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'''吉野'''(よしの)
 
'''吉野'''(よしの)
  
奈良県南部の山岳地帯の汎称。面積は全県の6割にも及ぶが,人口密度はきわめて小さい。吉野川流域の口吉野 (くちよしの) と,熊野川水系の奥吉野とに分れる。大化改新後,吉野郡がおかれ,のち元正,聖武両朝のとき芳野監 (げん) に改められて国に準じられ,さらに大和の一郡となった。平安時代初期に金峯山
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奈良県南部の山岳地帯の汎称。面積は全県の6割にも及ぶが,人口密度はきわめて小さい。吉野川流域の口吉野 (くちよしの) と,熊野川水系の奥吉野とに分れる。大化改新後,吉野郡がおかれ,のち元正,聖武両朝のとき芳野監 (げん) に改められて国に準じられ,さらに大和の一郡となった。平安時代初期に金峯山 (きんぷせん) が開かれ,修験道の本拠になった。交通が不便で隔絶性が強いため,古来亡命地となり,特に南北朝時代,南朝方の根拠地となった。室町時代には,金峯山寺を末寺とする興福寺一乗院の支配となり,近世,その大半は天領となった。 ([[大和国]] )  
(きんぷせん) が開かれ,修験道の本拠になった。交通が不便で隔絶性が強いため,古来亡命地となり,特に南北朝時代,南朝方の根拠地となった。室町時代には,金峯山寺を末寺とする興福寺一乗院の支配となり,近世,その大半は天領となった。 ([[大和国]] )  
 
 
   
 
   
 
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吉野(よしの)

奈良県南部の山岳地帯の汎称。面積は全県の6割にも及ぶが,人口密度はきわめて小さい。吉野川流域の口吉野 (くちよしの) と,熊野川水系の奥吉野とに分れる。大化改新後,吉野郡がおかれ,のち元正,聖武両朝のとき芳野監 (げん) に改められて国に準じられ,さらに大和の一郡となった。平安時代初期に金峯山 (きんぷせん) が開かれ,修験道の本拠になった。交通が不便で隔絶性が強いため,古来亡命地となり,特に南北朝時代,南朝方の根拠地となった。室町時代には,金峯山寺を末寺とする興福寺一乗院の支配となり,近世,その大半は天領となった。 (大和国 )



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