吉田増蔵
吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日(慶応2年11月23日) - 1941年(昭和16年)12月19日)は明治~昭和時代の漢学者。
吉田増蔵は本名、号を学軒と称した。
人物
1866年慶応2年、福岡県京都郡勝山町(現在のみやこ町勝山)に生まれる。
官吏・技術者で、日本の近代製麻業の創始に貢献した吉田健作(よしだけんさく)を兄に持つ。
村上仏山の漢学塾・水哉園にて学び、漢詩文に抜群の才能を発揮する。京都帝大で支那哲学を専攻した後に、英語を学びアメリカに渡る。
帰国後は、更に漢学・漢詩に力を注ぎ、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)、山口県立豊浦中学校(現豊浦高等学校)で教職する。
1920年(大正9年)には宮内省図書寮の編修官となり、当時、宮内省帝室博物館総長兼図書頭であった文豪・森鴎外と親交を深めている。
鴎外の遺言書には、所蔵する和漢の蔵書を「吉田増蔵君に贈るべし。吉田君の外善く之を用ふるものなし」と綴られており、鴎外が没した後、特に元号研究は吉田に引き継がれた。
1926年(大正15年)12月に、大正天皇が崩御すると、吉田は宮内大臣一木喜徳郎から元号勘申の命を受け、書経の一節「百姓昭明」「協和萬邦」の二字をとり「昭和」の元号を考案勘申、その案が枢密院全員審査委員会にて採択決定された。[1]。
他に吉田は、今上天皇の御名「明仁親王」をはじめ、皇族の名を多く考案し、勅語など皇室・宮中関連にも深く関わった。
後に、妻・弥江子は、御名を考案するにあたり、「吉田がふすまのような大きな紙に太い筆で『明仁』と書いたのを昨日のように思い出します。私が墨をすりました。冬なのに、明るい陽射しが畳の上に拡げられた和紙に白くまぶしく反射していました」とエピソードを語っている。[2]。
1941年(昭和16年)、政策内容の決定関与は無かったが、吉田は「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(開戰の詔勅)の起草にたずさわることになる。
「国民の平穏な暮らしと世界各国の共存共栄を願う」といった意味が込められていた昭和であったが、その願いとは裏腹に時代は世界戦争に入った。
すでにこの時、重い胃潰瘍を患っていた吉田は、日米開戦間もない1941年12月19日、東京上落合の自宅で逝去。享年76歳。
2004年(平成16年)、漢詩集『学軒詩集』が無窮会より出版される。
また、故郷みやこ町[3]に顕彰碑が作られ、2012年(平成24年)4月29日の昭和の日に除幕式が行われている[1]。
脚注