 
* [[1951年]][[3月11日]]:パシフィックオーバーシーズエアラインのダグラス[[ダグラス DC-4|C-54]]が離陸後、操作ミスで山に衝突。26人死亡。
 
 
 
* [[1958年]][[8月31日]]:[[沖縄県|沖縄]]発香港行きの[[アメリカ空軍]]のダグラスC-54輸送機が13/31滑走路と07/27滑走路の交差点で衝突事故を起こしたが、けが人はなし。残骸は07/27滑走路を塞いだため、空港側は翌日開放予定の13/31新滑走路を早めに開放した。
 
[[File:Untitled (China Airlines) Boeing 747-409 B-165 (23222709894).jpg|240px|thumb|事故後引き上げられた中華航空のボーイング747-400]]
 
* [[1965年]][[8月24日]]:[[アメリカ陸軍]]の[[ロッキード]][[C-130 (航空機)|C-130]]輸送機が離陸直後、滑走路先の海中に突入。啓徳空港で起こった最悪の事故となる。59人死亡。
 
 
 
* [[1967年]][[6月30日]]:[[タイ国際航空]]の[[シュド・カラベル|シュド・SE210 カラベル]]旅客機が着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。原因は台風下の悪天候での操作ミスだった。14人死亡、56人負傷。
 
 
 
* 1967年[[11月5日]]:[[キャセイ・パシフィック航空]]の[[コンベア880]]型機が離陸に失敗し、滑走路先の海中に突入。1人死亡、14人負傷。
 
 
 
* [[1988年]][[8月31日]]:[[中国民用航空局|中国民航]]の[[広州市|広州]]発香港行き[[ホーカー・シドレー トライデント|トライデント]]Tr-2Eが着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。乗員6名、乗客1名が死亡。
 
 
 
* [[1993年]][[11月4日]]:[[チャイナエアライン|中華航空]]の[[台北市|台北]]発香港行き[[ボーイング747-400]]型機が着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。24人負傷。滑走路端に着水したために垂直尾翼が離着陸の障害になるため、着水数日後に垂直尾翼が爆破処理され取り除かれ、さらに機体が引き上げられた後は空港内の整備区域に暫くの間保管されていたが、ほぼ新品の機体で修理等で利用できる部品も多かったために後に解体された。
 
 
 
== 本拠地としていた航空会社 ==
 
* [[キャセイパシフィック航空]]
 
* [[香港ドラゴン航空]]
 
* [[エア・ホンコン]]
 
* ホンコン・エアウェイズ
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 外部サイト ==
 
{{commonscat|Kai_Tak_Airport}}
 
{{ウィキポータルリンク|航空|[[画像:P Airplane violet.png|34px|Portal:航空]]}}
 
* [http://www.cad.gov.hk/chinese/kaitak.html 啟德機場1925 - 1998] - 香港特別行政区 民航處
 
 
 
香港アプローチの模様:
 
* {{youtube|bKqO6gdJIz8|地上から}}
 
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2019/4/27/ (土) 21:56時点における最新版

啓徳空港(カイタックくうこう、けいとくくうこう)

中国の特別行政区香港(ホンコン)の九竜(きゅうりゅう/チウロン)地区にあった国際空港。九竜都心部の北東7.5キロメートルに位置し、長さ3390メートルの滑走路とその誘導路の用地は、九竜半島と香港島との間の海峡に突き出した埋立地であった。1928年に香港政庁の軍用飛行場として整備され、1936年より民間空港兼用となった。第二次世界大戦後のジェット機時代を迎えて拡張されたが、航空機進入路の建物高度などの障害、発着機の騒音問題があり、1970年代より代替空港の建設地の調査が行われていた。1998年香港国際空港の開港に伴い廃止された。1996年の年間利用客数は2954万3000人であった。



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