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また高校時代の後輩の縁で高知県のミタニ建設工業の軟式野球部に所属。背番号は18。投手だけでなく打撃面でもクリーンナップを任されている。
 
また高校時代の後輩の縁で高知県のミタニ建設工業の軟式野球部に所属。背番号は18。投手だけでなく打撃面でもクリーンナップを任されている。
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別投手成績 ===
 
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
 
|rowspan="8" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]
 
|4||0||0||0||0||0||0||0||--||----||14||3.0||3||0||2||0||0||3||0||0||0||0||0.00||1.67
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
 
|10||0||0||0||0||0||0||0||--||----||57||11.1||17||2||6||0||1||8||0||1||10||9||7.15||2.03
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
 
|61||0||0||0||0||3||3||0||20||.500||245||58.0||50||6||20||2||5||32||1||1||25||24||3.72||1.21
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
 
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|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
 
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|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
 
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|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2009}}
 
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|-
 
!colspan="2"|通算:8年
 
|176||0||0||0||0||7||6||0||40||.538||760||176.2||183||22||51||5||15||112||2||2||86||82||4.18||1.33
 
|}
 
 
=== 記録 ===
 
* 初登板:2003年6月18日、対[[中日ドラゴンズ]]13回戦([[ナゴヤドーム]])、6回裏1死に2番手で救援登板、2/3回無失点
 
* 初奪三振:同上、6回裏に[[大西崇之]]から
 
* 初ホールド:2005年4月17日、対[[読売ジャイアンツ]]3回戦([[明治神宮野球場]])、4回表に3番手で救援登板、3回無失点
 
* 初勝利:2005年4月24日、対[[広島東洋カープ]]5回戦([[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]])、6回表2死に3番手で救援登板、1/3回無失点
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''62''' (2003年 - 2011年)
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==

2018/9/23/ (日) 12:10時点における最新版

吉川 昌宏(よしかわ まさひろ、1978年6月29日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)出身の元プロ野球選手投手、右投左打)。

来歴

プロ入り前

中学・高校ともに明徳義塾出身。甲子園には2度出場している。このときすでにサイドスローだった。1996年第68回選抜高等学校野球大会でベスト8になるも、第78回全国高等学校野球選手権大会新野高校(徳島)に敗れる。なお、高校の同級生に三都主アレサンドロがいた。

1997年亜細亜大学へ入学。同期にスワローズで一緒になる松井光介がいた。東都大学リーグ通算31試合登板、9勝3敗、防御率3.23、87奪三振。卒業後の2001年ローソンに入社するも、その翌年に野球部が廃部となる。だがこの年のドラフト会議でスワローズから8巡目指名を受け入団。

プロ入り後

2005年に初の開幕一軍入りを果たすと、開幕から8試合連続無失点を記録。石井弘寿と並ぶ61試合登板を達成し、苦手だった左打者に対する被打率は1割台に抑えた。チームトップの23ホールドを挙げ、セットアッパーの一人として欠かせない存在となった。トレードマークである髭は、この年から生やし始めた。古田敦也の2000本安打達成と同じ4月24日にプロ初勝利をあげた。

2006年はリリーフの一角として前半だけで23試合に登板したが、6月下旬に肩痛で二軍落ち。夏場をリハビリにあて、9月に復帰した。苦手の左打者には4割以上打たれた。

2007年は43試合に登板し、中継ぎとして奮闘。特に夏場以降安定感を見せた。

2008年松岡健一押本健彦五十嵐亮太林昌勇らの活躍により、登板機会が減り18登板に留まる。

2009年はさらに登板機会が減り、8試合の登板に留まった。

2010年は3月30日の中日ドラゴンズ戦でシーズン初登板、6回表1死満塁の場面で打者を併殺に打ち取って、ルーキー中澤雅人の初先発初勝利を助けた。その後二軍では好投を続けたものの、一軍では被本塁打による大量失点が響き防御率10.00に終わった。

2011年、二軍では37試合に登板し防御率3.25であったが、一軍での登板は無く、10月9日に戦力外通告を受ける[1]。12月2日、自由契約公示された。

引退後

退団後は地元高知で、ベースボール&スポーツアカデミー「ExchangeSports」を設立するも、2014年10月をもって閉校。その後は衆議院議員である中谷元の高知事務所で私設秘書をしている[2]

また高校時代の後輩の縁で高知県のミタニ建設工業の軟式野球部に所属。背番号は18。投手だけでなく打撃面でもクリーンナップを任されている。

脚注

  1. 来季の契約について”. 東京ヤクルトスワローズ (2011年10月9日). 2011年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2011閲覧.
  2. (8)勉強まで見るサッカー 野球は「人材」生かせず”. 高知新聞 (2011年10月9日). . 2017閲覧.

関連項目

外部リンク